『蝋塗れの手で』~元ガチ勢の俺が、ぬるま湯バトル部に入った結果、皆と「課題」に向き合うことになった話~   作:rairaibou(風)

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38-見られる者、見る者

 春の午後。簡易スタジアムの空は高く、グラウンドに影を落とすほどの大きな雲はどこにもなかった。

 

 ライモン高校ポケモンバトル部は、近隣の公立校と合同で練習試合を行っていた。目的は、新人たちの実力チェックと、レギュラーチームの調整。簡素なスタジアムの観客席にも、生徒や部関係者らしき人影がまばらに見える。

 

 フィールド中央、クロバットが縦横無尽に飛び交っていた。手綱を握るセラの指示は簡潔ながら的確で、相手の一手先を読んだ立ち回りが際立っていた。

 

 モーリは、その姿をベンチから黙って見守っていた。試合そのものには口出しせず、全体の動きを冷静に把握しようとしていた。けれどその目には、ほんの少しの驚きが混じっていた。

 

 セラは思っていた以上にやれる。

 

 セラのクロバットは、速さだけではなく、丁寧な間合いの管理と強気の詰めを見せていた。モーリは、入部当初のセラとの対戦を思い返す。あの頃とは違う『勝ちを掴みにいく』姿勢がはっきりと現れていた。

 

 二本の試合はどちらも快勝で終わり、スタジアムには軽い歓声と拍手が広がる。

 

 その空気が落ち着いたころ、背後から聞き慣れた足音が近づいてきた。

 

「いい動きだったな。新人の出来も、まずまず」

 

 低く通る声が聞こえ、モーリが顔を上げると、そこには顧問のサイトーがいた。ジャージの上着の袖を肩までまくり上げ、腕にはファイルを抱えている。

 

「お疲れ様です、サイトー先生」

 

 モーリが立ち上がって会釈すると、ムラナカやタケダもそれに続いた。サイトーは頷き、視線を遠くの観客席へ向ける。

 

「お前ら、気づいたか? あっちの奥。観客席の上段に座ってた、グレーのジャケットの子」

 

 言われて、三人は顔を向ける。

 そこにはすでにサイトーが言うような人物は存在せず、そして、試合中にそこに注目する部員も居なかった。

 

「全然わからなかったです」

「あれ、リオー高校のマネージャーだったぞ」

 

 三人はそれに驚き、サイトーはニヤリと笑った。

 

「偵察だよ。ウチの戦力確認ってとこだな。新人の立ち上がりはどこも気になるもんだ」

 

「わざわざウチの偵察ですかぁ?」

 

 タケダが疑問を口にするが、サイトーは腕組みをして頷く。

 

「あり得る話だよ。ウチみたいに、急に部員が増えて強化されてるところにはな。新人の戦力と、レギュラー陣の調整具合。向こうも仕上げの時期だ。スケジュール調整の参考にはするだろ」

 

 モーリは口を閉ざしたまま、その会話を聞いていた。静かに目を細めながら、自分たちが『見られる側』になっていることに、少しだけ緊張感を抱いていた。

 

「俺たちも、行っていいんですか? 偵察」

 

 そう問うと、サイトーは腕組みを解いて、やや前かがみにモーリを見下ろした。

 

「行ってこいよ。来週の土曜、リオー高校が練習試合をやる。市営スタジアムだ」

「知ってたんですか?」

 

 モーリの問いに、サイトーはファイルを開いて見せた。

 そこには簡素にスケジュールが並べられた表計算ソフトのプリントがあった。

 

「市のスタジアムの予約状況はネットで見られるんだよ。基本中の基本だろ、監督としては」

 

 再度それを眺めながらサイトーがため息を付く。

 

「リオーは自前の対戦場も持ってるが、相手が他地方の強豪高校となると、流石に良いところを使うんだろうな」

 

 思わず感心したようにタケダが頷く。

 

 けれどモーリは、そのサイトーの手際の良さよりも『自分たちが、偵察に行っていい』と明言されたことの重みをかみしめていた。

 

 かつて自分たちが警戒していた『強豪校の目』に、今は自分たちがなっている。

 

 自分たちは、見られる側になった。

 

 その事実が、どこかくすぐったくもあり、少しだけ背筋に力が入るようでもあった。

 

 サイトーはしばらく視線を遠くに投げていたが、やがて小さく呟く。

 

「今日のあれは、マネージャーだけだった。監督の指示じゃないかもしれない。……私が出るのは違うな」

 

 そして、再びこちらに視線を戻して言った。

 

「だから、お前らだけで行って来い」

 

 

 

 

 金曜日、部活が終わり、残された部室には、少しだけ湿気を含んだ春の夕方の空気が漂っていた。

 

 その中に集められたのは、モーリ、スズモト、コウヌ、オーアサ、セラの五人だった。サイトーの指示によって『偵察メンバー』として選ばれた顔ぶれである。

 

 部室の奥にある小さなミーティングテーブルの前にサイトーが立ち、壁に寄りかかるようにして腕を組んだ。部員たちは椅子やソファに腰を下ろしながらも、自然と姿勢を正していた。

 

「明日、リオー高校が市のスタジアムで練習試合をやる」

 

 サイトーが切り出すと、モーリたちの視線が揃って上がった。

 

「ウチに先週偵察を寄越してきたのは、まあ見ての通りだ。だったら、こっちも見に行くのは当然の権利だよな」

 

 コウヌが『おあいこってやつッスね』と口の端を上げる。だがサイトーは真面目な口調のまま続けた。

 

「ただし、ちゃんとやれ。相手が先にやってきたとはいえ、偵察ってのは基本的には後ろめたい行動だ。バレたらあまり印象は良くない。絶対に目立つな。自然な格好で、観客の一人として静かに混ざれ」

 

 モーリは頷きながら、サイトーの言葉の一つひとつを頭に刻み込んでいた。

 

「で、見てこい。強そうな新顔の名前とパートナーのポケモン、使う技の範囲。勝ちパターンと負けパターン。全部見てきて頭に入れてこい」

 

 セラが真剣な面持ちで小さくうなずいた。その隣で、オーアサがやや緊張気味に顔を引き締める。スズモトは既にメモ帳を広げて準備を整えていた。

 

「録音、撮影は禁止だ。あくまで観客としてだ。盗撮ってのは、シャレにならないからな。記録は自分の目と記憶に頼れ。そういう練習にもなる」

 

 サイトーの視線がモーリに向いた。モーリは静かに頷いた。自分がこのグループの中で最上級生であり、部長であること。その責任を言外に告げられた気がした。

 

 その視線は、続いてセラに移った。

 

「お前は今年の新人戦に向けて向こうの一、二年生を見てこい」

 

『新人戦』という言葉が不満だったのか、セラはうつむきかけたが「はい」と短く応じた。

 

 モーリはそんなやりとりを見ながら、自然と内側に意識を向けていた。

 

 偵察。どこかスパイのようで、正々堂々という言葉にはそぐわない行動。しかし、それが『強豪校の部活』という競技のリアルなのだと思う。

 というより、ほとんど漫画の世界だ。

 

 勝ちにこだわるということ。相手を知り、己を研ぎ澄ますということ。プロでもない、自分たちのような存在が、限られたルールと時間の中でできること。

 

 その現実の重みに、改めて指先が冷えるような感覚を覚える。

 

 サイトーはひと呼吸置き「質問あるか?」と訊いた。

 

 コウヌが手を上げた。

 

「集合はどうするッスか?」

「現地集合。十時開始だから、九時半にはついてろ。チケットはいらない。見学自由のスタジアムだ」

 

 モーリが「了解です」と声を出すと、他の面々もそれに続いた。

 

 サイトーは最後に一つだけ言葉を足した。

 

「楽しめとは言わないが、せっかくの機会だ。よく見て、よく考えてこい」

 

 モーリはその言葉に、言いようのない重みを感じた。バトル部の一員として。三年生として。

 

 

 

 

 待ち合わせ場所は、市営スタジアム近くの公園だった。

 

 快晴。風もなく、初夏を思わせる陽気。モーリは帽子のつばを指で軽く押さえながら、木陰に立っているスズモトに視線を送る。ふたりとも、薄手のパーカーにジーンズという目立たない格好。いかにも「部活帰りの高校生」で通せる。

 

「あれか?」

 

 最初に現れたのはセラだった。

 

 長身の体にぴたりと合う白のトレーナージャケット、黒のシューズはおそらく新品。道具用のポーチも腰にぶら下げ、キャップまできっちりかぶっている。当然腰には三つのモンスターボール。全体にスポーティーで、完成度は高いが、目立つ。

 

「お前、それ、完全に『現役トレーナーです』って格好だぞ」

 

 セラはモーリの前まで来ると、少しムッとした顔で上着の裾を引っぱった。

 

「よそ行きの服、こういうのしか持ってないんですけど」

「偵察に来るって言ったよな? お前が出る試合じゃねーんだぞ」

「じゃあ、ジャケット脱げばいいんですか?」

「一応聞くけどインナーは?」

「バトル用の長袖シャツですけど」

「全身かよ」

 

 肩を落としながらぼやくモーリの隣で、スズモトがあちゃーといった風に額に手を当てていた。

 

 そこへ、次に現れたのがコウヌだった。

 

 黒のカーディガンに七分丈のパンツ。首にはうっすら色の入ったストール。全体のシルエットは綺麗にまとまっており、風に髪がなびくその姿は、どこか雑誌のスナップページを思わせた。

 

「うん。お前もだ」

 

 モーリは片手で顔を覆った。

 

「町でスカウトされるファッションで偵察に来るな。お前だけ別の任務こなしてんのか?」

「は? スカウトされてねっスよ?」

「されてたらそれはそれで問題だっつーの」

 

 コウヌはきょとんとしているが、どこか得意げでもある。まったく悪びれていないのが腹立たしい。

 

「これいい感じに地味でしょ」

 

 きょとんとした目で見返すコウヌに、セラが一歩前に出て、モーリに向かって小声で囁く。

 

「フミ兄は、家の影響でファッション感覚がイカれてるんで。あの人、婆ちゃんがアパレルなんですよ」

「ええ、実家美容院だろ」

「もう完全にそういう血筋なんです。あの人にファッションがついてくるんです」

「あいつモテたいつってバトル部入ったんだぞ」

 

 その言葉に、セラは心底呆れ帰ったように首を振った。

 

「いっつもそうなんですよ。自分が普通だと思ってるから、たちが悪いです」

 

 呆れ混じりの声に、コウヌが「なんか言ったッスか?」と首を傾げる。モーリは手を振って、「いや、いい」とそのまま会話を流した。

 

「さて、次は」

 

 視線を通りに戻すと、ひときわ浮いた姿が向かってきた。

 

 黒マスク、サングラス、大きめのニット帽。しかも前屈みで小走りに近づいてくるその姿は、遠目からでも不審者以外の何物でもない。

 

「誰だあれ。いや、もしかして」

 

 警戒しつつ見守っていたモーリだったが、歩き方のクセに見覚えがあった。腕の振りと肩の沈み方、足取りのリズム。

 

「オーアサ、か?」

 

 その不審者風は、ぴょんと小さく飛び上がって「はい!」と答える。

 

「はい。気づかれないように来ました」

「いや、気づかれるって。というか警備員に止められても文句言えねえぞそれ」

「偵察ですから、変装は当然かなと」

「方向性が極端すぎるんだよ、マイナスに全振りすんなっての」

 

 オーアサは困惑気味にマスクの端をいじりながらモーリの隣へ並ぶ。

 しかしスズモトは「いやあでも、めちゃくちゃ日焼けしたくない保護者だと言い張ればなんとか」と取り繕う。

 

「もういいや。全員そろったし、行くぞ」

 

 そう言いながらスタジアムの方向へ歩き出すモーリの背中は、どこか疲れ切っていた。

 

 

 

 

 スタジアムの中は、思った以上に賑わっていた。

 

 ローカルとはいえ、リオー高校の名が出るとあって、客席には関係者らしき者や学生たちの姿も多い。観戦者のざわめきと、アナウンスの声が重なって、熱気がゆるやかに広がっていた。

 

「こっち、空いてる」

 

 スズモトが指さしたのはバックスタンド側の上段。フィールド全体が俯瞰できるうえ、周囲の観客とも程よく間が空いている。

 

「ナイス判断」

 

 モーリはうなずき、先に席を確保する。帽子を深めにかぶり直しながら、周囲に目を走らせた。セラとコウヌ、オーアサも後ろからついてきて、それぞれ静かに腰を下ろす。

 

「しゃべるなとは言わねえが、必要以上に声出すなよ。目立つし、内容も筒抜けになる」

 

「了解っス」

「かしこまりました」

「うーい」

 

 三者三様に返事が返ってくるが、さすがに今は本気の様子だ。

 

 バックスタンドの上段に腰を下ろした五人は、それぞれフィールドを見つめていた。穏やかな日差しがスタジアムを照らし、歓声と実況の声が風に乗って届く。

 

 リオー高校の新メンバーが中心の試合が始まると、モーリは顎に手を当て、視線を鋭くした。彼の視界の先で、二年生トレーナーが先鋒にレントラーを繰り出している。

 

「二年はまとまりがあるな」

 

 モーリの呟きに、すぐ隣のセラが頷いた。ペンをノートに走らせながら、フィールドから目を離さない。

 

「一年の頃から一緒に鍛えられてきた動きですよね。パターンは多くないですけど、動きは安定してます」

 

 オーアサがぼうっとそれを眺めながら呟く。

 

「攻撃攻撃攻撃って感じでちょっとワンパターンですね」

 

 事実、彼女の指摘は当たっていた。

 モーリはそれに満足気に頷きながら答える。

 

「一年生にウパーがパートナーのやつが居ただろう。鍛えてヌオーに進化させれば、十分対応できる」

 

 セラとオーアサはそれに頷いてすぐにメモを取ったが、コウヌは未だにピンときていないようだった。

 そして、一拍置いてからようやく気づく。

 

「あー、そうか。地面タイプで電気技を封じて、攻撃すればいいんスね?」

 

 ようやく理解したような顔をしたコウヌに、セラが呆れ混じりに横目を送る。

 

「まあ、フミ兄はマリルリでぶっ飛ばしてくれればいいですよ。細かいこと考えないで」

 

 セラの言葉に、コウヌは「あ、それでいいんだ」と少しホッとした顔になった。

 

 試合が進み、副将がフィールドに現れる。鋭い動きを見せるニューラの姿に、モーリの視線が一段と鋭くなった。

 

「あのニューラはレベルが高いな。コウヌ、お前とマリルリが全力で鍛えれば、なんとか張り合えるか?」

 

 モーリが問いかけるが、コウヌはニューラの動きに見とれてしまっているのか、返事がやや遅れた。

 

「え? ああ、まあ、やれると思いますけど」

「相性有利なのに自信なさそうですね」

 

 セラのからかうような一言に、コウヌは苦笑いして頭を掻いた。

 

 大将としてキノガッサがフィールドに姿を見せると、観客席の空気が変わった。モーリは腕組みしたまま、静かにオーアサに声をかける。

 

「オーアサ、あのキノガッサ相手には、お前のブーピッグで先手を取って『ちょうはつ』だ。確実に動きを封じられるか?」

 

 オーアサは軽く眼鏡の位置を直しながら頷いた。

 

「はい。行けると思います」

 

 オーアサの自信のある声に、モーリは満足そうに頷いた。

 

 

 

 

 一試合のインターバルが終わり、いよいよレギュラークラスの試合が始まる。観客席の雰囲気も明らかに変わった。

 

 モーリはフィールドに並んだ顔ぶれを見て、スズモトに小声で話しかける。

 

「メンツ、ほとんど変わってないな」

「そうだね。ハリテヤマ使いもいるし」

 

 スズモトが呟いた途端、そのハリテヤマ使いが鮮やかな『あてみなげ』で一気に勝負を決めた。観客席がどよめく。

 

「そう言えば、タケダさん、あれからあの人とたまに会ってるみたいだよ」

 

 スズモトがぽつりと漏らすと、モーリは一瞬驚いた後、苦笑いを浮かべた。

 

「あー、そうなのか。まあ、どっちも入り込むタイプだし、うまくいくんじゃね?」

 

 フィールドには、最後のトレーナーが立つ。金髪のその姿を見た瞬間、観客席の空気が引き締まった。

 

 カザ、そしてフィールドに現れたシザリガー。重量感あるハサミを振り上げて、威圧的な存在感を見せつけている。

 

「相変わらずっスね」

 

 コウヌが息を呑みながら呟くと、ふと何かを思い出したようにモーリに問いかけた。

 

「でも、モーリ先輩は毎年あの人に勝ってるってことっすよね?」

 

 コウヌの素朴な疑問に、セラが鼻で笑った。

 

「たいしたことないですよ、あんなパワー任せの戦い方」

 

 しかしモーリは、真剣な表情で軽く首を振った。

 

「そう思ってると足元すくわれるぞ。カザは、強い。シンプルだけど、強い」

 

 モーリの言葉に、一瞬、観客席は沈黙に包まれた。その沈黙を破るように、フィールドでシザリガーのハサミが鋭く地面を叩く音が響いた。

 

 

 

 

 シザリガーがフィールドで威嚇的にハサミを振り上げる。その激しい動きを見下ろしつつも、モーリは微妙な違和感に気づき始めていた。

 

 なにか、妙に視線を感じるのだ。

 

 直後、隣にいたオーアサがそっと肘でモーリを突いた。

 

「あの、先輩、まずいかもしれません」

 

 オーアサは既にサングラスを深くかけ直し、マスクで顔のほとんどを覆っている。その表情は見えないが、彼女の緊張がわずかな仕草からも伝わってきた。

 モーリは静かに視線を向けた。彼女の指差す方向、スタンド下段に目をやると、制服姿の女子グループが数人、こちらに視線を向けていた。

 

「あー、あれ」

 

 モーリの横にいたコウヌが、小さく呻きながら首をすくめた。視線が泳ぎ、焦りの表情が浮かぶ。

 

「コウヌ、お前なんか心当たりあるのか?」

 

 モーリが低い声で尋ねると、コウヌは曖昧な笑みを浮かべ、額に手を当てた。

 

「いや、中学の後輩か、水泳の後輩か。なんか顔に見覚えあるっスけど、よく覚えてないんスよね」

 

 彼の曖昧な反応に、スズモトが少し警戒したまま呟く。

 

「向こうはしっかり覚えてるみたいだよ」

 

 その言葉通り、女子の一人がはっきりとこちらを指差し、友人たちに興奮した様子で何かを話している。

 遠くからも微かに聞こえる甲高い声に、スズモトがため息混じりに肩をすくめる。

 

「コウヌ君、どこ行っても顔が割れるね」

 

 その皮肉を言われてコウヌが焦って両手を振る。

 

「いや、別に俺は何もしてないっスよ!? 勝手に向こうが」

 

 オーアサはクスッと笑い、コウヌの慌てぶりをからかうように、それでいて少し突き放すように言葉を重ねる。

 

「うんうん、モテる人ってみんなそう言いますよねぇ」

「だから違うって!」

 

 コウヌが小声で必死に否定する横で、オーアサが体をさらに低くしながら真剣に言った。

 

「これは、撤退準備でしょうか」

 

 彼女は既にリュックのチャックに手をかけ、逃走の態勢を取り始めている。

 

「ちょっと待てオーアサ。今そんな動きしたら余計怪しいだろ」

 

 モーリが慌てて彼女を制止した、その時だった。

 

「君たち、少しいいか?」

 

 低く落ち着いた声が背後から聞こえ、一瞬でモーリの背筋が凍った。

 

 一同が硬直したように振り返ると、階段を数段降りたところに、長身で鋭い目つきの男が立っていた。リオー高校監督、ヤマサキだった。

 

 モーリは慌てて帽子のつばを深く下げた。心臓が急激に高鳴る。

 

「やっべ、完全にバレた」

 

 コウヌが小声で呟くと、スズモトが静かに息を吐いた。

 

「うん、だろうね」

「まあ、フミ兄はスカウトでも偵察でもモテててすごいですよね」

 

 セラがさらに茶化すように呟くと、コウヌは焦って否定した。

 

「いやいや、だから褒めるとこじゃねえって!」

 

 緊張の中でも小声のやりとりが続く。一方、ヤマサキ監督はそんな様子を見透かすように、じっとモーリたちを見下ろしていた。

 

 モーリはもはや逃げ場がないことを悟り、腹をくくって静かに立ち上がった。

 

「あー、どうも」

 

 帽子の下で表情を引き締めると、モーリは階段の上に立つヤマサキに向き直った。

 

「おいおいおい、どっかで見たことある面子だと思ったら」

 

 相手の雰囲気からは怒気のようなものは感じ取れない。

 

「ライモン高校のモーリだろ? まあ、この界隈じゃ有名だからな」

 

 そう言って、ヤマサキは笑った。穏やかながらも揺るぎない芯のある声。その余裕に、モーリは気を張るべきか緩めるべきか迷う。

 

「先週、うちも偵察送ったからな。文句言う筋合いねえよ。お互い様だ」

 

 ヤマサキが肩をすくめる。追及どころか、こちらに気を遣わせないような口ぶりだった。モーリの緊張が少しだけ解ける。

 

「ついてきな。こんなところでうずくまってたって、見えるもんも見えねえだろ。いいとこ案内してやるよ」

 

 振り向いて歩き出すヤマサキの背中を見ながら、モーリは仲間たちに目をやった。セラは軽く肩を上げて頷き、スズモトは静かに立ち上がる。コウヌはどこか居心地の悪そうな顔をしながらも、オーアサとともに後に続いた。

 

 

 

 

 ヤマサキが案内してくれたのは、スタンド脇の通路。フィールドの全体がすぐ目の前に広がり、ポケモンの動きや指示も肉声で届くほどの距離だった。

 

「ここならよく見えるだろ?」

 

 ヤマサキが立ち止まり、前を指し示す。その視線の先で、ベンチの隅から振り返った人物がいた。

 

 短く刈った金髪。引き締まった体格に、ニヤリとした笑みを浮かべている。

 

「あれぇ、モーリじゃん。珍しいとこで会うな」

 

 軽く手を上げて寄ってきたカザが、気取らず笑う。モーリは帽子の影で目を細めながら返す。

 

「あまり騒ぎにしたくはなかったんだけど」

「別に見られて困るもんねーだろ、うちは。何ならこの後練習すっからそれも見てけよ」

 

 自信ありげに言い放ったカザは、またひょいと手を振ってフィールドに戻っていく。その後ろ姿を眺めながら、コウヌが感心したように呟いた。

 

「余裕っスね、完全に」

「余裕というか、なんというか」

 

 セラは腕を組んだまま、複雑な顔をしていた。

 

 

 

 

 ふと、ヤマサキがモーリのほうへ体を向け直した。

 声をかける前の間。わずかに口元を引き締めるような気配に、モーリは自然と姿勢を正す。

 

「ちょっといいか。ライモンのモーリ」

 

 静かな呼びかけ。先ほどまでの気さくさは残しつつ、言葉に一段深さが加わっていた。

 

「はい」

 

 モーリが即座に返事をすると、ヤマサキは軽く顎を引いて指示を出した。

 

「君らはここで見てていい。少しだけ、モーリくんを借りる」

 

 セラが小さく頷き、スズモトは言葉の代わりに目線で了承を示した。オーアサは少し心配そうにモーリを見上げ、コウヌは珍しく声を出さずに手を振って見送る。

 

 モーリは短く息を吐き、ヤマサキの後に続く。視線の先、通路の奥は少し薄暗く、誰もいない。

 

 足音だけが、二人分。少しずつ、遠ざかっていく。

 

 

 

 

 ヤマサキは軽く手招きをすると、モーリをフィールドから少し離れた、人気のない通路へと誘った。背後で歓声が遠ざかり、薄暗い通路にはふたりの足音だけが響く。モーリは胸の奥で何かがわずかに震えるのを感じた。

 

「偵察なんて、殊勝なことするんだな」

 

 ヤマサキが皮肉とも冗談ともつかない調子で口を開いた。壁に背をもたれさせて腕を組むと、わずかに口角を上げる。

 

「今回が初めて、ですよ」

「だろうな、お前は顔が売れ過ぎだ。ライモン高校のエースともなると、この界隈じゃこそこそするのも難しいだろ」

「すみません」

 

 モーリは帽子のつばを軽く指で引き下げ、目を伏せた。ヤマサキは軽く鼻を鳴らし、視線をフィールドの方向へ向ける。

 

「昔の話だが」

 

 ヤマサキは静かに、だがはっきりと口を開いた。モーリは息を詰める。

 

「俺もな、昔はリーグに所属してたことがある。今のお前くらいには名前も知られてた」

 

 ヤマサキの口調は穏やかだったが、その瞳にはどこか遠い日の熱を宿しているようだった。

 

「まあ、若かったんだよ。行けるところまで行ってやろうと無茶して、結果は、散々なもんだ。ある時天才が現れて」

 

 そこで、ヤマサキは少し、当時を思い出すように頭をふる。

 

「完敗だった」

 

 一瞬の沈黙。ヤマサキの視線がモーリに戻る。

 

「それでもな、あの挑戦がなけりゃ、俺は今でも後悔で眠れなかっただろう。止めても無駄だったと思うし、誰の忠告も聞かなかったろうな」

 

 モーリは喉の奥が詰まるのを感じ、唾を飲み込んだ。

 

「推薦の話、聞いてるぞ。タマムシ大学の」

 

 ヤマサキはじっとモーリを見据えた。薄暗い通路でも、その瞳が放つ鋭さだけははっきりと分かった。

 

「で、受けるのか?」

 

 その問いに、モーリは即答することが出来なかった。その権利を有していること、そして、その選択を悩んでいることは、それを知られるだけで軽蔑されかねないような気がしていたのだ。

 

「正直、まだ迷ってます」

 

 だが、モーリは正直に答えた。嘘をついても、この人には通じないだろう。ヤマサキは軽く笑った。

 

「贅沢なこった。ウチのカザなら話が来た瞬間に受けてるだろうよ」

 

 だが、彼はそれを意外には思っていないようだった。

 

「推薦を迷うってことは、心のどこかに八つ目のバッジとリーグ挑戦がちらついてんだろ?」

 

 その言葉にモーリは軽く肩を揺らした。見透かされている。

 

「その目だ。お前はそっちに惹かれている」

 

 ヤマサキは短く息を吐く。

 

「当たって砕けるのは勝手だが、リーグの世界はお前が思ってるほど甘くないぞ。覚悟はしておけ」

 

 その言葉に、モーリは一瞬反論しかけた。

 それは知っているはずだった。挫折の辛さを知っていることを彼は主張しようとした。

 しかし、彼はそれを飲み込んだ。八つ目のバッジを挫折した自分と、リーグそのものを挫折したヤマサキ、その差は大きいだろう。

 

 突きつけられた現実にわずかに沈黙しながら、モーリは答えた。

 

「はい」

 

 モーリは小さく頷き、目線を落とす。

 

「カザにもいくつか推薦が来てるが、俺が止めてる。あいつは後先考えずに即決するだろうからな。正直、あいつには並みの推薦じゃ足りない。俺はもっと上に行けると確信してる」

 

 ヤマサキの声には、自信と確信が滲んでいる。それがモーリの心を微かに刺激した。

 

「まあ、お前がいなけりゃ、カザの代はもっと楽にインターハイに行けたはずだったんだ」

 

 ヤマサキが視線を逸らさず続ける。

 

「でもカザがここまで来たのはお前のおかげだよ。あいつがキャプテンとしてあいつなりに責任感を持って周りをまとめようとしてるのは、とんでもない成長だよ。それだけは感謝する」

 

 思いがけない言葉にモーリの心臓が跳ねた。ヤマサキの瞳には、静かな真剣さが宿っていた。

 

「止めろとは言わん。ただ、挑戦するなら覚悟だけは置き忘れるな。削られるぞ。ポケモンも、自分自身も」

 

 モーリは胸ポケットに手をやり、モンスターボールに軽く指をかけた。ひんやりとした感触が胸の奥に広がる。

 

「それでも、自分が納得できる形で、最後まで挑みたいんです。その道を、探したい」

 

 ヤマサキは満足そうに小さく頷くと、ふっと表情を緩めた。

 

「どうしてもしんどくなったら、うちでコーチやれよ。チンピラの教育係だ」

 

 モーリも口元を緩め、軽く冗談を返した。

 

「じゃあ、そのときはユニフォームだけは好きに選ばせてください。正直、リオーのユニフォームダサいですよ」

「調子に乗るな。まあ、ユニフォームについては同感だが。私立の辛いところだな」

 

 ヤマサキは小さく笑い、壁から背を離すと軽く肩を叩いた。

 

 ふたりが通路を戻ると、フィールドではすでに練習試合が終わり、リオー高校のメンバーだけで行われる合同練習の準備が始まっていた。カザのシザリガーが水浴びを終え、スタッフがコーンやボール台を並べている。その脇でカザが腕を回しながら何人かの後輩に声をかけていた。

 

 モーリはそれを横目に歩きながら、胸の奥で静かに問いかけた。

 

 あいつらはもう次のステップに進んでいる。

 

 さて、俺は。

 

 

 

 

 月曜日の放課後、部活がすべて終わったあと。ポケモンバトル部の部室には、偵察に行った五人と、レギュラーメンバー、それに顧問のサイトーが顔を揃えていた。

 

 扉が閉まる音とともに、サイトーが軽く笑いながら口を開く。

 

「しっかりバレてたらしいじゃねーか」

 

 モーリが無言で視線を伏せる横で、セラがぴくっと背筋を伸ばし、コウヌは椅子ごと縮こまるように肩をすぼめた。

 

「えっと、でも、あの、練習まで見せてくれました!」

 

 場の空気をなんとか変えようと、スズモトが勢いよく手を挙げてアピールする。

 

「ほんとっス。むしろバレてからのほうが見やすかったっス」

 

 コウヌも続けて笑顔を作るが、すぐにサイトーの視線に気圧されて目を逸らした。

 

「ヤマサキさんから連絡きた時は、ちょっとヒヤッとしたけどな。まあ、いい経験になったろ」

 

 サイトーはそう言いつつも、どこか諦め半分の表情で腕を組んでいる。体育会系らしい短気さと、部員への甘さが同居したような雰囲気だった。

 

「まあ、得るもんがあったなら許してやる。報告、頼むぞ」

 

 促され、モーリが前に出て小さく咳払いをした。

 

「えー……順番に報告します。まず、新人チームの方から。先鋒のレントラーについて。パワーとスピードで押す構成でしたが、三試合とも同じ戦術で、パターンはかなり固まってます」

 

 セラがノートを開き、すらすらと技構成と交代タイミングの傾向を述べていく。内容は的確で、知識と観察力の高さが際立っていた。その横で、スズモトがホワイトボードに勢いよくペンを走らせていた。

 

「で、副将のニューラがこれで、大将のキノガッサがこれで」

 

 カツカツカツ、という音とともに現れたのは、やたら筋肉隆々なシザリガーのイラストだった。

 

「情報じゃなくて落書きじゃないですか」

 

 セラが呆れたように呟くと、ムラナカがくっくっと笑いを堪えて肩を揺らす。

 

「でも、妙に説得力あるよね。あのシザリガー、パワーすごいし」

 

「副将のニューラは、スピードと奇襲技が特徴でしたけど、コウヌ先輩、なんか他に気づいたことありました?」

 

 セラの問いかけに、コウヌはきょとんとした顔で答える。

 

「え、ああ、爪、すっごい綺麗だったッス。あれは多分こだわって手入れしてますね」

 

 沈黙。

 

「他にないんですか?」

 

「いや、もう爪しか見てなかったっていうか」

「おまえはスカウトか」

 

 モーリのぼやきに、また部室内が笑いに包まれる。

 

「キノガッサについては『ちょうはつ』で展開を止めるのが有効だと思われます」

 

 オーアサが静かに口を開いた。姿勢を正し、わずかに眼鏡を持ち上げる仕草に、場が一瞬引き締まる。彼女の冷静な分析力はセラと並び、知識面では部でも群を抜いている。

 

「ブーピッグなら先手が取れますので『ちょうはつ』で眠らされる前に封じる動きが狙えます」

「そうですね、キノガッサに対して先手を取れるかどうかはメンバー選出の基準にしても良いかもしれないです」

「速さが足りなくても特性で眠りを防げたり、くさタイプのポケモンであれば『キノコのほうし』を防げるのでそこを基準にしても良いかもしれません」

 

 理論派のオーアサに物怖じせず意見するセラに、タケダが思わず感心して息を吐く。

 

「セラちゃん次から作戦会議出てほしいくらいですぅ」

 

 純粋な称賛には慣れていないのだろうか、セラが目を逸らしかけた瞬間、サイトーが手を叩いて締めに入る。

 

「よし、十分伝わった。お前ら、よくやった」

 

 部員たちが安堵したのも束の間、サイトーがひときわ鋭い視線をコウヌに向ける。

 

「で、女子に見つかって囲まれたってのは、何の訓練だったんだ?」

 

 コウヌが手を振りながら笑い出す。

 

「いやぁ、あれは予想外だったっスね。目立たない服でいったんスけど」

 

 モーリが呆れたように眉をひそめる。

 

「お前は次の偵察から外す」

 

 コウヌは頬を掻いて笑った。部室の空気は軽く、しかし確かにひとつ、まとまりを増していた。




次回は7/14 8:01に投稿予定です

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