『蝋塗れの手で』~元ガチ勢の俺が、ぬるま湯バトル部に入った結果、皆と「課題」に向き合うことになった話~   作:rairaibou(風)

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47-枠の外の男

 インターハイの喧騒が嘘のように遠ざかっていく。

 

 インターハイ直後、すぐさま打ち上げ、とはならない。歓喜のカントー観光は翌日となり「まずは両親に顔を見せてこい」と、解散となった。

 

 バスの窓から流れる見慣れたヤマブキシティの景色は、行きと同じはずなのに、どこか違って見えた。安堵か、それともまだ戦いの興奮が冷めやらないのか、自分でもよくわからない感情が胸の内で静かに渦巻いている。

 

 自宅マンションの前に立ち、オートロックの解除ボタンに指を伸ばしかけた、その時。モーリは一瞬だけ、動きを止めた。

 この先に待っているのは、穏やかな日常。そして、自分の戦いを、おそらく複雑な想いで見守っていたであろう、家族。

 わずかな気恥ずかしさと、それを上回る確かな安堵。彼は一つ、静かに息を吸い込むと、慣れた手つきで部屋番号を押し込んだ。

 

 玄関のドアに手をかけた、まさにその瞬間だった。

 内側から勢いよくドアが開かれ、母であるエミが、驚きと喜びが一度に爆発したような表情で飛び出してきた。

 

「お帰りなさい、モトマサ!」

 

 彼女は一瞬、息を呑むようにモーリの顔を見つめ、声を弾ませて、その肩を強く掴んだ。

 

「お疲れ様。本当に、本当にお疲れ様! 今日は優勝祝いのごちそうよ!」

 

 矢継ぎ早に言葉をかけながら、彼女はモーリの背中を何度も優しく叩く。その手のひらから伝わる温もりに、モーリの張り詰めていた心の糸が、少しだけ緩むのを感じた。

 

「ただいま」

 

 家の奥から漂ってくる、懐かしい出汁の香り。

 その匂いに包まれ、モーリは心の中で静かに呟いた。

 

 帰ってきたんだ、と。

 

 

 

 

 テーブルの上には、子供の頃から何も変わらない、彼にとっての『ごちそう』が、湯気を立てて並んでいる。

 ジムをめぐっていた時も、勝った日は、いや、負けた日もこんなだったか。

 その光景に、モーリの頬がわずかに緩んだ。

 

 足元では、ブニャットが、この家の後輩ポケモンであるコラッタと並んで、いつもより少し豪華なポケモンフードを夢中で頬張っていた。その小さな背中が二つ並んでいるのを見て、モーリは自分がこの家の、この日常の一部であることを改めて実感する。

 

 しばらく料理を突き、少し興奮気味のエミの質問に答えながら、モーリは料理を楽しむ。

 

 そして、エミが、どこか楽しげな、悪戯っぽい笑みを浮かべながら口火を切った。

 

「あなた、今日は早かったのねえ」

 

 その言葉に、モトハルが「ん?」と、新聞から顔を上げる。

 

「あら、とぼけちゃって。モトマサが勝ち進んでるって連絡したら、午後の会議、すっぽかしてスタジアムに行ったの、知ってるんだから」

 

 その暴露に、モトハルは一つため息をついて答えた。

 

「そりゃ行くだろう」

 

 ぶっきらぼうに答えるモトハルの耳が、わずかに赤い。その様子に、エミはくすくすと笑い声を漏らした。

 モーリは驚いて、父の顔をまじまじと見つめる。あの父が、自分の試合のために、仕事を抜けてきた。その事実が、すぐには飲み込めなかった。

 

 その視線に応えるように、モトハルは、一度だけ箸を置き、湯呑に手を伸ばした。そして、その湯気を一瞥してから、静かに、しかし素直な称賛の言葉を口にした。

 

「よくやったな。あのポケモンには、正直勝てないと思っていた」

 

 さらに、亡き祖父に思いを馳せるように、どこか遠い目をして続ける。

 

「父さんが生きていれば、とても喜んだだろう」

 

 その言葉には、モーリの成し遂げたことへの純粋な敬意と、家族としての誇りが込められていた。

 父からの、思いがけない、そして何よりも聞きたかったかもしれない言葉。モーリは、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じながら、静かに、しかし確かな覚悟を決めた。

 彼は、父と少しだけ言葉を交わした後、自らも箸を置き、テーブルに向き直る。

 

「食事の後、少し時間が欲しい」

 

 その声の響きに含まれた真剣さに、モトハルは一言で全てを察した。彼は、インターハイを戦い抜き、疲れているであろう息子にプレッシャーを与えまいと、一度は猶予を与える。

 

「別に今日じゃなくてもいいぞ。夏休みの終わりまでに、お前が結論を出せばいい」

 

 しかし、モーリは「いや、今日がいい」と、まっすぐに父の目を見て答えた。その瞳には、自分の未来から逃げないという、強い意志が宿っている。

 

 モトハルは、息子の成長を感じ取り、静かに「わかった」とだけ応じた。

 

 

 

 

 食事が終わり、エミが手際よく皿を片付けたテーブルで、モーリとモトハルは二人きりで向き合った。

 テレビの音も消えたリビングには、時計の秒針が時を刻む音だけが静かに響いている。

 

 モーリは、一度だけ目を伏せ、そして意を決したように顔を上げた。

 

「今後のことなんだけど。俺は、タマムシ大学の推薦を受けようと思う」

 

 その言葉に、モトハルは静かに、しかし深く頷いた。彼の表情には、まず息子が安定した道を選んだことへの、父親としての安堵の色が浮かぶ。

 

「そうか。試験のほうは大丈夫なのか?」

「模試の判定はそこまで悪くないんだ。でも、ちゃんと塾にも行こうと思ってる」

「そうか。塾代のことは心配しなくていいぞ」

「ありがとう」

 

 実務的な会話。その言葉の端々から、モトハルが息子の決断を現実的にサポートしようとする、不器用な愛情が伝わってくる。

 少しの沈黙の後、モトハルは湯呑を手に取り、その湯気に視線を落としながら、どこか自嘲するように言った。

 

「良い選択だと思う。学歴は持っておいて損はない。父さんを見れば、わかるだろう?」

 

 その言葉には、リーグへの夢破れ、安定した社会人としての人生を選んだ、彼自身の過去が滲んでいた。だが、その瞳の奥には、一人の才能あるトレーナーである息子の可能性が、別の形で閉ざされていくことへの、ほんのわずかな寂しさが揺らめいている。

 モーリは、父が自分の決断を『現実的な選択』として受け止めていることを感じ取りながら、静かに首を振る。

 

「そう言いたいわけじゃないけど」

 

 もう少しの沈黙。そして、今度はモーリが、父の本心を探るように、その目にまっすぐな問いを投げかけた。

 

「父さんは、どう思う?」

「何がだ?」

「父さんが、俺の立場だったら、どうした? 進学と、リーグと」

 

 その問いに、モトハルは自分の息子が、まだ決断を心の底から固められていないことを察した。リーグへの夢、そしてそれを追うことの厳しさ。その狭間で揺れる息子のために、彼は、これまで誰にも、おそらくは妻のエミにさえ見せたことのない、自らの本心を吐露する。

 

「父さんは、お前の立場になることはできないよ。お前は私よりも、はるかにバトルで結果を残している」

 

 その声には、息子への純粋な敬意と、自分が届かなかった場所へたどり着いた者への、静かな羨望が滲んでいた。彼は、モーリの瞳をまっすぐに見つめ返す。

 

「まだ悩みがあるのか? リーグへの挑戦に、未練があるのか?」

 

 モーリは、父のその真摯な問いに、静かに、しかしはっきりと頷いた。

 

「いいや、進学はしようと思う。別に進学してもリーグに挑戦することはできるしね。だけど」

 

 彼は言葉を探すように、一度視線を落とす。

 

「そういうことを考えていること自体が、何か中途半端な気がして。リーグとか、ポケモンバトルというものに不誠実に感じるんだ」

 

 その言葉に、モトハルは息子の葛藤の根源を理解した。それは、かつて彼自身が抱いていた『夢』に対する、青く、しかし純粋な美学だった。

 だからこそ、彼は、息子に全ての選択肢を与えなければならないと思った。

 

「もし、モトマサが『夢』を追ってリーグに挑戦するなら、父さんはそれを応援しようと思っている。もしノイズになるのであれば、進学だって、しなくていい」

 

 その言葉に、モーリは驚いて顔を上げた。安定を選んだはずの父が、自分に『夢を追え』と言っている。

 

「もちろん、社会人としては進学を勧める。だが、リーグトレーナーという『夢』は社会人の範疇ではない。お前が『夢』を追うのであれば、私はすべてのサポートをするし、その為に働いている。お前と、例えばお前の未来の家族が食っていくくらいのものは遺せる。私の父さんが、そうしてくれたように」

 

 父が、それに答えられなかった祖父からの、最大限のサポート。その重みが、今、モーリの肩に受け継がれようとしていた。

 しばしの沈黙。モトハルは、熱く語りすぎたことを恥じるように、ふっと息を吐いて首を振った。

 

「いや、変なことを言ったな。忘れてくれ。せっかくお前が決意したというのに、妙なことを言った」

 

 しかし、モーリは静かに、しかし力強く首を振る。その瞳に、もう迷いはなかった。

 

「大丈夫だよ。考えは変わらない。俺は父さんが思っているほど優れたトレーナーじゃない。タマムシ大学に進学する」

 

 父の想いを、その愛情を、真正面から受け止めたからこそ、彼の決意は、もはや揺るがない。

 そして、彼は心からの感謝を、父に告げた。

 

「だけど、ありがとう」

 

 

 

 

 自室に戻ったモーリは、ベッドの脇に腰を下ろし、ブニャットの柔らかな毛並みを、買いたてのブラシで優しく、ゆっくりと梳かしていた。

 

 静かな時間の中で、彼はライモン高校で過ごしたこれまでの三年間を振り返る。

 

 カントーから逃げ出した先にあった、陽だまりのようなポケモンバトル部。暖かいと言えば聞こえはいいが、ぬるくすらあったはずのその場所で、一度は手放したはずのブニャットとの、ぎこちない関係の再構築。

 

 そして仲間たちと掴んだ、信じられないほどの勝利。

 

 これは決して自分だけの力ではない。スズモトが、ムラナカが、タケダが、皆がいたから、ここまで来ることができた。その事実に、胸の奥から温かい感謝が込み上げてくる。

 

 しかし同時に、あまりにも「できすぎだ」とも思う。まるで、自分の実力以上の何かに、ずっと背中を押され続けてきたような、不思議な感覚が拭えなかった。

 

 モーリは、ふと感傷的な気分を振り払うように立ち上がり、窓の外に広がるヤマブキシティの夜景を眺めようとした。

 

 本来であれば、そこからは、いつまでも眠ることのないヤマブキシティの光の数々が見えるはずだった。

 

 しかし、彼の視界の多くを占めたのは、宝石を散りばめたような美しい夜景ではなく、窓の外に静かに浮かぶ、一人の男の姿だった。

 

 その男の姿を認めた瞬間、モーリの足元にいたブニャットが、瞬時に空気を変える。机の上に音もなく飛び乗ると、全身の毛を逆立て、喉の奥から低い唸り声を上げて、ガラスの向こうの男を鋭く威嚇した。

 

 だが、男、カントー・ジョウトリーガー、モモナリは、その威嚇を意に介する様子もなく、満面の笑みでモーリに手を振っている。

 そして、もう片方の手で楽しげに、コン、コン、と窓ガラスを叩いた。

 

 モーリは、そのあまりにも非現実的な光景に、言葉を失う。

 男が窓の外にいるという単純な絵面のインパクトもさることながら、ここは高層マンションの上層階。物理的に、人が立てる場所ではない。父が、家族の安全を何よりも重視して選んだこの部屋に、どうやって。

 

 モーリの脳裏に、二つの選択肢が浮かぶ。悲鳴を上げて、リビングにいるであろう家族に助けを求めるか。それとも、この不可解な男との対話を試みるか。

 

 彼は、後者を選んだ。目の前の男、モモナリは、計り知れない実力を持つが、決して理不尽に他者を傷つける人間ではない。

 かつて完膚なきまでに叩きのめされた自分に、それでも彼は『道』を示した。その奇妙な信頼感が、モーリに冷静な判断をさせた。

 

 モーリは、部屋の窓のロックを外し、制限いっぱいの数センチの隙間を開ける。まだまだ生ぬるい夏の夜風が、彼の火照った頬を撫でた。

 

「なんで、空を飛べているんですか」

 

 絞り出した声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。

 

「ああ、これかい? ゴルダックのサイコパワーだよ」

 

 その問いに、モモナリは、まるで散歩でもしているかのように、何でもないことのように答えた。

 

 モーリは、エスパータイプでもないゴルダックが、人を長時間浮かせ続けるほどの強力な『サイコキネシス』を会得しているという事実に、改めてモモナリという男の実力の底知れなさを感じ、背筋が凍るような戦慄を覚える。

 

 モモナリは、悪びれる様子もなく、人懐っこい笑みで続けた。

 

「どうしても君としゃべりたくてね。トミノさんたちとの飲み会を、こっそり抜け出してきたんだ」

 

 モーリの脳裏に、二度にわたるモモナリとの戦いの記憶が鮮やかに蘇る。敗北の屈辱、そして、逃れられない実力差。だが、彼はもう逃げないと決めていた。父が、仲間たちが、そしてブニャットが、自分を信じてくれている。

 

「良いですよ。下に降ります」

 

 モーリは、自らの意志で、三度目となる対峙に臨むことを決意した。

 

 

 

 

 マンションの外に出ると、ぬるい夏の夜の空気が肌を刺した。モーリは、警戒を解かないまま辺りを見回す。

 

 待ち構えていたのは、信じられないくらい『普通』の光景だった。

 

 先ほどまで空に浮いていたはずのモモナリが、マンションの向かいにある小さな公園のベンチに、ただボケっと腰かけている。その手には、自販機で買ったらしく、水滴のついた炭酸ドリンクの缶が二本握られていた。

 何も言われなければ、彼が凄腕のポケモントレーナーだとは理解されないだろう。

 

 モーリが、その超常的な存在と、あまりにも日常的な光景のギャップに戸惑いながら近づくと、モモナリは「ああどうも、悪いね」と、まるで近所のコンビニで会ったかのように、気さくに声をかける。

 

 彼は、モーリが隣に座れるようにベンチの端ににじり寄り、ぬるくなった炭酸ドリンクの缶を一本、ぽんと手渡した。

 

「まずは優勝おめでとう」

 

 思わぬ普通のあいさつに、モーリは少し戸惑いながらも、それを受け取り「ありがとうございます」と返す。

 モモナリは、自分が持っていた缶のプルタブを、と小気味良い音を立てて開けた。

 

「僕の言ったとおりだったろう?」

 

 モーリはその突然の言葉に返せない。モモナリは続ける。

 

「少しでもいいから『生きているポケモン』を知れば良い、とね」

 

 モーリは、記憶の片隅で確かにそういわれていたことを思い出す。しかし彼にとってその言葉は、それまでの自らを全否定された、苦い記憶の象徴だった。

 彼は一瞬、恐れを飲み込んだのちに答える。

 

「知れていた、でしょうか」

「当然。あの場面において、君は座学のほとんどを捨て、到底理解できないような選択肢を取った。冷静に考えれば『アクアジェット』の選択肢がある相手に『こらえる』から『じたばた』のコンボは狙えない。あのウーラオスのトレーナーは、ぬるい動きをするわけでもなかったしね」

 

 その言葉は、あまりにも的確な戦況分析であった。そして、おそらくモモナリは、それを瞬時に理解することができていたのだろうとモーリは思う。

 

「何も考えていませんでした。ただ、目の前に必死で」

 

 その言葉には、ブニャットに対する罪悪感があった。

 だが、モモナリはそれに鼻を鳴らして答える。

 

「そんなものさ、バトルなんてものはね。お互いに思い通りに進むことなんかなくて、動いてから考えるものだよ。君がそのレベルに至っただけで」

 

 賞賛であったが、モーリはそれに苦い顔をする。

 

「普通に考えれば、勝てる選択肢ではありませんでした。ただ、ブニャットを傷つけるだけの」

「だが、ただ傷つける目的でその指示を出したわけじゃないだろう? 君なりに勝利がしたいという気持ちがあったわけだ」

 

 モーリはその言葉に小さくうなずく。モモナリは確信を込めて告げた。

 

「それこそが、トレーナーの正しい姿だよ」

 

 思いがけない肯定に、モーリははっとモモナリに視線を向ける。

 モモナリは、モーリの心の深淵を覗き込むように、静かに続けた。

 

「君はブニャットを理解しようと努めた。そして君は一度ブニャットを『信じない』という過程を踏んだ。どうあがいても、あのウーラオスには勝てないとね。それでも勝利への道を模索し、その為に、身勝手になりふり構わずブニャットを『信じた』」

 

 モーリは、無意識にブニャットのボールを撫でる。

 

「その結果、ブニャットがそれに応えた。素晴らしい連携だった。そして『あの頃の君』に、その感覚は無かった。君は妄信的にガブリアスやファイアローを『信じる』だけで、彼らを『信じない』という過程が無かった。だから弱かったんだ」

 

 モモナリはそこで一度言葉を区切り、モーリの目を真っ直ぐに見つめて、微笑む。

 

「強く、なったね」

 

 モモナリからの「強くなったね」という、何よりも欲しかった言葉。その一言が、まだ戦いの興奮が冷めやらないモーリの胸に、じんわりと、しかし深く染み渡っていく。彼は戸惑いながらも、絞り出すように「ありがとう、ございます」と礼を言った。

 

 少しの沈黙の後、モモナリが、ぬるくなった炭酸ドリンクを一口飲み、何でもないことのように切り出した。

 

「トミノさんやトートク君から、タマムシ大学のこと聞いてるよ」

 

 モーリはその話題を覚悟していたように、「はい」と静かに頷く。

 

「推薦を、受けようと思います」

 

 モモナリは「素晴らしい事じゃないか」と、心からそれを肯定する。しかし、モーリは、その言葉の裏に「君ではリーグで生き残れないだろうから、賢明な判断だ」というニュアンスを、勝手に感じ取ってしまう。

 彼は、自らのコンプレックスから、自嘲的に呟いた。

 

「あなたのようには、なれないですから」

 

 その言葉を聞いた瞬間、モモナリの表情から笑みが消える。彼はピクリと体を震わせ、しばらく考えた後、心底わからないといった様子でモーリをのぞき込んだ。

 

「どういうことだい?」

 

 モモナリの純粋な困惑に、今度はモーリが戸惑う。彼は、自分の考えを説明しようとする。

 

「俺は、バトルで身を立てることはできないでしょう。ポケモンリーグに挑戦することも」

 

 モモナリは、ますます意味が分からないといった風に首を振る。

 

「どうして? リーグには挑戦しないのかい? 今の君なら、八つ目のバッジだって取れるだろう」

 

 モーリは、自らが抱く、ポケモンリーグというものへの「神聖さ」と、それに対する自分の「不誠実さ」について、必死に言葉を紡ぐ。

 

「そうかもしれません。ですが、安定を取って大学に行く僕が、あなた達のようなリーグトレーナーと並ぶ資格はないと思っているんです」

 

 モモナリは、モーリのその言葉に、思わず「はぁ?」と気の抜けた声を漏らしてしまう。そして、彼の父とは共有できたその感覚を、モモナリは全く理解できない。

 

「ちょっと待って待って、よくわからない。何が言いたいの? 今時、大学に行きながらポケモンリーグに参戦するなんて、珍しい事じゃないよ」

 

 モーリは、さらに核心に触れる。

 

「違うんです。俺が言いたいのはつまり、あなたと違って、俺はポケモンバトルにすべてを捧げる覚悟がなかった、ということなんです。現にあなたは、そのようなものに頼らずとも、リーグトレーナーとして生きている」

 

 その言葉に、モモナリは「ちょっと待ってよ、考えさせて」と慌てたようにモーリを制し、じっと腕を組んで考え込む。そして、しばらく首をひねった後、ようやく答えを見つけたように口を開いた。

 

「とりあえず、僕の考えを言うよ。君が大きく勘違いしていることは、大学に行くことを、ポケモンバトルから逃げることだと思っていることだ」

 

 彼は、モーリが理想化している『モモナリ像』を、自らの手で壊し始める。

 

「その例として僕の事を言ったけど、僕は君と違って、そもそも大学に推薦されていないし、進学しようとも思わなかった。そもそも、高校に行っていないしね」

 

 衝撃の事実に言葉を失うモーリに、モモナリは続ける。

 

「そしてそれは、君が思っているほどストイックな理由じゃない。僕はあえて学業に身を捧げなかったのではなく、自分の目の前にある道をただただ歩いただけなんだ。君のように厳しい選択をしたわけではない。そこに手を伸ばせば生きていけたから、伸ばし続けただけだ」

 

 モーリは、その言葉の表面的な意味は理解できるが、やはりそれはモモナリのような特別な人間の生き様だと感じてしまう。

 モモナリは、そんなモーリに、諭すように、そして力強く言う。

 

「選択肢があることは恥ずべき事じゃない。いや、むしろそれは誇るべきだ。君は能力を評価されてタマムシ大学の推薦を手にした。そして、ジムバッジを七つ持っていることも、内容はどうあれ君の能力だ。君はその類まれなる能力で、その二つを手に入れたんだ。それは、君が『力』で手にしたものだ」

 

 モーリは、その言葉に、最後の問いを投げかける。

 

「なら、タマムシ大学の推薦を受けても、リーグを、チャンピオンを目指しても、いいんでしょうか」

 

 モモナリは、満面の笑みで、その答えを肯定する。

 

「良いに決まってる。それこそが、君が手にした力だ」

 

 その言葉は、モーリの心に深く、そして静かに染み渡った。

 大学に行くことは、逃げではない。リーグへの挑戦を諦めることでもない。

 

 それは、自分がこの三年間で、自分の力で手にした、もう一つの確かな道。

 モモナリの言葉は、モーリが自ら課していた『かくあるべき』という呪いを、いとも容易く解き放ってくれた。

 彼は、心の奥にあった重たい何かが、ふっと軽くなるのを感じる。その感覚に、少しだけ救われたような気がした。

 

 モーリが、その思いがけない救済に言葉を失っていると、モモナリは、これまでのおどけたような雰囲気をすっと消し、少しだけ真剣な眼差しで、彼を見つめた。

 

「さて、と。僕も、君に聞きたいことがあるんだ」

 

 その声の響きには、これからが本題なのだと告げるような、静かな重みがあった。

 モモナリは、どこか楽しげに、しかし穏やかに問いを投げかける。

 

「高校は、楽しかったかい?」

 

 モーリは、その問いに一瞬驚くが、これまでの三年間を思い返し、迷いなく、そして確信を持って「はい」と答えた。

 モモナリは、その答えに満足そうに頷きつつも、さらに核心に迫る問いを重ねる。

 

「ポケモンバトル部に入ったね。でも正直、高校のポケモンバトル部は、君がいたレベルに比べるとかなり低いはずだ」

 

 その言葉は、モーリの仲間たちを見下すような響きを持つが、モーリ自身も否定できない事実だった。

 

「とてもではないが、バトルにおいて何かのヒントがあったとは考えにくい。君にとって、その部活動に何があった? それとも、今の君の強さと、部活動とは、関係がないのかい?」

 

 モーリは、その問いにどう答えるべきか、一瞬言葉に詰まる。そして、彼が抱いていた一つの懸念が、口をついて出た。

 

「それって、エッセイに書くつもりですか?」

 

 モーリは、モモナリがエッセイストとしての顔を持つことを知っている。

 自分の内面や仲間たちとの思い出が、面白おかしいエンタメとして消費されることへの、強い抵抗感が彼にはあった。

 その言葉を聞いた瞬間、モモナリはハッとしたように目を見開き、これまでの余裕ある態度を崩して、慌てたように首と手を横に振って否定する。

 

「いやまさか! 誓ってそんなことはしないよ!」

 

 モモナリは、自らの問いの意図を誤解されたと考え、少し沈黙した後、言いにくそうに、しかし真摯に、自らの本当の目的を口にした。

 

「僕は、君に教えを請いたいんだ。情熱を失った後、どうやってそれを取り戻したのか」

「教え、ですか」

 

 戸惑うモーリに、モモナリは目を伏せて、自らの最大の恐怖を告白する。

 

「僕はそれが怖いんだ。バトルへの情熱を失うことが、何よりも怖い。これまでそれが失われたことはないが、いつかそれが来るんじゃないかと、今も恐れている」

 

 モーリは、その考え方の異質さに内心震え上がる。勝敗ではなく『情熱の喪失』を恐れること。そして、彼の年齢になるまで、その情熱が一度も失われたことがないという、常軌を逸した在り方。

 

「だから僕は、君がどうして情熱を取り戻したのか、知りたいんだ」

 

 モモナリの真剣な問いに、モーリは、これまでの出来事を、仲間たちの顔を思い出しながら、静かに答える。

 

「特別、情熱を取り戻そうとしたわけじゃありません。だけど、高校で出会った友人達が、背中を押してくれました。『特別にならなくていい』と『勝たなくても、この時間が無くなるわけではない』と、教えてくれました」

 

 モモナリは、その答えを、一つ一つ噛みしめるように、しっかりと頷く。そして「うーん」と深く唸り、さらに問う。

 

「友達、かい?」

「ええ、友達です。あとはまあ、彼女とか」

「そうかあ」

 

 モモナリはどこか遠くを見るような目で、心から納得したように微笑む。そして、まるで子供のような、無邪気な好奇心で問いかけた。

 

「僕も高校に行ったら、友達、出来るかなあ」

 

 モーリは、その問いに、無責任に「はい」と答えることもできた。だが、彼は少しだけ考えて、自分なりの誠実さで答えてしまう。

 

「どうでしょう」

 

 モモナリは、その返答を少しも不服には思わなかった。むしろ、面白そうに、そしてどこか満足げに、モーリの言葉を繰り返す。

 

「どうだろうねえ」

 

 二人の間に、これまでの対峙とは全く違う、穏やかで、対等な空気が流れた。

 

 

 

 

 その静寂を破るように、公園の入り口のほうから、少し呂律が回っていない、しかし聞き覚えのある声が響く。

 

「モモナリ君!」

 

 二人がそちらに視線を向けると、そこには顔を赤くし、少し足元をふらつかせているトミノとトートクが立っていた。彼らが飲み会を抜け出してきたモモナリを探していたことは明らかだった。

 トミノは、モーリの姿を認めると、安堵と心配が入り混じった表情で、早足に駆け寄ってくる。

 

「ようやく見つけたよ。モーリ君、大丈夫だったかい?」

 

 心配する二人に対し、モモナリは悪びれる様子もなく、飄々とした態度で答える。

 

「何もしちゃいませんよ。ただ、少し、お話をしてただけです」

 

 トートクは、モーリの落ち着いた表情と、場の緊迫していない空気感を冷静に観察し、納得したように頷く。

 

「どうやら、本当にそうみたいですね。我々の取り越し苦労だったかな」

 

 心配する二人をよそに、モモナリは「さっ!」と、まるで今までの真剣な会話など無かったかのように、あっけらかんと立ち上がる。

 そして、トミノとトートクの両肩を、力強くバン!と叩いた。

 

「それじゃあ、三軒目に行きますか!」

 

 あっけにとられる二人。その反応を楽しむように、モモナリは最後にモーリに向き直り、片目を瞑って笑いかける。

 

「じゃあ、また機会があればね」

 

 彼はそう言い残すと、二人の指導者の腕を引きずるようにして、夜の街へと消えていった。

 一人、公園のベンチに残されたモーリは、遠ざかっていく三人の背中を、ただぼんやりと見送っていた。

 彼は、今日の出来事を、モモナリとの会話を、静かに反芻する。

 

 これまで、自分にとってモモナリという存在は、あまりにも巨大で、決して手の届かない、まるで太陽の上にいるような人間だと思っていた。

 しかし、今日、初めて彼の弱さを、悩みを、人間らしい一面を知った。

 

 その事実は、モーリの中で、リーグトレーナーという存在への、そして自らの未来への見方を、静かに、しかし決定的に変えていた。

 モーリは、手の中の温かい炭酸ドリンクの缶を、そっと握りしめた。

 

 冷やして、飲もう。




次回は8/04 8:01に投稿予定です

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