『蝋塗れの手で』~元ガチ勢の俺が、ぬるま湯バトル部に入った結果、皆と「課題」に向き合うことになった話~   作:rairaibou(風)

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46-かくして、少年は相棒と出会う ①

 重いものが、硬い地面に叩きつけられる鈍い音が響いた。

 

 対戦場は、どこまでも黒く、音も光も希薄な空間だった。

 そこに、翼の折れたファイアローが力なく横たわっている。

 続いて、もう一つ。今度は何か硬いものが砕けるような音と共に、ガブリアスが地面に倒れ伏した。その強靭な鱗は輝きを失い、静寂だけが後に残る。

 

 モーリの視線の先には、一人のトレーナーの背中があった。

 顔も服装も判然としない。特定の誰かではない。それは、彼が心の奥底で恐れている『太陽』の象徴そのものだった。

 

 その顔の見えないトレーナーは、モーリに一瞥もくれることなく、静かに背を向け、音もなく闇の中へと歩いて去っていく。

 その背中からは、圧倒的な拒絶と「君はここまでだ」という無言の宣告が、冷たい空気となって突き刺さる。

 叫ぼうとするが、声が出ない。駆け寄ろうとするが、足が鉛のように重く動かなかった。

 

「あぁ!」

 

 モーリは、息を呑みながら勢いよく身を起こした。

 

 当然、実家の自室。

 カーテンの隙間から、夜明け前の青白い光が差し込んでいる。

 弱い冷房が微かに作動しているが、彼の額や首筋、そして白いシャツには、じっとりと『いやな汗』が滲んでいた。

 夢の冷たさとは裏腹に、体は不快な熱を帯びている。

 

 浅く速い呼吸を繰り返しながら、モーリははっとしたように自分のすぐそばを確認した。

 

 そこには、ベッドの脇に敷かれた客用の布団の上で、ブニャットが穏やかな寝息を立てて丸くなっている。

 その背中が静かに上下し、時折、満足げに尻尾が揺れる。モーリは、その変わらない存在に安堵のため息を漏らし、震える手でその温かい毛並みにそっと触れた。指先に伝わる確かな体温が、彼を悪夢から現実へと引き戻してくれる。

 

 彼がこの悪夢を見るのは、本当に久しぶりだった。

 

 具体的には、全てを捨ててライモン高校に進学することを決めて以降、一度も見ていなかった夢。

 

 なぜ、今になってこの夢を見たのか。

 

 今日はインターハイ個人戦の当日。だが、それは彼にとって、かつてのように人生の全てを懸けるような、勝敗が絶対的な意味を持つ戦いではない。

 仲間たちと、ただ目の前の戦いを楽しむ。そのような場であるはずだ。

 

 

 

 

 リビングに向かうと、父のモトハルは既に仕事に出た後で、母のエミが一人で朝食の準備をしていた。

 

「おはよう、モトマサ。よく眠れた?」

 

 エミの何気ない問いかけに、モーリは悪夢のことを隠し、「まあね」と短く応えた。

 

 二人での朝食。エミは息子の緊張をほぐそうと、明るく、しかし普段通りに話しかけた。

 

「今日は応援に行くからね!モトマサの晴れ舞台、お母さんしっかり見てなくちゃ!」

 

 モーリはヨーグルトを口に運びながら、ぶっきらぼうに、しかしどこか照れくさそうに返す。

 

「駄目だと言っても来るだろ」

「当たり前じゃない!自慢の息子ですもの」

 

 エミの軽口が一段落し、モーリが軽い朝食を終えようとしたその時、キッチンから、バターがフライパンで溶ける音と共に、懐かしい、甘い匂いが漂ってくる。

 

 エミが、フライパンを片手に、少し得意げな顔で振り返った。

 

「さあ、お待ちかね。今日のメインディッシュよ!」

 

 彼女がテーブルに置いた皿の上には、ふっくらと焼き上げられた黄金色のホットケーキが数枚重ねられ、湯気を立てている。

 それは、モーリがまだカントーでジム巡りをしていた頃、大きなバトルの日の朝には、エミが必ず作ってくれた「必勝祈願」の特別な朝食だった。

 

 その匂いと光景を目にした瞬間、モーリの表情が微かに強張り、フォークを握る手が一瞬止まる。

 彼の脳裏に、あの日の記憶が鮮やかにフラッシュバックした。

 

 八つ目のジムバッジに手が届かず、完膚なきまでに『敗北』した、あの日の朝も、全く同じこのホットケーキを食べていた。

 

 大好物であるはずのそれは、今、モーリにとって最も輝かしい思い出と、最も深い挫折を結びつける、甘くて苦い記憶の象徴となっていた。

 

 エミは、モーリのその一瞬の硬直に気づき、心配そうに首を傾げる。

 

「もしかして、嫌だった?」

 

 モーリは、はっと我に返り、すぐにその感情を押し隠した。

 こっぱずかしくて言葉にしないだけで、彼はもう、朝にホットケーキを焼くことの手間や、そこに込められた母親の愛情を理解できる年齢になっていた。

 ここで自分の過去の感傷をぶつけて、彼女の心遣いを無下にしたくはない。

 

 モーリは、無理に、しかし穏やかな笑みを作って首を横に振る。

 

「いや、違うんだ。ただ、久しぶりだったからさ。ありがとう、母さん」

 

 エミから差し出されたメープルシロップを受け取り、ホットケーキにかける。しかし、その手つきはどこかぎこちない。

 ナイフとフォークを手に取り、一切れを口に運んだ。懐かしい甘さが口の中に広がるが、あの日の敗北の記憶が同時に蘇り、素直に「美味しい」と感じることができない。

 

 彼は、その複雑な感情を悟られないように、黙々とホットケーキを食べ進める。その表情には、母への感謝と、拭いきれない過去の記憶に対する戸惑いが浮かんでいた。

 

 

 

 

 昨日と変わらない、夏真っただ中の強い日差しが、スタジアムの屋根を一様に照らし始めていた。

 まだフィールドの半分は建物の影に覆われ、朝露に濡れた地面が所々で鈍い光を反射している。

 しかし、それらはすぐに照り付ける太陽の熱によってカゲロウとなるだろう。

 

 遠くの木々からは、ポッポだろうか、あるいはスバメだろうか、小鳥のさえずりが微かに聞こえてくる。

 その乾いた鳴き声が、これから始まる個人戦の、どこか張り詰めた空気を一層際立たせているようだった。

 

 ライモン高校の待機エリアとなっている観客席の一角。

 個人戦に出場するのはモーリただ一人であったが、サイトーの計らいにより、ライモン高校のレギュラーメンバーとスズモトは、今日もこの場所で戦いを見守ることを許されていた。

 彼らはそれぞれのやり方で、静かに試合開始の時を待っている。

 

 サイトーが、手すりに寄りかかりフィールドを眺めていたモーリの隣に、音もなく立った。

 

「気負いすぎるなよ」

 

 穏やかだが、芯のある声だった。モーリは、彼女が自分の緊張に気づいていることを察する。

 

「大丈夫です」

 

 短く、しかし少しだけ強張った声で返す。サイトーはそれ以上何も言わず、ただ静かに隣でフィールドを見つめていた。

 

 

 

 

 やがて、個人戦のトーナメント表が掲示板に張り出された。モーリたちがそれを見にいくと、そこには既にいくつかの高校の選手たちが集まり、静かな熱気が渦巻いていた。

 

 その人垣の中から、聞き覚えのある声がする。

 

「よぉ」

 

 振り向くと、カザがいた。相変わらず大きな体格。

 彼は人混みを軽く手で分けながら、まっすぐにこちらへ歩いてくる。

 

「組み合わせの妙だな、また決勝で当たるようになってる」

 

 カザはモーリの目の前で立ち止まると、トーナメント表を指さしながら不敵な笑みを浮かべた。

 

「まあ、なんだ、今度は俺が勝つ」

 

 モーリは、その揺るぎない宣言を静かに受け止める。だが、彼の視線はトーナメント表の上を滑っていた。自分のブロック、そしてカザのブロック。その二つの線が交わる、ずっと手前の位置で、指先が止まる。

 

 そこには、見慣れぬはずの要注意。

 

「お前、その前に当たる奴がいるぞ」

 

 モーリのその言葉に、カザは訝しげに眉をひそめた。モーリはトーナメント表の一角を指で示す。

 そこには、カザが知らない高校の名前と『ミチバタ』という選手名が記されていた。

 

「聖ルピナス学院だ。気をつけろ」

 

 モーリの声には、単なる情報伝達ではない、ライバルに対する純粋な忠告の響きが込められていた。

 カザは最初、聞いたこともない学院の名前に「知らねえな」と鼻で笑う。しかし、あのモーリがわざわざ忠告してくるという事実に、一瞬だけ表情を引き締め、警戒するように目を細めた。

 

「エリートか」

「ああ、ガラルの最新技術を持ってると思っていいと思う」

 

 カザは一瞬鼻を鳴らした。だが、すぐにいつもの不敵な笑みを浮かべる。

 

「まあ、誰が相手だろうと、俺達が負けるわけねえけどな」

 

 そう強気に言い放ち、カザはその場を去っていった。

 

 

 

 

 一回戦を突破したモーリは、足早に対戦場を後にしていた。

 

 個人戦であるため、団体戦のような露骨な対策を当てられることはない。だが、相手のレベルは地方大会とは明らかに違っており、一戦ごとに消耗していく実感が、じわりと肌にまとわりついている。

 

 待機エリアに戻り、他の試合を観戦する彼の視線は、ある一つのバトルフィールドに固定されていた。

 

 そこでは、聖ルピナス学院のミチバタが、フィールドに入場するところだった。彼女の立ち姿には、一切の無駄がない。

 

 これから始まる戦いへの気負いや、観客席からの視線に動じる様子もなく、ただ静かに、むしろ楽し気に、しかし確かな存在感を放っている。

 

 その隣に、スズモトがそっと腰を下ろした。

 モーリの視線を追い、彼が真剣な眼差しで、見知らぬ女子生徒の試合をじっと見つめていることに、彼女は胸の奥に小さな棘が刺さるような感覚を覚える。

 

「あの人、誰?」

 

 努めて普段通りを装った声で、スズモトが尋ねる。モーリは視線をフィールドに固定したまま、どこか気まずそうに短く答えた。

 

「昨日、少し話をしたんだ」

 

 その言葉に、スズモトの表情がわずかに曇る。

 彼女は無意識のうちに、手に持っていたノートの角を指で意味もなく撫でた。

 自分だけが知らない時間が、そこにあった。

 その事実が、彼女の心を静かに揺らしている。

 

 対戦場では、試合開始の合図と共にミチバタがパートナーのウーラオスを繰り出し、相手を圧倒していた。

 

 その動き、技の練度、佇まい。モーリの目から見ても、この大会の他の選手とは明らかに次元が違う。

 

 ライモン高校のメンバー、そして観客席のほとんどの人間は、ガラル地方の伝説のポケモンであるウーラオスのことを知らない。

 

「なんだ、あのポケモン?」とざわつく中、モーリだけがその正体と、その強さの本当の意味を理解していた。

 

 希少で強いポケモンだ。だが、それを手持ちにしているミチバタのトレーナーとしてのレベルの高さもある。

 

 試合は、圧勝だった。当然だ、カントーの高校生が勝てるような存在ではないだろうとモーリは思う。

 

 ウーラオスが最後の一撃を決めると、まるでそれが当然のことのようにミチバタは彼をボールに戻した。

 

 そして彼女は観客席の中からモーリを見つけ出す。

 

 そして、悪戯っぽく微笑むと、指をピストルの形にして「バーン」と彼を打ち抜くようなジェスチャーをした。

 

 その挑戦的な仕草に、タケダが扇子で口元を隠しながらも、興奮した声を上げる。

 彼女はモーリとミチバタの因縁など知る由もないが、それでも彼を勘づくには十分だった。

 

「不倫ですわぁ!」

 

 ムラナカも、面白そうにそれに乗っかった。

 

「これは言い逃れできないな。モーリぃ、大変だなあ」

 

 しかし、モーリは彼らの冗談に乗らず「違う」と一言、強く否定する。

 

 その声は、ふざけ合う空気を断ち切るように鋭かった。

 

 押し黙るタケダ達と変わった雰囲気を感じることなく。モーリはすぐさま行動する。 

 

 すぐに携帯端末を取り出し、ウーラオスのデータ、特に『かた』による性能の違いなどを真剣な表情で調べ始める。

 その真剣な横顔を、スズモトは心配そうに見つめていた。

 

 

 

 

 ヤマブキシティスタジアム、一般観覧客席。

 

 インターハイということもあり、観客席はそこそこの埋まり具合だったが、そのほとんどが選手の保護者や学校関係者だろう。

 誰もが固唾を飲んでフィールドを見守り、応援というよりは、祈るような視線を送っている。

 

 その中で、三人の男たちが並んで座っている光景は、少しだけ異様だった。

 明らかに学生ではない、それでいて特定の学校のジャージを着ているわけでもない。

 

 しかし、彼らは、この場の誰よりも鋭く、そして冷静に、フィールドで繰り広げられる戦いを分析していた。

 

 タマムシ大学ポケモンバトル部監督のトートク、ライモン高校の合宿コーチを行ったトミノ、そして、その二人にあえて挟まれるような形で、カントー・ジョウトリーグトレーナーのモモナリがそこにいた。

 

 明らかに、モモナリを自由にはさせまいという意図が感じられる配置であったが。当のモモナリはそこまで気にしてはいないようだ。

 

 トミノとトートクは、先ほど圧勝したミチバタについて静かに意見を交わしている。

 

「あの女の子は明らかにレベルが違うね」

「ええ、聖ルピナス学院のミチバタさん、ガラルでも有数のエリートトレーナーの家系ですが。家庭の事情で去年からカントーに住まいを移しているんですよ」

「聖ルピナス学園とはね、僕なんかはよく聞く高校だけど、こういう場に出る事は滅多にない」

 

 学術方面に強みのあるトミノがそのように語ることが、聖ルピナス学園の世間の評価そのものであった。

 

「ええ、ポケモンバトル部も無く、彼女一人が個人戦カントー予選に出たんです。圧勝でしたが」

「だろうねえ」

 

 トミノが、隣でどこか退屈そうにしているモモナリに話を振る。

 

「君から見ても、中々のトレーナーじゃないのかな、モモナリ君」

 

 モモナリはそれに「ええ、まあ」と気のない返事をする。

 彼の視線は少なくとも彼女のには向いていないようだった。

 

 トミノは次に、ミチバタの進路について尋ねる。

 

「それで、彼女も推薦の候補なのかな?」

「まさか。他の私立大学が声をかけているでしょうが、彼女はなびかないでしょう。大学が必要なタイプではないでしょうから」

 

 さらにトミノが問う。

 

「モーリ君の推薦は変わらないのかな」

「当然です。私達は彼に選んでもらう立場ですから」

 

 その真剣な会話を他所に、モモナリは口元に手をやり、きょろきょろと他のフィールドや観客に視線を泳がせている。

 トミノはモモナリのその様子に気づき、興味深そうに問う。

 

「エッセイストの先生は、一体何を考えているのかな?」

 

 モモナリは鼻を鳴らし、少し楽しげに答えた。

 

「良い試合形式だなと思って」

「試合形式?」

 

 意外な返答にトミノが聞き返すと、モモナリは続ける。

 

「この形式なら、一人で複数体のポケモンと生活する必要がない。一匹の相棒への愛情が、連携が、ダイレクトに反映される」

 

 その意見に、今度はトートクが驚いたように反応する。

 

「意外だな。あなた達リーグトレーナーから見れば、物足りない形式かと思っていた。相性の優位もあるし」

 

 モモナリはそれを笑って否定した。

 

「いいやぁ、そもそも六対六という形式自体が、近年になって固められただけのものだしね。人とポケモンが信頼を構築するのに、数の優劣はないですよ」

 

 そして、彼はどこか遠くを見るような目で、静かに、しかし確信を込めて続ける。

 

「信頼した一匹と対面した相手が、相性不利なのはもう運命だよ。そういう時こそ、ポケモンを信じないと」

 

 その言葉には、今もプロの一線で戦い続ける者だけが持つ、独特の凄みと哲学が宿っている。トミノとトートクは、彼の言葉に静かに聞き入った。

 

 トミノは、プロトレーナーとしてのモモナリの意見に、さらに興味を惹かれる。彼は、あえてモーリの立場で問いを投げかけた。

 

「君なら、ブニャットでウーラオス相手にどうする?」

 

 モモナリは少しの間、思考を巡らせるように黙り込む。そして、もう一度鼻を鳴らして、正直に答えた。

 

「いやね、僕もずっとそれを考えてたんですよ。僕なら、厳しいと思う。僕ならね」

 

 その言葉の重みが、静かにその場の空気を支配した。

 

 

 

 

 個人戦はわずかに波乱の展開と言った所であった。

 弱小地方とされていたその地方、ブニャット使いの若い強豪トレーナーがいることは有名だったが、もう一人、彼としのぎを削ったシザリガー使いが快進撃を続けていた。

 尤も、ヘビーな観戦者はそのシザリガー使い、カザが二年生の頃から地方の名門リオー高校の大将であったことを知っていた。しかし、得てしてそのような波乱であったりとか、そのようなものは、ライトなファンに認知されることで初めて有名になるものである。

 

 インターハイ個人戦、準々決勝。

 対戦場中央、カザとミチバタが握手のために向かい合う。

 ミチバタは、トーナメント表でカザがモーリと同じ地区の代表であることを確認している。彼女は悪戯っぽく、しかし探るような目でカザに問いかけた。

 

「ねえ、モーリって、強かった?」

 

 その問いに、カザは一瞬、眉をひそめる。 

 だが、すぐにミチバタの手を、静かな闘志を込めて少しだけ強く握りしめてそれに答えた。

 

「ああ、強かったよ」

 

 その返答と握手の強さに、ミチバタは満足げに「だよね」とだけ返し、ふわりと身を翻して自分のポジションへと戻っていく。

 カザは、その去っていく背中を見据える。彼女の佇まいから、この高校生たちの戦いの場をどこか見下しているような、そんな「軽さ」を感じ取っていた。

 

 

 

 

 カザが繰り出したシザリガーは、その赤黒い巨体を揺らし、威圧的にハサミを打ち鳴らす。

 おおよそ現実のポケモンバトルの要素から『精神力』というあいまいなステイタスは排除されつつあったが、それでも、彼らが見せる威圧的な『怖さ』に対して正しく対応できる高校生は少ないだろう。

 

 対するミチバタのウーラオスは、静かだった。武道家のような落ち着いた構えで、ただじっと、シザリガーの動きを見据えている。その佇まいからは、底知れない実力が滲み出ていた。

 

 セオリーで言えば、カザの分が悪い。

 みず・あくタイプのシザリガーに対し、相手はかくとうタイプを持つ。長期戦は不利だ。

 カザは、短期決戦しかないと判断していた。

 だが、それも簡単には通らないだろう、かつて暴力的な駆け引きで身に着けたカザ独特の感覚は、彼女らがいわゆるただの怖いもの知らずではないことを理解している。

 

 カザというトレーナーは、自らの中で燃え滾る闘志と、目の前との状況を切り離して考えることができる才能を持っている。

 彼は冷静に最初の指示を出す。

 

「『みずのはどう』!」

 

 シザリガーのハサミの先から、リング状の波動が放たれ、フィールドを薙ぐようにしてウーラオスに迫る。

 

「『まもる』」

 

 しかし、ウーラオスは最小限の動きで、まるで川の流れのようにその黒い波動を受け流す。体幹は一切ぶれず、その視線もまた、カザとシザリガーから一瞬も外れない。

 

 チッと、カザは小さく舌打ちをした。

 小手調べの攻撃が、まるで意味をなさない。ならば、と彼はさらに踏み込む。

 

「『クラブハンマー』!」

 

 シザリガーが地を蹴り、その巨大なハサミを振りかぶる。だが、ウーラオスはそれすらも予測していたかのように、軽やかなステップで半身をずらし、振り下ろされた一撃を紙一重で回避した。

 

 じりじりとした時間が流れる。

 カザの焦りを誘うかのように、ミチバタはまだ動かない。ただ、静かに観察している。

 

 そう、誰もが思った時だった。

 

 ウーラオスが、一歩踏み込む。

 

 見えた。隙が。

 

 カザの脳裏に、勝利への道筋が閃光のように走る。

 エリートのお嬢様が、攻めあぐねて、焦ったか。

 この高校生たちの戦いの場を、どこか軽んじているからこそ生まれる油断。

 カザは、ミチバタが感じさせたその『軽さ』の正体を、今、見抜いたと確信した。

 

 この好機を逃す手はない。彼は、勝利を確信して叫んだ。

 

「『ハサミギロチン』!」

 

 シザリガーが、主の気迫に応えるように咆哮する。全てを懸けたその一撃は、フィールドを抉り、ウーラオスに必殺の刃として迫った。

 タイプ相性。ポケモンの練度。生まれ、育ち。

 すべてで叶わぬことは理解している。

 だからこそ、この下からの一撃を通す。

 

 だが、それはミチバタ達が完璧に作り出した『罠』だった。

 

 ウーラオスの二歩目が捻った軌道で踏み込まれる。

 

 捻られた彼の体躯は、シザリガーのハサミを紙一重でかわしながら、シザリガーに向かって、さらに強く、一歩踏み込んだ。

 

 カザが「しまった」と思った時には、もう遅い。

 そして、気づく。

 あの一歩は、攻撃のためのものではない、そして、当然ながら、エリートのお嬢様が焦ったわけでもない。

 あの一歩は、攻撃をかわすための踏み込みだったのだ。

 

 ミチバタが、そこで初めて、そして最後に、勝負を決める一言を告げる。

 

「『インファイト』」

 

 その指示と共に、ウーラオスはさらに体を捻って回転させ、全体重を乗せた裏拳での一撃をシザリガーに叩き込んだ。

 

 体を捻りながら相手の技を回避し、同時にその捻りを利用して一撃の威力を底上げする。

 回避と攻撃を同時に行うそのスタイルは、混じりっ気のない超一流の技術であった。

 

 シザリガーは抵抗する暇すら与えられず、その猛攻に巨体を揺らし、糸が切れたようにフィールドに崩れ落ちる。

 

 審判が戦闘不能を宣言する。

 勝負と、カザの夏は、あまりにもあっけなく、一瞬で終わった。

 

 

 

 

 観客席に続く通路。

 試合を終えたカザは、リオー高校に与えられた待機スペースから少し離れたところで、冷たいコンクリートの壁に背中を預けている。

 

 スタジアムの熱狂が、分厚い壁の向こう側でくぐもって響く。それが、今の自分とは無関係な、遠い世界の音のように感じられた。

 

 監督であるヤマサキが、腕を組んで静かに隣に立っていた。

 仲間たちの元へ戻らないカザの、その無言のプライドを理解しているからこそ、彼は何も言わずにただそこにいる。

 

 ヤマサキは、カザの横顔に視線を向けたまま、静かに口を開いた。

 

「狙いは良かった」

 

 その言葉に、カザは顔を上げずに吐き捨てるように答えた。

 

「あれしかねえだろ、俺には」

 

 その声には、自分自身への苛立ちが滲んでいる。

 彼は壁に背中を預けたまま、コンクリートの冷たさがじわりと熱を持った体に伝わるのを感じていた。スタジアムの喧騒が、分厚い壁の向こう側でくぐもって響く。それが、今の自分とは無関係な、遠い世界の音のように感じられる。

 

 その時、通路の奥から、規則正しい靴音が響いてきた。

 誰かが、こちらへ向かってくる。

 カザは舌打ちしそうになるのをこらえ、顔を上げた。

 

 スタジアムの光を背にした、静かな影。

 その影が、今、最も会いたくない男のものであることに、すぐに気づいた。

 モーリだった。

 

 モーリはカザの数歩手前で足を止め、何も言わずにただ静かにこちらを見ている。その視線に、同情や侮蔑の色はない。だからこそ、カザは自分の惨めさが、むき出しにされているような気分になった。

 

 カザは、やり場のない感情を隠すように、無理やり口の端を吊り上げた。どこか諦めたような、それでいて自嘲めいた苦笑いが浮かぶ。

 やがて、絞り出すように、その言葉が漏れる。

 

「今かよ」

 

 モーリは、その言葉にすぐには応じなかった。

 ただ静かに、カザの前に立つ。その視線は、同情でも好奇でもなく、敗者に対する礼儀と、好敵手に対する敬意が静かに混じり合ったものだった。

 

 モーリは、まずカザの目を見て、静かに言った。

 

「惜しかったな」

 

 本心だった。

 だが、それだけでは終われない自分がいることを、モーリは自覚していた。

 次を控えた自分にとって、カザが肌で感じたであろうミチバタの情報は、何よりも価値がある。

 ここで踏み込むのは、無粋だ。敗者に鞭を打つような真似だ。

 わかっている。わかってはいる、だが。

 

 トレーナーとしての本能が、あるいは抑えきれない欲望が、彼の口をこじ開けた。

 

「どうだった」

 

 ミチバタについて、モーリはそう問うた。

 彼はカザの、バトルにおける獣のような直感と、その裏にある鋭い観察眼を、誰よりも理解している。

 

 カザは、一度だけ目を閉じ、そしてゆっくりと開いた。

 

「舐められてたよ、俺たちは」

 

 その声には、自嘲と、そしてわずかな怒りが滲んでいる。

 

「あいつには『軽さ』があった。だが、こっちが油断した、あるいは焦れたと見た瞬間に、一気に食らいついてくる。その戦略と感性は、本物だ」

 

 カザは、モーリの目を真っ直ぐに見つめ返す。

 

「お前が勝てねえとは思わねえ、だが、正攻法で勝てるとは思うな」

 

 その言葉は、ライバルに対する、最大限の誠意を込めた忠告だった。

 モーリは、静かに、しかし力強く頷く。

 

「わかった。ありがとう」

 

 そして、彼はカザに告げる。

 

「また、バトルをしよう」

 

 その言葉を残し、モーリはその場を後にする。

 

 カザは、モーリの言葉に「おう」と短く応えたが、小さくなっていくその背中を、いつまでも目で追っていた。

 

 

 

 

 モーリの背中が通路の向こうに消えても、カザはしばらくその場から動けずにいた。

 ヤマサキは、そんな彼の横顔を静かに見つめている。

 

「いい友達だな」

 

 ヤマサキのその言葉に、カザは「ああ、良い奴だ」と、一拍おいて認める。

 しかし、すぐに声のトーンを落とし、どこか自嘲するような笑みを浮かべた。

 

「だが、これでもう終わりだ」

 

 その言葉の響きに、ヤマサキは「終わり?」と静かに問う。

 

「終わりなわけないだろう。またバトルにも誘ってるじゃないか」

「いいや、終わりさ」

 

 カザは壁にもたれていた背を離し、コンクリートの床に視線を落とした。そこに落ちる自分の影が、やけに色濃く見える。

 

「あいつと俺とは、住む世界が違う。今後の人生を考えりゃ、奴と俺がもう二度と交わらないことくらいわかるよ」

 

 瞳が、ほんのわずかに潤む。それを隠すように、彼はわざと乱暴に頭を掻いた。

 

「噂は聞いてる。あいつ、タマムシ大学に行くんだろ?」

 

 その言葉に、ヤマサキは鼻を鳴らした。

 

「まだ噂の段階だ。仮にそうだとしても、タマ大の推薦なら共通テストも必要だろう」

「受かるさ、モーリは受かる。奴はカントーに行って、そのまま上手くやる。……俺は、このままだ」

 

 ヤマサキは、カザのその声に滲む、自らの境遇へのやり場のない悔しさを痛いほど感じていた。

 そして、これまで黙っていた切り札を、静かに、しかしはっきりとした口調で告げる。

 

「お前に、推薦の話が来てる」

 

カザは「そりゃまあ、あるだろうよ」と、どこか自棄になったように返す。

 

「どこだ? どの地方だ?」

「イッシュだ」

「イッシュぅ?」

 

 遠く、なじみのない地方。そして、彼の思う「自分なんかを欲しがる地方」のイメージではなかった。

 

「イッシュ地方に新設される『ブルーベリー学園』がお前を欲しがってる。この地方の常識とはかけ離れているが、最新鋭の学校だ。お前なら着いていける」

 

 それはカザにとっては願ってもいない話であった。だが、彼はすぐにその夢物語を現実に引き戻すように、力なく首を横に振った。

 

「ありがたい話だけどよ、無理だよ。金がねえ」

「金の心配はするな。ブルーベリー学園が一部学費を免除してくれる話になってる」

「一部だろ? 根本的に金がねえのに」

「リオーのOB会が奨学金を用意している」

「OB会が?」

「そうだ。ブルーベリー学園もリオー高校のOB会もお前にチャンスを与える方針だ。まあ、向こうで多少ひもじい思いはするかもしれんが、それは今も変わらんだろ」

 

 カザはそれが信じられなかった。周りの大人たちが、自分を助けてくれる。そんな経験を、ほとんどしたことがなかった。

 

「なんでそんな」

「お前が、自分はチャンスを与えられるに値する人間だと証明したんだ。お前がただの乱暴者ではなく、ポケモンバトルや社会生活を通じて、他人を導く能力のある人間だとな」

 

 ヤマサキはカザを眺めて続ける。

 

「多少きたねえ話をすりゃ、俺にとってもデカい話だ。この地方でブルーベリー学園とのコネを作れるのはキャリアに大きくかかわる。だからこそ、お前がただの乱暴者なだけだったら、この話は握りつぶしてただろう。尤も、ブルーベリー学園がそんなヘマを犯すとは思えんが」

 

 カザの沈黙を確認して続ける。

 

「お前はこの三年間で人間として大きく成長した。それは俺が保証する。そりゃ出会いとか才能とかはあったかもしれねえよ。だけど、お前はそれをきっちり掴んだ」

 

 ヤマサキは、カザの肩を力強く叩いた。

 

「カザ、食らいつけ。お前の言う通り、大人はくだらねえかもしれねえが、それでも誰かは見ていてくれている」

 

 それでも、カザはまだ信じられないように、そして絶望しながら首を横に振る。

 彼の心にこびりついた、最後の、そして最大の壁。

 

「無理だ。そういうのって親の同意がいるだろ? おふくろはともかく、あの男が俺に協力するとは思えない」

 

 あの男、という言葉に、カザの『書類上の父親』に対する全ての感情が込められていた。

 しかし、ヤマサキは静かに首を横に振る。

 

「心配するな、もう話はつけてある。少なくとも書類関係は全面的に協力する話だ」

 

 戸惑うカザを前に、ヤマサキは自らのベルトに装着しているボールを、指でトントンと叩いた。

 

「『強さ』ってのは、こういう時に使うもんだ」

 

 カザは、その一言で全てを理解した。

 ヤマサキが、監督としての立場や信頼以外の『力』を使い、自分のために道を切り開いてくれたことを。理屈の通じない相手を、理屈ではない力でねじ伏せてくれたことを。

 

 これまで溜め込んできた悔しさ、感謝、そして未来への希望。様々な感情が一度に溢れ出し、カザは顔を歪ませ、涙を見せまいと必死に天を仰いだ。だが、堪えきれなかった雫が、頬を伝う。

 それを察したヤマサキは、何も言わずに、彼の顔を胸に押し付け、その広い背中を力強く抱きしめた。

 

 カザの、高校生としての夏が終わり。そして、彼だけの人生が始まった。




次回は7/30 8:01に投稿予定です

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