「……そっか」
いちかは少し照れくさそうに笑うと、前を向き直り……ぐっと体重を預けてきた。
「前さ、聞いたじゃん? おっぱい触りたいって」
「またその話かよ。好きだな」
「好きとかじゃないけど」
いちかは大きくため息を吐くと、一度大きく伸びをした後、腕の力を抜いた。
「……いいよ」
「は?」
「触って……ううん、揉んでいいよ」
覚悟を決めたかのような真剣な声で、いちかは言った。
表情は見えないけれど、耳からは赤みが引いている。
「何言ってんだよ」
「冗談に聞こえる?」
「……聞こえなかったから聞いてるんだ」
「うん、だって本気だもん。別に揉まれたって、逃げたり抓ったりしないよ」
「…………そういう関係じゃないだろ、俺たち」
散々キスしておいて今更だけど、だからこそ、常に一線を引いてきた。
キスだけ。それ以上はしない。
もしも胸を――愛撫なんてしてしまったら、きっとなし崩しに先へ先へと進んでしまう。
キスだけだと決めているから、俺たちは今のままでいられる。
だから冗談は言い合ったって……それを現実にしようなんて思わなかった。お互いにだ。
「あたしは……しょーちゃんのこと、そういう意味で好きじゃない」
「ああ」
「もちろん人としては好きだよ? 全人類で一番好きって言っても過言じゃないし」
「……そりゃあ、俺もだけど」
「うん、知ってる」
女として好きじゃなくても、人としては好きだ。好感しかない。一緒にいて楽しいし、一緒にいたいって思う。
でも、恋人になりたいわけじゃない。結婚して子どもを作りたいわけじゃない。
いつかいちかが誰か別の男のものになると確信している。それは、俺じゃ彼女に与えられないものを、その男が持っているだろうから。
「でも、さ」
いちかはやっぱり真剣な声で続けた。
「あたしも……興奮してるよ。しょーちゃんとのキス、気持ちよすぎてたまんない。しょーちゃんのこと、そういう意味で好きになれたら良かったのに……しょーちゃんがそういう意味であたしのこと、好きになってくれたら良かったのにとか、たまに思うくらい」
「いちか、それは……」
「うん。今日だけ。明日になったら忘れるから、しょーちゃんも忘れて」
それは逆に、今日の内は忘れるなという意味でもある。
俺たちは互いに好いている。人間として。
だから……嘘の好意で汚したくない。それは俺たちが無言のまま引いてきた確かな一線。
いちかはそれをわざわざ言葉にして……その上でどうするか、俺に委ねようとしていた。
「たぶんさ……あたし、しょーちゃんに触ってもらえたらすごく気持ちいいって感じると思う」
端的に言ってしまえば……そう。体の相性がいいんだ、俺たちは、きっと。
だからだろう。キスだけと決めていても、そのひとつに溺れてしまうのは。
(……そんなこと、俺だって思ったことある)
だから、それより先は全部冗談にした。
だって……仮にそうなったとしても、最後はいちかを傷つけてしまうだけだから。
お互いキスだけ。その意味を知る前に始めてしまったのだから仕方が無い。
その免罪符が効く間だけ、そうであれればいい。
「しょーちゃんがしてほしいなら……あたしも、しょーちゃんの、触ってもいいよ」
だから、そんなことは言わないでくれ。
俺は、俺以上に、お前に幸せになって欲しいんだ。
幼馴染みであり家族。姉であり、妹。
家族以上の家族である、阪内いちかに。
だから……。
だからこんな、惨めな気持ちに、向き合わせないでくれ。
「…………」
言葉は出なかった。腕も痺れて動かなかった。
息苦しい空気に押しつぶされそうで、どうしていいか分からなくて――。
――ピピピッ。
再び、アラームが鳴った。
5分の休憩が終わった合図。新たに25分のタイマーが動き出す。
「……勉強、しよっか」
「…………ああ」
どこか寂しげに笑ういちかに頷きながら、俺は内心ホッとしていた。
それから俺たちは勉強と休憩を何度か繰り返し、テスト対策を進めていった。
次の休憩からはキスはせず、お互いぼーっとしたり、スマホをいじったり、そんな学生らしいことをして時間を潰した。
でも、最後――。
「んーっ、いっぱい勉強したー!」
「今日はここまでだな」
何度も勉強と休憩を往復し、切りの良いところでアプリを止める。
最後の方はよく集中できた。案外俺たちに合っているかもしれない。
適度に休憩が来てくれるおかげで、逆に勉強に集中できたし……。
「しょーちゃん、あたしそろそろ帰るね」
「ああ……お、送ろうか?」
「ぷっ。なにそれ。家隣じゃん」
「そうだけど……いや、そうだな。悪い」
25分、勉強に集中すると割り切った分、他はぐずぐずだ。
いちかにとって、俺はどうするのが正解だったのか……そんなことを馬鹿真面目に考えてしまう。
明らかに普段の俺じゃない。
「しょーちゃん」
「ん?」
名前を呼ばれ、顔を上げる。
いつの間にかまたうつむいてしまっていたと気付かされながら……。
――ちゅっ。
いちかの唇が、軽く俺の唇に触れた。
普段のキスに比べれば幾分も浅く、優しい――軽く突くだけのキス。
理性を飛ばし、ひたすら貪り合った最初のキスに比べれば、まさに対局と言っていい。
なのに……すごく印象に残りそうな、そんなキスだった。
「また明日」
「……ああ、また明日」
いちかはにっこり笑い、俺の部屋から出て行った。
追う必要はない。いちかの言ったとおり、見送らなくていい。
「はぁ……」
俺は彼女のいなくなった自室で、彼女の匂いがすっかり染みついたベッドに寝転び、しばらくボーッと目を閉じた。
きっと、明日になれば俺たちはいつも通りだ。
ポモドーロタイマーで得た経験に味を占め、勉強とキス休憩を繰り返す。お互いの欲望のままに、欲望をぶつけあう。あくまで幼馴染みとして。
いちかは俺のサポーターのことなんか気にもとめないし、俺もいちかが真っ赤になって否定したサポーターの代わりになる何かについて思い巡らすことはない。
あのやりとりだって、無かったことになる。そう処理するのがお互いにとって一番だから。
(でも……やっぱり今日いっぱいは消えてくれないだろうな)
俺はそんな自分の愚かさを感じながらスマホを開く。
そして、いつもお世話になっている『参考文献』と書かれた隠し画像フォルダを開いた。
全てが済んで、時間も経って、この高ぶりは男子高校生なら誰でも持っている当たり前のものだと納得できるまで収まってから……ようやく、こいつのお世話になる。
毎日、毎日……そうやっていて、特別なことなんか何も無いのに。
そんな当たり前が、今日ばかりはなぜか、嫌に言い訳らしく思えてしまった。