『蝋塗れの手で』~元ガチ勢の俺が、ぬるま湯バトル部に入った結果、皆と「課題」に向き合うことになった話~   作:rairaibou(風)

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39-未来の手前で

 六月の終わり、梅雨の晴れ間。曇りがちだった空にようやく陽が射しはじめ、開け放たれた窓から吹き込む湿った風が、教室のカーテンをやわらかく揺らしていた。

 

 風はどこかぬるく、雨の名残を含んだような匂いを運んでくる。

 その風に乗って、近くのグラウンドからはかすかに部活動の掛け声が聞こえていた。

 

 夏の気配は確実に近づいていたが、まだ本格的な虫の声には早い。季節の端境にあるような、そんな静けさとざわつきが、校舎のあちこちに漂っていた。

 

 

 

 

 

 

 午後の授業が終わりに近づく時間帯、三年生の教室はいつもとは少し違うざわつきを見せていた。

 

 黒板脇には『進路希望調査 第ニ回』や『三者面談日程一覧』の掲示が貼り出され、教卓には厚みのある封筒が並んでいる。席のあちこちでは、すでに面談を終えた生徒たちが感想を語り合っていた。

 

「うちの親、担任とずっと笑って話しててさあ、面談っていうか同窓会だったよ」

「いいなー。うちの親、ずっとため息ついてた。まあ、あの成績じゃ仕方ないんだけどさ」

 

 そんな声を遠巻きに聞きながら、モーリは自席で静かに資料に目を通していた。彼の面談は明日、金曜日の最後の枠。時間を多く取りたいという担任の配慮に加え、遠方から母親が来るという事情もあるらしい。

 

「なあなあ、モーリ」

 

 隣の席で肘をついていたミマが、ひょいと顔を寄せる。

 

「お前の母ちゃん、明日来るんだろ? ちょっと見てみたいんだけど」

 

 モーリは苦笑しながらプリントを畳んだ。

 

「見せもんじゃねえぞ」

「えー? だってさ、カントーからわざわざ来るんだろ? 気になるって」

 

 そのやりとりに、前の席の女子がちらりと振り返ってくすりと笑った。

 

 モーリは話題を変えるようにミマを見やる。

 

「で、お前はどうだったんだよ。進路」

 

 ミマは一瞬きょとんとしたが、すぐににやっと笑って答えた。

 

「俺? 消防士。試験勉強してる」

 

 モーリは思わず顔を上げた。ミマの口からあっさりと出たその答えが、想像していたものとあまりに違っていたからだ。消防士という、責任のある職業。その言葉がこの教室で自然に出てきたことに、少なからず驚きを覚える。

 

「マジか」

 

 ミマは照れ隠しのように首をすくめ、口の端を引きつらせながら苦笑いを浮かべた。目をそらしつつ、机の端を指先でとんとんと叩いている。

 

「なんか、助けたいじゃん、人を。俺、バカだけどさ、そういうのだけは昔から思ってたんだよね」

 

 軽く笑いながら言うその言葉に、モーリは少しだけ目を見張る。

 

 くだらない話ばかりしていたはずの友人が、思いのほかしっかりとした『志望』を持っていることに驚き、そして、自分の中に淡く広がる焦燥を感じた。

 

 机に肘をついて窓の外を見る。

 

 ゆるやかな陽の光に、風に揺れる木の葉がきらきらと光っていた。

 

「明日か」

 

 モーリはぽつりとつぶやいた。

 

 進学、リーグ、推薦、あるいはまだ言葉にならない何か。どれもが現実味を帯びているのに、どこかしっくりこない。周囲がどんどん次の道を固めていくなか、自分だけが立ち止まっているような感覚。

 

 頭の中では何度もシミュレーションしてきた。けれど、そのたびに思考の終点が見えなくなる。進む先を決めるには、何かが足りない。あるいは、決めるための言い訳がまだ見つからないだけかもしれない。

 

 そんなことを思いながら、モーリは曖昧に視線を落とし、指先で机の木目をなぞった。

 

 

 

 

 木曜日の夕方、モーリは学校から祖父宅へ戻ってきた。

 気温はまだじっとりとした湿気を残していて、制服の襟足がじわりと汗を吸い込んでいるのがわかる。

 陽はすでに傾き始めており、軒先の影が長く伸び、アスファルトに濃い影を落としていた。

 空の色は柔らかな茜に染まり、遠くで鳥ポケモンが数羽、鳴き交わす声が聞こえる。

 

 門扉を開けて玄関に入ろうとした瞬間、家の裏手から聞き慣れた鳴き声と、それに応じるような人の声が耳に届いた。

 

「はいはい、かっこいいかっこいい。今日も威張ってて立派ねぇ」

 

 足を止めて、そっと庭の方へ回ってみる。

 

 そこには、サンダル履きのエミが背を伸ばしながら、ガブリアスの頬を両手で挟み、「よしよし」と撫でている姿があった。

 ファイアローはその傍らで羽をばさりと広げ、エミの肩に乗ろうとしては注意され、またすぐに頭を擦り寄せる。

 

「なんで人のポケモンに先に会ってんだよ」

 

 モーリは苦笑混じりに声をかける。

 エミは振り返り、にっこりと笑った。

 

「モトマサよりずっと素直よ、この子たち」

 

 その返しに、モーリは「はいはい」と目を逸らしながらもどこか嬉しそうに笑う。

 

 エミはふと立ち上がり、ガブリアスとファイアローに視線を送りながら手をパンと叩いた。

 

「ねえ、ブニャットは? あの子も見たいわ。出してよ」

「今からかよ」

「久しぶりなんだから、顔くらい見せなさい」

 

 モーリは少し眉をひそめつつも、言い返せずにモンスターボールを取り出す。

 

「はいはい」と言いながら、そっとボールを開いた。

 

 ブニャットが現れた瞬間、エミの顔がぱっと明るくなる。

 

「あらまあ、元気そうでなにより!」

 

 エミは勢いよくブニャットに駆け寄ると、両手でそのふさふさした首元をわしわしと撫で始めた。

 左右に揺れる豊かな毛並みが風に揺れて、ブニャットは最初こそわずかに抵抗の気配を見せたが、やがて観念したように目を細めて撫でられるままになった。

 

「ほらほら、かわいいわよぉ、相変わらずふくふくしてて気持ちいいわねぇ」

 

 ブニャットは不満げな顔でモーリの方をちらりと見たが、モーリは肩をすくめて「諦めろ」と小声で返す。

 

 母親とポケモンたちのこういう姿は、これまでにも何度も見てきたはずだった。けれどこの瞬間、不意にひとつの思いが胸をよぎった。

 

 きっと、母さんのほうが、自分よりもずっと早くに、彼らを『ポケモン』というよりも、『生き物』としてちゃんと尊重していたのかもしれない。

 

 その考えは、モーリの心に小さなざらつきと、奇妙なあたたかさを残した。

 

 エミは「さ、汗だくで帰ってきたでしょ。顔洗っておいで」と手を振ると、ファイアローに「またあとでね」と囁きかけて立ち上がった。

 

 

 

 

 家に入ると、玄関の香りがわずかに変わっていた。掃除機をかけた後のようなすっきりした空気に、ほのかに漂う出汁の香りが混じる。モーリは靴を脱ぎながら、家の空気がいつもよりもやさしく感じられることに気づく。

 

 廊下を抜けて自室の戸を開けると、そこには見慣れた風景のはずが、どこか違っていた。

 散らかしていた資料やトレーナー用具がきれいに整頓され、机の上にはきちんと重ねられたノートと、さりげなく置かれた冷たい麦茶の入ったコップがあった。

 

 モーリはそのまま部屋を見渡して、小さくため息をついた。

 

「やったな」

 

 モーリは小さくつぶやいて、部屋の真ん中に立ったまま鞄を置いた。その時、背後から足音が近づいてくる。

 

「どう? ちょっとはマシになったでしょ」

 

 振り返ると、エミが片手にタオルを持ったまま立っていた。

 

「教科書あれだけ積んで、どこの廃墟かと思ったわよ。あのままじゃ地層になってたわ」

 

 モーリは肩をすくめ「まあ、助かったよ」と苦笑する。

 マットレスの下に隠していた何冊かの本は見つかっていないようで、ひとまずホッとする。

 彼は顔をしかめながら、鞄を下ろしつつも、どこか笑みを堪えていた。

 

 

 

 

 夕飯時、テーブルにはモーリの好物がずらりと並んでいた。甘辛く煮込まれた肉じゃが、たっぷりと野菜の入った味噌汁、そして彼が好きな焼き物に、白くてふっくらとしたご飯。

 エミはエプロン姿で、手際よく味噌汁をよそいながら口を開く。

 

「部活ではどうなの?」

 

 味噌汁の香りが湯気となって立ちのぼる中、エミの声は柔らかくも、どこか気遣いのにじんだものだった。

 

「まあ、ぼちぼち」

 

 モーリは湯気の向こうから答え、箸を手に取る。

 

「友達とは? うまくやってるの? あんた、昔から無理に合わせる子じゃないし」

 

 口調は軽いが、言葉の端々に心配がにじんでいる。モーリは一瞬箸を止めて、それからゆっくりとご飯を口に運んだ。

 

「心配すんな。仲間はいっぱいいるよ」

 

 その言葉に、エミは目を細めるように微笑んだ。

 

「それならよかった」と呟くように返し、静かに味噌汁を啜った。

 

 湯気が二人の間をふわりと舞い、台所の明かりがあたたかくテーブルを照らしている。

 

 いつも通りの母、少し騒がしくて、干渉したがるくせに、最終的にはこちらを信じてくれる。そういう存在が、明日の面談を控えるモーリの心を、少しだけ軽くさせていた。

 

 

 

 

 放課後のチャイムが鳴り終わったあと、モーリは教室の自席でゆっくりと鞄をまとめた。静かに席を立ち、椅子の音がカラリと床に響く。

 生徒たちはまばらに帰り支度をはじめていて、すでに半分ほどの席が空いていた。

 

 廊下の窓からは夕陽が傾きはじめ、教室の床にも柔らかな橙色が差し込んでいる。

 その光に照らされた紙の端や机の上が、少しだけ眩しく見えた。

 

 廊下から聞こえてくるのは、控えめな笑い声と、保護者の足音。

 面談に来た家庭の父母たちが、受付を済ませて次々と校内に入ってくる気配がある。

 少しだけ張り詰めた空気。普段の放課後とは異なる静かなざわめきが、四階の廊下に漂っていた。

 

 モーリは鞄のジッパーを閉じながら、小さく息をついた。

 

 ざわついた空気の中を出て、モーリは教室前の廊下を見渡す。

 四階の踊り場の壁際、窓から夕日が差し込む一角に、エミの姿を見つけた。

 

 地味すぎず、派手すぎず。落ち着いたベージュのジャケットに、少し都会的なカバン。

 どこかこの校舎の空気とはリズムの違う、浮いているようでいて、きっちりと場に馴染んでしまっている不思議な存在感。

 

 エミは何かをぼんやりと眺めているようだったが、モーリの足音に気づいてすぐに振り返った。

 

「モトマサ!」

 

 少し声が大きかった。近くを通りかかったクラスメイトがちらりと二人を見やる。

 

「声でかいって」

 

 モーリが目を伏せてぼやくと、そのタイミングでさらに一人の生徒が通り過ぎざまにぽつりと漏らした。

 

「え〜、お母さん美人じゃん」

 

 エミが振り返り「あら〜、ありがとう」と軽く手を振る。

 モーリは額に手を当て「頼むから静かにしててくれ」と低く呟いた。

 

 エミはすぐに話題を変えるように、手を合わせて言う。

 

「あの一階にあった大きい絵って、あれ、あんたでしょ?」

 

 モーリは壁を見ずに答える。

 

「ああ、ムラナカのやつ」

「絵を描いてもらったなら、言ってよ〜」

 

 エミはややふてくされたように言いながらも、目を細めて絵を見つめている。

 

「今日初めて知ったのよ。教室に入る前に見かけて、びっくりしちゃった。終わったら、またちゃんと見に行きましょうね」

 

 モーリは一瞬言葉に詰まり、やがて小さく頷いた。

 

 二人は並んで歩き出す。四階の廊下は夕焼けに染まり、窓から差し込む光が床に長く影を落としていた。

 

「担任の先生って、厳しそうな人?」

「まあ、普通かな」

「そっか。あたし、ちょっと緊張しちゃって」

「俺のほうがされる側なんだけど」

 

 そんなやり取りをしながら、エミがふと窓の外を指差した。

 

「ねえ、あの向こうに見える建物、部室棟?」

「うん。あれがポケモンバトル部の部室」

「へえ、意外と立派なのね」

 

 ガラス越しに遠くのグラウンド隅を見ながら、エミは感心したように頷いた。

 

「今度、こっそり覗いてみようかしら」

「やめろよ、マジで」

 

 モーリが真顔で牽制すると、エミは肩をすくめて笑った。

 

「見るだけよ〜」

 

 

 

 

 空き教室の扉をノックすると、ほどなくして内側から「どうぞ」という声が返ってきた。

 

 モーリが扉を開け、先にエミが一礼しながら入室する。中には担任の男性教師が待っていた。普段は冗談交じりの物腰柔らかな教師。だが、今は表情を引き締め、きちんとした姿勢で二人を迎える。

 

「遠方からありがとうございます、お母さま。わざわざお時間をいただいて」

 

 穏やかな口調だが、声には教師としての礼儀と真剣さがにじんでいた。

 

「いえいえ、こちらこそ。こうして直接お話できる機会、ありがたいです」

 

 エミが頭を下げ、モーリも続いて一礼する。三人は机を囲むように座ると、担任は手元のファイルをめくった。

 

「まずは、モーリ君の学校での様子からお伝えしますね」

 

 担任はゆっくりと視線を上げると、モーリとエミの両方を見ながら話し出す。

 

「彼は非常に、人間性にバランスの取れた生徒さんです。クラスでは自然に馴染み、友達とも冗談を交わし、かといって騒ぎすぎるわけでもなく。勉強でも運動でも安定していて、なによりトラブルが本当に少ない」

 

 そこでふと、言葉を止めた。

 

「こういうタイプの子は、正直、滅多にいません。特に彼のように部活で結果を出していれば、大なり小なりエゴというものが出てくるものです」

 

 エミはその言葉に小さく目を丸くした。

 

「昔から、そういう子ではありましたけど。そう言っていただけると、嬉しいです」

 

 担任は微笑んだあと、資料を一枚取り出す。

 

「次に、進路についてのお話をします。すでにお伺いでしょうが、彼はポケモンバトル部での活躍から、タマムシ大学ポケモンバトル部に勧誘を受けており、推薦受験が可能な立場にあります」

 

 モーリがわずかに眉を動かすのを、担任は見逃さなかった。

 

「もちろん、タマムシ大学への推薦には共通テストで一定の成績を収める必要はあります。でも、彼の実力ならば、それは十分に届く範囲内です」

 

「加えて」と、声をひとつ落とす。

 

「いくつかのカントー地方の有名私立大学からも、推薦の打診が来ています。これらは共通テストの足切りがなく、進学そのものは非常に容易です。ですが、私は、彼にとってより挑戦しがいのある進路として、タマムシ大学を推しています」

 

 エミがうんうんと頷く中、担任はふと表情を引き締めた。

 

「少し、個人的な話をしてもいいですか」

 

 二人が頷いたのを確認してから、担任はゆっくりと言葉を紡いだ。

 

「私は若い頃、野球をやっていました。高校まで、本気でプロを目指してた。夢でした。でも、叶いませんでした」

 

 その言葉には、飾らない率直さがあった。

 

「本当に突き抜けた人間っていうのは、学校もすっ飛ばして、もう子どもの頃からプロの道に入る。野球も、将棋も、リーグトレーナーの世界もそう。異常な集中力と才能で、学校教育とは無縁の『そんなものはノイズである世界』に行くんです」

 

 一拍置いて、続ける。

 

「でも、モーリ。君は、そういう『飛び抜けた存在』ではない。もちろん、君が努力してここまで来たことは誰よりも知ってる。だが、もし君がそういう存在であったのならば、今君は、ここにはいないはずだ。だから『飛び抜けた存在』じゃないからこそ、僕は君に、大学という選択肢を勧めたい」

 

 モーリは黙ったまま、目を伏せていた。

 

「大学で過ごす時間は、必ず君の力になる。君はきっと、何を選んでも成功できる資質を持っている。だからこそ、今ここで、将来のための土台を作っておいてほしい。この発言で君たちに嫌われてもいい。ですが、私はそう思っています」

 

 しばしの沈黙が流れたあと、エミが口を開いた。

 

「私は、この子が決めたことなら、なんでも応援したいと思ってます。夫も、同じように言っていました」

 

 担任は穏やかな表情を取り戻し「頼もしいですね」とひとこと添えた。

 

 モーリは、ややうつむいたまま口を開いた。

 

「まだ、決めてません。でも、考えてます」

 

 担任はモーリの言葉をしばらく噛み締めるように聞いていたが、やがてゆっくりと頷いた。

 

「うん、それでいい。焦って決めることじゃない。ただ」

 

 彼は背筋を少し伸ばし、柔らかな口調をわずかに引き締める。

 

「時間は、永遠にはあるわけじゃない。推薦の期限までは、もうすぐそこだ。考える余白はあるが、判断を先送りにしすぎると、選択肢そのものが狭まっていく」

 

 机に置かれた進路資料に軽く手を置いて、目線をまっすぐモーリに向ける。

 

「だからこそ、考えるなら全力で考えてほしい。今ここで『まだ決めてない』と言った、その重みもまた、本物であってほしい」

 

 

 

 

 面談室の扉が静かに閉まったあと、モーリとエミは無言のまま廊下に並んだ。

 

 四階の窓から差し込む夕陽が、床に二人の影を長く伸ばしている。教室のざわめきは既に遠のき、校舎にはゆっくりとした放課後の空気が流れていた。

 

 モーリの胸の奥には、言葉にできないもやが渦巻いていた。面談で担任が語ったすべての言葉、推薦、大学、未来。現実味を帯びた進路の話は、夢の輪郭を少しずつ削ってくるようで、彼の思考を鈍く重くさせていた。

 

 沈黙を破ったのはエミだった。

 

「すごく、しっかりした先生だったね」

 

 声は穏やかで、どこか感心したようでもあり、少しだけ安心しているようでもあった。

 

「そうだね」

 

 モーリは短く返しただけだったが、その声音には、何かを噛みしめるような深さがあった。担任の言葉を否定する気にはなれなかった。どれも正しく、現実的で、たしかに優しさに満ちていた。だが、その正しさが苦しかった。

 

 二人は階段を降りていく。足音が、静かな校舎に柔らかく響く。モーリはうつむきがちに歩きながら、心のどこかで、この校舎の匂いがいつか懐かしく感じる日が来るのだろうかと考えていた。

 

 やがて一階の踊り場に差しかかったとき、エミの足がふと止まった。

 

「あ」

 

 視線の先には、大きな一枚のレプリカが掲げられている。モーリとブニャットを描いた、ムラナカの絵だった。

 

 エミはしばらく黙ってその前に立ち、ゆっくりと目を細める。

 

「いい絵ね。家に飾りたいぐらい」

 

 ぽつりとこぼれた言葉は、ただの感想ではなく、どこか確信のような響きを帯びていた。

 

 モーリは黙ったまま、横に立って同じ絵を見つめた。何度も見たはずのレプリカなのに、今はなぜか別のもののように感じられる。面談のあとで見るそれは、まるで誰かが静かに背中を押してくるようだった。

 

「私はね、納得できるのよ。この絵に」

 

 エミは絵から目を離さず、淡々と、けれどあたたかく語る。

 

「モトマサがいて、ニャーちゃんがいて。その周りに、あなたの人生がある」

 

 その言葉に、モーリはわずかに肩を揺らした。自分が『描かれた』理由を、まだ完全には理解していない。

 それでも、その絵に映る自分は確かにそこにいて、母の目にはこう見えているのだという事実が、静かに胸に染み込んでいく。

 

「モトマサがカントーを離れたいって言ったとき、あたし、心配だったのよ。成績とかじゃなくて。友達、できるのかなって」

 

 それは初めて聞く言葉だった。モーリは横目でエミを見るが、彼女はただ絵を見たまま、微笑を浮かべている。

 

「でも、良かった。いい友達ができたのね」

 

 モーリの目に、一瞬だけ光が揺れた。ムラナカ、スズモト、タケダ、そしてカザ。

 誰の顔も浮かぶ。

 あいつらがいたから、ここまで来られた。それを母親に肯定されたことが、なぜかたまらなく嬉しかった。

 

 その言葉に、モーリは小さく息をついた。そして、ごく自然な動作で口を開いた。

 

「帰ろうか」

 

 エミはゆっくりと頷き「うん」とだけ答えた。

 

 夕暮れの廊下を、二人の影が並んで伸びていった。その影は長く、静かに、校舎の奥へと続いていた。




次回は7/16 8:01に投稿予定です

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