森。
まるで世界そのものが緑に包まれているかのような、深い深い森。
視界を覆う木々の葉は厚く、空の光をほとんど通さない。
昼間でも、そこは常に夕暮れ時のような薄暗さに包まれている。
幾重にも重なった枝葉の間からこぼれる光は、地面に淡い模様を描く。
けれど、その模様すら苔に覆われてぼやけていた。
森の床には草の姿はほとんどなく、緑色の絨毯のように一面を苔が覆っている。
その間からむくりと頭をもたげたキノコたちが、まるで森の住人のように静かにこちらを見つめていた。
空気は湿り気を帯び、かすかに腐った土の匂いが鼻をつく。
深呼吸すると、身体の内側まで森に染まっていくような感覚があった。
崖。
森を抜けた先、いきなり視界が開け、目の前に巨大な岩肌がそびえていた。
ほとんど垂直に切り立ったその崖は、見上げれば首が痛くなるほどの高さで、下から見ても一番上が霞んで見えるほどだ。
ざっと見積もっても、都会のタワーマンションの十数階分はあるだろう。
落ちたら即死は間違いない。だけど、そもそも登るような機会なんてないから、俺にはあまり関係がない話だ。
今の俺には、こちら側の生活だけで十分に冒険なのだから。
洞窟。
その崖の根元にぽっかりと口を開けた小さな洞穴がある。
入り口は人が腰をかがめてようやく通れるくらい。
中に入れば、ひんやりとした空気と薄暗さに包まれる。
内部はこじんまりとしていて、ワンルームのアパートほどの広さしかない。
床には枯れ草が少しばかり敷かれていて、それが唯一の寝床だった。
湿った岩肌に直に寝るよりは幾分ましで、そこに体を丸めれば、それなりに安心できる。
火。
洞穴のすぐ外、入り口のそばには、薪を燃やして作られた小さな焚き火がある。
ぱちぱちと音を立てて燃える炎の赤は、森の青緑に沈んだ世界の中でひときわ目立っていた。
火種をどうやって手に入れたのかは、正直よくわからない。
俺が気づいたときにはもう燃えていたし、ママが火打ち石でも使ったのか。
それとも魔法か何かなのか――まあ、どうやってその火種を手に入れたのかは知る由もない。
ママ。
その焚き火の前。
どっしりとした身体を横たえながら、鋭い牙でイノシシの足を嚙み砕いている一頭の虎がいる。
大きな、大きな虎だ。体格は堂々としていて、筋肉の塊のような四肢と、ふさふさとした尻尾。
額には、一角獣のような立派な角が生えていた。
……ママ? 誰の?
ママは器用に爪を使い噛み砕いた肉を小さく割くと、額の一本角の先端に突き刺した。
そして焚き火の上に角を突き出し、じっくりと肉を炙る。
肉から立ち上る香ばしい匂いが、空腹だった俺の鼻孔をくすぐった。
やがて、ちょうどよい焼き加減になったのを見計らってママは角から肉を外し、そっと咥えて洞窟の中にいた俺の前にぽとりと落とした。
「がう……?」
奇妙な声が口から漏れる。自分でも驚いた。今のが自分の声だったのか。
何度か声を出してみたが『ぎゃ』とか『うぐぅ』とか、ろくな言葉にならない。
どうやら人間の言葉はもう喋れないらしい。
「がぁ」
俺の声に、ママはちらりとこちらを見てから、前足で肉を少し寄せてくれる。
食べろ、ということだろう。
だが、俺が食べる様子を見届けるでもなく、彼女はまた焚き火の元へ戻り、次の肉を焼き始めた。
お腹は、空いていた。ひどく、どうしようもなく、空いていた。
肉。焼いてるし、焦げてないし、見た目にもちゃんと火が通ってる。
いける……これは、ワンチャン、いける。
俺は地面に置かれた肉をそっと口にくわえた。けれど、一口ではちょっと大きすぎる。
思い切って大きく口を開け、はみ出した部分を前足で押さえ込んで奥歯で噛みちぎる。
噛んだ瞬間、肉汁がじゅわっと口いっぱいに広がった。
しっかりとした歯ごたえと、焼き目の香ばしさ。思った以上に美味い。
いや、想像を遥かに超えてうまい。
止まらなくなって、一心不乱にむしゃぶりつく。夢中になって肉を食べる自分に、少しだけ驚いた。
500グラムほどの肉をぺろりと平らげた頃、ママはすでに次の肉を焼いていた。
「ぐぎゃ」
我慢できず、焚き火のそばまで駆け寄って催促する。はよくれ、はよはよ!
しかしママはにやりと笑うような顔をすると、その焼きたての肉をまるごと一呑みにしてしまった。
……えっ、それ俺のだったのに。
でも、すぐにまた次の肉を焼き始めてくれた。俺が拗ねる暇もない。
焼きたての肉にかぶりつくと中から熱々の肉汁があふれ、口の中をちょっとだけ火傷してしまった。
でも、それすらも心地よい痛みに感じるほど、本当に美味しかった。
さっきよりもさらにでかい肉だ! ひゃっほう!!
俺ががつがつと肉を食べる様子を、ママは穏やかな目で見守っていた。
追加の一塊を食べ終えた俺は、ようやく満足し、洞窟の中の枯れ草の上に体を丸める。
ママはその隣で、スフィンクスのようにどっしりと座っていた。
ほかに人はいない。
そもそもママも俺も人じゃない。
俺の手(正確には前足?)は白くてふわふわした毛に覆われていて、ところどころ黒いラインが走っている。
猫の手のようだが、サイズが違う。とにかくでかい。
自分の体格の割に手が大きい気がする
ママは大きい。とても、大きい。
俺の何倍も大きい。三倍、いや四倍はある。
尻尾の長さだけでも俺の全長に匹敵する。
俺は多分、ホワイトタイガー。ママは普通の黄色い虎。
……“普通”か? あのママの一本角は、普通ではない気がする。
「がぅ?」
ママが俺のほうを見た。
つぶらな瞳が少しだけ不思議そうに瞬く。その表情を見て、俺はハッとした。
その瞬間、ママの額から突き出ていた立派な角が、するすると縮んでいくのが目に映った。
滑らかに縮まり、そのまま額の中へと吸い込まれるように消えていった。
さっきまで威風堂々と頭上に聳えていたあの角が、まるで最初から存在しなかったかのように、すっぽりと、どこかへ隠れてしまった。
何だこれ、どういう仕組みになってるんだ?
俺は目をぱちくりさせる。何だ今の。どういう構造だ?
額の中に空洞でもあるのか? それとも魔法的な何か?
それはさておき、これでママの見た目はすっかり普通の虎だ。
角さえなければ、ただの毛並みの良い大型猫にすら見える。
威圧感の源が消えたことで、ママの印象がほんの少しだけ柔らかくなった気がした。
(……俺のも収納できるのかな?)
とりあえず、ママの真似をしてみる。
おでこに力を入れてみたり、手で押してみたり、念じてみたり。
けれど、角はびくともしない。微動だにしない。
んー。どうやら俺にはまだ早いらしい。
子猫の爪と一緒で、ある程度成長しないと引っ込められない仕組みなんだろうか。
でもなあ、俺、もうオッパイじゃなくて肉も食べてるし、それなりに成長してるつもりなんだけどなあ。
いて! 不意に、角が肉球に刺さった。
あまりにも不器用な仕草だったせいか、自分で自分を傷つけてしまった。
じんわりと血がにじむ肉球を、あわててペロペロと舐める。
ヒリヒリするけど、我慢できない痛みじゃない。
ちらりと横を見ると、ママはあきれ顔でこちらを一瞥し大きなあくびをひとつ。
顎をぐいと開けて鋭い犬歯を見せつけるその仕草は、どこか優雅で迫力があった。
そしてそのまま、ゴロンと横に転がる。
ママのお腹は、ふかふかしていて広くて温かそうだった。
俺はそっと忍び足で近づき、その脇に身体を預ける。
オッパイの甘い匂いが鼻をくすぐった。
ああ、やっぱり俺、完全に離乳してるわけじゃなかったんだなと気づく。
意識は成人男子。でも、今の俺は虎。しかも子供の。
羞恥心は少しだけあるけれど、人間のオッパイじゃないし、まあ許容範囲だろう。
相手は虎だからな。俺も虎だが。なので気にしないことにする。
そう自分に言い訳しながら、俺はママのオッパイにむしゃぶりついた。
温かくて、どこか懐かしい味がした。ママは嫌がることもなく、静かに俺を受け入れてくれる。
その間だけは、俺はまるで世界から祝福されているような気持ちになった。
ママも特に嫌がるそぶりも見せず、その間は好きなようにさせてくれた。
前足でママのお腹をぎゅっぎゅと押す。
何でこんなことするんだろう。習性? 本能? 理由はわからないけど、やってると安心する。
ぎゅっぎゅ、ちゅぱちゅぱ、ぎゅっぎゅ、ちゅぱ……。
……幸せって、きっとこういうことを言うんだな。
「ぎゃ」
俺はいよいよ満足しきって、ママのお腹の横で丸くなって目を閉じた。
おねむだ。俺、おねむの時間だ。ZZZ……
目が覚めると、ママの姿はなかった。
俺はあたりを見回す。
耳をぴくぴくと動かして周囲の音に集中してみるが、特に何の気配も感じない。
多分、狩りにでも出かけたんだろう。心配はいらない。ママはつよいから。
外の焚き火はもう炎を上げてはおらず、灰の中でわずかに燻ぶって煙を上げていた。
念のためにその辺に落ちていた乾いた枝を足しておこう。
ついでに、その辺に生えていた俺の背丈ほどもある草に何度もネコパンチをお見舞いしてやった。
食べる、寝る。あと必要なのは適度な運動!
やるか、やるか! この、この! こいつ!!
ふー、いい汗かいた! 草はボロボロになった。ザマァ!
……誰かに、見られている。
俺の感覚が告げていた。視線の先、距離にしておよそ百メートル。
そこに生い茂る木々の陰に、何かが潜んでいる。いや、何者かが、だ。
二つ、いや三つ……三つの視線を感じる。そのうち一つはかなり微弱だけど、確かにいる。
隠れるのが上手だ。殺気はない。つまり、俺を襲うつもりはなさそうだ。
気づかないふりをして様子を窺ってみるが、向こうも動かずにただ俺を見ているだけで結構な時間が過ぎた。
何してんだろうあいつら。
俺を警戒しているわけでもなさそうだし、多分『監視』って言葉が一番しっくりくる。
でも見張られるようなことはしてないと思う、多分。
その三匹の大きさはママよりちょっと小さいくらい。多分、ニンゲン。
俺を捕まえようとしているのかとも思ったが、そんな素振りもない。
補食でもない。捕獲でもない。興味本位? にしては時間が長い。
いろいろ考えても埒が明かないな、これ。
「がうう」
試しに、声をかけてみる。俺の声が静かな林に響くと、空気が一瞬だけピリッと緊張した。
「がう?」
小首をかしげて、一歩近づく。相手は動かない。
俺は虎としては小さい方だ。普通の人間なら簡単に抱き上げられるくらいのサイズ。
なのに、なぜか警戒している様子がある。
「がう!」
10メートルほどの距離まで近づいたところで、思い切って一番奥、おそらくリーダー格と思われる者に向かって呼びかけた。
「がうがう!」
「……驚いたな。オレがいることにも気づいていたのか」
低く落ち着いた声が返ってきた。茂みをかき分けて現れたのは、すらりとした青年。
シャープな顔立ちに冷静な瞳をたたえた男前だ。
彼に続いて、あと二人。少年たちが姿を見せた。片方は黒髪、もう片方は銀髪。
どちらもまだ幼さの残る顔立ちで、俺の姿に目を輝かせている。
「これがキャンプタイガー?」
「の、子供だな。親は狩りにでも出ているんだろう。これだけ近くで見ることができるのはレアだが、子にちょっかいを出すと親がキレかねない。早々に立ち去るぞ。絶対に触るなよ」
大丈夫だよ、ママの気配ないし。もうしばらくは帰ってこないと思う。
黒髪の子供が目を輝かせたまま、俺をじっと見つめた。
「かわいいね、猫みたい」
「まだ毛がふわふわだな」
大人は立ち去ろうと促しているが、子供たちは俺に夢中らしい。
ふふ、いいじゃない、触ってもいいよ?
そう思った俺は、後ろ足に力を入れてぴょーんと二人の少年めがけてジャンプする。
黒髪の方の子供がひっくり返りながら俺を受け止めてくれた。
「あっ……触っちゃった」
「……やれやれ、警戒心のない虎だ。それよりも今のは……まさかな」
銀髪の少年と青年は、俺の動きを凝視していた。
「なあカイト……その、虎の後ろ足……今ジャンプする時オーラ纏ってなかったか?」
「お前にもそう見えたか。どうやら気のせいじゃなさそうだ」
黒髪の子供と俺がじゃれあっている間に、銀色の髪の子供と大人の男は俺をじっと見つめていた。
「しばらく監視しておいた方がいいかもな、できれば親のタイガーも確認しておきたい」
「あっ! じゃあそれオレがやる!」
黒髪の子供が手を挙げ、抱かれていた俺はバランスを崩してコロンと転がり落ちてしまった。
「あっゴメン、大丈夫?」
「がう!」
これくらい平気ですー、と尻尾を振って応える。
三人が角突き合わせてぼそぼそと何かを話している間、俺はおりこうさんに待っていた。
そして話がまとまると、黒髪の子供以外はどこかへ行ってしまった。
「へへ、オレはゴン。きみは……名前なんかないよね。オレが名付けていいのかなあ」
「がぅあ」
名前はないね。ママも言葉を話せるわけでもないし。
もし名前があったとしても呼ぶ人がいない。
「じゃあ、きみのことはタイガって呼ぶことにするよ。仮の名前だから、気に入らなかったら違う名前にしてもいいからね、タイガ!」
その瞬間、何かが胸の奥でかすかに震えた。
(タイガ……そうだ、俺の名前は、大河。タイガだった)
俺は、かつて人間だった。記憶はまだぼんやりしているけど、名前だけは、確かにそうだった。
俺の名前は、
俺は、元、人間。覚えてるのはその程度。
日本に住んでたとか、男だとか、そのくらい。
「さて、じゃあオレはきみのパパやママが帰ってくる前にまた隠れることにするよ。しばらくは近くにいると思うから、よろしくね」
「がう!」
……まあいいか。今の俺は虎。深く考えまい。
この子供のこともなんかうっすら見覚えがあるような気がするけど、深くは考えまい。