『蝋塗れの手で』~元ガチ勢の俺が、ぬるま湯バトル部に入った結果、皆と「課題」に向き合うことになった話~ 作:rairaibou(風)
校庭の緑が鮮やかさを増し、校舎に差し込む日差しも少しずつ強くなってきた。季節はいつの間にか春を越え、初夏の気配を纏いはじめている。
モーリはいつものように登校して、校門をくぐった。賑やかに話し込む生徒たちの間を抜けながら校舎へと入ると、一階の階段の踊り場に、見慣れない空間が作られていることに気がついた。
大きな展示台が設置され、その上を白い布がすっぽりと覆っている。周囲にはポールとロープが巡らされ、何か特別な展示を控えていることがひと目でわかる。しかしモーリはその場で立ち止まることはせず、興味は感じつつも教室へ向かう階段をそのまま上がった。
☆
教室はいつも通りの朝を迎えていた。モーリは席につくと、友人たちとの短い会話を交わしながら、朝礼が始まるのを待った。
程なくして校内放送が入り、全校生徒が体育館へと向かった。朝礼の壇上に校長が現れ、挨拶が始まる。静かな体育館の中で、いつも通りの注意や日常の話題が淡々と述べられていった。
モーリは静かに立ったまま校長の話を聞いていたが、ふと視線を校長から逸らし、天井付近の窓から差し込む日差しを眺めていた。まばゆい光が床に落ち、ゆっくりと移動していく。
校長が一通り話を終えると、一瞬の間をおいて、教頭が壇上に進み出た。マイクを掴む手に少し力がこもる。
「本日は皆さんに、嬉しい報告があります」
その言葉に体育館の空気が少しざわつき、生徒たちの注目が壇上に集中した。
「本校三年生のムラナカくんが、この度、ミナモ美術館が主催する全国学生美術コンクールで優秀賞を獲得しました。おめでとうございます」
一拍の静けさを挟んで、盛大な拍手が体育館を包み込んだ。
モーリは驚いて振り返り、列の後ろの方を見た。周囲の視線を一身に浴びるムラナカが、居心地悪そうに背を縮めている。しかし、その瞳には微かな誇らしさも滲んでいた。
教頭が続ける。
「そして受賞作品のレプリカを、本日より校舎の一階踊り場に展示します。皆さんもぜひ見て、ムラナカくんの素晴らしい作品を感じてください」
再び大きな拍手が湧き、朝礼は締めくくられた。
生徒たちがざわざわと退場を始めるなか、モーリは少し呆然と立ち尽くしていた。
ムラナカが描いた作品がどのようなものであるかは、本人から直接聞かされて知っている。
あれが自分を描いたものであるという事実に、今さらのように気恥ずかしさを覚えた。
友人の冷やかしの声を避けるように、モーリはそそくさと体育館を後にした。
☆
六時間目のチャイムが鳴り終わる前から、ミマは背後のモーリの席をちらちらと振り返っていた。そして、最後の挨拶の声がかき消えると同時に、振り返った。
「よっ、主演男優」
その口調には悪意はなく、けれどしっかりとしたからかいが織り交ぜられていた。
モーリはため息をつく。
「いつかお前を殺す」
「おー怖。指名手配にはあの絵を使ってくれな」
隣の席の女子がくすくす笑っていた。ミマの言葉は、どうやら教室の数人には届いていたらしい。
モーリは窓の外を一瞥する。夕日にはまだ少し早いが、陽射しは少しずつ橙を帯び始めていた。
☆
放課後。モーリは静かに教室を出て、三年生の教室が並ぶ廊下を歩きながら、ムラナカのクラスを探した。
すでに部活に向かう生徒たちが行き交う中で、モーリは一つの扉の前で立ち止まる。そこには、ムラナカの名がクラス名簿に記されていた。
軽くノックし、扉を引く。
「ムラナカ」
教室の中にいた数人の視線が一瞬こちらに向けられたが、すぐに各々の雑談や片づけに戻っていく。
ムラナカは窓際の席にいた。背筋を伸ばしながらも、少しだけ肩をすくめるように座っていたその姿が、呼びかけに応じてゆっくりと立ち上がった。
「モーリ。どうも」
「おめでとう。すげーじゃん、優秀賞」
モーリの言葉に、ムラナカはほんの少し、目を伏せた。そして、そのまま小さく笑った。
「ありがとう。でも、なんか、まだ信じられない感じ」
「絵、見たよ。いや、っていうか、まだ全体ちゃんとは見てないけど、恥ずかしくて」
「そりゃそうだろうね。描かれてる側が正面から見るのって、たぶん拷問に近いよ」
ムラナカが軽く冗談めかして言う。教室の空気は、放課後の光に包まれて柔らかくなっていた。
「見に行こうぜ」
モーリがぽつりとそう言うと、ムラナカは少しだけ首を傾げた。
「いや、今はいいや。部活のあとにしよう」
「ん、なんで?」
「この時間帯、けっこう人いると思うから。人が少なくなってからの方が、君も落ち着いて見られるだろ?」
「なるほどね」
モーリは苦笑しながら、それに同意した。ムラナカの配慮は、自分よりも自分の感情を理解しているように思えた。
「じゃ、また後で」
「うん、部活が終わったら、踊り場で」
二人は軽く頷き合い、別れる。モーリは再び階段を降りながら、心のどこかがふわりと持ち上がるような、不思議な感覚に包まれていた。
☆
放課後の校舎に、日が傾きかけた光が差し込んでいた。窓の向こうに見える空は、まだ完全に暮れてはいないが、橙色がじわじわと青を押し返していた。
一階の踊り場は、静まり返っていた。すでに下校時刻を過ぎ、生徒たちの姿はほとんどなく、廊下に残るのはわずかな足音と、掲示板の前で立ち止まる影がぽつりとあるだけだった。
その中を歩いてきたモーリは、足を止めた。視線の先、壁際の特設スペースにはスポットライトが柔らかく注がれている。その中心に据えられていたのは、例の絵だった。
壁際の特設スペースには、淡いスポットライトが当てられていた。その下に飾られているのは、あの朝に話題となったムラナカの絵だ。
正式には、ミナモ美術館に展示される原画の『複製』なのだという。けれど、その複製ですら、空気をわずかに緊張させるような存在感を放っていた。
モーリは絵の前に立ち、息を止めたまましばらく視線を泳がせる。
そこに描かれていたのは、自分とブニャットだった。
モーリは、絵の中の自分と目が合った気がして、少しだけ視線を外した。
大きなキャンバスに対して、中央に据えられた自分とブニャットは意外なほど小さい。だが、その線には無駄がなかった。モーリの背はやや丸まり、ブニャットはその視線の先、丸椅子に丸くなっている。
ふてぶてしいほどに斜に構えた姿勢は、日頃見慣れたブニャットそのものだ。
背景には、デフォルメされたガブリアスとファイアロー、そして八つの色の断層が抽象的に重ねられている。まるで何かを絵の具で封じ込めたような、にじむような色使いだった。
「……恥ずかしいな」
誰にともなく呟いた声が、広い踊り場にぽつんと浮かぶ。
背後から足音が近づく気配がして、モーリが振り向くと、ムラナカがやって来ていた。
「もう見てたんだね」
そう言って、ムラナカは隣に立つ。高身長の彼が、すこし背を丸めて絵を見つめる仕草は、朝礼のときと同じだった。
「やっぱり君は、真面目に観察するんだな。まっすぐ、見てる」
モーリは苦笑して、目を戻す。
「だって、俺だし。レプリカなんだろ、これ」
ムラナカは少し笑ったあと、壁に寄りかかるように立ち位置を変えた。
「本物はミナモにある。あっちはもっと、息をしてる感じがする。これは、少し乾いてる」
モーリはもう一度絵を見上げる。
「充分、息苦しいくらいだけどな」
その言葉に、ムラナカは声を出さずに笑った。背中がわずかに揺れた。
しばし沈黙が流れる。
「この背景。ガブリアスとファイアローは……なんとなくわかる。けど、この……色の断層みたいなのは?」
ムラナカが絵に向かって小さく手を伸ばすような仕草をした。
「八つ、あるだろ? 君が戦ったジムの街。それと、この地方のいくつかの風景を重ねてる」
モーリは視線で数えた。確かに、輪郭は曖昧だが、構成ははっきりしている。色の重なりと影の走り方で、それぞれが別の『場所』を示していた。
「カントーに行ってたのか?」
ムラナカは軽く頷いた。
「うん。あの後すぐ。全部を見て回ってきた。ジムをひとつずつ訪ねて、それぞれで君を探してた気がする」
モーリは何かを言いかけたが、言葉にならず、また黙って絵に目を戻した。
「だけど、結局、君にとっての君は、ブニャットだった」
ムラナカの声は淡々としていたが、どこか、そこには敬意のようなものが滲んでいた。
モーリは眉を少しだけ上げたが、否定はしなかった。
「そうかもしれないな」
少しの間、二人は並んで絵を見ていた。モーリは心のどこかで、ムラナカの言葉を咀嚼していた。
☆
階段の踊り場は静かだった。夕方の光が斜めに差し込み、壁に飾られたレプリカの絵の表面に淡い陰影を落としている。二人の影は並んで長く伸び、無言のまま、しばしそれを見上げていた。
ムラナカがぽつりと口を開く。
「優秀賞、応募は千弱、優秀賞は七つ。出来すぎだよ」
モーリは思わず、隣にいる彼の横顔を見た。誇らしいはずの言葉を、どこか居心地悪そうに言うのがムラナカらしかった。
「僕はね、ずっと『できない側の人間』だって思ってた」
言いながら、ムラナカはゆっくりとポケットに手を突っ込む。語ることに照れくささを覚えているように見えた。
「高校に入るまで、柔道をやっていたんだ。父さんも兄さんも格闘技の人間だったから、自然と、ね」
モーリは少し驚いた顔で彼を見た。意外だった。
「でもさ、僕、気が弱くてさ。でかいだけで全然勝てなくて。でかくて勝てないやつって、なんかもう、それだけで惨めなんだよ。人より才能を貰ってるのに、それを活かせてないみたいで」
ムラナカの言葉に、モーリはふと階段の手すりに寄りかかった。視線は絵のほうへ向けているが、耳はきちんと彼の話を追っている。
「中学のときの道場では、でかいだけの負け犬って、そう見られてたと思う」
「向きとか不向きとかあるだろ」
モーリが肩をすくめて言うと、ムラナカは短く笑う。
「そうだね」
空気が少しだけ緩んだように思えた。
「絵が好きだったんだ。絵なら、人と比べられる場面も少ないと思ったし。美術部に入って、楽しかった。けど、どこかで『どうせ大成はしない』って、自分で線を引いてたんだと思う」
ムラナカは、レプリカに描かれたブニャットのなめらかな毛並みに目を向けた。目は笑っていないが、どこか愛着が滲んでいた。
「ポケモンバトルも好きだった。家族全員シバさんのファンだったし。当然、そういう世界に憧れもあった」
そこまで言って、ムラナカは一度言葉を止めた。階段の上から誰かの足音が聞こえ、すぐに消える。
「だけどそれも、本腰を入れてやろうとは思わなかった。柔道で一本を取るより難しいのは明らかだったし、それに、気弱な僕がそれをできるとは思わなかった」
視線がモーリに戻る。
「どこかで誰かが、ウチの生徒をオニドリルから守ったって聞いても、それは遥か上空の話だと思ってた」
モーリは返事をせず、ただ少しだけ目を細めた。
「そんな時に、君たちに出会った」
ムラナカの声には、ほんの僅かな温度の変化があった。
「君に負けた時、悔しかった。柔道で負けるときとは違う、というか……多分、柔道で負けたときよりも、もっと惨めな気持ちになったんだ。自分は痛くない分、逃げてるような気がしてさ」
彼は靴のつま先で床を蹴る。絵の下に落ちた光の埃が、小さく舞い上がった。
「だから続けた。自分が強くならないと、きっとエビワラーにも迷惑をかけると思ったから」
モーリはまっすぐ彼を見て、力のこもった声で言った。
「強かったよ、お前らは、ずっと」
ムラナカは顔を上げた。モーリは続ける。
「コンビネーションは良く考えられてた。パンチだけに頼らない動きが、あの時点ですでにあった」
言葉を飲むようにして、ムラナカは小さく頷いた。
「バトルを続けられたのは、少しだけ強くなれたのは。多分、君たちがいたからなんだと思う」
そう言いながら、彼は手すりに背を預ける。どこか力が抜けたような、解放されたような仕草だった。
「心のどこかで、君たちのような、プロに近い存在っていうのは、絶対に僕たちのような凡人とは違って、どこか超人的な感覚を持ってるんじゃないかって思ってたんだ」
モーリは少しだけ笑って、肩をすくめて見せる。
「だけど君たちを見て、君たちが笑ったり怒ったり悩んだりしてるのを見て、失礼だけど、もしかして君たちと凡人との差って意外と少ないんじゃないかって思ったんだ」
視線がまた、絵へと戻る。そこには、ただ静かにブニャットを見つめるモーリの姿が描かれていた。
「人ってのは、思ってるより、高く飛べるのかもしれないなって、思った」
モーリが何かを言おうとしたが、ムラナカのほうが先に口を開いた。
「僕、美大を受けようと思う」
モーリは数秒間沈黙し、それからゆっくりと頷いた。
「いいじゃん。それ、めっちゃいいよ」
モーリは少しのあいだ黙っていたが、やがて言った。
「すごいな。俺、そういうの、ちゃんと考えたことなかった」
ムラナカが少しだけ笑った。いつもの、肩の力が抜けた笑い方だった。
「嘘だ。君はずっと、前を見てたよ。僕の目には、そう見えてた」
モーリは少しうつむき、それから頬をかいた。
「ありがとな」
ふたりの間に、沈黙が流れた。でも、それはもう重たくなかった。
「行こうか」
モーリの言葉に、ムラナカは頷いた。絵の前を離れるとき、彼は一瞬だけ振り返った。
「本物は、ミナモに飾られるんだって」
モーリは「うん」とだけ返す。
「もうちょっとだけ、パワーがあると思う」
それだけ言って、ムラナカは踊り場を後にした。夕焼けはいつの間にか薄れて、夜がそっと、校舎を包み始めていた。
次回は7/12 8:01に投稿予定です
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