二人のあの感じ、すぐに追ってくるかとも思ったけれど、そんなことはなかった。
もしかしたら、何かと察しの良い二人のことだ。いちかの機嫌を損ねたのかと不安がっているかもしれない。
ただ、いちかが他人の前で本当に不機嫌な姿を見せたことは、俺の知る限り一度も無い。端から見ていて、「あ、イラついてるなー」と思う時はあっても、見事にノリに昇華させている。
それくらいに面の皮が厚い幼馴染みだけれど、そんないちかに対しても「もしかしたら」と思えるくらいには、気が遣える二人だからな。幼馴染みカップル問題については本人達ののろけが勝っているだけで。
そして今回に関しては、俺の目から見たら、いちかは別に怒ってないと思う。
ただ…………機嫌が良くも見えない。
「……いちか?」
教室から離れ、しかし下駄箱に向かうわけでもない。
足を止めることなく、俺の手を放すわけでもなく、いちかは校舎の隅――人気の無い方向へと進んでいく。
これは、まさか…………彼女の意図をなんとなく察した、瞬間。
「…………」
いちかが足を止め、振り返る。
そして、その流れのまま、俺の顔をがしっと掴み、思いっきりキスしてきた。
「んむっ……!? お前、学校だぞ!?」
「分かってる」
だから黙れ、という圧をぶつけてきながら、いちかが睨み付けてくる。
しかし黙るわけにもいかない。人気の無い校舎の隅とはいえ、いつ誰が来るとも分からない状況だ。
こんなところ、見られたらよろしくないのは、いちかだって分かっているはず。
「ど、どうしたんだよ!? 普段だったら我慢できてたろ!」
「帰ってからもするけどさぁ……散々のろけられたから」
むすっと、いじけるようにいちかが吐き出す。
「リネ、ずっと『キスってどんな味がするんだろ』とか喋ってくるんだよ。知ってるよとも言えないし、でも聞いてたら、たしかにどんな味するんだろって気になって、そしたら無性にしょーちゃんとキスしたくなって……」
どうやら理音さんとの雑談でキス欲が呼び起こされてしまったらしい。
なんとも迷惑……と思いつつ、誰かを責めれる話でもないか。
「んで、どうだった」
「……分かんない。もっとしたい」
「分かんないって」
「前も言ったじゃん。殆ど無味なの。でも、まったくなにもないってわけじゃなくて……嫌いな感じじゃないのは確かだけど…………もっと、したい」
「う……」
ねだるように、瞳を潤ませるいちか。
俺はこの目に弱い。この全身全霊でねだりにねだってくるこいつのこの目と相対して、屈さずにいられた成功談を殆ど持っていないのだ。
一週間俺より早く生まれたくせに、妹のように感じさせる所以がここにはある。一週間しか離れていないのを良いことに、こいつは自在に、自分が求めるもののために、姉にも妹にもなるのだ。
「しょーちゃん……」
甘えるように俺を呼び、胸に手を添えてくる。
ああ、駄目だ。こいつは引く気が無い。学校という、お互いにとってデメリットの多いこの場所で、それでも押し通そうとしている。
確実に俺を折らす。俺が折れるまで動かない。そう潤んだ目に書いてある。
「……分かったよ」
「やたっ!」
「ただしっ、少し移動するぞ。ここじゃ誰かに見られるかもだし」
「おっけーおっけー!」
校舎の隅とはいえ、ここは廊下だ。少々見晴らしが良すぎる……ので。
俺はいちかを先導し、歩き出す。なに、目的はすぐそこだ。
「……って、ここ。男子トイレじゃん!」
「鍵付き個室付きのスペシャル仕様だぞ」
「良いように言う! やだよ、入りたくない!」
「でも、廊下は目立つだろ」
「……だったら、しょーちゃんが女子トイレに入ればいいじゃん」
「ばっかお前。女子が男子トイレに入るのと、男子が女子トイレに入るのじゃ、罪の重さが段違いなんだよ」
性別格差を感じさせる考え方だと非難を受けるかもしれないが、世の中そうできているのである。
それにそもそもの発端はいちかだ。ならばいちかが妥協すべきと、俺は考えるのである。
「別にトイレでやるのは初めてじゃないだろ」
「そーだけどぉ……それは家でじゃん」
「嫌なら帰ってからだ」
「……分かった」
俺としてはやっぱり帰ってからと諦めてくれる方が良かった。
しかし、阪内いちかは一筋縄でいく女ではない。
彼女は俺の手を掴み、何度か周囲を確認した後、自ら男子トイレへと足を踏み入れた。