「ん……あれ? あたし、寝てた……?」
「お目覚めで、お姫様」
「しょーちゃん……あれ、カレーの匂い!」
「おう。お前の分もあるぞ」
普段勉強するのに使っているローテーブルに置かれた、深皿にこんもり盛ったカレーライスを指さす。
「これってもしかして、おばさん特製カレー!? もしかして、あたしの為に――」
「ちげーよ。今日はテスト最終日だから、お・れ・へ・のご褒美で作ってくれたの。お前の分は残り物だ。残り物」
「えー? とかいってぇ、あたしの大好きなチーズ、沢山乗ってんじゃん。これ、しょーちゃんでしょ?」
「……ま、冷める前に食えよ」
「うんっ! いただきまぁす!」
さっきまでふて寝していたくせに、随分寝起きの良いやつだ。
起きてすぐカレーなんてうんざりする人も多そうだが、いちかは意気揚々と合掌すると、すぐさまスプーンを構え、口いっぱいに頬張った。
「美味し~!」
「ははっ、そっか」
いちかがいつ起きてもいいように、わざわざ部屋に持ってきて正解だった。俺はそうまじまじ思いつつ、自分の残り僅かになったカレーをかっ込む。
「……うちの親、来てた?」
「ああ、めっちゃ心配してた」
「そっか……そうだよね」
「いちかをよろしくってさ。元気になったら、ちゃんと帰れよ」
「うん……」
いちかの両親は先に帰った。俺は寝たままのいちかをそっちの家に運んでもいいって言ったんだけど、そのままにしておいてほしいと頭を下げて。
「……ちっちゃい頃さ、覚えてる?」
「覚えてることは」
「あたしが、怖い映画見たとき」
「……怪談番組って言ってなかったっけ?」
「そうだったっけ? ……まあ、どっちでもいいよ。とにかく怖い想像が止まらなくなって、泣いちゃって……しょーちゃんと一緒に寝たいって叫んじゃって……それでしょーちゃんちに連れてってもらったの」
いちかの家で起きたことは知らない。
ただ、覚えているのは、夜中にいちかの家族が訪ねてきて、いちかと一緒に寝てやってほしいと頼まれたことくらいだ。
たった一度なら忘れただろうけれど、それからちょいちょい、そんな機会があったから変に覚えてしまっている。
「あの時ね、お父さんに言われたの。怖いなら一緒に寝てあげようかって」
「ああ」
確か小学校一年生か二年生くらいだったか。幼稚園の頃は親と一緒に寝てたけれど、自分の部屋を与えられて、一人で寝るようになった……それくらいの頃だ。
「でも、あたし……しょーちゃんと一緒がいいって断っちゃったの」
「そうだったのか?」
「お父さん、ショック受けちゃって……って、そんなに深刻な話じゃないよ? たぶん。……でも、それから、こういうときに頼るのは自分達じゃなくてしょーちゃんの方がいいって思ってるみたいでさ。まああたしも、正直しょーちゃんの方が頼りやすいというか、迷惑かけても罪悪感が湧かないって思ってるんだけど」
「おい」
そこは罪悪感を感じろ。そして敬え。頼りになる幼馴染みのことを。
「変な話だよね。血の繋がった家族より、血の繋がらないしょーちゃんと一緒にいるときの方が、自然体でいられるとか、さ」
いちかはそう自嘲し、寂しそうに俺を見る。
「なんかさ……ちょっと思った。もしも、あの時しょーちゃんに頼らなかったら……あたし、しょーちゃんとはもっと他人で、しょーちゃんのこと、好きになれたかもって」
「……どうだろうな。あの頃にはもう毎日キスしてたからなぁ」
俺はキスの習慣が俺たちの距離感をバグらせたと思っている。
いや、一つのきっかけでどうこうって話でもないし、まあ、一番大きなきっかけといったところだろうか。
けれど、いちかは首を横に振った。
「ううん、違うよ」
「違う?」
「だってさ……あの頃のあたしにとってしょーちゃんは王子様だったから」
「お、王子、様?」
「女の子はね、王子様と運命のキスをする……そういう物語に憧れるものなの。あの頃のあたしには、どうして自分がしょーちゃんとキスしたいって思ったのか、その気持ちの正体が分かってなかった。ただ、絵本の向こうのお姫様が王子様とキスするみたいに、あたしにとっての王子様はしょーちゃん以外ありえなかった。それって、たぶん…………。だから、キスしてってお願いしたんだ」
「そう、だったのか」
「…………たぶん?」
「たぶんかよ」
「だってちゃんと覚えてないもん。幼稚園のことだよ?」
けらけらといちかが笑う。
どうやらからかわれたらしい。そりゃあそうだよな。俺も幼稚園の頃のことなんて殆ど覚えちゃいない。
覚えているのは印象的なことを少しだけ……それこそ、いちかとキスしてたってことくらいかもしれない。
「結局、ず~~~っと一緒にいて、毎日キスして、たまにお泊まりして……あたしの中でしょーちゃんは、頼りになるお兄ちゃんで、たまにすごぉく生意気な弟って感じで……もうそれ以外のこと思い出せないんだけどね」
「そうだな」
いちかの言葉に、俺は迷わず頷く。
俺からしても、当時、俺にとっていちかがどういう存在で、どういう感情を抱いていたのか、もう分からない。
ただ、もしもいちかの言うように何か歯車が噛み合わなくて、今よりもっと他人な関係だったとして……そうなったらそうなったで、いちかが俺のことを好きになってくれたかと言えば、ちょっと自信は無いな。
「ごちそうさま!」
気がつけば、いちかは山盛りだったカレーをあっさり平らげていた。
「いっぱい食べたら元気になった!」
「そうかい。そりゃ良かった」
運びやすいように自分の皿といちかの皿を重ねる。これはあとで纏めて、俺が洗っておこう。
「それじゃあ……あたし、帰るね。ちょっと、しょーちゃんと一緒に寝たいなって気持ちもあるんだけど、さっき帰れって言われちゃったから」
「そうしろ。一応、試験疲れと、友達との関係がこじれたのが重なって、メンタル的にきつくなったっぽいみたいな感じに言っておいたから」
「えへへ、ありがと」
いちかはいつも通りの笑顔を浮かべつつ、立ち上がる。
てっきりキスをねだってくると思ったけれど……多少なりとも失恋したわけだからな。
さすがのいちかもそこまで図太くはないか。
「えへへ……今キスしたらカレー味になっちゃうもんね」
「そういう理由かよっ!」
清々しい表情で、それはそれで乙女らしい遠慮を見せる幼馴染みに、俺は今日一番の苦笑いを浮かべずにはいられなかった。