『蝋塗れの手で』~元ガチ勢の俺が、ぬるま湯バトル部に入った結果、皆と「課題」に向き合うことになった話~   作:rairaibou(風)

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51-一月の、ライバルの背中

 一月の、凍えるように冷たい朝。共通試験当日。

 

 モーリは、祖母の家で目を覚ました。

 机の上には、この一年で使い込まれた参考書と、彼なりにまとめたノートが、まるで小さな山のように積まれていた。その光景を一瞥し、静かに息を吐く。

 ポケモンバトルとは違う、静かで孤独な戦いを前に、しかし彼の心には不思議と緊張はなかった。

 数々の修羅場を乗り越えてきた彼にとって、ペーパーテストというものは、どこか対処可能な、コントロールできるもののように感じられていた。

 

 

 

 

 駅前の広場で、モーリは約束の時間より少しだけ早く着いていた。自販機で買った温かいミルクティーをすすりながら、行き交う同じ制服の学生たちをぼんやりと眺める。やがて、見慣れた顔が、人混みの中から現れた。

 

「お、おはよう、モーリ君」

 

 スズモトだった。彼女の顔は寝不足のせいか少し青白く、その手はコートのポケットの中で、参考書を強く握りしめているのが見て取れた。隣には、同じく硬い表情をしたムラナカもいる。

 

「おはよう」

 

 モーリが普段と変わらない調子で返すと、そこに、なぜか一人だけ元気な足音が近づいてきた。

 

「皆様、おはようございます!」

 

 タケダだった。彼女の手には、コンビニの袋とは違う、上品な紙袋が握られている。その顔は自信に満ち溢れていた。

 

「お母様が、今朝は『勝利を掴んでこい』と、カツ丼を二杯も作ってくださいましたの! これでわたくしの勝利は間違いありませぇん!」

「それ、試験前にやることじゃないし、二杯は絶対食べすぎだと思うけど……」

 

 ムラナカの弱々しいツッコミに、タケダは「あら、そうですの?」と本気で首を傾げる。その能天気さに、スズモトとムラナカの緊張が、ほんの少しだけ解けたようだった。

 

 四人は、互いの健闘を祈るでもなく、ただ自然な流れで、同じ試験会場へと向かい始めた。

 試験会場へと向かう途中、人通りの少ない路地を抜ける。

 

「なんだか、夏が終わってからあっという間だったね」

 

 ふと、スズモトが、どこか感慨深げに呟いた。その声は、冬の澄んだ空気に静かに溶けていく。

 

「ああ。あとは、しっかりとこの試験をこなすだけだな」

 

 ムラナカが、自分に言い聞かせるように応じる。その言葉に、タケダも「そうですわねぇ」と静かに頷いた。

 彼らの間には、これまでの全てを乗り越えてきた者たちだけが共有できる、穏やかで、しかし確かな連帯感が流れている。

 

 スズモトは、空を見上げながら、ほんの少しだけ不安げに、しかし祈るように言った。

 

「本当に、何も起こらなければいいけど」

 

 スズモトがそう祈るように呟いた、その言葉が、まるで不吉な予言であったかのように。

 突如、上空から威嚇するような大きな鳴き声と共に、一羽の野生のオニドリルが彼らの前に舞い降りた。縄張りを荒らされたと勘違いしたのか、鋭い嘴をこちらに向けている。

 スズモトが、かつての記憶から小さく悲鳴を上げ、その場に立ちすくむ。モーリは、反射的に彼女の前に一歩出て、守るように立ちはだかった。

 

 だが、モーリがボールに手をかけるよりも、ほんのわずかに早く。

 

 二つの赤い光が、冬の朝の冷たい空気の中で弾けた。

 

 ムラナカが、タケダが、ほぼ同時にそれぞれのパートナーを繰り出していたのだ。

 ファイティングポーズを取るエビワラーと、その巨体で大地を揺るがすケッキング。一瞬にして、二体の強力なポケモンが放つ、ただならぬオーラがその場を支配する。

 

 オニドリルは、目の前に現れた二体の、明らかに格上の存在を前に、一瞬にして戦意を喪失。すごすごと、しかし全速力でその場から飛び去っていった。

 そのあっけない結末に、四人は顔を見合わせて、ふっと笑みをこぼす。インターハイを戦い抜いた彼らは、知らず知らずのうちに、圧倒的な強者の空気を纏うようになっていた。それは、試験前の彼らにとって、ささやかな自信となった。

 

 

 

 

 広大な試験会場。何百という机と椅子が、整然と、そして無機質に並んでいる。効きすぎた暖房の熱気と、大勢の受験生が発する静かな熱が、独特の緊張感となって空気を満たしていた。

 試験官の冷たい声だけが響き、あとはページをめくる音、誰かが咳き込む音、そして、無数の鉛筆が紙の上を走る音だけが、静寂の中に満ちている。

 

 モーリは、問題用紙と向き合っていた。

 それは、読み合いや駆け引きの通用しない、純粋な知識と思考力だけが試される、孤独な戦い。

 ポケモンバトルのような、アドレナリンが駆け巡る感覚はない。ただ、一つ一つの問題と、冷静に、そして誠実に向き合う。それは、彼がこれまであまり経験してこなかった、もう一つの「戦い」の形だった。

 

 長い試験時間の中で、集中力が途切れそうになる瞬間が訪れる。焦りや不安が、胸の奥からじわりと滲み出てくる。

 その時、彼はふと、仲間たちのことを思った。

 

 この広い会場のどこかで、今この瞬間、スズモトも、ペンを口に当てて、難しい顔で問題とにらめっこしているのだろうか。

 ムラナカは、きっと美術のデッサンのように、冷静に、そして緻密に、問題の構造を分析しているのかもしれない。

 タケダは、意外な集中力で、黙々と解答用紙を埋めているのだろうか。それとも、カツ丼のパワーが切れて、少し眠くなっているのだろうか。

 

 その想像が、モーリの口元に、ほんのわずかな笑みを浮かばせる。

 自分は、一人ではない。

 同じ時間、同じ場所で、仲間たちもまた、それぞれの孤独な戦いに挑んでいる。その事実が、彼の心を、不思議と強く支えていた。

 ライモン高校で得たものは、バトルの経験だけではなかったのだと、彼は改めて実感する。

 

 モーリは、再び問題用紙に視線を戻した。

 鉛筆を握る手に、もう迷いはなかった。

 

 

 

 

 二日間にわたる共通試験の、最後の一科目が終わる。

 

 終了を告げるチャイムの音が、静まり返った会場に鳴り響いた瞬間、張り詰めていた糸が切れたように、会場全体から解放されたような深いため息が、静かな波のように広がった。

 ペンを置く音、椅子を引く音、誰かが小さく伸びをする音。それらが、戦いの終わりを告げる、静かなファンファーレのようだった。

 受験生たちが、それぞれの重圧から解放され、疲れた表情の中にも確かな達成感を滲ませながら、ぞろぞろと会場の外へ出ていく。

 

 人混みの中、モーリ、スズモト、ムラナカ、タケダの四人は、自然と互いの姿を探し、会場の外で再会した。

「どうだった?」などという、無粋な言葉を交わす者はいない。ただ、互いの顔を見て、小さく笑い合うだけで、この二日間の過酷な戦いを乗り越えた、仲間としての絆を感じ合っていた。

 

 

 

 

 四人が、駅へと向かう帰り道を歩き始めた、その時だった。

 

 駅前の雑踏を抜けた先、少しだけ開けた広場の一角が、不自然なほどに静まり返っていることに、ムラナカが最初に気づいた。

 

「なんだ、あれ」

 

 彼の視線の先では、人々がまるでそこだけ見えない壁があるかのように、その空間を避けて通り過ぎていく。

 その中心に、数人の学生が、明らかに周囲を威圧するように、だらしなく壁にもたれかかっている。制服の着崩し方と、鋭い目つきは、見覚えのあるものだった。

 

 モーリたちが、その異様な光景に足を止めた、その瞬間。

 壁にもたれていた学生たちの一人もまた、モーリの姿を捉えた。彼の視線が、仲間たちに何かの合図を送る。

 そして、彼らはゆっくりと、しかし迷いのない足取りで、モーリたちの行く手を塞ぐように現れた。

 

 その中の一人が、一歩前に出て、顎をしゃくりながら、ぶっきらぼうに告げる。

 

「よう、ライモンのモーリ。ウチのカザさんが、お前とサシで話したいそうだ。ついてきな」

 

 その言葉に、モーリは思わず、訝しげに聞き返した。

 

「カザが?」

 

 ライモンのメンバーたちの間に、かすかな緊張が走る。スズモトは、心配そうにモーリの横顔をうかがった。

 

 

 

 

 リオー高校の下級生に案内されるようにして、モーリは一人、仲間たちから離れて試験会場の裏門へと向かった。

 スズモトたちが心配そうにこちらを見ていたが、モーリは「大丈夫だ」と、視線だけで彼女たちを制する。その眼差しには、もう迷いはなかった。

 

 人気のない裏門の近く。夕暮れの光が、コンクリートの壁に長い影を落としている。

 そこに、カザは一人で立っていた。

 彼は、ポケットに手を突っ込み、どこか遠くの空を眺めている。その背中は、いつものような威圧感はなく、むしろどこか寂しげに見えた。

 

 モーリの足音に気づき、カザがゆっくりと振り返る。

 

 その表情には、いつものような不敵な笑みはない。気まずそうに一度視線を逸らし、それから、何かを振り払うように、モーリの目を真っ直ぐに見つめ返した。その瞳の奥には、切実な、そして揺るぎない覚悟が浮かんでいる。

 

 彼は、唐突に、しかしどこか遠くのことを語るような、静かな口調で告げた。

 

「明日、イッシュに行く」

「イッシュに?」

 

 モーリは、その言葉の意味をすぐには理解できず、思わず聞き返す。

 

「ああ。ブルーベリー学園ってとこから、推薦が来てな。もう、決めたんだ」

 

 その言葉に、モーリは素直に、そして心からの賞賛の念を込めて息を吐いた。

 

「すげえな、お前。イッシュに、一人で行くのか」

 

 それは、ただの相槌ではなかった。

 この地方から、たった一人で海を越え、全く新しい世界に飛び込んでいく。その決断の重さと、それに伴う覚悟の強さを、モーリは痛いほど理解していたからだ。

 その賞賛に、カザは少し照れくさそうに、しかしどこか誇らしげに鼻を鳴らす。

 

「まあ、俺ならどこでも生きていけるさ。シザリガーみたいなもんだから」

 

 彼はそう言って、モンスターボールをそっと撫でた。その仕草には、ぶっきらぼうな言葉とは裏腹の、相棒への深い信頼と愛情が滲み出ていた。

 

 そして彼は、自らの髪をなでながら続ける。

 

「イッシュに行きゃ、この髪の色も、目の色も、目立たなくなるだろ」

 

 カザは、その次の言葉をすぐには続けられなかった。一度、唇を固く結び、それから、何かを振り払うように、モーリの目を真っ直ぐに見つめ返した。

 

「どうしても、お前に会っておきたかった」

 

 その声は、驚くほど静かで、しかし、これまでにないほどの重みを持っていた。

 

「俺さ、ずっと、強いってことがどういうことか、分かってなかったのかもしれない」

 

 カザは、どこか遠くを見るような目で、ぽつり、ぽつりと語り始める。それは、モーリがこれまで一度も見たことのない、彼の弱さの告白だった。

 

「ただ、目の前の奴を叩き潰して、それで一番になればいい。ずっと、そう思ってた。でも、お前と会って、バトルして、マジで、変わったんだよ、俺は」

 

 彼は、自らのプライドをかなぐり捨てるように、初めて素直な言葉を口にする。

 

「お前がいなきゃ、俺は、ただの腕っぷしが強いだけのガキで終わってた。ありがとな」

 

 そして、彼は最後に、モーリの肩を力強く掴んだ。その手には、抑えきれない感情からか、わずかな震えが混じっている。

 

「こっちに帰ってくるかどうかはわからねえけど、もし、何かあったら連絡よこせ。どこにいたって、絶対に助けてやるから」

 

 それは、ライバルとして、そして唯一無二の友人としての、彼の最大の誠意であり、固い約束だった。

 モーリは、彼のその言葉を、静かに、しかし深く受け止める。そして、カザの拳に、自らの拳を強く突き合わせた。

 ゴツン、と、鈍い音が二人の間に響いた。

 

 

 

 

 カザの背中を見送ったモーリは、仲間たちが待つ場所へとゆっくりと戻る。

 彼の帰りを心配そうに待っていたスズモトが、真っ先に駆け寄ってきた。

 

「モーリ君、大丈夫だった……?」

 

 モーリは、その心配そうな表情に、穏やかな、そして少しだけ照れくさそうな笑みを浮かべて答える。

 

「ああ。全然大丈夫だったよ」

 

 彼の表情には、もう迷いや葛藤の色はなく、ライバルの旅立ちを祝福するような、晴れやかなものが浮かんでいた。仲間たちは、そのモーリの変化を静かに感じ取る。

 

 仲間たちと共に帰路につく。カザとの別れは、モーリに自らの進路への覚悟を、改めて固めさせていた。大学に行くことも、リーグを目指すことも、どちらも間違いではない。それぞれの道で、強くなればいい。その答えが、彼の胸の中にはっきりと生まれていた。

 彼は、隣を歩くスズモトに、ふと、しかし確かな声で呟く。

 

「俺も、頑張らないとな」

 

 その言葉には、これまでの迷いが完全に消え、自らの未来へと力強く踏み出す覚悟が込められている。

 スズモトは、彼のその変化を敏感に感じ取り、最高の笑顔で頷き返すのだった。二人の間には、もう言葉は必要なかった。




次回は8/12 8:01に投稿予定です

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