『蝋塗れの手で』~元ガチ勢の俺が、ぬるま湯バトル部に入った結果、皆と「課題」に向き合うことになった話~ 作:rairaibou(風)
あれほど猛威を振るった夏の暑さが、少しずつその勢いを失い始める頃。
けたたましく鳴り響いていたテッカニンの声は、いつしか涼やかなむしの音色に変わり、高く澄み渡った空には、秋の気配が満ちていた。
校庭の木々が、ほんの少しだけ赤や黄色に色づき始め、朝夕の風はひんやりと肌を撫で、季節の移ろいを静かに告げている。
夏が終われば、当然、秋が来る。
インターハイという特別な祭りを終えた彼らに、新たな季節が、そして新たな戦いの舞台が、静かに近づいていた。
☆
九月。夏休みが明け、ライモン高校に新学期が始まった。
校門をくぐる生徒たちの間では、夏休みの思い出と、間近に迫る文化祭や体育祭の話題で、どこか浮ついた空気が流れている。アスファルトの照り返しはまだ強いが、吹く風には秋の気配が確かに混じり始めている。
モーリが三年生の教室に入ると、旧知のクラスメイトであるミマが、待っていましたとばかりにニヤニヤしながら声をかけてきた。
「よう、高校最強トレーナーさんのお出ましだ」
そのからかいに、モーリは「うるせえよ」と、教科書で軽く彼の頭を叩きながらあしらう。
彼のクラスには、ポケモンバトル部の仲間は誰もいない。
インターハイでの優勝という、自分にとってはすでに過去になりつつある出来事が、ここではまだ新鮮な熱を帯びていた。
☆
体育館に集まった全校生徒の列は、整然としていた。けれどその内側には、久しぶりに会う友人との再会を喜ぶ、どこか弛緩した空気が漂っている。
やがて、壇上に校長が立ち、穏やかな口調で話し始めた。
「夏休みは、良い思い出を作れましたか? 皆さんの日焼けした顔を見ていると、それぞれが充実した時間を過ごしたことと思います。そして三年生は、これからは大人になるための大切な期間です。自らの進路と向き合い、悔いのない選択をしてください」
その言葉は、生徒たちの心に、受験シーズンの到来を静かに、しかしはっきりと告げた。
続いて、部活動で結果を残した生徒たちの表彰が始まる。壇上に呼ばれるのは、吹奏楽コンクールの金賞、美術展での入賞、書道展での推薦など、文化部の生徒がほとんどだった。
その中で、最後に、モーリの名前が呼ばれる。
「そして、ポケモンバトル部、モーリ君。インターハイ個人戦、優勝。本校に、輝かしい栄光をもたらしてくれました」
文化部の華やかな実績が並ぶ中、彼のその異質な経歴は、ひときわ全校生徒の注目を集めた。
大きな拍手に、モーリは少し気恥ずかしさを感じながらも、胸を張って壇上に上がった。
校長から賞状を受け取る、その一連の動作。去年、インターハイでベスト八に残ったときのような、どこか他人事のような感覚はなかった。
今、自分は確かにここにいる。
じっとりと汗を滲ませた手のひらに伝わる、賞状の確かな重み。耳に届く、仲間たちの、そして全校生徒からの温かい拍手。その全てが、あの夏の激闘の記憶と、仲間たちと分かち合った喜びを鮮やかに蘇らせた。
☆
教室に戻ると、モーリは自分がクラスの話題の中心になっていることを、すぐに悟った。
「おい、モーリ! マジですげーじゃん!」
「まさかうちの高校から覇者が出るとはなあ」
「おいお前ら、サイン貰うなら並べよな」
「いやあ今回はガチで貰っとこうかなあ」
ミマをはじめとするクラスメイトたちが、次々と彼の席に集まってくる。その顔には、興奮と、純粋な好奇心が浮かんでいた。
モーリは、その熱気に少し気圧されながらも「まあ、運が良かっただけだよ」と、照れ隠しに曖昧に笑う。
その時、教室の扉が勢いよく開き、担任の先生が入ってきた。
「おー、お前ら、席に着けー。ホームルーム始めるぞー」
担任は、出席簿をポンと教卓に放り投げると、休みがいないことを軽く確認してから口を開く。
「新学期おめでとう、変わらないメンバーで迎えられることは当たり前のように思えるかもしれないが実は幸せなことだ。さて、先生率いる野球部がなんと地区大会準決勝まで行ったことはもはや説明不要だと思います。組み合わせの妙とはいえ、勝ち切るときに勝ち切るときはとても大事です。準決勝の相手である私立ツキノヒ学園は最近設立された学校ですが非常にスポーツに力を入れている学校で、先生正直やばいなと思っていました。結果として負けはしましたが、コールドにはなりませんでした。先生は彼らを誇りに思います」
ひとしきり自分の話で場を温めた後、彼は付け加えるように、しかし確かな誇りを声に滲ませて言った。
「ああ、それとモーリ、インターハイ優勝おめでとう」
その自然な流れに、クラスメイトたちから、再び温かい拍手が送られる。モーリは少し照れながらも、席で軽く頭を下げた。
しかし、その日の授業が始まると、教室の空気は一変した。
これまでどこか緩やかだった先生たちの口調は、明らかに熱を帯び、「ここ、試験に出るぞ」「三年生のこの時期が、一番大事なんだからな」といった言葉が、頻繁に飛ぶようになる。
クラスメイトたちも、その空気を敏感に感じ取り、休み時間に騒いでいたのが嘘のように、真剣な表情でノートを取り、ペンを走らせていた。
夏休みという祭りが終わり、三年生としての、逃れられない現実が始まった。
その日の放課後になる頃には、教室の熱狂はすっかり冷め、話題は模試の結果や志望校の判定、冬期講習の申し込みといった、現実的なものへと完全に切り替わっていた。
休み時間、ミマが、どこか疲れたような足取りでモーリの席へとやってくる。朝のからかうような明るさは、もう彼の表情にはなかった。
「お前は推薦でいいよなあ」
机に肘をつき、大きなため息と共にもらされたその言葉には、本心からの羨望が滲んでいる。
「推薦つっても、共通試験の点数はいるぞ」
「そりゃまあ、そうなんだろうけどさあ」
ミマは、観念したように頭を掻く。
「皮肉ぐらい言わせてくれよお。俺、そろそろ本気で、試験がこええんだよ」
その弱音に、モーリはミマの肩に視線を落とす。彼の未来をかけた戦いもまた、すぐそこまで迫っている。
「消防士の試験って、そろそろなのか?」
「学科は十月だ」
その短い答えに、モーリは何も言えなかった。
☆
放課後。モーリ、ムラナカ、タケダ、そしてスズモトの三年生四人は、連れ立って最後の部活へと向かう。向かう先は、もうあの手狭な部室ではない。
グラウンドのすみっこ。そこには、いつの間にか増えた、たくさんの後輩たちの姿があった。彼らが思い思いに準備運動をしたり、ポケモンとじゃれ合ったりしている光景は、ほんの一年前には考えられなかったものだった。
彼らをまとめるように、サイトーが腕を組んで立っている。
「おー、来たかお前ら」
サイトー先生が、主役の登場を待っていたかのように、ニヤリと笑って声をかけた。彼女は、モーリ、ムラナカ、タケダの三人を、後輩たちの前に立つように、顎でくいと促す。
「ほら、最後の挨拶だ。お前らから、後輩たちに何か言ってやれ」
三人は顔を見合わせ、少しだけ照れくさそうに前に出る。
モーリは、目の前に並ぶ後輩たちの顔一人一人を見渡した。人数ギリギリで、廃部の危機すらあったあの頃を思い出しながら、不器用ながらも、心からの感謝の言葉を述べる。
「こんなに増えるとは思ってなかった。今まで、ありがとう」
サイトーは、三年生たちの挨拶を満足げに聞いた後、全部員に向き直り、その大きな声で締めの挨拶を始めた。
「三年生、本当にお疲れさん。特にモーリ、お前の実力は、私みたいな素人が見てもずば抜けてたよ」
彼女はそこで一度言葉を切り、モーリの隣に立つムラナカやタケダ、そしてフィールドの脇で見守るスズモトに、温かい視線を送る。
「だがな、こいつは、お前たち下級生が思っているほど、完璧超人だったわけじゃない。リーダーとしては初めての経験で、戸惑うことも、一人で抱え込むことも多かったはずだ。けど、それを周りの助けと、あいつ自身の努力でカバーして、見事にチームをまとめ上げた」
サイトーは、再びモーリに視線を戻す。
「インターハイの個人戦優勝は、確かにお前の資質かもしれん。だがな、あの団体戦でのインターハイ出場は、間違いなく、ここにいるモーリたち三年生全員の、そしてチームの成長だった。私は、それを誇りに思う」
その言葉に、三年生たちは少し照れくさそうに、しかし誇らしげに胸を張る。
サイトーは、そんな彼らの姿に満足げに頷くと、ニヤリと笑ってモーリに問うた。
「で、どうする。やるか? 追い出し」
モーリは、その言葉を待っていたかのように、静かに、しかし強く頷いた。
そのやり取りに、新入部員のセラが「追い出し、ですか?」と、隣にいたコウヌに尋ねる。
コウヌは、得意げに胸を張って答えた。
「三年生が負けるまで、下級生が全力で戦いを挑むッス。この部の、熱い伝統っすよ!」
「伝統、ですか」
伝統、という単語の持つなんとなくの重みに、一年生たちは少しざわめいた。
しかし、ムラナカがやれやれといった様子で、ぼそりとツッコミを入れる。
「大した伝統じゃないって、四、五年前からだって」
ふと、スズモトが心配そうに、しかしはっきりと問いを投げかけた。
「ところで、戦うのはモーリ君だけでいいんですか?」
その純粋な問いに、二、三年生たちの動きが一瞬止まる。そして、誰からともなく、くすくすと笑い声が漏れ始めた。
これまで、卒業する三年生はツキシタ、イイダと、たった一人だけだった。そもそも、三年生全員で戦うのか、それとも部長だけで戦うのか、そんなルールすら決まっていなかったのだ。
ムラナカが、呆れたように、しかし楽しげに言う。
「まったく、大した『伝統』だねえ」
その場の軽い話し合いで『追い出しバトルは、引退する部長が一人で行う』という、新たなルールが即席で決定される。
タケダが、満足げに頷きながら、後輩たちにウィンクしてみせた。
「あまり時間のかかる『伝統』を残してしまうと、後輩の方々が大変ですものねぇ」
その言葉に、後輩たちから再び笑いが起こる。夕暮れのグラウンドに、ライモン高校ポケモンバトル部らしい、温かい空気が流れていた。
☆
グラウンドに簡単に線を引かれただけの対戦場のコーナーで、オーアサ、コウヌ、セラの三人がこそこそと作戦会議をしている。
「おい一年、この三人が負けたらお前らが出ていくんだから」
サイトーがどこか他人事のような一年生達にそう投げかけている間に、その対面にいるモーリがブニャットを繰り出した。
しっかりと櫛を通され、毛並みは艶やか。爪もしっかりと切ってある。
だが、その前足が汚れることを一切気にせず、彼女は地面を踏みしめた。
「じゃあ、私が行きます」
オーアサが手を挙げて、対面に立った。
「お願いします」と、繰り出されたのはブーピッグ。
「『ねこだまし』」
ブニャットはすぐさまにそれに飛び掛かり、目のあたりで前足を叩く。
ブーピッグはそれに怯んだが、すぐさまに体勢を整えた。
戸惑いが無くなっているな。と、モーリはうなづく。
入部当初のオーアサには固さや戸惑いがあった。そして、手持ちのバネブーがブーピッグに進化してからは、そのパワーや機動力の変化に戸惑うこともあった。
だが、それはもう無くなっている。
ブニャットが再度踏み込む、ブーピッグは迎撃の体勢。
「『シャドークロー』」
影によって鋭さを増した爪でブーピックに襲い掛かる。
エスパータイプのブーピッグにとって、それは効果が抜群なはずだ。
だが、ブーピッグはそれに耐えた。もちろんブニャットのフィジカルの弱さもあるかもしれないが、オーアサ達の日々の練習の成果だろう。
「『でんじは』!」
引き込んだブニャット相手に、ブーピッグの宝玉から電撃が放たれる。
それはダメージこそないが、ブニャットを確実に『まひ』させた。
いい選択肢だ。
体毛を膨らませながらブーピッグから離れるブニャットを視界に入れながら、モーリはそれを喜んだ。
ブニャットのストロングポイントである機動力を抑えつつ、ブーピッグを動きやすくする。例えここで成果が出ずとも、後続の助けになる良い選択肢。
何より、しっかりとこちらを引き込んでから打ち込んだ。
よく勉強している。
「『サイコキネシス』!」
「『でんこうせっか』」
その連携も良い、相手に息をつかせる暇を作らない素早い攻撃の組み立てだ。何よりブーピッグとオーアサの連携が進化している。テレパシーによる連携を磨き、すでに速さにおいてはそこら辺のバッジ持ちを凌駕するだろう。
だが、だからこそ、ブニャットが一歩早く制する。
リズムを外す唐突な踏み込みでブーピッグに突っ込んだブニャットは、宝玉から『サイコキネシス』が放たれるよりほんの少しだけ早く、その腹にタックルを決めた。
すでに大きなダメージを負っていたブーピッグにとって、その一撃はダメ押しとなった。
倒れたブーピッグを、オーアサは少しだけ悔しそうにボールに戻す。
「ありがとう、ございました」
すぐさま、コウヌが手を挙げながら進む。
「次は俺っス!」
彼はオーアサの肩を優しく叩き、軽くハイタッチを行う。
「おつかれ」
「うん、がんばって」
オーアサも軽くうなづいて対戦場から出た。
「さあ先輩! 引導を渡してやるっスよ!」
繰り出されたマリルリは、明らかにやる気満々な様子で、まるでケンタロスがそうするかのように地面を足で掻いた。
だが、彼女はぐっと前への推進力をこらえた。
コウヌからの指示がまだないからだ。
彼女らは、当然『ねこだまし』を待った。
だが、わずかに待ってもブニャットが動かないことを確認したコウヌは指示を飛ばす。
「『アクアブレイク』!」
成長した。
モーリは向かってくるマリルリを眺めながらそう思った。
コウヌ達は『まひ』を待った。そしてセオリーの『ねこだまし』が飛んでこないからブニャットの体がしびれたのだと攻撃を指示した。
元々完全な素人であったことを考えれば、素晴らしい成長であった。
だからこそ、もう一段階上の読み合いを仕掛けた。
「『いちゃもん』」
吹き飛ばされる瞬間、ブニャットは特徴的な鳴き声でマリルリに『いちゃもん』をつける。
彼女はマリルリの『アクアブレイク』をモロに食らって地面に叩きつけられる。艶やかな毛並みが泥にまみれるが、なんとか体勢を建て直す。
だが、わずかに前足がふらついているのを見て、モーリはマリルリの攻撃が自分たちの想像以上だったことを知る。
武器をしっかりと磨いている。
コウヌは素人だったが、マリルリはマリルのころから好戦的で『ちからもち』だった。コウヌもうまくその攻撃力を引き出している。ある程度彼女が気持ちよく戦えるように気を配っているのがわかる。
「『じゃれつく』!」
マリルリが再びインファイトを仕掛ける。
『いちゃもん』にうまく対応し、同じ攻撃を続けない。
「『こらえる』」
前足は少しふらついているが、ブニャットはマリルリの突進を受け止めた。
だが、コウヌはすぐさまに次の指示を出す。
「『アクアジェット』!」
準備していた技だ。
こういう時のために練習していた技。
マリルリの腕は短いが、インファイト故それが届く。
「『まもる』」
しかし、ブニャットは背中からそれを受けるようにして身を『まもる』
コウヌは、攻撃を食らってまで受けた『いちゃもん』の目的を理解した。
だが、すぐに気持ちを切り替える。
ひいてはいけない、こういう時こそ押すべきだ
「『アクアブレイク』!」
再び突っ込んでくるマリルリ。
モーリは、迎撃のタイミングを見図らないながら、それでこそだ、とうなづいた。
攻撃攻撃攻撃、その圧力は確実にプレッシャーを与えている。
「『じたばた』」
なりふり構わぬブニャットの体全体のタックルが、マリルリを迎撃する。
渾身の力を込めた攻撃だ。たとえマリルリといえど抗いようがない。
吹き飛んだマリルリは一度立ち上がったが、ブニャットを睨みつけながら前のめりに倒れた。
「くっそぉ、やっぱダメッスかぁ」
マリルリをボールに戻し、コウヌは首を垂れる。
だが、すぐに顔を上げ、モーリに深く頭を下げる。
「ありがとうございました! いつか先輩にも勝てるようになりたいっス!」
「そう遠くないかもしれないですよ」
その背中に、セラが声をかけた。
「今の試合だって相手が『まひ』ってたらわからなかったですし」
「そっかぁ」
笑顔を見せるコウヌとハイタッチしたセラは、明らかに消耗しているブニャットとモーリを交互に見てから問う。
「少し休憩でもしますか?」
その言葉に、モーリはどことなく既視感を覚えた。
そして、その時とおそらく同じように、モーリはセラを指さして答える。
「これは『追い出し』だぞ」
ブニャットもまた、前足でグラウンドを掻いた。
「舐めるなよ、先輩を」
セラはその言葉に背筋を伸ばす。
「それなら、本気で行きますよ」
繰り出されたクロバットに対して、セラは間髪入れずに指示を飛ばす。
「『つばめがえし』」
特別目を張る指示ではない。
相手の体力はわずかで『じたばた』を考えると攻撃以外はない。何より『ねこだまし』がある。
当然、モーリもその指示をした。
「『ねこだまし』」
だが、ブニャットは動かなかった。
否、そうではない、動けなかったのだ。『まひ』により。
空気を切り裂きながら放たれた『つばめがえし』がブニャットを捉え、ブニャットは力が抜けたようにグラウンドに身を預けた。
静寂が、フィールドを支配する。
誰もが、そのあっけない幕切れに言葉を失っていた。
しかし、その静寂を破ったのは、フィールドの脇で見守っていたムラナカの、力強い拍手だった。
その音に導かれるように、タケダが、スズモトが、そしてサイトーが、後輩たちが、次々と拍手を重ねていく。
その温かい音は、引退する部長、モーリの最後の戦いを称えるものであると同時に、王者に全力で挑み、確かな成長を見せたオーアサ、コウヌ、セラ、三人の後輩たちに送られる、心からの賞賛でもあった。
☆
拍手が鳴りやむと、サイトーが「よし」と声を上げ、自らのモンスターボールを構える。
「お前ら、よく頑張った。タブンネさんに癒してもらいな」
ボールから現れたのは、サイトーのパートナーであるタブンネだった。
タブンネは、その大きな耳を揺らしながら、まずは倒れているブニャットに駆け寄る。そして、その両手から、温かく、そして柔らかな光が放たれた。
ブニャットの体が、その『いやしのはどう』に包まれ、少しずつ呼吸が穏やかになっていく。
それを見て、オーアサやコウヌも、自らのパートナーをタブンネのもとへと連れて行った。
サイトーは、その光景を、満足げな、そして少し寂しげな表情で見守っていた。
やがて、サイトーが、その場の空気を引き締めるように、モーリに声をかける。
「さて、モーリ。お前の最後の仕事だ。このライモン高校ポケモンバトル部を、次に託す人間を、お前の口から発表しろ」
その言葉に、後輩たちの間に緊張が走る。
部員たちの誰もが、実力者のセラか、あるいは誰よりも情熱のあるコウヌを想像し、固唾をのんでモーリの言葉を待つ。
モーリは、後輩たちの顔を一人一人見回した後、静かに、しかしはっきりと、次の部長を指名した。
「次の部長は、オーアサに頼みたい」
その指名に、オーアサ本人は驚きで目を見開く。彼は、すぐ隣に立つセラと、そしてモーリの顔を、信じられないといった様子で交互に見つめた。
「な、なんで、私が。コウヌ君やセラの方が、強いのに」
その、誰もが思っていたであろう純粋な疑問。
モーリは、その言葉に静かに頷き、オーアサに、そして全部員に語りかけるように、その理由を話し始めた。
「確かに、バトルの実力で言えば、セラの方が上かもしれない。それは俺も認める」
彼は一度、セラの目を見て、その実力への敬意を示す。
「だけどな、部長に必要なのは、それだけじゃないんだ」
モーリは、オーアサに視線を戻す。
「オーアサ、お前はいつも、自分のバトルだけじゃなく、部全体のことを、そして仲間たちのポケモンの状態にも、誰よりも気を配っていた。少なくともその方面においては、オーアサが一番ふさわしいと思った」
それは、かつて自分がこの部に救われた理由そのものだった。
強さだけを追い求め、周りが見えなくなっていた自分を、ただの仲間として受け入れ、支えてくれた、あの温かさ。
「この部には、お前のような冷静な分析力と、仲間を思いやる心が必要なんだ」
その言葉に、フィールドの脇で見守っていたムラナカとタケダが、深く、そして静かに頷いた。彼らもまた、この部の本質が、単なる強さだけではないことを、誰よりも理解している。
モーリは、後輩たち全員に語りかけるように、続ける。
「オーアサには、部全体を見てもらう。スケジュール管理や、みんなのポケモンのコンディション、そういう、チームの土台になる部分だ」
彼は、一度セラのほうに向き直る。
「そしてセラ、お前には、バトルに関する知識や、トレーニングメニューの作成を頼みたい。お前の経験は、絶対にこの部の力になる」
冷静なオーアサの分析力と、セラの経験。モーリは、その二つが合わされば、この部はもっと強くなると信じていた。
セラは、そのモーリの意図を完全に理解し、静かに、しかし強く頷いた。
「合理的ですね。異論はありません」
オーアサにはいまだに戸惑いがあったが、コウヌが真っ先に「あんたになら、任せられる!」と、その背中を力強く叩いた。
オーアサは、覚悟を決めた表情で「はい。やらせて、いただきます」と、深く頭を下げる。
その時、スズモトが、モーリに近寄り、夕暮れの空の色に似た、オレンジ色の花で束ねられた小さな花束をそっと手渡した。
「お疲れさまでした、キャプテン」
その言葉に、モーリは照れくさそうに、しかし、この三年間で見せたどの顔よりも優しい表情で「ああ」と応える。
その言葉に、後輩たちが少ししんみりとした空気に包まれた、その瞬間。サイトーが、その空気を断ち切るように、パン、と大きく手を叩く。
「よし、お前ら一年! 感傷に浸ってる暇はねえぞ! いつものランニングメニューから始めろ!」
サイトーの檄に応えるように、後輩たちの元気な声が、夕暮れのグラウンドに響き渡る。
その活気を背に受けながら、モーリたち三年生の時間は、確かに、終わりを告げようとしていた。
次回は8/08 8:01に投稿予定です
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