春の柔らかな光が廊下へ差し込み高校生活を謳歌する生徒達を明るく照らす。俺は耳に刺したイヤホンから流れるジャズのピアノとサックスの音色を聴きながらそんな生徒達を避けて日陰を進んだ。学生生活、部活にも所属しておらず学業を終えた今わざわざ学校で残る意味も無い。バイトをして、家の事をして、寝て学校に行く。それを繰り返す普通の高校生だ。
(あれは…)
俺は階段を降りた所で立ち止まる。すれ違った学生の奥、そこにいた女子生徒に見覚えがあったから。学校指定の真新しい紺色のブレザー制服は腕あたりの丈があっておらず少しだけ邪魔そうだ。
その女子生徒は級友だろうか、同じ学年の女子生徒と話しながら廊下を歩いてくる。静かでよく響く廊下と級友らしき女子生徒のやけにテンションの高い声で二人の会話が筒抜けになっている。
「さっきの呼び出しコトちゃん、また告白されたんでしょー」
それを肯定するように彼女が頷く。そのタイミングでこちらに気がついたように見えた。
彼女は隣にいた女子生徒へ何か言って軽く頭を下げ、こちらへ手を上げ駆け寄ってくる。やはり真っ黒の長い髪を左右に揺らす背の小さな俺の幼馴染、
「ジャック先輩!」
「よっ、
俺はそう言いながら耳からイヤホンを外してケースにしまう。
「ですね。先輩は相変わらず一人で帰宅ですか?」
「そうだね、残念ながら」
俺はそう言って頷いた。クラスで話す級友くらいはいるけれど、こうして一緒に帰るほどの友人はいない。
「じゃあ帰る方向も同じだし仕方ないので一緒に帰ってあげましょう!最近告白された、モテモテの、この私が、特別に!」
アマツカは胸に手を置き、自信ありげにこちらを見上げて強く言う。目もなんだか輝いているように見える。
「じゃあ今が旬のアマツカだな」
「旬って食材じゃないですよ私」
アマツカはそう言って軽く笑う。まるで俺が冗談を言ったように。いや本気で思ってもいないけれど。
「油が乗ってるんだな」
「のっ乗ってません!」
俺の顔を勢いよく見上げて言い切った後、「いや、乗ってない…よね」と腕を回しながら自分の脇腹を覗き込み呟いている。
「別に今が旬も食材だけに使う言葉じゃ無い。今話題のみたいな意味だよ」
油が乗ってるも食材繋がりの冗談だ、と付け加えておく。
アマツカはなんだ、と安心したように言った後
「先輩、勉強できないのになんでそんな事だけ知ってるんですか」
そんな呆れたような物言いに俺は「失礼だな」と苦笑いを浮かべる。教科書は読めないけど何故か小説だけは読めるからだ。
「それにしてもありがとな」
「え?」
「わざわざ友達に断りを入れてまで俺の方へ来てくれて」
「えっ!?みっ見てたんですか!?あれは違いますよ、あの、あの子は帰る方向も違うので、下駄箱までーって話で」
あたふたと手を振りながら言葉を続けるアマツカを置いて俺は「そっか」とだけ呟きさっさと二年の下駄箱へと向かう。
靴を履き替えながら俺の口角は少し上がっていた。こうやって何気なく気さくに会話をしてくれる幼馴染に甘えているから友達を作ろうとしていないのかもしれない。
「そっかって、もー」
後ろから不機嫌そうな声と共にアマツカが追ってくる靴音が聞こえる。
それから何気ない今日あったことの話をしながら同じ帰り道を途中まで進む。
その後、俺は「こっち曲がるから」と一言伝え普段使わない信号を待った。
「今日は教会に向かうんですか?」
俺は頷く。今日はバイトの給料日だ。教会から仕事を割り当てられているので教会で給料の受け取りをしなくてはいけない。
「じゃあ一緒に行きます。ちょうど私も教会に用事ありますし」
二人で信号を渡りしばらく歩く。
アマツカが「ほんとに大きいですよね」とまだ遠くのはずの教会の先を見上げながら呟いた。
「昔の建物一つでこじんまりとしてた教会とは大違いだな」
「その頃のことなんてよく覚えてますね」
覚えてるさ、と答える。はっきりと父と母の姿と共にもう焼け落ちた過去の教会の姿が思い浮かぶ。
今では見上げるほどの塔が聳え立ちアーチ型の大きなステンドグラスの窓が外へ七色の光を放っている。白を基調とした壁が建物全体に使われるこの建物一つでこの町の治安維持、法律、財務全て賄われている。時代は大きく変わったのだ。
両開きの自動ドアを潜ると内装は古めかしいゴシック様式の外観とは真逆で滑らかな床やLEDのライト、案内ディスプレイなどがあり近代化されていた。
中ではスーツ姿の人や町の人たちが行き交い、どこかの部署にはここから見えるほどの列が並んでいる。
「あれ、アマツカちゃん!」
突然、男性の声が背後から聞こえ俺は声の方向へ振り返った。
顔を半分ほど隠す黒いフード付きのコート、胸の所には教会の紋章、鷲のような二対の翼が刺繍されている。背中に大きな槍を背負った男性だ。
「どうも、お久しぶりです」
そう言ってアマツカは男性に軽くお辞儀をする。男性はフードを外し歯を見せてにこやかに笑い「おっと友達も一緒か!ほな邪魔しちゃ悪いな、また仕事でなー」そう言い残し手をあげて去って行った。
男性は物騒な物を持っていたけれど、あれも仕方のない事だ。あの服装からして
「騒がしい人で、すいません」
こちらを見ながら苦笑いを浮かべている。俺は構わない、と首を軽く横に振って返す。
それにしても仕事?とはなんの話だろう。アマツカはバイトをしていない筈だ。部活をするつもりだからバイトはしない、と聞いたことがある。
「じゃあ私はちょっと行ってきますね。また、ここで落ち合いましょう」
そう言って聞く間もなく教会内のどこかへ走り去って行った。
「…ああ、また」
その後はお金を受け取り再びアマツカと合流してから何事もなく自宅のあるマンションへとたどり着いた。
両開きのガラス扉を抜けてエントランスを進み二人でエレベーターを待つ。
「先輩って、なんでちょっと髪に青色入ってるんですか?」
「青?そうなの?」
俺は首の辺りまで伸びてきた襟足を指で撫でる。
これが普通の黒色だと思っていたので髪の色なんて気にした事が無い。
「染めてる…訳じゃ無いですよね。自然とそうなる物なのかな?」
アマツカが俺の髪を見上げながら呟いている。
その時、ちょうどエレベーターがやってきたので二人で乗り込んだ。
「ちょっと屈んでください」
俺が言われた通り少し屈むとアマツカの指が後ろの髪を梳いていく。
「伸びてますねー後ろ」
「前と違って切りずらいからね」
「また前髪自分で切ったんですか…確かにちょっとボサボサ」
後ろからため息が聞こえてくる。
「この時代にいるですね。自分で前髪切ってる人」
俺は「いるだろー別に」と軽く笑いながら背の伸ばしエレベーターから降りる。アマツカもその後に続く。
オシャレに関心がない人とかだっているだろうし、まぁ俺の場合は関心がないわけでは無いが…色々ある。視線を自宅の方へと向ける。角を曲がった先にあるのでここからは見えなかった。
「じゃあまた明日」
「はい」
ふと、俺は立ち去ろうとした足を止め、首を傾げてながらアマツカの方へ向き直る。
いつもは「明日は友達作れるといいですね」くらい言って笑いながら去っていくはずが今日はなぜか淡白な別れだ。
「先輩」
「なに?」
「家のこともお仕事のことも、もちろん大切です。けど今この瞬間にしかできない事もあると思うんです」
俺は「まぁ、高校生だもんな」と小さく頷く。
「…余計なお世話かもしれませんし、先輩の事情を考えれば仕方ないとも思いますけど」
勝手なこと言っちゃってすいません、とぎこちなく笑いながらアマツカは付け加える。彼女なりに心配してくれているのだろう。
「…だっ、だったら今度休みが被った日でもさ。あーアマツカが良かったらだけど高校生らしい所、紹介してくれよ」
頭の後ろを掻きながら俺は目を逸らして言う。慣れない事をしたせいで少し早口になってしまった。
「ほんとですか!」
アマツカを横目で見ると先ほどまでの沈んだ雰囲気は消え、弾んだ調子で「約束ですよ」と言って肩を叩いてくる。幸い、先ほど入った給料的にも一日遊ぶくらいならば大丈夫だろう。
「うん。また俺も調べとくから楽しそうな所」
俺はそう言って小さく笑いアマツカと向き合う。アマツカも同じように笑っている。
「じゃあ、また後で予定表見て連絡しますね!」
そう言ってアマツカはスマホを握りしめ手を振りながら自宅の方へ駆けて行く。
俺もその言葉に頷いてから自宅の方へと向かった。
「…」
ふと自宅の中から人の気配がする。この時間の家には大体俺以外いないはずなのに。
閉まりきっていない扉から嫌な予感がする。
「親父…」
部屋に入ると部屋の箪笥や引き出しが全部開け放たれていた。その部屋の隅で親父が壁にもたれかかったまま日本酒の酒瓶を片手に持っている。その顔は赤い。
(今日はやけに荒れてるな)
刺激しないよう部屋の隅へ静かに鞄を置く。
(ただいま、母さん)
部屋の中で唯一荒らされていない神棚に向かって軽く会釈する。
一旦、外へ出ていようと部屋から背を向けた時だった。
「おい!金を置いてけ!」
背後から怒号が聞こえてくる。
いつだって親父が俺に話しかける理由は金の無心だ。
「親父に渡せる金なんて無いよ」
親父の方へと向き直る。親父は変わらず壁にもたれかかったまま、こちらを見上げて睨んでいる。
家の支払い、食費、その他諸々の支払いまで俺が管理している。親父の稼ぎは教会からの支援金のみ。それもいつ打ち切られるかわかった物では無い代物だ。教会から働く気がないと見做されれば一気に家計は傾く。ここもいつまで住めるのかわからない。
(それに今渡せばアマツカとの約束も果たせなくなる)
そんな事を考えていた時、突然鼻先に鈍い痛みが走った。床へ仰け反った勢いのまま倒れ込む。
咄嗟に手をつくと同時に鼻の辺りが生暖かい事に気がついた。それは唇の辺りまで伸びてきて手をついた所に赤い雫となって落ちる。見ると近くに空いた日本酒の瓶が転がっていた。どうやらあれを投げつけられたらしい。
(当たりどころが悪ければ最悪…)
ふと、何気なく鼻血を拭うために伸ばした手が震えているのに気がつく。
見ると親指についた真っ赤な液体と小刻みに揺れる手がまるで自分のものじゃないかのように思えた。
「出せよ!金!」
突然そんな声と共に背中に衝撃が走る。ついていた手が床を離れ頬を強く打った。痛みが頬骨に沿ってじんわりと体に広がっていく。
俺はそのまま着ていたブレザーを剥ぎ取られポケットから先ほど受け取ったばかりの茶封筒を抜かれた。
上げていた頭を再び床に下ろす。剥ぎ取られた拍子に弾けたボタンが床に散乱している。ピントをずらしたままそれを呆然と眺めた。
「くそ」
何が教会だ。
救いをくれる神様なんかいないじゃないか。馬鹿馬鹿しい。
「おい。足りねぇよ」
そんな声が頭上から聞こえてくる。
だが無いものはないので聞こえなかったフリをして目を瞑る。その拍子に頬の上を温かいものが滑っていく。それは目の縁の方から続いている。
「泣いたって何も解決しねぇよ」
奥歯を強く噛んで
「大丈夫、痛くない。痛くない」
ぼんやりと記憶の中の姉貴の声を思い出す。
転んで泣きだした俺を慰める優しく落ち着いた声色。いつ誰に教わったのかスカートを折ってしゃがみ、髪を撫でる手はいつの間にか俺と鬼ごっこをして泥だらけになっていた姉貴とは違っていた。
そんな姉貴は中学卒業後、消えた。教会の事務をしているらしいが未だに教会で出会したことはない。一年ほどくらい前からあちらから連絡も来なくなっていた。
俺は何故だか痛みに堪えるたび、あの日の光景を思い出す。
ふと気が付くと家のチャイムが鳴っていた。
手をつき体を起こす。目元を強く腕で拭う。隣の人から注意か、警察だろうか。それとも何かの勧誘か支払いの催促か。なんにせよ無駄だ。この家はもう既に狂い過ぎている。
「くそっ早いな」
親父がそう呟いて早足で玄関の方へと歩いていく。心当たりがあるようだがなんの話だろうか。まぁ、どうせ碌なことではないだろうけど、と立ち上がり部屋から廊下の方を見ると玄関で黒いジャケットに黒いサングラスの男性数人が親父と口論をしていた。
「足りない足りない言われてもよ。もう家には何も無いから仕方ないだろ」
「じゃあ退去。あと差し抑えするからどけ」
「俺の家の物に勝手にさわんじゃねぇ」
親父は掴まれた手を振って外し親父の横を通ろうとした男性の肩を乱暴に掴む。
「こいつを抑えとけ」
掴まれたはずの男性はびくともしないまま振り返り部下らしき人にそう指示を出した。
「「はい!!」」
その後、親父は抵抗したもののあっという間に男性二人がかりで床に組み伏せられた。
流石にここまでされ負けを悟ったのか親父は歯軋りしながらも抵抗の動きを止めている。
俺は廊下を歩く男性と目が合った。無機質な冷たい目をしているように見える。
「待て、頼む!そうだ。こいつに払わせろ!こいつは家にいらねぇから!頼むから家具は、家は、勘弁してくれ!」
「は?」
俺は思わず声に出していた。
何を言っているのか一瞬頭が理解を拒む。
「あるだろ、教会の表に出せないような仕事。こいつがどうなったかは聞かないからさ。最悪バラして借金の返済に当ててくれてもいい」
だから!と親父はさらに語気を強めて言う。
そういえば親父の血走った目が随分と久々に真っ直ぐ俺の方を向いていた。
「この家だけはやめてくれ」
親父は組み伏せられたまま額を床につけて男性に初めて乞う。
どうやら俺は親父に今、売られているらしい。
部屋の天井を何となく見上げ呟く。
「ほんとこの世に神も仏もないな」