『蝋塗れの手で』~元ガチ勢の俺が、ぬるま湯バトル部に入った結果、皆と「課題」に向き合うことになった話~   作:rairaibou(風)

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33-シュクレパピモッチ

 卒業式を終えた校舎には少しだけ静けさが戻っていた。

 どこか空気が軽く、教室では新しい掲示物が並べられ、黒板の端には進級を祝うメッセージが書かれている。

 

 廊下には、印刷された新しい時間割の掲示や、クラス替えを気にする声がささやかに響く。春の風が開け放たれた窓から入り込み、ほんのりと花の香りを運びながらカーテンを揺らす。

 

 下駄箱の前では、進級を前にした生徒たちが制服の裾をはためかせながら、どこか浮き立つような足取りで歩いていく。

 

 

 

 

 

 

 ライモン高校、部室棟の隅っこ。ポケモンバトル部。

 

 部活が終わったばかりの部室は、少しだけ熱の残った空気に包まれていた。窓の外では、春の夕暮れが始まりかけている。

 

 その時、部室には男しか居なかった、それは奇跡的な確率であっただろう。

 

 故に、コウヌが『男の悩み』を吐露するのは、自然な流れであった。

 

「お返しで破産しそうッス」

 

 ロッカーを漁りながら、ため息混じりに呟く。

 

 その手には小さなメモ帳。中には名前や特徴、包装の色などが走り書きされているが、本人すら読み取るのが難しそうなほど字が乱れている。

 

「自慢かい」

 

 そう応じたのはムラナカだ。椅子に座りながらも手元では器用に、エビワラーのパンチを受けるミットを磨いている。

 

「それだけ貰ったんだろう。『愛』をさ」

 

「そうは言うけど、すごい量なんスよ!」

 

「自慢だよそれは」

 

「だからぁ、大変なんスよ。把握したりとかお返し準備したりとか」

 

 そんなやりとりを聞きながら、モーリは壁際の棚で備品の確認をしていた。毎週一度のルーチン作業。声を挟まずとも、耳はコウヌとムラナカのやりとりを追っている。

 

「なんか、名前が書いてないやつとかあるよな。ガチっぽいやつ」

 

 何気なく口をついた言葉に、ムラナカが応じる。

 

「貰っておけば良いんだよ、そういうのは」 

 

 バレンタインから、もうすぐひと月が経つ。

 

 自分も何人かからチョコレートを受け取った。けれど、その中で一番印象に残っているのは、スズモトからのひとつだった。

 

 丁寧なラッピング。シンプルな手書きのカード。何より、彼女の少し緊張した表情。

 

 義理な訳が無い。

 

 あの時の、彼女の目の揺れ方を、モーリは知っている。

 

 言葉にはされなかったが、手の震えや、呼吸の浅さが、まるで小さな合図のように心に残っている。

 

 あれを『たまたま』とは思えなかったし『誰にでもあげているもの』とも思いたくなかった。

 

 何より、彼女からは『好き好きビーム』が出ているのだ。

 

 そろそろはっきりさせなければならない。

 

 モーリはそう思っていた。

 

 彼女と、そして自分と。

 

 だが、残念ながら彼はその方法を知らない。

 

 どうすれば特別なのか、何を返せば特別なのか、何をすれば特別なのか。

 

 バトルばかりやってきたからだろうか、そのような知識が彼にはなかった。

 

 まだスズモトにどのようなお返しをすればいいのかの見当もついていない。

 

「結局、どうするの?」

 

 ムラナカの声は、果たしてどちらに投げかけられたのだろうか。

 

 ひとまずそれに答えたのは、コウヌの方であった。

 

「まあ、姉ちゃんに頼るしか無いッスよねえ」

 

 その言葉に、モーリはハッとした。

 

 そうか、その手があった。

 

 しかし、モーリのひらめきはすぐさま暗礁に乗り上げる。

 

 自分には姉がないと言う事実を思い出したのだ。

 

 じゃあどうする。母か。

 

 勘弁してくれと彼は頭を振った。『本命チョコをくれた相手にどんなお返しをすればいいのか』なんてことを母親に言ってみろ、その日は永遠の記念日としてカレンダーに記録されるに違いない。母がカレンダーを買ったその瞬間に赤い丸を書き込む永遠の祝日だ。

 

 だが、彼はふと気づく。

 

 そうだ、いた。

 

 女性で、そう言うのに強くて、何より、自分にバレンタインチョコを送っていない。そんな存在が。

 

 

 

 

 モーリの部屋は、どこか数十年前の設計思想を感じさせる古びた間取りだった。

 だが、その一角で光を放っている携帯端末の画面が、その時代感を軽やかに壊している。

 

『で? そんな惚気を聞かせるためにあたしに電話してきたってこと?』

 

 画面には、髪をまとめたレイカの顔が映っている。まつ毛は短く、眉は細い。インフルエンサーとしての派手な姿とは打って変わって、すっぴんの彼女はどこか無防備で、少し眠たげだった。

 

『一応言っとくけど、あたし今ストイックに特訓中なわけだからね? 誰かさんに負けたせいで』

 

「そう言うなよ。俺だって恥ずかしいんだから」

 

 風呂上がりのモーリもまた、髪が少し湿っている。

 カメラ通話など不要だと最初は言ったが、レイカに押し切られたかたちで、こうして画面越しに顔を見せ合っている。

 

『好き好きビームの子も健気だよねえ、今どき手作りだなんて、カントーの人々が忘れてしまった人の温かみってのがあるわねえ』

 

 レイカは両手をぶんぶんと振って、わざとらしく肩まで揺らすような大きな動作をしてみせた。画面越しでも伝わるテンションの高さに、モーリはじっとその様子を見つめたまま、口を引き結んだままだった。

 

 その無言の表情は、ツッコミではなく、ほんの少しだけ呆れているようにも見えた。

 

「俺は良いけどスズモトをからかうなよ」

 

 モーリの反応に、レイカはどこか新鮮な驚きを感じていた。いつもよりわずかに素直で、優しげな口調。それが彼の中にある確かな変化だと、彼女の目には映った。

 

 だが、それでもレイカはニヤニヤとした調子を崩さなかった。画面越しにからかいの言葉を放ち続けるその声には、どこか照れ隠しのような温かさが滲んでいた。

 

『あらら、やけどしちゃいそうだわ』

 

 レイカはわざとらしく顔を手で仰ぐ。

 

「良いお返しをしたいんだ」

 

『あんたも年相応のエロガキになったってわけだ』

 

 そう言いつつも、レイカの表情には少しだけ感慨深さが滲んでいる。

 

「お前なら、そういうの得意だろ」

 

『まあね』

 

 そう言いながら、レイカは手元のサブ端末を操作し始める。

 

『今話題なのはいくつかあるけど、今から話題になるのはこれだろうね。シュクレパピモッチのきのみポフィン』

 

 レイカが端末を操作し、ポフィンのメニューを画面に映し出す。

 

 カラフルな木の実があしらわれた包装、フルーツソースがとろりとかかった高級感のある写真、そして――思わずたじろぐような値段表示。

 

「たっけぇ」

 

 モーリの目が数字に吸い寄せられたまま、ぽつりと漏れた。

 

『高いのが嫌なら』

 

 レイカが言いかけたところで、モーリがその言葉を遮るように言う。

 

「いや、それにする」 

 

 その一言に、レイカは一瞬だけ沈黙した。小さなため息が、ほんの微かにマイクを通じて伝わってくる。

 

『はぁ、羨まし』

 

 ぽつりと、息をこぼすように呟いた後、レイカは手元の端末を操作し、画面に商品のメニューを表示させた。

 

『好きビの子は確かフシギダネ持ってたね』

 

 モーリは驚いたように少しだけ目を見開いた。

 

「よく覚えてたな」

 

『あたしもトレーナーってわけよ』

 

 レイカは照れくさそうに笑いながら視線を逸らす。

 

『それならイバントッピングにすればいいよ。くさタイプには無難だから。あたしのルンパッパも気に入ってる』

 

「ありがとう。じゃあ、そうしようか」

 

『人気だけど、今ならギリ間に合うと思うよ。トレーナーカード支払いいけるし』

 

「そうするか、助かったよ」

 

『それじゃ、健闘を祈る』

 

 レイカはふざけた調子で、やたらと厳かに敬礼のポーズを決める。

 

 モーリは、その滑稽さを笑うでもなく、真面目に受け止めるように小さくうなずいた。

 

「お前もな」

 

 

 

 

 ホワイトデーの朝。春の陽ざしが差し込む校門前は、いつもよりも少しだけ騒がしかった。やわらかく差す日差しの下、生徒たちは浮き足立った様子で談笑し、小さな紙袋やリボンのついた包みを手にしている者も少なくない。制服の胸元には、手作りと思われるバッジや、メッセージカードを下げている者もちらほらと見える。普段の朝とは違う、どこか浮き立つような華やかさが、校門から昇降口へと続く通路を染めていた。

 

 

 

 

 モーリが大きな紙袋を片手に登校すると、校舎付近で何やらひときわ目立つ騒ぎがあった。声が弾け、女子たちの笑い声が風に乗って耳に届いてくる。

 

 制服の裾をなびかせながら、笑い声を上げる女子生徒たち。その中心にいたのは、一年生のコウヌだった。

 

「ちょ、ちょっと待ってくださいッス! それ本命じゃないッスから! 義理ですから! 普通の人間関係ッスよおおお!」

 

 そう叫んでいる本人は、すでに足を浮かされ、女子たちの手で胴上げのように持ち上げられている。紙袋や小箱の束が両腕からこぼれそうになっているのも構わず、彼は必死に叫びながら空中でじたばたしていた。

 

 その後ろを、マリルリがぴょんぴょんと跳ねながら追いかけていた。短い腕を一生懸命に伸ばすが、当然ながら主の背には届かない。だが、それでも彼女は嬉しそうにぴょこぴょこと跳ねて、賑やかさに混ざっていた。

 

 女子たちに担ぎ上げられながらも、コウヌは目ざとくモーリを見つけ、救いを求めるように叫ぶ。

 

「部長! 部長助けて! こ、殺されるー!」

 

 その素っ頓狂さに、モーリは思わず吹き出しそうになった。けれど笑うことはせず、ただ小さく口元を緩めるにとどめた。

 

「いや、殺されはしないだろ……」

 

 モーリはそう呟きながら、一歩だけ足を踏み出しかけた。

 

 だが、その女子たちの少し後ろを、オーアサが笑いながらついていくのを見て、モーリは足を止めた。オーアサはなにやら携帯端末で写真を撮っているらしく、目を輝かせていた。

 

 ああ、これは楽しんでいるな。

 

 そう判断したモーリは、そのまま静かに踵を返し、校舎の方へと歩いていく。

 

 左手には、ずっしりとした紙袋。包装紙にくるまれた小さな包みがいくつも入っている。クラスメイトへのお返し、それからひとつ、特別なもの。

 

 ポケットの中で、昨日の夜に忍ばせた小さなメモの存在を指先が確かめる。

 

 コウヌの声も、マリルリの跳ねる音も、もう背中の方へと遠ざかっていく中、モーリの足取りだけが、少しだけ静かで、けれど確かに、前へと進んでいた。

 

 

 

 教室前の廊下に、モーリの姿があった。

 

 朝の喧騒から少し離れたその場所でも、生徒たちは三々五々立ち話をしていた。窓から差し込む春の陽は、廊下の床にやわらかな光の筋を落とし、ほんのりとした温もりがそこに満ちている。

 

 モーリは持参した大きな紙袋を脇に抱えながら、その中から小さな包みを一つずつ取り出していた。手渡す相手の顔を確認しながら、静かな声で「ありがとな」と言葉を添える。数も内容も、すべて把握していた。バレンタインのときに誰から何をもらったか、その包装の色合いやリボンの飾りまで、きちんと記憶している。

 

 彼の動きには無駄がなく、まるでルーティンワークのように、次々と包みを渡していった。それでも、決して機械的にはならない。ひとつひとつのやりとりに、最低限の礼儀と、ほんのわずかな気遣いを乗せていた。

 

「これ、ありがとな」

 

 モーリの言葉は簡潔で、装飾のないものだったが、それでも相手の目を見て渡すその様子に、受け取った女子たちは顔を赤らめながら小さく会釈したり、はにかみながら「ありがとう」と言ったりしていた。

 

「モテ男は大変ですねぇ」

 

 横合いからそんな声が飛んできた。ミマだった。

 

「うるせえ」

 

 モーリは即座にそう返したが、ミマはにやにやと笑いながらモーリの紙袋を覗き込む。

 

「ねえねえ、それ全部配るの? 女子の名前、忘れたりしてない?」

 

「ちゃんと覚えてる」

 

「へえー、やっぱ賢いんだなお前」

 

 からかいながらも、どこか感心したような口調でミマは言う。

 

 やがて、女子たちが自然と列を作り始め、モーリの前に順番にやってくる。

 

「はい、これ」

「わあ、ありがとう!」

「ラッピングすごく可愛い〜!」

 

 わいわいと盛り上がる声が廊下に広がっていく。

 

 モーリは淡々と作業を続けながら、ふと別のクラスの廊下の方へ視線を向ける。そこにスズモトの姿はまだなかった。

 

 彼はほんのわずかだけ、左のポケットに意識を向ける。そこには、包装紙にくるまれた

『ひとつだけ特別なもの』が入っている。

 

 それを渡すタイミングは、もう決まっている。

 

 そのことを、誰に知られるでもなく、彼は静かに胸の内に留めていた。

 

 

 

 

 教室での配り終えた後、モーリは紙袋を手に隣のクラスへと向かっていた。

 

「はいは〜い、義理返しのキャラバン到着でーす」

 

 ミマがわざとらしく前を歩きながら、通りかかる女子に愛想を振りまく。モーリはそれを後ろから無言で追いかけた。

 

 隣のクラスでも、モーリの姿を見つけた女子たちがざわつき始める。

 

「えっ、モーリくん来てる!」「あ、去年もお返しくれたよね!」

 

 ミマが「安心してください、平等返しでございます〜」と勝手に場を仕切りはじめる。

 

 その流れの中で、モーリはスズモトの机の前に自然と立つ。

 

「……これ、ありがとな」

 

 他の子と変わらない調子で、モーリは小さな包みを手渡す。

 

 スズモトは「うん、ありがとう」とだけ返し、受け取った包みをそっと見下ろした。

 

 他の女子たちがキャアキャアと盛り上がる中で、彼女はそっと包装を指先でなぞる。

 

 そして、自分の包みだけが妙に丁寧に包まれていることに気づいた。

 

 視線を教室の出入り口へ向けると、モーリの後ろ姿がちょうど角を曲がるところだった。

 

 誰にも気づかれないように、スズモトはそっと包みの端をめくる。

 

 中に、小さく折りたたまれたメモが一枚。

 

 その瞬間、彼女の目がほんのわずかだけ見開かれる。頬が、少しだけ赤くなる。

 

 スズモトは、誰にも気づかれないようにそれをすぐ包み直し、そっと胸元にしまいこんだ。

 

 

 

 

 その日の部活前、部室には少しだけいつもと違う空気が漂っていた。

 

 部員たちが集まり、自然とホワイトデーの“お返しタイム”が始まっていた。男子部員たちはそれぞれ、小さな紙袋や包みを手にしており、女子部員たちに照れくさそうにそれを差し出していた。

 

「これッス」

 

 コウヌが紙袋を差し出すと、タケダが目を丸くした。

 

「これはヨッコシで売ってるものですわぁ……」

 

「うわ、これ姉さんが欲しがってたやつですよ」

 

 オーアサが思わず声を上げると、コウヌは苦笑しながら首をかいた。

 

「姉ちゃんに付き合わされたんスよ〜。オレ、ラッピング地獄だったッス……」

 

 部室に小さな笑いが広がる。

 

 モーリも、その流れに乗るようにひとつの包みを取り出した。中身はレイカに相談して選んだ“本命”ではなく、上質な市販の菓子。包装も丁寧だが、あくまで“義理返し”用だ。

 

「はい、これ」

 

 そう言ってモーリは、スズモトにその包みを手渡す。

 

「ありがとうございます」

 

 スズモトはごく普通の調子で受け取り、にこりと笑う。

 

 けれどその指先が、包みを握る力をほんの少し強くしたのを、モーリは見逃さなかった。

 

 彼女の胸の内には、“本物”が別にあることを、誰よりも早く気づいていた者としての静かな確信があった。

 

 

 

 

 部活の活動がひととおり終わると、部員たちはそれぞれ帰り支度を始めた。

 

「そろそろ帰るッス」

 

 コウヌがマリルリのボールを手にしながら立ち上がる。

 

「じゃあ、また明日」

 

 オーアサもそれに続き、鞄を肩に引っかけて出口へと歩き出す。

 

 二人は連れ立って、賑やかに廊下へと消えていった。

 

 そのあとを追うように、ムラナカもゆっくりと荷物をまとめる。部室の戸口まで歩いたところで、ふと振り返る。

 

 モーリと視線が合った。

 

 けれど何も言わず、ただ一瞬だけ小さく頷くと、そのまま背を向けて出ていった。

 

 部室には、モーリとスズモトだけが残っている。

 

 がらんとした室内に、夕方の光が差し込んでいる。外では風が吹いているらしく、カーテンがゆっくりと揺れていた。

 

 スズモトは備品のチェックリストを手にしていたが、どこか動きに落ち着きがなかった。同じアイテムを何度も見直し、確認済みのタグを指でなぞったり、並べた順をわずかに変えてみたりしている。その様子は、まるで何かを待って時間を潰しているようだった。

 

 モーリはそれを隣の机から眺めていたが、やがて視線を少しだけずらす。

 

 スズモトの隣に置かれた椅子が、ぽつんと空いていた。

 

 何も言わず、その椅子に手をかけて引き寄せると、モーリは紙袋を片手にそっと腰を下ろした。膝の上に袋を置き、袋の口を握りしめたまま、しばらく言葉を探すように沈黙が流れた。

 

 スズモトもそれにあわせるように、そっと椅子に腰を下ろした。窓から差し込む夕焼けが彼女の横顔を照らし、赤く染まったその頬が、光のせいなのか、それとも別の理由なのか、モーリには判別がつかなかった。

 

 

 

 

 空になった部室には、夕焼けが静かに差し込んでいた。カーテンの裾が風に揺れ、机の影が少しずつ長く伸びていく。

 

 スズモトは、備品棚の前から静かに戻ってくると、モーリの隣の椅子に腰を下ろした。無言のまま、少し緊張したような面持ちでモーリの手元を見つめている。

 

 モーリは膝の上の紙袋を見つめたまま、少しだけ息を吸った。

 

 朝、手渡した包みとは別に、もう一つだけ用意していたもの。

 “部活後、部室にいて”とだけ書いたメモをそっと忍ばせていた。

 

 「……これ、ほんとのやつ」

 

 袋の口を開きながら、モーリは静かに言った。

 

 スズモトの目がわずかに見開かれる。「え……?」と声にならない声を漏らしながら、包みを受け取る。

 

 ラッピングは丁寧で、リボンの色も春を感じさせるやわらかな黄緑色だった。

 

「これ、ネットで有名なやつ……」

 

 包みのタグを見たスズモトが、思わず言葉を漏らす。

 

「なんとかパピモッチ、だってさ」

 

 モーリが少しだけ肩をすくめると、スズモトの手元でモンスターボールがカチャリと揺れた。

 

 そこから飛び出したフシギダネが、鼻をひくひくさせながらポフィンの匂いを嗅ぎに近づいてくる。

 

「草タイプが好きなやつらしい。一緒に食べるといいよ」

 

「……うん、嬉しい」

 

 スズモトが微笑む。窓から差し込む光が、彼女の横顔をあたたかく照らしていた。

 

 モーリはもう一度、軽く息を吸った。そして今度は、ちゃんと目を見て言葉を口にした。

 

「俺、スズモトのことが、好きだよ」

 

 その言葉をようやく口に出せたとき、胸の奥に溜まっていた何かが、少しだけほどけるような気がした。言葉にすれば簡単な一文。でも、それを言うまでにかかった時間の重さが、すべてを静かに証明していた。

 

「ごめん。本当は、もっと前に言うべきだったんだと思う」

 

 今よりもっと不器用だったあの日に、それを言えなかった自分が少しだけ悔しかった。でも、今ここにスズモトがいてくれることが、何よりも大事だと思えた。

 

「……なんか、思ったよりちゃんと言えなかった」

 

 彼の言葉に、スズモトは小さく笑う。

 

「ううん、ちゃんと伝わってます。私には」

 

 そして、すぐに視線を落としながら、スズモトも続けた。

 

「ずっと、そうだったら良いなって、思ってた」

 

 その言葉の余韻が、部室の空気に静かに溶けていく。顔を上げてモーリを見つめるスズモトの目は、少しだけ潤んでいた。でも、その視線はまっすぐで、揺らがなかった。

 

「私も、勇気が出なかったんだ。私たちを助けてくれたあの日から、ずっと、好きだった」

 

 その言葉を口にするスズモトの声は、ほんのかすかに震えていた。けれど、そこには確かな意志があった。

 

 モーリとの思い出が、ひとつひとつ彼女の中で形を持って蘇っていた。あの日、助けられたあの瞬間から、胸の奥で静かに灯り続けていた感情が、ようやく声になって現れたのだ。

 

「……これからも、そばにいてもいいですか」

 

 スズモトのその言葉に、モーリは少し驚いたように瞬きをしたあと、小さくうなずいた。

 

「うん。もちろん」

 

 ふたりの間に、ことばのいらない静けさが戻る。

 

 足元ではフシギダネが、満足そうに丸くなって目を閉じていた。

 

 窓の外、夕焼けがゆっくりと沈んでいく。

 

 

 

 

 夜の部屋は、いつもより少しだけ明るく感じた。

 

 天井の照明はしっかりと灯り、机の上にはノートや使いかけの文房具、そして通話用の端末が静かに立てかけられている。

 

 画面の中には、髪をタオルでまとめたレイカの顔が映っていた。メイクはしておらず、部屋着のまま、間接照明に照らされた頬はどこか柔らかい印象を与えていた。

 

「今日はありがとな。助かったよ」

 

 モーリの声に、画面の向こうでレイカがわずかに笑う。

 

「どういたしまして。……でさ」

 

 レイカが画面の外に手を伸ばし、何かを引き寄せるような仕草をする。次の瞬間、画面の隅に、あの見覚えのある『シュクレパピモッチ』の紙袋が映り込んだ。

 

 袋の取っ手を指でくるくると回しながら、レイカが少しだけ眉を上げる。

 

「なんであたしの家にも届いてるわけ?」

 

 レイカの家にも、同じ『シュクレパピモッチ』の袋が届いていた。当然、モーリから。

 

 モーリは少しだけ口元を緩めて答える。

 

「いや、お礼にと思って。フローゼル、チイラのみが好きなんだろ?」

 

「うん、まあ、そうだけど」

 

 レイカは、モーリがそんな細かいことを覚えていたことに、ほんの少し驚いたように目を見開いた。

 

 すぐにその表情は和らぎ、視線を逸らしながら、耳のあたりを軽く指で押さえて照れ隠しのような仕草を見せる。

 

「それ入ってるやつ、買えるタイミングあったから」

 

「お前、あの時『羨ましい』って言ってたからな」

 

 画面の中のレイカが、ほんの一瞬だけ黙る。

 

 そして、顔を少しそらしながら、小さくつぶやくように呟いた。

 

「このバカ。バカヘタレスケベ」

 

 それはマイク越しの音としてはかすかなものだったが、モーリにはちゃんと届いていた。

 

 けれど彼は、何も言わなかった。

 

 ただ、部屋の明かりの下で、少しだけ照れたように笑っていた。




次回5/15 18:01予定です

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