『蝋塗れの手で』~元ガチ勢の俺が、ぬるま湯バトル部に入った結果、皆と「課題」に向き合うことになった話~   作:rairaibou(風)

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34- 春がくるまえに

 公立、ライモン高校

 

 終業式の日。朝の空はどんよりと曇っていて、雲の切れ間から差し込む光は、まだ冬の名残を引きずっているようだった。

 校門前では、生徒たちが普段よりやや早足で校舎へと向かっていく。誰もが荷物を少なくしていて、教科書ではなく、色とりどりの紙袋やファイルが手にある。

 

 校舎のガラス戸が開くたびに、冷たい風が吹き込む。けれどその中にも、春の匂いがほんのわずかに混じっているようだった。

 

 学校の廊下は、いつもより静かだった。掲示板には進級や新年度の案内が貼られ、各教室のドアには「成績表配布」の文字が記されていた。

 

 

 教室の窓は半分開いていた。風が入り込み、誰かの机に置かれたプリントがひらりと揺れる。春の匂いはまだ少し冷たくて、でもその奥に確かに芽吹きの気配を含んでいた。

 

 モーリが教室に入ると、何人かの生徒がすでに席に着いていて、終業式前の空気をだらだらとまとっていた。誰かがロッカーを片づけ、誰かが机の上に教科書を積んでいる。少し浮ついたような、それでも確かに終わりの気配があった。

 

「おー、部長様のお出ましだ」

 

 ミマが自分の椅子に腰かけたまま、モーリに向かってひらひらと手を振る。

 

「うるせえよ」

「いやだなあ、ツンケンしちゃって。ま、気持ちはわかるけどね」

 

 ミマは伸びをしながら、天井を見上げる。

 

「なんかさ、実感わかないんだよな。来年、俺ら三年生なんでしょ?」

「そうだな」

「まだまだ『今』が続いていくと思ってたけど、急に“あとちょっと”って感じがする。二年後には大学生、三年後には二十歳だ。俺ら、そんなに大人だったっけ?」

「さあね」

 

 モーリはそれ以上答えず、自分の席に向かおうとした。

 

 だが、腰のモンスターボールがわずかに揺れた瞬間、彼は足を止める。ブニャットが外に出たがっているのが、感覚としてわかったのだ。

 

 静かにボールを取り出し、指先で弾く。ブニャットが教室に現れる。

 

 特に誰に挨拶をするでもなく、ブニャットは教室を一瞥し、ひょいと掃除用具入れの上に飛び乗った。

 

 その場で香箱座りになり、窓からの風に目を細める。

 

 誰も驚かないし、誰も騒がない。

 

 その姿は、もともとそこにあるもののように、教室の景色にすっと溶け込んでいた。

 

 

 

 

 体育館に集まった全校生徒の列は、整然としていた。けれどその内側には、どこか弛緩した空気が漂っている。終業式という名の『通過点』を、誰もが知っているからだ。

 

 壇上から響く校長の声は、響いてはいるが、誰かの心に届いているかは怪しかった。生徒たちの多くは前を見てはいるものの、意識は別の場所に浮かんでいるようだった。

 

 モーリもまた、そのひとりだった。

 

 整列の列の中で、彼は顔を上げたまま、遠くの体育館の天井を眺めていた。照明の光が、雲間から差し込む太陽のように白く、冷たく広がっている。

 

 スピーカーから流れる進路の話、学年の振り返り、目標設定。

 それらを『聞いているふり』をしながら、モーリは静かに思う。

 

 本当に、三年生になるんだな。

 

 思えばこの一年で、いろんなことがあった。バトル、部活、合宿、文化祭。そして、誰かとの言葉や、交わしたまなざし。

 

 自分は、少しは変われただろうか。

 

 そんな問いを、自分の中で繰り返す。

 そのとき、壇上から聞き覚えのある言葉が聞こえてきた。

 

「……そして、我が校のバトル部からは、全国インターハイにおいてベスト八という快挙を成し遂げた生徒もおりました」

 

 拍手が起こる。何人かが、ちらりとモーリの方を見る。

 

 けれどモーリは、ほとんど反応を見せなかった。

 

 まっすぐ前を見据えてはいるものの、その目は少し焦点が合っていない。

 拍手の音も、壇上の言葉も、どこか遠くに感じる。

 

 自分が立っていた舞台、あの夏のインターハイの光景。観客席、シザリガー、ケッキング、強烈な技の応酬。それらが心の中でゆっくりと浮かんでは消えていく。

 

 それでも今、自分の中にあるのは誇らしさというより、むしろ静かな問いだった。

 あの舞台で何を掴んだのか。何を得て、何を見落としたのか。

 そんなことばかりが、頭の中でぐるぐると回っていた。

 

 式は進んでいる。

 けれど、モーリの時間は、少しだけ違う場所にいた。

 

 ただの通過点として終わるはずだった終業式の中に、ふと立ち止まってしまう瞬間がある。

 それでも式は続き、生徒たちの時間は、前へと進んでいく。

 

 

 

 

 

 教室に戻ると、少しだけ空気が柔らかくなっていた。

 

 机を拭く音、プリントを仕分ける音、荷物をまとめるチャックの音。終業式のあとの教室は、いつもより静かで、どこかしら『これで一区切り』という空気に包まれている。

 

 誰かがロッカーを空にし、誰かが誰かにメモ帳を渡し、春から別の学校に進むという話が、ささやくように耳に届く。

 

 モーリは席についたものの、ふと教室を見渡した。

 

 ブニャットの姿がない。

 

 掃除用具入れの上。いつもならそこにいるはずの白い塊が、今日は見当たらなかった。

 

 机の上には成績表の封筒と、数枚の配布プリントが載っている。けれど、あのでかい身体が視界にないだけで、教室のバランスが少し崩れて感じた。

 

「珍しい、どっか行ったか」

 

 ぼやくように呟いて、扉を押し開ける。

 

 廊下にはまだ何人かの生徒がいて、進級ポスターを見ていたり、担任に呼び止められていたりした。中庭のほうでは、下級生らしき数人が写真を撮ってはしゃいでいる。

 

 だが、ブニャットの姿は見えない。

 

 とはいえ、モーリの足取りは焦ってはいなかった。いつものことだ、と思っているから。あいつは気まぐれで、自分の居心地の良い場所を見つけるのが得意だ。

 

 だからこそ、探すというよりは『思い出すために歩いている』といった方が近かった。

 

 

 

 

 職員棟の廊下に差し込む西日の角度が、いつもより低い。

 

 その一角に、ぽつんと列ができていた。

 

 制服のままの女子生徒たちが三、四人、等間隔に並んでいる。その前で、タブンネがちょこんと立っていた。

 

 順番が来た生徒がしゃがみ込み、タブンネにそっと触れる。あるいは、軽く抱きしめる。そのたびに、生徒たちは不思議そうな顔をして、けれどどこか満ち足りたように立ち去っていく。

 

「なんか、ほんとに楽になる……」

「ついでに成績のショックも癒してくれたらいいのにね」

「それは私らが頑張るべきでしょ……でも、ちょっと元気出たかも」

 

 タブンネは何も喋らない。ただ、ぬくもりを持ってそこにいるだけだった。

 

「お前ら、やることやったらさっさと帰れよ」

 

 その横でそう呟くサイトーに、モーリが声を掛ける。

 

「ブニャット、見ませんでしたか」

 

 サイトーはそれに少し驚いたような顔をした。

 

「いや? 見てないな、はぐれたのか?」

 

 モーリは肩をすくめるようにして答える。

 

「まあ、気まぐれですから」

 

 サイトーは腕を組み直し、しばらくモーリの顔を見つめていた。表情に大げさな動揺はないが、視線の奥にあるものは、年長者らしい静かな心配だった。自分の教え子が何かを抱え込んでいるときの、それに近い眼差しだ。

 

「人数集めて探そうか?」

「いえ、大体わかる気がするんで」

 

 そのやり取りに、サイトーは目を細めて微笑む。

 

「お前ら、変わったな」

 

 ちょうどそのとき、タブンネがこちらを見て、小さく手を振ったように見えた。

 モーリは少しだけ目を丸くし、照れ隠しのように手を軽く上げて返す。

 

「それじゃあ、また」

 

 モーリは短くそう言って、職員室から離れた。

 

 

 

 

 部室の扉を開けると、空気が少し暖かかった。

 

 ソファの上に、ブニャットがいた。

 丸くなっているわけでもなく、寝そべっているわけでもない。まるでこの場所の主のような顔で、半分だけ閉じた目でこちらを見ている。

 

 その隣には、イイダがいた。

 ブニャットの尻尾をうまく避けるようにしながら、ソファの端に寄りかかっている。

 足を組み、片手でスマホをいじっていたが、モーリの気配に気づくとゆっくりと顔を上げた。

 

「なんだ? 今日部活ないだろ?」

 

 言葉の調子はいつもの軽さだが、その声にはどこかしら懐かしさを含んでいる。

 

「それは先輩も一緒でしょ」

 

 モーリは扉を閉めながら苦笑して応じた。

 

「まあまあ、硬いこと言うなよ」

 

 イイダは肩をすくめて、ソファの背にもたれ直した。

 

「そもそもなんで鍵開けられるんですか」

「一応前任の部長だぞ」

 

 得意げに言うその顔は、どこかしら子どもっぽい。けれど、それがイイダらしかった。

 

「先輩たちの代はもう卒業してるじゃないですか」

「ああ、それね、ちょっとばかし忘れ物の確認してきたのとさ、この間の送別会のお礼」

 

 そう言いながら、イイダはカバンの中をごそごそと探り、少ししてから大きめのお徳用お菓子セットを取り出した。袋は少しシワが入っていたが、ちゃんとラッピングされている。

 

 それを机の上にぽんと置いて、手をパンと叩く。

 

「先輩って意外とそういうのマメですよね」

 

 モーリは少し驚いたような表情で呟く。

 

「まあ、ツキシタ部長の下に居たからな。こういうことしないと気がすまないんだよ」

 

 イイダは天井を見上げながら、どこか遠くを見る目をした。

 

「何時頃向こうに行かれるんですか?」

 

 モーリが少し遠慮がちに尋ねると、イイダは腕時計をちらと見てから答えた。

 

「明日」

「さみしくなりますね」

 

 言った本人も、それがどれほど本音だったかはわからなかった。

 

「なーにを、心にもないことを」

 

 イイダは笑って、ブニャットの頭を軽く撫でた。ブニャットはそれに対して小さく鼻を鳴らし、満更でもなさそうに目を細めた。

 

「じゃあ、帰るか。来年からここはお前専用だなぁ」

 

 立ち上がりながらぽつりと言ったその言葉に、モーリはふと胸の奥に小さな熱を感じた。

 

「イイダ先輩」

「ん?」

「お疲れ様でした。そして、ありがとうございました」

 

 モーリは深く頭を下げた。

 イイダの背中越しに、その姿勢をしばらく保った。

 

 イイダは一瞬きょとんとした顔をして、それから口元を緩めた。

 

「うん、まあ、どれのこと言ってるかわからんけど、お前もいい感じの部長になったな」

「まだまだですよ」

「そのくらいが良いんだよ。俺もツキシタ部長も完璧じゃなかったし、そんなもんだよ。部活なんて『教育の一貫』なんだからさ」

 

 ドアノブに手をかけたイイダが、もう一度だけ振り返る。

 

「一年はいってきたらまた大変だと思うけど、まあ、気を抜いていこうや」

「はい」

 

 扉が閉まり、静けさが戻る。

 空気が少しだけ、柔らかくなった気がした。

 

 モーリはソファに沈み込んでいたブニャットに、軽く声をかける。

 

「帰るぞ」

 

 ブニャットは一度鼻息を鳴らし、それから重たい体を持ち上げ、ソファを降りてモーリの足元へと歩み寄ってきた。

 

 その足取りは、どこかゆっくりで、だけど確かなものだった。

 

 

 

 

 校門前には、春の夕暮れの光が差し込んでいた。

 

 モーリの隣には、ブニャットがいる。

 

 彼は少しだけ足を止め、校舎から出てくる人影を探していた。

 

 やがて、スズモトが現れる。

 

 カバンを肩にかけ、制服の襟元を風から守るように軽く手で押さえながら、まっすぐこちらへと歩いてきた

 

「ブニャット、すぐ見つかったんだね」

 

 声をかけるスズモトは、モーリを見上げて笑う。

 

「ああ、だいたい居場所はわかってたから」

 

 モーリが答えると、スズモトは小さく頷いた。

 

「うん、そうだと思った」

 

 それきり、二人は何も言わず並んで歩き出す。

 

 校門を抜けた先の坂道を、夕陽を背にして降りていく。ブニャットがモーリの一歩後ろを、重たそうな足取りでついてきた。

 

 道の向こうから、見慣れた顔ぶれが近づいてくる。

 

 コウヌとオーアサだ。

 コウヌはマリルリをしっかり抱え、オーアサのそばにはブーピッグが寄り添っている。

 

 コウヌとオーアサがモーリたちに気づき、手を振る。

 

「先輩、お疲れさまでーす!」

 

 コウヌはマリルリを抱えたまま、声を張って笑った。

 

「これからウチの美容院でブーちゃんのトリミングするんスよ! 姉ちゃんが帰ってきてるんで!」

 

 コウヌが無邪気にそう言って、モーリとスズモトに手を振る。

 

「この子、毎回ちょっと緊張してるんですけどね」

 

 オーアサが笑いながら言った。ブーピッグはやや不安げに鼻を鳴らしている。

 

 二人はそれに手を振って応え、また歩き出した。

 

 空にはうっすらと雲が広がっていて、でも光はまだ暖かかった。

 

 並んで歩く足音が、少しだけ近づいた。

 

 モーリは、ちらりと横を見る。

 スズモトの手が、ほんのわずかに自分の手の近くを歩いていた。

 何も言わず、そっと触れる。

 スズモトは驚かず、むしろ自然にその手を受け入れた。

 

 指先がそっと重なり、次第に、絡まっていく。

 

 モーリは少しだけ息を呑んだ。ぎこちないながらも、手の中にある温もりは確かで、どこか落ち着くものだった。

 

 スズモトの指も、少し緊張しているように見えたが、それでも離れる気配はない。

 

 指と指が、互いの存在をたしかめるように絡み合った。

 

 互いに目を合わせることはなかったけれど、それぞれの顔がほんのりと赤らんでいるのは、春のせいだけじゃなかった。

 

 春の風が、二人の間を抜けていく。

 

 何も特別なことが起きているわけじゃない。

 

 でも、それでも、いいと思えた。




次回未定

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