「な!?」
「逃げましょう」
繋いだ手をアマツカに引かれて、やっと俺は動きだす。
ひとまず走りながらジグザグに角を曲がり、ネズミの視界から外れた。幸い背後から追ってくるような足音は聞こえてこない。
どうする。このまま逃げられるのか?建物ごと破壊してくるような化け物から。
(厳しいだろう)
その時は、と考えていた時だった。突如、頭上から音がした。目の前の道路に特徴的なシルエットが伸びる。
俺は思わず立ち止まり口を開けたまま見上げた。
「チュチュ」
屋根の上から顔をこちらに覗かせ鼻をひくつかせている。
どうやら屋根の上を跳んできたらしい。
ジグザグに角を曲がるなんて、こいつには何も意味をなしていなかったようだ。
俺はネズミと再び目があった。
ネズミがこちらに長い牙を見せながら口を開き…
「危ない!」
飛びかかってくる。俺は咄嗟に道路を転がって躱す。
予備動作のおかげで察知できていた。
「アマツカ、離れて救援を呼んでほしい」
「場所はもう伝えてます」
「じゃあ離れてて」
その時はやっぱりやるしかない、と拳を構える。
ネズミはゆっくりと俺の方へと向き直る。虚ろな赤い目が俺を真っ直ぐ捉えていた。
落ち着いて核を狙う事。
そして何よりアマツカを守ること。耐えれば異端審問官がやってくる筈だ。
予備動作のない、不意打ちの頭突きが飛んでくる。
俺は体を捻ってギリギリで避けてから拳を突き出す。
「効いた気がしないな」
硬い毛に打撃の衝撃が散らされている。
少なくとも刃物、リーチのある槍とかじゃないと。
「あっぶね」
爪で引っ掻いてくるのを避ける。こんな服装じゃ、建物に傷をつける威力の爪なんて受ければ…
「先輩!」
俺は頭に強い衝撃を受け吹き飛ばされる。一瞬、鋭い痛みが首元を走った。
駆け寄ろうとしていたアマツカを大丈夫、と手で抑え立ち上がる。
(油断した)
爪を振った勢いのまま体を捻って尻尾で打たれたようだ。
人間同士の格闘戦にはないもので予想できなかった。
(生身の体が神性体には効く…だったよな)
靴を脱いで裸足になる。痛いとか汚いとかをもう言っている暇はない。
(核の場所は動物っぽい見た目やと頭か腹)
まずは…
ネズミが口を開いて飛びかかってくる。
「頭!」
体を捻りながら跳び上がりネズミの頭、目がけて踵を落とす。
「ってぇ!」
飛んできたネズミを地面に叩き落としたものの鈍い痛みが踵に響く。
神性体にも骨らしきものがあるらしい。分厚いそれを思いっきり叩いた。
(今はアドレナリンでなんとかなっているが…大丈夫か、これ)
打った時以上の痛みはないが、今も片足が震えている。
しかも…
「チュチュ」
ネズミに効いてない。
変わらない様子でこちらに爪を振るってくる。
「くっそ」
尻餅をつくように後ろに倒れて、爪をいなす。
片足の動きが鈍っている。想像以上にやりづらい。
「やべ」
ネズミが口を開き噛みついてくる。
咄嗟に腕を前に出して庇う。
幸い、俺の腕が飛ぶ事は無かった。
「アマツカ!?」
アマツカがネズミに体当たりをしていた。
それでわずかに顔が逸れたらしい。
「逃げましょう。時間は充分稼ぎましたし」
俺は頷く。片足がこれでは倒せる気がしない。もう一か八か逃げるしかないだろう。
爪を叩きつけるような攻撃。それを転がるように躱し走り出す。
「追ってくるか」
もしかして、と淡く期待していたけれど、あの夜のように途中で逃げ出したりはしないらしい。
俺たちのすぐ後ろにネズミが迫る。当たり前だ。そもそもネズミと一歩が違うのだ。
「アマツカ!」
一歩前を走っていたアマツカの背中を突く。
俺はそのままネズミに押し倒しされ、地面に頭を打ちつけられた。
ネズミの爪が肩を切り裂き激痛が走る。押さえられた両肩に2mほどのネズミの体重がのし掛かって…
「逃げろ」
顔を上げて、こちらに振り返り目をむくアマツカにそう声をかけた。突いたせいか、跳ね飛ばされた時か、アマツカの制服が破れて汚れている。腕も擦り剥いたようで血が出ている。いつもは綺麗な髪も今は散らばってしまっていた。
ごめん、と心の中で謝った時、額から流れる血が目に入り鋭く痛んだ。視界が赤く歪む。
肩に掛かる重みがさらに増す。呻き声が口から漏れた。俺を食らうため、頭を移動させたのだろう。
「ヂッ」
突然、ネズミが跳ねた。押さえられていた所から抜け出し俺はネズミの方を見る。頬の所に一本の矢が刺さっていた。
「大丈夫か!」
声の方向を見ると黒いフードを被った人たちがこちらへ駆け寄って来ていた。呼んでいた異端審問官たちだろう。
「ネズミが」
と、振り向くともうすでに暗がり中へと消えていた。早い。
「追うのはやはり無理か」
背後からそんな呟きが聞こえる。
「大丈夫ですか!」
アマツカの悲鳴にも似たような声が聞こえてくる。
「いでてて」
突然、肩に鋭い痛みが走った。
見るとアマツカが俺の切り裂かれた肩を紙で抑えている。
「無病息災の神符ですから、我慢して下さい。気休めくらいには…」
両肩に神符を載せる。見ると神符が淡く光っていた。ただ傷が癒えるどころか痛みすら
「とりあえず、病院行こう。アマツカも怪我してるし」
立ち上がると片足が痛んだ。手伝います、とアマツカが横で支えてくれる。
「その前に君は…どこの部隊かな?」
足を止め、振り返る。
「第十席、キドウさんの所です」
鼻をフッと鳴らし冷ややかな笑みを浮かべながら「まだ探してたんだ。必死だな」と嫌味ったらしい口調で言った。
「え?」
「君らがこのネズミの担当なのにさっさと見つけないから、こんな
「…」
「それで今回の大チャンスも取り逃がすって…人の命かかってるの分かってる?すでに五人亡くなってるんだよ?」
俺を睨む第七席の人を隣のチームメイトらしき人が「もういいよ」と止めに入った。
「第十席だもん」
「それでも素手って、異端審問官のコスプレデートだろ。あり得ない。仕事舐めてる」
アマツカが「行きましょう」と隣で声をかけてくる。
俺は頷いて何も言い返せないままその場から立ち去った。
「ごめんな」
と、謝りながらアマツカの汚れた頬を袖で拭う。
「いえ、それより大丈夫ですか。肩は」
「あぁうん。なんとか」
あれからだいぶ痛みがマシになっていた。どうやら本当に効果があるようだ。
「今日はこの後、事情聴取でしょうね」
「そうだろうね」
思い返せば確かにあのネズミからは煙で燻したような臭いがあった。だけど、それくらい。後はまともに交戦した初めての異端審問官として攻撃手段とかを説明するくらいだろうか。
特にこれと言って目新しい情報は思い当たらない。
「明日…か」
独り言だろうか。アマツカの小さく呟く声が聞こえた。普段なら聴き逃しそうな所だが今は隣で支えてくれている。
(明日?なんの話だろう)
ふと、ネズミに襲われる前の会話が頭をよぎる。
流石にそれは無いだろう、と一度、否定する。もしネズミと出会した場合、危険な事は今日で重々分かったはずだろう。それでなくてもホームレスが屯する夜に向かうなんて危ないことなのに。
(だけど人を助ける為なら動いているクレーンの所へだって飛び込もうとするアマツカなら、まさか…)
「明日、川を見に行ったりは…しないよね?」
「…」
アマツカは目を逸らし答えない。
その沈黙は肯定という事だろう。
「アマツカ…」
「分かってます。危ないのは」
「じゃあなんで」
と、口にしながら心にこの夜より暗い影が落ちた。
実は俺が想っている事なんてアマツカには何も伝わって無いのかもしれない。そう思った。
一方通行の片思い、いやそれどころかただの素通りだったのだろうか。
「私はこの町の人たちの優しさを知っています」
アマツカが電灯の下で立ち止まり俺の方を見上げながら話す。
「もちろん、先輩もそうです。いつもありがとうございます」
照れたように笑いながらそう言ってくれた。小さく細めた瞼の奥の瞳が電灯の光を反射して宝石のように煌めいている。優しさに助けられているのはいつだって俺の方だ。
「私は神様を信じてないけれど、この町の人たちが犠牲になっているのなら私は頑張りたいんです」
「それは…アマツカが命懸けでしたいほどの事なのか?」
アマツカは真っ直ぐ俺の目を見て「はい」と言い切り頷いた。
(あぁ…そうか)
息を吐き出しまばらに光る星空を見上げた。春の肌寒い空気が肺に流れてくる。
「じゃあ、ちょっと俺も本気で探してみるよ」
覚悟は決めた。
アマツカが危険な目に遭う前に絶対、あの邪神を討伐する。
(トラウマにビビってる暇はない…な)
強く拳を握る。
(行ってみるか…あの場所へ)