ちゅ、と唇同士が弾ける音を聞きながら、たった一触れ、一瞬で離れていく彼女の顔を、俺は呆然と見つめる。
「いち、か……?」
心臓が変な音を立てていた。驚いたのは確かだけれど。
ぎこちなくいちかの名を呼ぶ。いちかは俯きながら、ぎゅっと俺の両腕を掴んでいた。
「あたし……変かも。凄く心臓がばくばく言ってる」
俺が考えていたのと同じようなことを言いながら、けれど今度は自身の手を胸に押し当てない。
かわりに……助けを求めるような目で、俺を見上げてきた。
「しょーちゃん……触って確かめて」
「……え?」
「あたし、分かんないの。自分が分かんない……だから、変じゃないか、確かめて」
触る? ではない。
触っていいよ、でもない。
――触って確かめて。
その言葉は、まるで砂糖菓子のように甘く、しかし毒のように俺の思考を浸食してきた。
もはや、手に別の脳があるみたいな……勝手にいちかの胸に伸びて、触れる。
触覚は俺の脳と連動していた。柔らかく、熱く……彼女の心臓の鼓動を確かめるより先に、俺の心臓が爆発しそうだった。
――とくんっ。
指先に、波打つ何かが触れた。
それを確かめようと、手のひら全体を押しつける。
「ん……っ」
いちかの口から桃色の吐息が漏れた。
それに一瞬意識を奪われつつも……。
――とくん。とくん。とくんっ。
いちかの強い鼓動が伝わってくる。
自分のものではないけれど、たぶん、俺の鼓動と同じくらい強く……きっと同じくらい苦しいのだと分かった。
「あたしも……いい?」
「……ああ」
いちかが俺の胸に触れる。
そして驚いたように目を見開いて……すぐに嬉しそうに頬を緩ませた。
「しょーちゃんも、ドキドキしてんじゃん」
「そりゃあ、するだろ」
「うん……あたしだけ、じゃないよね」
その鼓動を感じていると、安心した。
いちかもそうなら……俺が変なわけじゃない。
この状況に落ち着かなくなるのは……嬉しいと感じてしまうのは、おかしなことじゃないんだ。
「ん……っ」
どちらからでもなく、キスをした。
お互いの胸に手を触れたまま、けれど指先に込めた力を強くしながら。
(……熱い)
触れる唇が、その奥から漏れ出る吐息が。
心臓が。それに触れる手のひらが。
いちかという存在を感じ取って、いちかという存在を主張して。
俺の心を支配する。
――ちゅるっ。
舌を伸ばした瞬間、彼女の舌先に触れた。
これもまたどちらともなく……同時だった。
「ん、あっ……ちゅる、じゅる……っ」
いちかは苦しげな声を漏らしながらも、必至に舌を絡めてきた。
右手でいちかの心音を確かめながら、左手で彼女を抱き締める。
およそ三日ぶりのキス。
四日我慢した後のキスは、脳が溶けるような心地がした。
けれど、それより一日短い筈のこのキスは……あの時よりもずっと熱く、全身が溶けていちかと混ざりそうな、そんな錯覚を抱かせた。
「しょ、ちゃん…………き……」
殆ど自身の吐息にかき消されながら、絞りかすのような言葉が鼓膜を打つ。
はっきりと聞き取れなかったけれど、でも……俺の喉は勝手にその言葉を紡いでいた。
「好きだ……いちか……っ」
それはあの日の芝居の延長か。または、幼馴染みとしての文句ない友愛の証か。
……今の俺には考える余裕はなかった。
ただ、その言葉を口にすると、心臓がもっと熱くなった。俺のも……いちかのも。
「好き……しょーちゃん、好きっ。大好き……っ!」
鼓動が強くなる。
舌の動きも激しくなり、口の端から涎が垂れる。
いちかの、お気に入りのワンピースに薄黒いシミを作りながらも、俺たちは止められない。
「好き、好きだ……いちか、好きだ……!」
「好きだよ、しょーちゃん。好き、好きぃ……!」
会話なんかじゃない。お互い、ただ一方的な言葉をぶつけ合う。
俺はいちかの体が潰れるのも厭わないくらい、左手に力を込めてしまっていたし、いちかは俺の背中を千切らんばかりに指を食い込ませてきていた。
なぜだか目に涙が滲んだ。感情が溢れて止まらなかった。
これが、恋な筈が無い。
けれど……好きという言葉を口にする度に、感情に色がついていくような、心地よさがあった。
「しょーちゃん、もっと、もっと言って……好きって、言ってぇ……!」
「いちか、好きだ。大好きだ……お前が好きだ」
「うれ、しぃ……あたしも、あたしも好き……大好き……!」
涙で震えるいちかの声が、俺を溶かしていく。
いっそ本当に溶けてしまえたら……このまま、不安も疑念も、面倒なことは何もかも忘れて、溶けていちかと一つになれたらどれほど幸せだろうと思わずにいられない。
自分の気持ちも、いちかの気持ちも……そうなってしまえば、もう何だっていい。
こうなると嫌でも自覚させられる。
自分の中の醜い独占欲。いちかの幸せを願いながら、そのためには身を引く覚悟も持ちながら、その裏で最後の瞬間まで彼女の側にいたいと願ってしまう。
――こんなことは、もうやめなくちゃいけない。
そう一瞬、理性が口を挟もうとした。
けれど……。
「ちゅう……じゅる、れろぉっ……」
顔を出した瞬間に、いちかの舌に舐め取られ、離れていった。
止められるはずもない。こんなに気持ちいいのに、こんなに嬉しいのに。
それなのに止められるやつがいるなら、そいつは人間じゃない。
「いちか、いちか、いちか」
「しょーちゃん、しょーちゃん、しょーちゃん……っ!」
5分にも満たない、短い時間。
偶然、ゴンドラが地上に着く直前だと気づけなかったら、俺たちは非常に迷惑な客だと係員の方の脳裏に刻まれただろう。
「ありがとうございましたっ」
なんとか体裁だけ取り繕い、係員さんの明るい挨拶を聞き流しながら、俺たちは観覧車を後にした。
「はぁ……はぁ……」
「ふーっ……ふーっ……」
手を強く握り合い、呼吸を荒くし……行き場のない熱を、なんとかかみ殺しながら。