そのあと男性が俺の方へとやってきた。先程までどこかへ連絡をいれていたので、俺の処遇でも決まったのかもしれない。
「教会の許可が降りた。お父さんが言った通り、これから住み込みで働いてもらう」
「拒否権はないんですか」
俺は腕を伸ばし柔軟をしておく。にしても、この男性、お父さんと親父を呼んでいた。子供の俺に合わせたのだろう。見た目に反し意外といい人なのかもしれない。
「あるにはある。が、その場合、君はどうやって過ごす」
「…なんとかしますよ」
河川の高架下で屯しているホームレスに混じるとか、色々。
「まぁ上が決めた以上、私は全力で君を確保するがね」
男性の手がこちらに伸びてくる。
俺はそれを力を抜いて沈むように躱す。その後、廊下の床の強く踏み締め一気に加速。腕を振り上げトップスピードだ。
「止めろ!」
男性の脇をくぐり抜け、玄関先で親父を捕まえている男性たちの方へ駆ける。
一人の男性が前へ飛び出して両手を広げた。
「オグッ」
甘い。走った勢いのまま突っ込み鳩尾に肘を叩き込んだ。男性は腹を抑え前屈みに倒れ込む。
「テメェ」
もう一人の男性が拳を振り上げる。それに合わせ背を後ろに反って鼻先を通過していく拳の軌跡を見ながら避け、素早く男性のネクタイを掴む。上体を起こす勢いのままにそれを引っ張り拳を男性の鼻先へと叩き込んだ。芯を捉えた確かな手応え。男性は膝から床へと崩れ落ちていく。
その時、玄関の扉が勢いよく閉まった。それを見ていた親父は「何をしている逃げるぞ」と男性に向かって怒鳴り声をあげている。
一人くらいなら躱せると思っていたけど、これで予定が狂ったな。仕方ない。もう一人も落とすか、と拳を構えた時だ。
「おい」
ふと背後から声をかけられた。
その瞬間、体に丸太で殴られたような衝撃が走り宙に浮く。そのまま廊下の壁に吹き飛ばされ頭を強く打った。なんだその力、人外のパワーだろ。
ゆっくりと俺の体は沈んでいく。意識が微睡の中のように薄れだす。
「危うく逃げるところだったぞ!」
親父の怒鳴る声がする。
眩む視界の中で「手間かけさせやがって」と壁に手をつきながら起き上がる男性たちが最後に見えて…床へと倒れた。
「起きたか」
揺れる体、赤く照らされた街が窓の外を流れていく。どうやらいつの間にか車内に連れてこられたらしい。
薄暗い車内の内装は全体的に黒色で統一されている。革製のような滑らかな椅子といい、どこか高級感があった。
「逃げるなよ」
俺は背もたれに頭を預けた。左右を先ほどの男性達に挟まれている。これではもう逃げ出せない。
(アマツカとの約束、断らないといけないかもな)
なんとか高校卒業くらい出来ると思っていたけど、どうやらそうも言ってられなさそうだ。これから俺はどうなるのだろうか。
そんな事をぼんやりと考えながら目を瞑る。
ふと、脳裏に浮かぶまだ煙が上がる焼け落ちた真っ黒な教会。捕まり集められた人々とそれを囲む黒いフードを被った人物たち。瓦礫の下敷きとなり手を伸ばす誰か。
「…ッ」
嫌な事ばかり思い出し目を開けた。眉間を摘んでほぐし息を吐く。
あの事件からこの町は一変した。良い事も悪い事も起こったけれど、今の状況的には非常に危険だろう。必要と有れば教会は残酷な手も厭わない。
(本当にどうなるんだ、これから)
「おい!」
突然、車の運転手が声を荒げた。
その瞬間、俺の体が宙に浮く。
「は!?」
頭が車体の天井にぶつかる。椅子から天井へと逆さまに落ちていったのだ。すぐさま再び体が浮いて窓ガラスへと叩きつけられる。
それを何度も繰り返した後、ようやく車体は上下が逆さまになったまま止まった。
「ちょっと待ってろ」
男性達が続々と這いながら窓ガラスに体をねじ込み外へと出て行く。
外からは叫び声や悲鳴、助けを求める声が聞こえてくる。男性達が出て行った窓。その奥から赤い光が揺れているのが見えた。うっすらと何かが焦げついた臭いも感じる。
「何が起こったんだ」
俺も天井を這って進む。
一瞬、車体に向けて黒い影が見えたような気がしたと思ったら、次の瞬間には車体がひっくり返っていた。
細かく砕かれた窓ガラスの破片を払いながら窓を抜ける。
出るとすぐに温かい風が頬を撫でた。近くに電柱へ突っ込んだ車が燃えて火の手が上がっている。ここだけまた地獄にきたみたいだ。
「え」
少し離れたところに燃えながら逆さまになった車体があった。その上にネズミがいた。ここから見えるほどの大きさ。1m、いや2mはある。俺の身長よりも大きなネズミが車体の上で空に向かって鼻を伸ばしている。赤い目が煙の奥で不気味に光り、体を覆う長く堅そうな毛には返り血らしきものが付いている。
「なんだあれ」
遅れて耳には叫び声や逃げ惑う人々の声が聞こえてくる。
見ると同じように倒された車や近くの住宅から逃げ出す人々の姿が見えた。あちこちで火の手も上がっていて、薄暗くなった紺色の空に灰色の煙がかかっている。
煙を吸って思わず咳き込み、口元を抑えながらこの場から離れることにする。背後で聞こえてくる助けを求める声は聞こえないふりだ。どうせ俺が行っても何も出来ない。
そう思いつつも足は止まる。無駄だと諭す頭に反し俺の体はゆっくりと後ろを振り返った。
車から手を伸ばす人や動けない人に肩を貸す人の姿が見える。
「何も出来ないのにっ」
ぼやきながら口元を抑え引き返す。
煙が目に染みたのか涙が溢れ落ちていく。
「出れますか」
車体に張り付き押し上げ僅かな隙間を作る。近くで揺らぐ炎の熱で汗が頬から流れ落ちていく。
「でっ出れます」
車の下敷きになっていた人の足が抜け、頬を緩ませながら顔を上げる。その後、一点を凝視して固まった。その表情がゆっくりと絶望に染まっていく所を見ていた。
「チュッチュッ」
「は?」
振り返ると俺の背後にアイツはいた。赤い目は確かに俺を真っ直ぐ捉えている。
心臓が大きく跳ねて体が強張っていく。
ソイツは口元を上下させ何を噛んでいる。赤い口元、クチャ、クチャと不快な音。瞬間、背筋に冷たいものが走った。
手を広げ、絞り出すような声で「逃げてください」とだけそこにいるはずの人へ伝える。俺たちはコイツに狙われているらしい。
ネズミはゆっくりと頭を下げて、真っ直ぐ俺を突いた。
固く跳ねた毛の感触とどこかで知っているような悪臭が鼻をつく。飛ばされた俺は背中をブロック塀に強く打って止まった。一瞬、呼吸が止まり壁を背にして崩れ落ちる。
「化け物が」
咳き込みながらなんとか強がってみる。それから近くにあったブロック塀のかけらを掴み放り投げる。鼻先に当たったそれは跳ねて落ち、砕けて散った。ネズミに効いた感じはなさそうだ。
また咳き込む。意識もどこか薄れている気がする。煙を吸い込みすぎたかもしれない。
「あー…死にたくねぇ」
頭がやけに重い。咳が止まらず呼吸もままならない。
あぁ、遊びに行きたかったな。アマツカと。
「あー…生きてぇ」
瞼が重く、いつの間にか体は地面に伏せていた。顔だけなんとか上げてあたりを見渡す。
ネズミは空を見上げ仕切りに顔を左右に振っている。何かを受信しているのだろうか。
「助かった」
どこからかそんな声が聞こえてくる。こんな状況で、よくそんな事が言えるな、とぼんやり思いつつまた咳き込む。
「助かった」
「おお、神よ」
「ありがたやー」
口々に周りの人々が空の一点を見つめながら拝んでいる。
その方向を見て、目を疑った。
白い光りを放つ長い髪の女性が大きな剣を持ったまま屋根の上を飛んだ。数mずつ建物を飛び越えていく。
星空のような輝くスカートを翻し、近くの倒れた車の上に立つ。そして持っていた剣を横に勢いよく薙ぎ払った。
「え」
思わず目を瞑るほどの激しい突風が巻き起こり一斉に炎が消える。
ネズミがそれを見て一目散に逃げ出していく。その背中を俺は呆然と目で追った。
「何者…だ」
振り返ると変わらず女性が車の上で佇んでいた。
高い鼻に大きな目の端正な顔立ち、長い金色に輝く髪が滑らかに揺れている。エメラルドのような緑色の宝石を思わせる剣を携えた細身でスタイル抜群のその女性。
「え」
俺はふと脳裏を過った予感に目を疑った。じっくりと眺めてみると、じわじわとその予測に実感が湧いてくる。
「姉…貴、なのか?」