『蝋塗れの手で』~元ガチ勢の俺が、ぬるま湯バトル部に入った結果、皆と「課題」に向き合うことになった話~ 作:rairaibou(風)
豊かな緑の中に、のどかな時の流れが漂っている。ニョロモやハスボーが湖畔で戯れ、スバメやポッポの優しい鳴き声が木々の間から聞こえてくる。
ここはサファリパーク、今は誰もいないがいずれはゆっくりとした足取りで散策する家族連れや若者たちが、ポケモンたちを静かに眺めるのだろう。この自然に包まれた空間で、誰もが心を落ち着かせることができる。
はずだった。
「全く捕まりませぇん!」
文字通り尻尾を巻いて逃げ出したカクレオンを目で追いながら、その少女、タケダは天を仰いだ。
きっと高級であろうブラウスはすでにシワと泥にまみれ、片方の裾はハイウエストパンツから飛び出している。髪に指した髪飾りはするりと抜け落ちそうだ。
「ここまで来ると才能だよこれは」
その長い両手いっぱいにサファリボールを抱えたムラナカは、思わずため息をつきながらそう言った。
「ボールが当たるとかどうかじゃないもんな」
モーリもまた、眼の前の惨状に頭を抱えそうになったが、自身がムラナカと同じく両手いっぱいにボールを抱えていることを思い出し、それをやめた。
そして、彼はすぐそばの草むらがガサガサと揺れていることに気づき「あそこにいるよ」と、タケダに伝える。
「ああ、次こそ! 次こそゲットします!」
すぐさまにモーリからサファリボールを受け取ったタケダは、ぐいとその方に体を向ける。
草むらから現れたジグザグマは、サファリパークのポケモンらしくじっとタケダの方を見ていた。
「それ! 当たってくださぁい!」
タケダの右腕から放たれたサファリボールは、何故か彼女の真下に叩きつけられ、軽い音を立てながら力なく転がる。
「ああ! まだ、まだ投げられます!」
今度はムラナカからボールを受け取った彼女は、今度は下からそっとそれを投げてみる。
だがそれは今度はポーンと真上に放たれたかと思うと、「ああ!」とそれを追って視線が上に向いた彼女の額に落ち、強かに打ち付けた。
「あいたあ!」
両手で額を抑えながらタケダはその場にしゃがみ込む。
ジグザグマはそのような人間の様子に呆れたように首を振りながら、再び草むらに戻っていった。
「タケちゃん! 大丈夫!?」
スズモトが彼女に駆け寄り、肩から駆けていたクーラーボックスから冷えたタオルを取り出して彼女の額に当てた。
「うう、助かりますぅ」
「一旦、休憩にしようか」
バトル部の顧問であるサイトーが、ちらりと腕時計を見やりながら提案した。衝撃に強いそのデジタルが嘘をついていないのならば、すでに一時間と半分ほどこんな事を続けていることになる。
「お昼にしましょう! 私、サンドイッチ作ってきました」
「そうだな、しかしタケダ、今日はこのくらいにして学校でキャッチボールの練習から始めるのもいいと思うぞ」
サイトーのその提案に、ムラナカとモーリはうなづいていた。
そりゃもちろん、ここはサファリパークなわけだから多少モンスターボールを投げることが下手でもポケモンはゲットすることができるかもしれない。
しかし、それを加味したとしても、タケダの投擲能力、ざっくりと言ったところの運動神経のなさは壊滅的であった。
まずはキャッチボール、というより、体を動かすことに慣れてからのほうが良いかもしれない。
だが、タケダは額を抑えながら首を振ってそれを拒否した。
「いいえ! これ以上皆様の時間を奪うわけにはいきませぇん! 必ず! 必ずポケモンさんをゲットしてみせますぅ!」
それは、あの壊滅的な投擲能力との付き合いがもっと長くなるということであった。
どうしてこうなった、と、モーリとムラナカは顔を見合わせた。
☆
「おお、お前らちょうどよかった」
ある日の放課後のことであった。
スズモトに招集されたモーリとムラナカが三人で廊下を歩いているところをサイトーが呼び止めた。
「お前らに紹介したい子がいてな」
そう彼らに伝えたサイトーのそばにいた一人の少女が、彼らに頭を下げる。
その所作があまりにもゆったりとしてたものだから、彼らも合わせるようにゆっくりと頭を下げた。
「始めまして、わたくし、タケダと申します」
「あれ、確かウチのクラスだよね」
「はいぃ、そうです」
声を上げたのはムラナカだった、彼がそういうのならば、彼女は三組ということになる。
「あの、あなたがモーリさんでいらっしゃいますか?」
男が二人、女が一人、そのうち男の一人が同じクラスのムラナカであるということは自然に残る一人がそうであるという単純な引き算を攻略し、ほとんど確信を持って彼女は問うた。
「そうですよ」と、つられて敬語で答えたモーリに、彼女は表情をぱっと明るくさせ、一歩彼に踏み込んでその両手を握った。
「まあ嬉しい、あなたがポケモンさんと共に野生のポケモンを討伐して学生を守ったと聞いてからひと目お会いしたいと思っていました」
「あ、ああ、どうも」
「ありがとうございますぅ」
のんびりと手を離されたモーリは、彼女のペースに飲まれきっていた。
「ポケバト部に入りたいとのことだ」
「ええ! ホント!?」
それに嬉しげな声を上げたのはスズモトだ、確かに、もう一人部員が入るとなると先輩と合わせてちょうど五人となる。団体戦にフルメンバーで出場できるからだ。
「はいぃ、実はモーリさんのご活躍をお母様にお伝えしたところ『お前も自分の身を自分で守れる人間になりなさい』と言われまして」
「それお母さんのほうが言うの?」
「はいぃ、わたくしも実にその通りだと思いまして、ぜひともポケモンバトルの手ほどきをしていただきたいと。なんでもモーリさんは地下ポケモンバトルのチャンピオンだとか」
「いやそれはすごい嘘だから」
「と、言うことだ、極めて健全な動機だな」
「まあ、確かに」
モーリは納得しながら彼女の腰回りに視線を落とした。決して思春期男子の本能によるものではない。彼女がポケモンバトルに興味があるのならば、ボールがあってもおかしくなかった。
しかし、そこにボールはなかった。
「手持ちのポケモンは何なの?」
そう問うモーリに、タケダは「いいえぇ」と首を横にふる。
「わたくし、ポケモンさんは持っておりません」
「持ってないの?」
思わずそう突っ込んだムラナカに、彼女は不快感を覚えること無く頷く。
「はいぃ」
「まあ、このへんでは珍しくないか」
「ですが、もうお父様とお母様にポケモンさんをゲットする許可はいただいております」
口元に手をやり笑って続ける。
「お父様は『今すぐに超強いドラゴンポケモンを与えてやる』とおっしゃりましたが、お母様が『自分のパートナーは自分で見つけるものだ』とおっしゃり」
「お母さんのほうがスパルタだよねさっきから」
「わたくしも、お母様のその言葉に感銘を受けましたぁ」
「君お母さん似だね」
「なので、まずはポケモンさんとお友達になるところから始めようと思います」
「えーそうなんだ! タケダちゃんならきっとポケモンと仲良くなれるよ!」
特に根拠なくスズモトがそう声に出したが、なんとなくそうだろうなとムラナカも思った。
だが、モーリは少し気まずそうに言った。
「だけど、タケダさん一人でこの辺の野生のポケモン捕まえるのはちょっと危険なような」
それはそのとおりであった。彼がそう思ったように、タケダはゆっくりおっとりマイペース、とてもではないが野生の速さについていけるとは思えない。
同じくそう思ってるのだろう、サイトーもそれに頷きながら提案する。
「私もそう思った。だから、今度の週末にサファリパークに行こうと思う!」
ええ、と、三人はそれに言葉を上げる。
「サファリパークって、あの、東にできるという?」
「ああ! そのサファリパークだ!」
「まだプレオープンで一日に数組しか入れないという?」
「ああ! そこだ!」
「どうしてそんなところに入れるんですか?」
「私の兄が責任者の知り合いでな! 事情を説明したらぜひともということだった」
スズモトはワッと、ムラナカも少しテンションを上げているようだった。
モーリも表情にこそ表さないが、彼らのテンションの上がりように少し心躍らせていた。
「また連絡するが、当日は朝に校門前に集合だ。私が車を出すため人数が限られるから一年だけで行く。野外学習だぞ野外学習!」
何故かサイトーも嬉しげであった。初めて体育会系の部活っぽいことができて心より楽しいのだろうか。
☆
サファリパーク内にある東屋にて、彼らとそのポケモンは軽食を持って休憩していた。
ブニャットはモーリから少し離れて、サンドイッチを前足で押さえながら齧り付いている。
エビワラーはムラナカのすぐとなりでサンドイッチを両手で掴んで食べていたし、スズモトのフシギダネはサンドイッチを一口のみ食べ、後は日の当たる場所で日光浴でまどろんでいる。
「あの、のろまでごめんなさいぃ」
小さくちぎったサンドイッチを必要以上に咀嚼、飲み込んだ後に、タケダはそう呟いた。
そこはただサファリパーク内にあるだけの東屋であったが、彼女がいるだけでなんとなく雅な会食であるように見えるのが不思議である。
「そんなことないよ!」と、スズモトは返した。
もちろんそれは彼女のそのような言葉に対する返答として褒められるものであっただろう。社会的倫理観からすればそう答える他無い。
だが、モーリとムラナカが無責任にその返答ができなかったことと、あくまでポケモンバトル部のマネージャーという立場であるスズモトがそう返答できたことは、彼らのポケモンに対するスタンスの違いがあっただろう。
「いえ、わたくしも自分の性分というものはわかっています。子供の頃からずっと一歩遅れていましたから」
「まあ、実際タケダの体育の成績はあまり良くないのは間違いない」
その卑下をあまり否定することも良くないと思ったのだろう、サイトーは自身の知る限りの彼女の体育の授業風景を思い出す。確かに、太っているわけではないが、身軽というわけでもない、何なら学年一の巨漢であるコニシよりも反復横跳びの成績は悪かった。
「その代わり、学業は優秀だ」
「そうなんですか」
「ああ、学年でもトップだよ」
「やめてくださいぃ、恥ずかしい」
「恥ずかしいことじゃないよ! すごいじゃん!」
「そういうものだ、人間、得意なことがあれば不得意なこともある。得意なことで人を助け、不得意なことで助けてもらう。社会とはそういうものさ」
そのまま、欲望のままにサンドイッチに食らいついたサイトーは、数度の咀嚼の後にそれをペットボトルのお茶で流し込んだ。
「恥ずかしい話だが私は全く逆でな、運動は学年一だったが勉強の方はからっきしだった」
「ああ、なんかそれは、そうっぽいですね」
「お前失礼だな」
だいぶ馴染んできたのか、ムラナカの軽口も、それに返すサイトーの軽快な言葉も、また、それらに笑うモーリを含む部員達の笑いもあった。
「今回だってそうさ」と、サイトーが続ける。
「タケダと私は残念ながらそこまでポケモンに詳しくないが、お前たちは違う」
「あぁそうでした。あたくし、皆様に聞きたいことがありまして」
わざわざコップに移したお茶を一口飲んでタケダが続ける。
「皆様は、いつポケモンさんとお知り合いになったんですか?」
なんてことのない質問だった。
それこそ、この、ポケモンバトルの歴史が浅いこの地方でポケモンを手持ちに加えていれば、当然聞かれる質問。
だからこそタケダはなんの疑いもなくその質問をするし、サイトーもそれを咎めない。
スズモトとムラナカも、それに何も思うこと無く、ただただ純粋に、答える。
「私は七歳の誕生日に出会ったんだ。パパ達とポケモンの譲渡会に行って、一番楽しく遊べたのがこの子だった」
「中学に入った頃、兄貴の関係でヤマブキの格闘ジムに行ったんだ、その時、スパーリングのパートナーとしてオススメされてた。兄貴は自分が戦うばかりでポケモンに興味がないから、俺が一緒にいる」
当然のようにそう続き、彼らはモーリの方を見た。
彼は一瞬口ごもった。そして、泳がせた視線の向こうにいたブニャットがぷいと目線をそらしたのを確認し、うん、と小さくうなづいてから答える。
「物心つく前のことだから、よく覚えていないんだけど」
嘘だ、よく覚えている。
「初めてゲットしたポケモンなんだ、ニャルマーの頃に」
それは本当。
「それから、ずっと一緒」
大嘘。
「まあ」
だが、タケダがその嘘を見抜けるはずがない。
「じゃあジムも一緒に回られたのですか?」
その質問に、モーリが気まずさを表現するよりも先に、けたたましい電子音が東屋に響いた。
「電話?」と、サイトーが受付から手渡された携帯端末を取り出した。
不可解であった。制限時間にはまだ随分あったし、ボールを投げ尽くしたわけでもない。まだ。
「はい、サイトーです……はい、はい、えっ、なるほど……すぐに戻りますね。はい、ありがとうございました」
通話を終了した後に、モーリらがその内容を質問するよりも先に、サイトーは立ち上がる。
「一旦撤収だ」
「何かあったんですか?」
その理由を聞くよりも先に机の上に広げていたものを包んで片付け始めるスズモトに、モーリやムラナカも続いた。
サイトーはなにか理不尽を押し付けてくるようなタイプではない、彼女がそういうのならばなにか理由があるのだろうという信頼があった。
「この辺に強力なポケモンが現れたという情報提供があったそうだ。一旦安全な場所に避難し、スタッフの対応を待ったほうがいい」
「なるほど」
部員たちはその提案に特に疑問は覚えなかった。サファリパークはある程度の安全は保証されているかもしれないが、それでも強力なポケモンの行く手を阻めるものではない。
ある程度実力のあるスタッフを雇っているぶん、パークの運営には誠意があると思っていいだろう。
モーリとムラナカは持っていたサンドイッチを急いで口の中に詰め込んだ。スズモトのクーラーボックスに突っ込んだほうが良かったかもしれなかったが、それをするにはいささか味が惜しかった。
「私が持つ、急ぐぞ」
サイトーはそう言ってスズモトからクーラーボックスの紐を受けとる。
その時だ。
何かが、草むらを踏み潰す音。そして、それが近づいてくる音。
部員達の間に、緊張が走った。
そして、少し離れた木々の間から、そのポケモンが現れる。
「でっか」と、思わずムラナカが漏らした。
そのポケモンは、のそのそと無造作に、そして、当然のように草木を踏み潰しながら日の本に姿を見せる。
一人を除いて、そのポケモンの名前を知らなかった。
珍しいポケモンだった。
クリーム色の体毛、見るからに筋肉の発達した手足に、潰れたような鼻。
二足歩行をしている姿は珍しいが、その体格は、ムラナカを超えるだろう。
「ケッキングだ」
モーリはその名を知っていた。
世界一ぐうたらだが、秘めたパワーはとんでもないポケモン。
「みんな、先に」
モーリは部員達の前に立つと、指を振ってブニャットを呼んだ。
ブニャットもまたその指示をよく聞き、彼の前に立つ。
「馬鹿、お前も来るんだ」
サイトーがモーリの手を引く。
彼女はポケモンに疎いが、眼の前のそのポケモンが、明らかに普通ではない力を持ったポケモンであることは、生き物としての本能で理解することができる。
「タケダもだ、早く」
なるべく声を荒げぬよう注意しながら、サイトーはタケダにも呟いた。
足が竦んでいるのか、彼女はまだ一歩を踏み出せないでいるし、テーブルの上にはサンドイッチが置きっぱなしだ。
彼女の目線は不意に現れた強大なポケモンに注がれ続けている。
ケッキングは、眼の前の人間達を恐れること無く、のそりとその場に横になった。
助かった、と、モーリは一つ息を吐いた。少なくとも、そのポケモンが自分たちに強烈な敵意を持っているわけではないだろう。
モーリもまた、一歩足を引いた。
「早く」と、サイトーが彼女の腕を掴む。
「あ」
タケダはそれにバランスを崩したが、それでも寝そべるそのポケモンに目線を合わせる。
「あ、あの」と、彼女はケッキングに向かって声を上げる。
気だるげに彼女と視線を合わせたケッキングに彼女は微笑み、テーブルの上にまだ半分ほど残っていたサンドイッチに手のひらを差し出した。
「もしよろしければ、どうぞ」
☆
川のせせらぎが聞こえ始めた時、彼らはようやく先程の森エリアから離れることができたのかと安堵することができた。
ケッキングを警戒しながらエリアを抜け、彼らはパーク入口に向かって歩いていた。
「いやあ、すごくおっきいポケモンだったね!」
緊張が溶けたのだろう。スズモトが満面の笑みで呟いた。あるいは不意に現れた非日常に対しての興奮がいまだ止まないのかもしれない。
「モーリ、あのポケモンは」
「ケッキングだよ」
ムラナカの質問に、間髪入れずに返した。
「ナマケロの進化系」
「えー! あの可愛いナマケロがあんなのになっちゃうの!?」
「いや、進化はそういうもんだから」
「強いポケモンか?」
「ええ、間違いなく強いポケモンです。相手に敵意が無かったから助かった」
モーリのその返答に、サイトーは少し歩みを緩めて、問う。
「お前、勝てると思ったのか?」
その声には、わずかに責めるものがあった。
それが、彼がブニャットと共にケッキングに対峙したあの瞬間について問うていることは、その場にいる人間すべてが理解できた。
モーリはそれにすぐに答えることはできなかった。
足元を歩くブニャットは不機嫌そうに鼻を鳴らす。
「あれがベストだと思いました」と、彼は少し歪んだ答えをサイトーに投げた。
だが、その返答を、歪んだ返答をサイトーが許していないことを沈黙から理解し、続ける。
「勝てるかどうかは、わかりませんでした」
「そうか、じゃあ、あれは駄目だ。逃げるべきだった」
「そう、ですね」
「タケダ、お前もだ。生きるか死ぬかの場面だった、『おっとりしているから』では済まないぞ」
そう視線と言葉を投げかけられ、タケダはゆっくりと身を縮こませた。
「はい、申し訳ありませんでした」
「どうしてあんな事をした?」
「はいぃ、あの方……ケッキング? さんは、とても悪い人とは思えなかったので……」
「そうか」
サイトーはその言葉の全ては否定しなかったが、首を振って答える。
「相手はポケモンだ、しかも強力な。たとえ悪気がなくとも人間には害なこともある」
「はいぃ、勉強になりました」
タケダが歩きながら頭を下げると「あれ?」と、スズモトがそれに気づく。
「タケダちゃん、髪留めどうしたの?」
そう言われて、モーリらもそれに気づいた。
ここに来た時、タケダはその長髪を纏めていた筈だった。それが今は、髪が降ろされている。
「あら」と、彼女は自らの髪を触り、ようやく気づいた。
「落としてしまったようです……」
「ありゃりゃ、多分あの時だなあ」
「高価なものか?」
「いいえぇ、高い物ではありませんが、あたくしが初めてガチャガチャで手に入れたものなんです」
「それなら、後でスタッフに取りに行ってもらおう」
「はいぃ」
彼らの視界に、入口ゲートが見えてきた。
川のせせらぎ、遠くで風に揺れる木の葉の音。
複数に連なるオオスバメ達の羽ばたき、鳴き声。
何かが猛烈に空気を切り裂く音。はじめは遠くで、次の瞬間には、近くで。
それに気付いたモーリが振り返ったその瞬間に、視界一面に広がる赤い翼、白い牙。遮られる太陽の光。
それは、彼の座学の中にあったポケモンだった。
その巨体が大地に降り立つ際、地面が強烈に震動した。
泥が跳ね、体が震える。川のせせらぎは水しぶきとなっただろう。
そして、牙を見せながら、誇りながら、猛りながら放たれたその咆哮は、目の前の人間達を混乱と絶望に叩き落とすのに十分だった。
「ボーマンダ!?」と、モーリが叫ぶ。
ドラゴンポケモン、ボーマンダ。
語るまでもなく強力なポケモンであることを、その場にいる人間すべてが理解した。
否、それどころか、そのポケモンが自分たちに対して強烈な敵意を持っていることも、その凶悪な視線から理解できただろう。
「逃げろ!」
サイトーは部員達に叫んだ。
様子を見ている余裕は無かった。次の瞬間にはその牙が生徒達を襲いかねなかった。
彼女はクーラーボックスを肩から下ろし、何かがあればそれを投げつけようとそれを抱える。
無駄だ、と、モーリは思った。
見れば、スズモトとタケダは一歩もそこを動けてはいない。彼女らはひたすらそのドラゴンを見つめることしかできていない。
仕方がないことだ、たとえ逃げろと言われようが、それを行う心の強さがない、目の前の鋭い牙に背中を向ける勇気を持てない。
「行こう」と、モーリは足元のブニャットに呟く。
ブニャットは不機嫌そうに鼻を鳴らしはしたがそれを拒否はしない、懐いてはいないが、言うことは聞く。
「お前ら」
自分よりも前に立ったモーリに対し、サイトーは声を震わせた。
「先生は女の子達のカバーを、足がすくんで動けていない」
その言葉に、彼女はようやくスズモトとタケダがまだ一歩もそこから逃げ出せていないことを知る。
「勝ちます」と、モーリは言った。
「絶対に、勝ちます」
目の前に立ちはだかった一人と一匹に対し、ボーマンダは大きな口を開き、激しい咆哮を上げる。その吐息には熱気が漂い、まるで炎を吐くかのようだ。威圧的な立ち振る舞いで、二人を威嚇している。
有り得てはならないことだった。
空の王者である自分に対して、逃げ惑うならばともかく、立ち向かうなどと。
誰が強者かということを、教えなければならない。
だが、ブニャットも同様に体を低くしてたくましい脚を強く踏み込み、威嚇するように吠えた。
「モーリ」
その声が、モーリの横に並ぶ。
「俺も、戦う」
見れば、ムラナカとエビワラーがファイティングポーズを取っていた。
だが、二人とも足が震えていることにモーリは気づく。
明らかにボーマンダの『いかく』をモロに食らってしまっている。
戦力にはならないだろう。
しかし、モーリは彼らを否定はしなかった。
敵が四つに増えたことにボーマンダは更に怒り狂い。モーリに向かって前足を振り抜いて『ドラゴンクロー』を放つ。
「『まもる』!」
ブニャットがボーマンダに立ちふさがるように飛び出し、『ドラゴンクロー』をモロに食らう。
だが、ブニャットは地面に叩きつけられながらも完璧な受け身を取り、ダメージを受け流す。
「『スカイアッパー』!」
ムラナカの指示に合わせ、エビワラーが地面に踏み込み、全身で飛び跳ねてボーマンダのアゴを狙う。
それは強かにボーマンダのアゴを捉えたが、彼はわずかに表情を歪ませるのみで動じない。
そして、エビワラーが着地したところに前足で『つばめがえし』を合わせた。
エビワラーにそれが直撃し、彼は吹き飛んで地面に転がる。
それにムラナカの意識が向いた瞬間に、ボーマンダが前足を振り上げた。
しかし、振り上げられた前足をブニャットがくぐる。
「『いかりのまえば』!」
腹の柔らかい部分に、ブニャットの牙が突き刺さる。
咆哮のような悲鳴が上がり、ボーマンダは足を伸ばして腹を地面に打ち付けて敵を潰そうしたが、すでにブニャットはそこをくぐり抜けている。
そしてブニャットは、間抜けな体勢のボーマンダに対して、明らかに鼻で笑って『いばる』
ボーマンダはその屈辱に怒り狂った。『げきりん』に触れたまま、ブニャットに攻撃する。
だが、ブニャットはその攻撃をひらりと交わし、前足は強かに地面に打ち付けられる。
「よし、よし」
モーリは手応えを感じていた、ここまで想定どおりだ。
だが、彼にはまだ気づいていないことがある。ここはジム戦でもなければ、トレーナーとのバトルでもない。相手は野生で、ここは自然で、何より、ボーマンダの敵は、自分達だけではない。
起き上がったボーマンダは、未だに混乱が続く頭で必死に考える。
目の前の一人と一匹は厄介だ、この群れで明らかに強く、手こずる。
もう一人と一匹は大丈夫、すでに倒した。
それなら。
その視線が、一塊になり震えているだけの女に行った。
「しまった!」と、モーリはそれに気づき、ブニャットと視線を合わせる。
だが、それに対する有効な手段を、彼は持ってはいなかった。
手を広げて二人を守るサイトーに、ボーマンダが一歩踏み込んだその時、彼らは気づいた。
明らかに重量感のある何かが、地面を踏み抜いた音。
ドラゴンの、否、モーリ達の死角から突然現れたそのポケモンが、勢いそのままにボーマンダにぶつかったのだ。肉と肉がぶつかる鈍い音がその場に響く。
「ケッキングさん!」と、タケダが思わず叫んだ。
そのポケモン、ケッキングはそのまま立ち上がろうとしたが、バランスを崩して膝をついた。
「『ギガインパクト』」と、モーリはそれに気づく。
持ち得る力すべてをその突撃に注いだのだろう。反動は大きい、しばらくは動けないかもしれない。
ボーマンダにとってもそれは明らかに大きなダメージであったが、怒りと混乱がアドレナリンとなり踏みとどまらせる。
「ケッキングさん! 逃げてください!」と、タケダが叫んだ。それはケッキングに届いてはいただろうが、彼はそこから動かない、反動によるものか、言うことを聞かないのか。
「『でんこうせっか』!」
ブニャットがドラゴンの前足に傷をつける。
それは大した痛みではなかったが、ボーマンダを正気に戻すには十分だった。
視界の隅に、先程からウロチョロとうっとうしいポケモンが見える。
彼は正気に戻ってはいたが、一先ず目についた敵を見逃せるほど冷静ではなかった。
前足には痛みが残る、彼はその鋭い牙をブニャットの柔らかい肉に突き立てようと『かみくだく』
だが、柔らかいはずの感触は、空を切り、それが『みがわり』であることを理解したときには、目の前には自らが踏み抜き固めた地面が。
「『イカサマ』」
脳に突き抜ける、衝撃。
過ぎたダメージだ。
思うように手足が動かず、視界の周りには煌めきがある。
それでも、動かねばと思った。
動かなければ、命を取られる。
だが、わずかになった視界の中に見えるブニャットとその人間は、自分を眺めるのみで、それ以上の攻撃をしようとはしていない。
彼は、そのまま意識を手放した。
☆
サファリパークのスタッフが現れたのは、ボーマンダが倒れて少ししてからだった。
何体かのポケモンに同時に対応していたとは言っていたが、それはこの失態の正当な理由にはならないだろう。彼らはもう少し組織の構築に時間をかけるのだろう。
「よくやったな」
救護スタッフがブニャットとエビワラーに対応している時、サイトーはモーリの肩を叩いて言った。
「あんな事を言った手前、あまり称賛したくはないが、お前がいなければ大変な事になっていただろう」
「いえ、多分、先生の言う事のほうが正しかったと思います」
モーリは、あの瞬間を思い出しながらそう答えた。
結果は、誰も傷つかなかった。だが、明らかにあの瞬間、モーリはあの三人を守れなかった。
仕方のないことだ、このような実戦経験を積む機会を、彼は持ってはいなかった。
「お前もだムラナカ、礼を言う」
「いや」
ムラナカはその体格を丸めるように背を曲げながら、ドリのみを噛み潰したような表情をしている。
その視線の先には、治療を受けるエビワラーだ。
「何も、できなかったです」
勇気を振り絞った。それは確かだ。
だが、勇気を振り絞るだけではどうしようもなかった。
それなりに野生のポケモンとの対戦の経験があった彼にとって、それはそれなりにショックなことであった。
「いや」と、モーリはそれを否定する。
「隙を作ってくれた」
「意図したわけじゃないさ」
「まあ、飛んでるわけじゃない飛行タイプのポケモンに『スカイアッパー』はないよな」
「ふふ、そうだね」
「『れいとうパンチ』ならもっと良かった」
そう彼を励ました後に、モーリはそのポケモンに視線を向ける。
窮地を救ったポケモン、ケッキングは、まだ少し腕を気にする様子を見せながらも、すでに地面に座り込みあくびをしていた。
「ああ、ケッキングさん」
ようやく緊張が溶けたのだろう、タケダがヨタヨタとなんとか歩きながらそれに近づく。
不思議と、誰もそれを止めようとは思わなかった。
一歩一歩彼女はケッキングに近づくが、彼はそれを咎めることはない。
「ケッキングさん」
その腕に触れる。思ったよりも温かいのだなとタケダは思った。
「ありがとうございます。なんとお礼を言えば良いのか」
彼はじろりと彼女の方を見ると、思い出したかのように握りしめていた右手を彼女の前に差し出し、それを開いた。
「これは……」
そこにあったのは、安っぽい髪飾りであった。
「ケッキングさん!」
タケダはそのままケッキングに飛びつくように抱きついた。
もちろん、そのような行動ははしたない事だということは知っている。だが、それ以外にこの感情を彼に対して表現する方法を、彼女は思いつかなかった。
「あたくし、この子に決めました! 絶対につれて帰ります!」
彼女がポケットから取り出したサファリボールを、彼は少なくとも拒否はしなかった。
☆
「そう言えば、あのサファリパークのオープン延期するらしいよ」
あの騒動から少しして、モーリと共に部室に向かっていたスズモトは、思い出したように言った。
「そりゃあ、そうだろうなあ」
実際問題として、あの時サファリパークの利用者には命の危機があった。むしろそれは賢明な判断だと言えるだろう。
「あのね」と、スズモトが少し顔を赤くして続ける。
「あの時のモーリ君、すっごくかっこよかったよ」
「それは、ムラナカもだろ」
「いやそーだけどー」
スズモトがもう二、三言続けようとした時、遠くのほうから「ケッキングさん!」とタケダの怒る声が聞こえ、思わず二人は笑みが溢れる。
「体当たり! 体当たりですケッキングさん!」
部室棟に着いてみれば、何年使ったのかわからないほどボロボロになったデコイを指差してタケダが叫んでいる。
技の指示を出していることは明らかだったが、直ぐ側で寝転んでいるケッキングはふわあとあくびをして寝返りを打つ。
「ケッキングさぁん! お願いですからぁ『なまけ』ないでくださいぃ」
「すごいね、全く言うことを聞かない」
「よくゲットできたなこれ」
「先輩方違います! あたくしとケッキングさんは素晴らしい絆で結ばれていたのです! さあケッキングさん『たいあたり』です!」
何度そう指示を出してもケッキングが起き上がる様子はない。すでに『なまけ』の領域を超えている。
手を尽くしたタケダは、現れたモーリに縋るような視線を飛ばした。
「モーリさん。助けてくださいぃ、ケッキングさんが全然言うことを聞いてくれませぇん」
「うん、まあそりゃレベルが高いだろうからね」
「レベルが高いと言うことを聞きませんの?」
「そりゃあ、まあ、悪い言い方すると舐められてるよ」
「なんですって!」
タケダはぐっと唇を噛む。
「ああ、ケッキングさんごめんなさいぃ! あたくしのこと好きではないのに、無理やり連れてきてしまいましたぁ」
「いや、多分だけどタケダさんのこと嫌いではないと思うよ」
「本当ですか?」
「うん、だって嫌いだったら普通に逃げてくと思うからね、かなり懐いているとおもうよ」
「本当ですかケッキングさん!?」
タケダがそう腕に抱きつくものだから、ケッキングは一つじろりとモーリを睨んだ。無粋な男だと言わんばかりに。
モーリはそれにため息をつき、ブニャットは鼻を鳴らして部室のソファーを占領するためにモーリから離れていった。
評価、感想よろしくお願いします
次は2/2、18:01予定です
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