カーン。金属バットがボールを打つ音が響いた。音だけは会心の一撃だ。ひょろひょろと力無く上がったボールは、スローモーションのようにピッチャーのグラブにすとんと収まっていった。
喜びを分かつように抱き合う守備側。悔し涙を泥汚れに隠すバッター。二対一のスコアボード。三年間を捧げた青春が終わる音を、僕は一塁側の応援席で聞いていた。
野球小僧
「佐々木。あそこ行こうぜ」
九月になっても夏のような暑さが続く。まだ半袖のワイシャツは汗で気持ち悪い。塾の自習室なら冷房があるし、さっさと向かってしまおう。考えていた僕の前で、山田は進路希望の紙をくしゃくしゃにしていた。右手に持ったグラブの中に、ボールが入っている。
「あのさ。もう俺達の夏は終わったんだぜ」
「良いだろロスタイムって奴だ。サッカーにあるんだから野球にあったっていいだろ」
「適当なことを言うな」
「それに、どうせお前も持ってきてんだろ?」
山田が僕のカバンをちらりと見る。ノートや参考書では作れない、ちょっと丸みを帯びた膨らみがあった。隠していたものを暴かれた気分だ。
「気分転換だって必要だろ」
「……ちょっとだけな」
待ってましたと山田は笑った。
河川敷、普段は草野球に使われるぼろぼろのダイヤモンド。そこが僕らの練習場所だった。土手に荷物をおいて、グラブだけ持って距離を取る。二人で野球なんて出来ない。やれるのはせいぜいキャッチボールだ。
「終わったな。夏」
「一ヶ月近くも前にな」
「凄いよな、俺達の代。甲子園に出たんだぜ、って他の人に自慢できるよ」
「僕らはベンチにすら入れなかったけど」
僕らの高校は、公立にしては強いくらいの立ち位置だった。でも、僕らが一年の頃に強い監督がやってきて、ぐんぐんチームは強くなった。
実力主義の環境で、三年は八人残った。四人はレギュラーで、二人は控えピッチャー。僕と山田はベンチにも入れなかった。
山なりに飛んできたボールをキャッチする。甲子園の一回戦。一打逆転の場面で、凡庸なフライ。相手校のピッチャーは、どんな気持ちでボールを取ったのだろうか。
「佐々木はさ、野球続けんの?」
「え?」
声と同じくらい、すっぽ抜けた返球。山田はジャンプしてなんとか捕った。
「大学だって、野球部はあるだろ」
「どうせ入れないよ。入部テストがあるんだ」
山田は僕の志望校を知っていたっけ。大学野球では、結構な強豪だ。
「やってみなきゃ分からないじゃん。それにサークルだってあるだろ」
「サークルなあ」
そこまでして野球を続けたいのか。自分でもよく分からなかった。レギュラーになりたい、っていうのが一番のモチベーションだったし。ただ、考えてる時点で、自分は燃え尽きてしまったのだとなんとなく悟った。
「そういうお前はどうなんだよ」
返答を誤魔化す為に聞き返した。山田は意地悪に握りを変えて、カーブみたいに曲がる球を投げる。僕のグラブを弾いてころころ転がった。
「どうだろうなあ。就職先次第かな」
「就職?」
山田はにやにや笑っていた。
「言ってなかったっけ? 俺、高卒で就職組だよ」
初耳だった。うちの学校は三割くらいが就職組だ。珍しいことじゃない。でも、山田は僕よりも成績が良いから、なんとなく進学組だと思っていた。
「うち、弟が二人居てさ。どっちも俺よりずっと頭が良いんだわ。天才だよ、たぶん。だから、あいつらの学費稼いでやりたくて」
「お前の頭でも、いいとこ行けるだろうに」
「んー、まあそうかもしれないけどさ」
一歩分距離が離れた。同じ補欠仲間だと思っていた山田が知らない人に見えた。
「母さんにも楽させてやりたいし。部活だって、絶対負担だったから」
「あ……」
山田の家はシングルマザーだ。昔一度だけ聞いたことがある。家族の話はあまりしたがらないから一度だけ。それも、今の言葉を聞くまですっかり忘れていた。
知らない人に見えたんじゃない。何も知らないんだ。なんだか悔しくなって、肩に力を入れた。パシン、とさっきより大きな音をグラブが鳴らす。
「良いんだよ。中学校から六年間。全力でやった。だから、後は余暇でやれれば万々歳」
悔いはない。ボールの軌道は揺れていた。
「佐々木はいつから野球やってたんだっけ?」
「リトルで……小学三年の時からかな」
「すげぇ、十年選手じゃん」
「レギュラーになれたことはないけどね」
公式大会に出たのは、中学の時に一回だけ。代打で出て、サードゴロで終わった。その後、ライトを守ったけどボールは飛んでこなかった。その試合は勝って、次の試合で負けた。
「でも、楽しかった」
「楽しかったよな。野球」
スマホのアラームが鳴った。もうやめないと塾の時間に間に合わない。
終わりにしよう。ボールを降ろそうとしたとき。
「九回裏ツーアウトツーストライク!」
いきなり山田が叫んだ。ぎょっとして彼を見ると、彼は真剣な顔で僕を見ていた。
「あと一球のところまで追い込みましたピッチャー佐々木! このバッターを打ち取れば優勝です」
テレビで聞くアナウンサーの真似はとても上手いとは言えない。通行人に見られたら恥ずかしい。通報されるかもしれない。
それなのに、僕はボールを後ろ手に構えて、わざとらしく首を振っていた。山田は内野手用のグラブをキャッチャーミットのように構えてしゃがむ。
腕を振るう。リトルに入ったときはピッチャー志望だった。一番目立つ場所で一番カッコよくて。自分のイメージとは程遠い、へなちょこで浮いた球が、山田のグラブに収まっていく。
「空振り三振! ゲームセット!」
僕らの野球は、ここで終わった。