キス断二日目(問題提起した昨日を一日目と換算)。
「おはよ」
「……はよぉ」
朝、登校のために家の前で合流すると、いちかは既に若干やつれて見えた。
昨日は結局話の後すぐに帰り、キスをしていない。
最後にキスしたのは一昨日の夕方頃……既に丸一日は開き、普段のいちかの限界に到達している。
「むー…………」
(こいつ、ガン見じゃねーか)
会ってすぐ、恨めしげに俺――というか、俺の唇を見つめてくるいちか。
言葉にせずとも全身から、「キスしたいキスしたいキスしたい」と怨嗟の声が聞こえてくる、気がする。
……しかし、ここで折れてちゃ意味がない。
「ほら、行くぞ」
「あ……うぅ」
俺はいちかの無言のアピールを無視し、歩き出す。
実のところ、俺だって落ち着かない感じはある。けれど、まだキス断ちをすると決めた次の日だ。まだ火曜日だ。
こんなところで立ち止まっちゃいけない。そう、強く自分に言い聞かせた。
◇
キス断三日目。水曜日。
「なあ、この問題の解き方さぁ」
「んー……」
「……省吾」
「んー……」
「ちゃんと聞けぃ!」
――バシンッ。
「痛っ!?」
寬司に叩かれた。丸めた教科書で。
「お前、今日どうしたよ。ずっと上の空だぞ」
「ああ、悪い。何の話だったっけ」
「ここの問題の解き方……いや、そんなのはもうどうでもいい」
数学の問題集を丸め、再び、けれど先ほどより弱く、頭を叩いてくる寬司。
そこで初めて、さっきの武器が数学の教科書だと知った。
そして、いつの間にか四限の数学が終わり、昼休みに突入していたことも……初めて気付いた。
「やば……ノート」
授業の記憶が全然無い。ずっと別のことを考えてた。この時期には最悪だ。
すぐに慌てて……といっても慌てる元気もないので、ゆっくりノートを開いてみる。
そこには確かに俺の字で、けれど、明らかに普段より力の無い、汚い字で板書を写した跡が刻まれていた。
(全然記憶に無い……)
「おい、大丈夫か?」
「大丈夫……じゃないかもな」
寬司の心配する声に、俺はため息ついでに答える。
これについては四限からじゃない。今日ずっと……こんな調子だ。
原因は分かってる。この口寂しさ。自分の中の歯車が何カ所も欠けてしまったような違和感。
気を抜けば、まったく、それ以外のことを考えられなくなる。なってしまう。
「おつ~……いやぁ、数学難解すぎ~」
弁当を持って理音さんがやってくる。
昼休みはダブルデートではまったくないが、四人で食べるのが通例だ。
そう、四人。寬司、理音さん、俺……そして。
「お疲れ、リネ。後で一緒に復習しようぜ。ああ、いちかちゃんもお疲れ」
「うぁ…………」
「あー、駄目。この子、今朝からロボットになっちゃってるから」
理音さんが苦笑しながら、軽くいちかの頭をはたく。
感情を失った、何も写さない瞳を浮かべたいちかはまったく反応せず、ぼーっと虚空を見つめている。
明らかに重症だ。
「おいおい、いちかちゃんも? お前ら揃ってどうしたんだよ」
「揃ってって、ショーゴくんもかよっ!」
「あー……流行病、みたいなもんかもな」
そう言いながら、俺はいちかから目を逸らす。
まともに見てはいけない。いちかを見れば、自然と彼女の唇を追ってしまう。
他の誰よりも、光り輝いて見える、ひときわ目を引く艶やかで柔らかそうで……魅力的な、それを。
「……あたし、お昼いいや」
いちかがぽつりと呟いた。
「ちょ、いいって!?」
「お腹減ってない。それに……お昼ご飯より……」
感情の起伏の殆ど無い声。
普段元気といえば阪内いちかとの呼び声高い彼女のそんな姿に、理音さんや寬司だけでなく、他のクラスメート達までざわついていた。
しかし、いちかは全く気にもとめない。外面を取り繕いもせず、とぼとぼと自席に戻り……ぐったりと机に突っ伏した。
「いや、マジでどーしちゃったんだよ!?」
「……さぁ」
そう肩をすくめてみるけれど、言うまでも無くその原因を俺は理解している。
誰よりもずっと、いちか本人と同じくらい理解している。
そして……解決法も、はっきりと。
「なにか悪いものでも食べたのかしら」
「いちかちゃんに比べたら、コイツの方がまだマシだな」
二人の声がどこか遠くに感じる。
ああ、駄目だ。よくない。
今朝からずっと思っていたこと……その疑念を浮かべてしまう。
(もしかしたら、これ、逆効果なんじゃないか……?)
水は低い方へ流れる。人の心が楽な方に流れやすいのをそう揶揄する言葉がある。
人の心が妥協に、怠惰な方に流れやすいのをそう揶揄することがある。
決心が揺らぐ。簡単に。
水が地面に落ち、染みこんで消えていくように……俺の決意もまた、ドロドロに崩れ落ちようとしていた。