『蝋塗れの手で』~元ガチ勢の俺が、ぬるま湯バトル部に入った結果、皆と「課題」に向き合うことになった話~   作:rairaibou(風)

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54-蝋塗れの手で

 三月の下旬。

 

 冬の名残をすっかりと洗い流したような、柔らかな光が街を包んでいる。

 通りの桜並木は満開を迎え、風が吹くたびに、薄紅色の花びらが、まるで名残を惜しむかのように、はらはらと舞い落ちる。

 それは、別れと、そして旅立ちの季節が来たことを告げる、優しく、そして少しだけ切ない風景だった。

 

 旅立ちの朝。

 モーリは、がらんとした下宿先の祖父母の家で、最後の荷造りをしていた。

 幸い、彼の三年間は、段ボール三つ程度に収まった。それは既にもう、カントーの実家へと送られている。

 

 モーリは、ボディバッグに収まるだけの最低限の荷物を詰める。財布、携帯端末、充電器。それらを無造作に放り込み、部屋の中を見渡した。

 何かを忘れているような、そんな気がする。

 彼は、いつも使っているブニャットの真新しいクシが見当たらないことに気づき、部屋の中を探し始めた。その静かな部屋に、彼の衣擦れの音だけが響く。

 

 不思議に思いながら玄関に向かうと、そこには、既に出発の準備を終えたブニャットが、そのクシを誇らしげに咥えて、モーリを待っていた。

 

「なんだ、お前が持っていたのか」

 

 モーリは、苦笑しながらそれを受け取り、ジャケットのポケットにしまう。

 

「新幹線でブラッシングするわけにはいかないからなあ」

 

 モーリはブニャットの頭をポンポンと撫でると、ベルトに三つのモンスターボールがあることを確認する。そして、モーリはブニャットをボールに戻そうと、その手を伸ばした。

 だが、その手は、途中で、ぴたりと止まった。

 彼は、その手をゆっくりと下ろすと、ブニャットの目を見て、静かに、しかしどこか楽しげに、こう言った。

 

「一緒に行くか」

 

 ブニャットは、その言葉を待っていたかのように、短く、そして嬉しそうに一声鳴いた。

 モーリは、そのまま玄関のドアを開ける。

 

 玄関の鍵を閉め、かつてそう教わったように、植木鉢の下に鍵を隠す。結局、この家の本当の持ち主である祖母とは、ほとんど会うことがなかった。

 モーリは、見慣れた祖父母の家を一度だけ見上げ、「いってきます」と、誰に言うでもなくぽつりと呟き、ブニャットと並んで、最後の道を歩き始めた。

 

 

 

 

 モーリとブニャットは、祖父母の家から一番近い、見慣れたバス停へと向かった。

 

 バス停の、古びたベンチに腰を下ろす。朝の通学の時間帯でもない、平日の昼下がりのバス停には、彼以外に誰もいない。ただ、彼の足元で、ブニャットが静かに丸くなっているだけだ。

 やがて、定刻通りにバスがやってくる。モーリは、ブニャットを抱きかかえ、慣れた様子で乗り込んだ。

 

 バスの車窓から、見慣れた、そして思い出深い景色が、ゆっくりと流れていく。

 スズモトと初めて出会った、あの公園。彼女の明るい声と、少しお節介な笑顔が、脳裏に蘇る。

 休日になると、仲間たちと集まって、日が暮れるまで特訓をした、あの河川敷。ムラナカの的確な分析、タケダの意外な一撃、そして、皆の笑い声。その全てを思い出す。

 

 ブニャットと共に、窓の外を眺めながら、彼は、この街で過ごした仲間たちとの日々を、一つ一つ、静かに思い返していた。

 もう、この道を仲間たちと歩くことはない。

 その事実に、彼は、以前のような、逃げ出したくなるような寂しさではなく、むしろ、心からの温かい感謝の気持ちを感じていた。

 この街で、この仲間たちと出会えたからこそ、今の自分がいる。その確信が、彼の胸を静かに満たしていた。

 

 

 

 

 モーリは、バスを降り、駅から新幹線に乗る前に、自然と、ライモン高校へと足を向けていた。

 

 卒業式の時とは違う、平日の午後の、生徒たちの声が響く、いつもの学校の空気。彼は、誰にも気づかれないように、グラウンドの隅にある、あの手書きの対戦場へと向かう。

 フィールドでは、オーアサやセラ、コウヌたちが率先し、新しい練習メニューに真剣に取り組んでいた。その活気ある光景を、モーリは、少し離れた木陰から、懐かしむように、そして誇らしげに眺めていた。

 

 その様子に気づいた、顧問のサイトーが、モーリの隣に、音もなく立つ。

 

「よう、モーリ。見送りくらいさせろよな」

 

 モーリは、その声に驚きながらも、静かに返す。

 

「いえ、ただ、少しだけ見ておきたかっただけです」

 

 サイトーは、グラウンドで汗を流す後輩たちに視線を向けながら、ぽつりと、しかし確かな寂しさを滲ませて呟いた。

 

「そっか。まあ、さみしくなるな」

 

 モーリの存在に気づき、練習中だったオーアサ、コウヌ、セラが、挨拶のために駆け寄ってくる。

 

「モーリ先輩! なんでここに!?」

 

 コウヌが、汗を拭いながらも、嬉しそうに声を上げた。

 オーアサも、その隣で静かに頭を下げる。

 

「春の大会に向けて、新しい連携技の練習をしていたところです。見ていただけましたか?」

 

 その少しだけ誇らしげな言葉に、モーリは「ああ、見てたよ。いい感じじゃないか」と返す。

 セラは、腕を組んだまま、しかしその瞳には確かな闘志を宿して、モーリに告げた。

 

「次の大会では、あんたたちが残した記録、塗り替えてみせますよ。俺たちで」

 

 その頼もしい姿に、モーリは、もう自分がここにいなくても大丈夫だと、確信した。

 この場所には、彼が愛した、そして彼を救ってくれた、あの温かいポケモンバトル部が、確かに受け継がれている。

 

 そろそろ行かなければならない。モーリが、そう切り出そうとした時、サイトーが、彼の背中を力強く、しかし優しく叩いた。

 

「また、いつでも遊びに来い。お前が来て嫌な奴なんていないさ」

 

 その不器用な、しかし最大の愛情が込められた言葉に、モーリは、これまで見せたことのないような、晴れやかな笑顔で「はい」と、力強く頷く。

 

 

 

 

 モーリとブニャットは駅に着き、新幹線のホームに立つ。発車案内板には、カントー方面の行き先が、淡々と表示されていた。

 

 モーリは、券売機で、当たり前のように、二人分の席を予約する。彼の隣で、ブニャットが、その様子を静かに見上げていた。

 

 やがて、白い流線形の車体が、静かにホームに滑り込んでくる。

 

 モーリはブニャットと共に、その車内へと乗り込む。二つ並んだ座席の、窓際に座り、ブニャットをその横に座らせる。

 

 発車のベルが鳴り、ゆっくりと、しかし確実に、新幹線は動き出す。

 

 窓の外を流れる景色。見慣れたこの地方の、山々と、田園と、小さな街並みが、次第に小さく、そして遠くなっていく。それは、彼が過ごした三年間そのものが、過去へと移り変わっていく光景のようだった。

 

 モーリは、その景色から目を離さない。そして、誰も見ていないことを確認すると、ほんのわずかに鼻をすすり、こっそりと、しかし力強く、その目元を拭った。

 

 過ぎ去っていく景色が、これから始まる、まだ誰も知らない未来を暗示しているようだった。

 

 未来が、どうなるかなんて、まだわからない。

 モーリは、タマムシ大学でポケモンの研究者になるかもしれないし、リーグトレーナーになっているかもしれない。

 スズモトは、夢を叶えて、コガネのポケモンリーグで職員として働いているかもしれないし、紆余曲折合ってマスコミ関係の職に就くかもしれない。

 ムラナカは、個展を開くような、有名な漫画家になっているかもしれないし、紆余曲折あってプロレスラーになっているかもしれない。

 タケダは、親の事業を継いで、地元のスポーツチームの、優しいオーナーになっているかもしれないし、若手の政治家として成功するかもしれない。

 そして、カザは、イッシュで、国際警察官にでもなっているのかもしれないし、研究者のサポートとして世界を飛び回るかもしれない。

 

 彼らが、これから紡いでいくかもしれない未来からすれば、ライモン高校で過ごしたこの三年間は、あまりにもちっぽけで、十代の、どうしようもなく青々しい何かしか、掴めなかったのかもしれない。

 

 だが、それでも。

 

 この三年間を、そこで出会った仲間たちを、そして、共に戦った時間を、彼も、彼女たちも、そしてモーリも、決して忘れることはないだろう。

 

 ふと、窓から、午後の強い日差しが差し込んできた。

 モーリは、反射的に、日よけを下ろそうと、窓に手を伸ばす。

 だが、その手は、途中で、ぴたりと止まった。

 

 彼は、その手をゆっくりと下ろすと、代わりに、隣で静かに丸くなっているブニャットの、その温かい背中を、優しく撫でる。

 

 太陽の光は暖かかった。

 もう、太陽が恐ろしいとは、思わなかった。




 以上で『『蝋塗れの手で』~元ガチ勢の俺が、ぬるま湯バトル部に入った結果、皆と「課題」に向き合うことになった話~』は完結となります。完結までお付き合いいただきありがとうございました。大変、感謝の気持ちでいっぱいです。

 正直なところ今回も爽快感のある展開はあまり見せられなかったこともあり、少し窮屈な作品になってしまったかなと思っていたので、沢山の人に読んでいただき大変嬉しいです。

 この作品の根本的なコンセプトとしては『すべてのキャラクターには人生のストーリーがあるんだよ』というものです。元々モーリというキャラクターは、別の自作『モモナリですから、ノーてんきにいきましょう。』のある話に登場しただけの『バトルの本質をとらえきれていない』として主人公のモモナリに諭されるだけのいわゆる『愚かな名無しのモブ』でした。
 基本的に自作ではただただ愚かなだけのキャラクターってあまり作らないようにしてるんですけど、どうしても生まれちゃうんですよね。
 しかし『バトルの本質をとらえきれていない』事は決して現代社会を生きる上では罪ではないんですよね、彼は物語の展開上『愚かなモブ』になってしまいましたが、彼自身が愚かなわけではないんです。

 この作品ではたまたまモーリが主人公として彼の人生のストーリーを追いましたが、これは彼が特別だからではないんですね。ストーリーという点ではスズモトやムラナカ、タケダ、サイトー、カザ、ミマにだってあるわけです。

『人それぞれに人生がある』という観点自体は自作『モモナリですから、ノーてんきにいきましょう。』の連載中から内包しているテーマで、モモナリというキャラクターは彼らの人生の中にあるスパイス的な役割ができればいいと考えているので、そういう意味では今回この話を書ききれたというのはとても達成感がありました。

 最後に、改めて。
 この物語は、ライモン高校ポケモンバトル部という、小さな舞台で繰り広げられた、彼らなりの青春の物語でした。
 もしかしたら、あなたの隣にいる名もなき誰かの人生もまた、このような、あるいはこれ以上にドラマチックな物語に満ちているのかもしれません。

 そんな、どこにでもあるかもしれない、けれど、彼らにとってはかけがえのない三年間の物語に、最後までお付き合いいただき、本当に、本当にありがとうございました。

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