デッドマンズ アーカイブ   作:地下ピ

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追記:文章量が長すぎたので、2つに分割しました。申し訳ないです。

いつも読んでいただき、誠にありがとうございます。
今回、1万5000字です。


私の名は吉良吉影 その1

 

吉良吉影は闇の中を彷徨っていた。

視界は漆黒に閉ざされ、どこまでも広がる虚無の空間が、彼の心を締め付ける。まるで、見えない何かがその背後から息を吹きかけてくるような…不快で粘ついた感覚が肌にまとわりついていた。

 

「ここは……?」

 

声に出したつもりだったが、その言葉は虚無の闇に吸い込まれ、自分の耳にさえ届かないように感じる。あたりはまるで墨を流し込んだような暗黒の世界。どこを見ても何もない。ただ、自分の靴音だけがかすかに響き、空虚な広がりを際立たせていた。

一歩進むごとに靴音が虚しく響き、まるでどこまでも広がる虚無が、重くのしかかるようだった。息を吸うたびに粘ついた冷気が肺に染み込み、嫌な汗が背中を伝う。

 

(――カツン)

 

―そんな時だった。

不意に、背後から声がした。

 

「……気づいてないの?自分に……何が起こったのか?」

 

吉良は振り向いも…誰の姿も見えない。声がしたはずの空間は、ただの闇が広がっているだけだった。

 

「とうとう終わったのね?…みんなが…ついに『吉良吉影』…あんたを追い詰めたのね……」

「なんのことだ…おまえは…誰だ?」

 

そんな吉良の声は、まるで冷たい霧に溶けるかのように消えた。

 

「あたしのこと覚えてないの? そうね……無理もないわ。15年も前のことだもの――」

「何を言っている……」

 

どこかで女性の声がかすかに響いていたが、声はあまりに小さく、はっきりとは聞き取れない。

吉良は苛立ちを覚え、声のする方向に怒鳴った。

 

「何者だと聞いているのだッ!! きさま…いったい――」

「気づかせてあげるわッ! すでに自分が死んでしまっているという事を!!」

「なッ!?」

 

その言葉が放たれた直後だった。

 

不意に、氷のように冷たい感触が胸を突き刺した――いや、突き抜けた。

透き通る腕が、吉良の胸を貫通していた…

 

――冷たい。

 

だが、それは痛みというより、魂の奥底がじわじわと冷え固まっていくような感覚だった。

 

「ここにいるのはッ! 死んだ殺人鬼のドス黒い、ただの『魂』だけっていう証明なのよッ!」

「ぐおォおおおおおッ!?」

 

吉良は苦悶の声を上げ、胸を押さえる。

 

「どう?思い出せた? ねえ!?思い出したかしらッ!?どうやって『自分が死んだ』のかを!」

 

視界の先に、女性が立っていた。

 

淡いピンク色のワンピースに、鮮やかなピンクの髪。だが、彼女の顔は煙がかかったようにぼやけており、表情までは見えない。ただ、そのかすかに透ける肌は異様なほど冷ややかで、胸を貫いた腕が今もなお吉良の内側に刺さっている感覚が消えなかった。

 

「おまえは……誰だ!?」

 

その言葉に彼女が応じることはない。

ドレスの裾が揺れると同時に、吉良の足元から無数の醜い手が伸び上がった。

 

「なッ!?」

 

血の気が引く。

 

黒くねじくれた手が、吉良の腕を、足を、そして首を掴んだ。

皮膚に染み込むような不快な感触。

爪が食い込み、冷たい感触が吉良の体を引きずり込もうとする。

 

「裁いてもらうがいいわッ! 吉良吉影……!」

「やめろッ……やめろォォォォ!!」

 

吉良の叫び声が響き渡り、恐怖が全身を駆け巡った。

無数の手が吉良の体を闇の底へと引きずり込もうとする。指先が氷のように冷え、意識が暗転していく――

 

 

「うわあああああああっ!!」

 

 

「うわあああああああっ!!」

 

――次の瞬間、吉良はベッドの上で飛び起きた。

 

「ハァッ……!!」

 

荒れた息が胸を震わせ、汗が額から流れ落ちる。

 

「…はぁ…はぁ……」

 

吉良は震える指先で、自らの胸を押さえた。あの冷たさがまだ肌にこびりついている気がする。

 

「…夢……だったのか…?」

 

先ほどの女性の声が耳に蘇る。

 

『殺人鬼』――あの言葉が頭にこびりついて離れない。

 

「わたしが…死んだ……?」

 

吉良は自分の手を握りしめた。震えていた。まるで、あの無数の手がいまだに自分を掴んでいるかのようだった。

 

(『ここにいるのはッ! 死んだ殺人鬼のドス黒い、ただの『魂』だけっていう証明なのよッ!』)

「…くそ……」

 

その言葉に怒りが湧くわけでもなく、涙が溢れることもなかった。ただ、茫然としたまま、吉良は無意識に自らの胸を押さえた。そこには、痛みも傷もなかったが、彼女の腕が突き刺さった冷たい感覚は、まるで焼き付くように残っていた。

 

(あの女は…誰だ…?)

 

見覚えのない顔。いや、そもそも顔ははっきり見えなかった。ただ、まるで自分のことを知っているかのように話し、自分が「死んだ」と言い放った女――

 

(……あれは……本当にただの"夢"だったのか…? いや、あれは…)

 

冷え切った汗に包まれながら、吉良は深く息を吐いた。喉が渇き、全身が怠く重い。

 

「…クソッ……」

 

指が震えている。気づけば吉良は、その恐怖を振り払うように自らの爪を噛んでいた。ギリギリと噛み続け、爪の端が食い破られる。皮膚が裂け、じわりと赤い血が滲み出た。

 

「くっ……」

 

指先に広がる鈍い痛みが、あの夢の悪寒をわずかに薄れさせた。だが、それでも頭から離れない。

 

――自分が死んだ、だと?

 

――あの女は、何者だったのか?

 

――今のは、ただの夢なのか……それとも――

 

吉良は濡れた額を押さえながら、ただ静かに息を整えるしかなかった。

ただ――ただ、背筋が凍りつくような感覚と、得体の知れない恐怖だけが残っていた。

 

「…いや、まさか……」

 

だが、吉良は考えまいとするかのように頭を振った。

 

「……きっとただの悪夢だ……」

 

そう言い聞かせることでしか、あの異様な感触を拭い去ることができなかった。

 

――本当に、ただの悪夢ならば、だが。

 

 

雑念を振り払い、いつも通り今日も出社する。

カイザーローンのエントランスをくぐった瞬間、吉良は何か胸騒ぎを覚えた。オフィスはいつもと変わらぬ喧騒に包まれているはずなのに、妙に静かだ。社員たちの視線が突き刺さるが、誰も目を合わせようとはしない。

 

「……嫌な感じだな。」

 

不穏な空気を感じつつ、吉良はデスクに向かおうとした。しかし、その道を塞ぐように現れたのは、黒いローブに鮮やかなオレンジの装飾が施された威圧的なロボットだった。

 

『吉良吉影…貴様に話がある。』

 

その人口音声は、まるで錆びた鉄を擦り合わせたように重く響いた。

 

「カイザー理事…?」

 

――カイザーPMC理事…

カイザーローンの代表取締役であり、カイザーPMCの理事も務める男。

傲慢な性格で知られ、社員の誰もが恐れていた存在だった。

 

『ついて来い。』

 

命令のような言葉と共に、カイザー理事は背を向け、社長室へと歩き出した。逆らえば即座に何が起こるか、おのずと理解できる。

 

『座りたまえ。』

 

カイザー理事が重々しい声で命じる。吉良が椅子に腰を下ろすと、カイザー理事は吉良を見下ろし、薄く笑みを浮かべた。

 

『お前は今日をもって…クビだ。』

「……は?」

 

…聞き間違いかと思った。

 

「どういうことですか?私は何も……」

『何もしていない?フン……』

 

理事は嘲るように鼻で笑った。

 

「ブラックマーケットに関与する連中…確か覆面水着団と言ったか…ソイツらが以前、ウチの提携銀行を襲ったことは知っているな。」

「…それがな――」

「お前がその一味だという証拠が挙がっているのだ…。」

 

理事のその言葉を聞いた瞬間、吉良の頭にいくつもの顔がよぎった。

 

――先生。いつも笑みを浮かべた…お人よしのあの教師。

――アビドスのガキども。

あの小生意気な連中の顔と声が頭の中でこだました。

 

「……いや、そんなはずは……」

 

吉良は小声で否定した。ありえない。どれほど用心深く立ち回ったと思っている。

奴らとの関係は完全に隠し通せていたはずだ。それなのに――

 

『黙れ。』

 

カイザー理事は冷酷に言い放つと、ゆっくりと右手を上げ――パンッと乾いた音を立てた。

 

(ガシャリ……)

 

鋼鉄の足音が室内に響き、2体のオートマタが現れた。彼らは無骨な迷彩柄の装甲に覆われ、緑色の光を帯びたセンサーがギラリと光る。PMC(プライベート・ミリタリー・カンパニー)のロゴがその肩に刻まれていた。

 

「カイザーPMC……!」

 

吉良は思わず息を呑んだ。

 

『連れて行け。』

「待ってくれ!私は無実だ!おい、やめろッ!」

 

しかし、その訴えはPMCの兵士たちには届かない。無機質な装甲の兵士が容赦なく両腕を掴み、引きずるように歩かせる。

 

『…自業自得だ、吉良吉影。』

 

社長室が閉まる寸でで聞こえた、その冷えるように低い人口音声。

カイザー理事は、そのカメラアイでただ――吉良が連れていかれるさまを、見つめていた。

 

「くそッ……離せ!やめろッ!」

 

抗う吉良の耳に、周囲の冷たい視線が突き刺さる。

 

「アイツ……やっぱり……」

「関わらなくて正解だったな……」

「所詮、そういうヤツだったんだ……」

 

聞こえてくるのは、かつての同僚たちの冷え切った声だった。

彼らの視線は、まるで汚物を見るかのように冷淡で、同情の欠片もない。

 

さらに、PMC兵士の肩越しに見えたのは、黒く鈍く輝く銃口。まるで吉良の頭を狙い定めるように、冷たくその先端が揺れていた。

 

「…あの時、関わらなければ……」

 

悔恨の念が胸を焼いた。だが、後悔したところで全ては遅すぎる。冷たい金属の手に押さえつけられながら、吉良は引きずられるまま、カイザーローンのビルの外へと消えていった。

 

「この…クソカスどもが……ッ!!」

 

すべてが、自分の人生が、音を立てて崩れていくように思えた。

 

 

吉良がPMCの兵士たちに引きずられて行ったあと、カイザー理事は執務室の重厚な扉が閉じる音を聞き、ひとつ息をついた。

 

『……これで良かったのか?』

 

無意識に漏れたその言葉に、誰が答えるでもない。しかし、次の瞬間、カイザー理事の背後の影がゆらりと動いた。

 

「ええ、わざわざありがとうございます。」

 

不気味に響く声が、カイザー理事の耳を打った。

 

『……フン。』

 

理事はわずかに顔をしかめ、視線だけで"黒服"を睨みつけた。

 

□ ――3時間前

 

『お前、この前は“ウチで飼い殺しにしろ”と言っていたくせに…今度は"クビにしろ"か…いったい何を考えている…』

 

突如として目の前に現れ、そう語った黒服に対し、カイザー理事は嫌味を込めて言い放った。

 

「ええ、確かにそう言いました。」

 

黒服は薄く笑みを浮かべたまま、静かに歩を進める。

 

「ですが、状況が変わったのです。」

『状況だと?』

「そうです。シャーレの先生と、あの吉良吉影が接触しました。」

『……なんだと?』

 

カイザー理事の眉がピクリと動いた。

 

「ご存じでしょう?彼らはどちらもキヴォトスの外部から来た不確定な存在……。何をしでかすかわからない。だからこそ、イレギュラーは早急に対処しなくてはいけません。」

『イレギュラー、か……』

 

理事は目を閉じ、ひとつ息をついた。

 

『だが……』

 

顔を上げ、再び黒服を見据える。

 

『私とて、部下を理由もなくクビにするのは――』

「そこに関しては、ご心配なく。」

 

その問いを言い終えるまでもなく、黒服は薄く笑みを深めた。

まるで気遣うような口調だったが、その声には冷え冷えとした悪意が滲んでいた。

 

「以前あったブラックマーケットの襲撃事件……覚えていらっしゃるでしょう?」

『ああ…そうだが……』

 

黒服はさらに一歩近づき、理事の耳元で囁くように言った。

 

「以前あったブラックマーケットの襲撃事件……。それに関与したという証拠を、適当にでっちあげればよいのです。」

 

『なッ…!? キサマ……』

 

理事の表情が険しくなる。だが、黒服はその反応を楽しむかのように、口の端をつり上げると、喉の奥から不気味な笑い声を漏らした。

 

「クックック……」

 

黒服の喉から漏れた笑い声は、湿り気を帯びた不気味な音だった。

 

「理事。これは、会社のためです。カイザーPMCのために、カイザーコーポレーションの未来の為にこそ、"アビドスの件"は大きなプロジェクトのはず…だからこそ、不安の種は早めに潰しておくに越したことはないでしょう?」

『………。』

 

カイザー理事は、しばらく黙り込んだまま黒服を見つめ続けた。

 

■――現在に至る。

 

「では……ご決断、感謝いたします。」

 

黒服は深々と頭を下げると、執務室の影に溶けるように姿を消した。

重たい沈黙の中、カイザー理事はゆっくりと両手を組み、机の上に突っ伏した。

 

『…これで、本当に良かったのか……?』

 

独り言のように呟いたその声は、誰に届くこともなく、執務室の闇に消えていった。

 

その時――

 

「理事。」

 

再び声がした。

 

『……なんだ、今度は。』

 

顔を上げると、黒服がすでに影から姿を現していた。

 

「吉良吉影の件、手配は済みました。」

 

『………。』

 

「もうすぐ“片がつく”でしょう。」

 

そう言い残し、黒服は再び闇の中へ消えていった。

 

理事は再びソファに身を沈める。

 

『…フンッ……』

 

絞り出すような声が漏れた。

指の隙間から覗く視界の端に、机の上のペーパーウェイトが目に入った。無意識にそれを手に取り、握りしめる。

 

カイザー理事のカメラアイは、ただ虚空を彷徨っていた。

 

 

クビを宣告され、ようやく手に入れた平穏な生活を失うことになった吉良は、ただ歩道を歩いていた。

 

こんな状況でも、空には皮肉にも太陽がさんさんと輝いている。まるで何事もなかったかのように。車のクラクションやエンジン音、人々の笑い声や話し声……そのすべてが、吉良には遠い異世界の音のように聞こえた。

 

「…わたしは…平穏に…熟睡……」

 

かすれた声が、無意識に唇から漏れる。

 

その時、不意に胸ポケットが震え、着信音が響いた。

吉良はゆっくりとスマートフォンを取り出した。

 

画面に浮かぶ文字――「シャーレの先生」。

 

「……っ」

 

その名を見た瞬間、吉良の眉が険しく歪んだ。

 

わたしがこの世界で初めて会った人間。

そして……わたしの平穏な生活を奪った人間。

 

吉良の指は、応答ボタンに触れかけるが、強く握りしめた拳が震えた。

 

――鳴り響く着信音。

何度目のコールだろう。

 

だが吉良は、ただ画面を睨みつけるだけで動かなかった。

 

「……フン。」

 

やがてコール音は途切れ、スマートフォンの画面は暗くなった。

 

吉良はポケットに無造作にスマートフォンを押し込むと、再び無言で歩き出した。

 

まるで、何もなかったかのように。

 

吉良がクビを宣告され、失意の中で歩き続けていたその頃――

 

なんとか軽傷で済んだ先生は、アヤネとセリカと共に入院中の柴大将を見舞っていた。

 

その病室で、柴大将から思いがけない事実が告げられる。

「ラーメン屋の建物の所有権がカイザーコーポレーションに渡っていた。」

 

対策委員会の教室に集まり、アヤネとセリカがさらに調べた情報を報告する。

それは、アビドス自治区の大半がすでにカイザーコーポレーションの所有になっていたという衝撃的な事実だった。

 

さらに、ホシノからは過去の話が語られる。

 

かつてのアビドスの生徒会は、学校の借金を返済しようと奮闘していた。

しかし、最終的に借金は返済できず、アビドスの土地までもがカイザーコーポレーションに奪われてしまったのではないか…という推測が立てられた。

 

そんな中、先生はふと、以前ヒナから聞いた言葉を思い出す。

 

――「カイザーコーポレーションがアビドス砂漠で何か企んでいる」

 

その言葉が引っかかり、先生は対策委員会の面々に**「アビドス砂漠に行ってみよう」**と提案するのだった。

 

 

アビドス砂漠へ向かうため、先生たちは情報を集める必要があった。

 

"アビドス砂漠に行ってみよう。……そのために、吉良さんの協力が必要だね。"

「吉良さんに?」

 

アヤネが少し驚いた声を上げる。

 

"カイザーローンで働いてる彼なら…何かし知っているかもしれない。"

 

先生の提案に、対策委員会の面々は頷く。カイザーローンに勤める吉良なら、カイザーコーポレーションの内情に詳しいかもしれない。

 

先生はスマートフォンを取り出し、吉良の番号を呼び出して通話ボタンを押した。

 

(――プルルルル……)

 

着信音が鳴る。

 

(――プルルルル……)

 

「……まだなの?」

 

セリカが焦れた声を漏らした。

 

(――プルルルル……)

 

「もう何回目のコールなんでしょうか…?」アヤネが心配そうに顔を寄せる。

 

(――プルルルル……ピッ……)

 

コール音が途切れる。結局、吉良が出ることはなかった。

 

「ん…おかしい。」

 

沈黙が重くのしかかる中、ついにセリカが苛立った様子で声を上げた。

 

「まさか、ここに来て裏切ったんじゃあないでしょうね、アイツ…!」

 

不安と焦りがセリカの言葉を荒くさせる。

 

「いや…流石にそれはないんじゃ……」

「だって…」

 

アヤネが落ち着いた声でセリカをなだめる。

 

それでも対策委員会の教室には、嫌な空気が漂いはじめていた。まるで不安という名の霧が、じわじわと部屋を満たしていくかのように――

 

"吉良さんは…悪い人じゃないと思うよ。"

 

先生の言葉は、静まり返った教室にそっと響いた。

 

"その証拠に…私が風紀委員会の砲撃を受けたとき、彼は助けてくれたから。"

 

その時の情景が頭に浮かぶ。砲撃の轟音が鳴り響き、土煙が立ち込める中、肩を貸してくれたのは吉良だった。あの時、先生が立ち上がれたのは、彼が差し伸べた手があったからこそ。

 

「……先生。」

 

不安げに名を呼ぶアヤネの声を背に、先生はそっと額へと手をやった。

 

包帯越しに感じる鈍い痛みが、あの激戦の記憶を生々しく呼び起こす。砲撃の爆風で飛んできた瓦礫の破片が切り裂いた傷口は、いまだにじくじくと疼く。

 

(……吉良さんが、いなかったら……)

 

その時、彼が差し伸べた手がなかったら、自分は――

 

「……だから……私は吉良さんを信じる。」

 

先生は胸に抱えたタブレットを、まるで想いを込めるようにぎゅっと抱きしめる。その瞳には、揺るぎない意志が宿っていた。

重苦しかった空気が、ゆっくりと和らいでいくのを感じる。誰もが不安を抱えながらも、その言葉をきっかけに、目の前の霧が少しずつ晴れ始めるようだった。

 

「……ああもうっ! じゃあここで考えるよりも、実際に行ってみればいいじゃん!」

 

突如として、セリカが勢いよく立ち上がった。

 

「何が何だか分からないけど、この目で直接見た方がいいって!」

 

その声には、どこか吹っ切れたような明るさがあった。

彼女の勢いに、先生は目を瞬かせたあと、少し笑って頷いた。

 

「……ん、そうだね。」

「……いや~、セリカちゃん良いこと言うねえ。」

 

ホシノがゆったりとした口調で話し出し、目元をこすりながら続ける。

 

「こんなにたくましく育って……ママは嬉しいよ。泣いちゃいそう。ティッシュちょうだい。」

「な、何よこの雰囲気!? 私がまともなこと言ったらおかしいわけ!?」

 

顔を真っ赤にしながらセリカが声を上げると、対策委員会の面々からクスクスと笑いが漏れた。

 

「あ、あはは……そんなことは……でも、セリカちゃんの言う通りです。」

「考えてるだけじゃ答えは出ませんもんね。」

 

アヤネが微笑みながらそう言うと、皆の視線が自然と先生の方へ集まった。

 

"……よし。"

 

先生は立ち上がり、力強く拳を握りしめた。

 

"アビドス砂漠へ行こうっ!"

 

「「「「「おーっ!!」」」」」

 

声が響き渡る。迷いは晴れ、皆の顔には決意が宿っていた。

 

 

夜の街は冷たく静まり返っていた。

ビルの隙間を通り抜けた風が、吉良吉影の頬をかすめる。

この数時間、彼はただ歩き続けていた。…これからの身の振り方を考えていた。

会社からは切り捨てられ、行き場を失った自分。目的地もなければ、目指すべきものもない。

――ただ、頭を空っぽにするために彷徨っていたのだ。

 

「……どうするべきか。」

 

闇に紛れて歩きながら、吉良は思考を巡らせていた。

 

(どうにかしてこの状況を打破しなければ……)

 

だが、その時だった。

 

(カチャリ)

 

小さな音が背後で響いた。

吉良の全身が粟立つ。

 

(……つけられているのか?)

 

声を立てぬよう静かに息を吐き出し、吉良は視線だけをわずかに動かした。

路肩の安全ミラーに目をやる。そこには——

 

黒い帽子を深くかぶった少女が立っていた。

 

黒のタクティカルスーツに白いコートを羽織り、帽子の下から鋭い瞳が覗いている。肩にはアサルトライフル、腰にはサイドアームの拳銃。そして――

その目の奥に鋭く冷たい光が宿っていた。

 

(……まずいな。)

 

刹那、耳元で冷たい声が落ちた。

 

「……動くな。」

 

……静かに、しかし確実に吉良の心臓が跳ね上がる。

 

「……誰だ?」

「お前に名乗る必要はない。」

 

その言葉が終わる前に、硬い金属の感触が後頭部に突きつけられた。

 

「ゆっくりと……両手を挙げろ。」

 

背後から聞こえるその言葉に従い、吉良はゆっくりと両手を上げた。

冷たい汗が背中を伝い、額に滲む。

そして、一瞬で――両手を挙げた。

 

サオリが、吉良の両手を確認しながら拳銃を押し付ける。

そして、吉良の両手がギュッと握られていることに気が付いた……

 

「……おまえ、ふざけているのか?」

 

金属の感触が強くなり、吉良の後頭部に銃口がぐりぐりと押し付けられる。

その感触に、吉良の心はさらに深く沈んだ。

 

(…やはり、この吉良吉影の人生は思い通りにはいかない…というのか……)

 

追い詰められ、逃げ場のないこの状況でも、吉良の中には捨てきれない願いがあった。

 

ただ…"静かに生きる"こと。

 

誰にも邪魔されず、誰にも脅かされず、ただ穏やかで幸福な生活を送りたい——それだけだった。

 

(わたしは、静かに暮らしたいだけなのに……)

 

理不尽に追い詰められ、命の瀬戸際に立たされても…それでも――

 

「わたしは『生きのびる』……平和に『生きのび』てみせるさ。」

 

声が震えないよう努めながら、吉良は静かに言った。

 

そして——

 

(パッ!)

 

ようやく、吉良の両手が開かれる。

 

「……なッ!?」

 

その一瞬、サオリの目がわずかに見開かれた。

 

(ピンッ…)

 

小さくも…しかし、それでいて鋭い金属音が響いた。

 

「クソッ!! 閃光弾かッ……!! 」

 

サオリが叫ぶのと、閃光弾が炸裂するのは、ほぼ同時だった。

 

(カァンッ!!)

 

白い閃光が夜の闇を切り裂き、彼女の視界を灼く。

視界が真っ白に染まり、耳鳴りが頭に響く。眩しさと痛みに目を覆いながら、吉良は闇雲に走り出した。

 

「くっ……!」

 

背後で、視界を奪われたサオリの苛立った声が響く。

 

「……逃がすものかッ!!」

 

(パンッ!)

 

サオリの引き金が引かれ、鋭い銃声が夜の空気を引き裂いた。

視力がまだ回復しきらない内に放った弾丸は、音を立てて一直線に吉良の元へと向かう。

 

しかし——

 

(キィィンッ!!)

 

銃弾は、何か硬質なものに弾かれ、火花を散らしながら地面に転がった。

 

「……ッ!?」

 

目元を擦りながら、辛うじて視界を取り戻したサオリの目に飛び込んできたのは、無数の正六角形で構成された青白い球面状の防護壁だった。

 

「……バリアか。」

 

吐き捨てるように言い、サオリは舌打ちする。

その防御壁の向こうに、吉良吉影の姿があるはずだった。

 

だが——

 

「……いない?」

 

サオリはバリアの内部を凝視する。が、そこにターゲットの姿はいない。

吉良はすでにその場から離れ、すぐそばの建物の裏側、ひび割れたブロック塀の陰に身を潜めていた。

 

息をひそめ、背中を壁に押しつける。額から流れ出た汗が、頬を伝って滴り落ちる。

 

(……まさか、こんなすぐに役に立つとは思っていなかったな……)

 

風紀委員会との騒動が終わった後、改めて自身の無防備さを痛感した吉良は、護身用の品をいくつか持っておくべきだと考えだのだった。

 

(『いらっしゃいませ!カイザー・コンビニエンスです♪』)

 

機械音声の無機質な挨拶が、ふと脳内に蘇る。

 

(…まさか……コンビニでも()()()()()が買えるなんて、思ってもいなかったんだがな……)

 

背中に感じる冷たいコンクリートの感触が、現実の緊張を際立たせる。

 

吉良はそっと懐に手を伸ばし、あの時同時に購入した拳銃(南部十四年式拳銃)を握りしめた。

細長い銃身に、くすんだ金属の鈍い輝き。握り心地は意外にも滑らかで、手のひらにしっくりと馴染む。

しかし、どこか頼りない印象を拭えなかった。引き金の感触は軽く、作りの古さが滲み出ている。

 

(これで殺せる…のか?)

 

そんな不安が頭をよぎるも、今はこの冷たい鉄の感触が、吉良にとって唯一の拠り所だった。

金属の冷たさが、じっとりと汗ばむ掌に不快にまとわりつく。

 

(……どうする?……どうすればいい?)

 

吉良の呼吸は浅く、速くなる。

背後の暗闇の中、彼女の気配が近づいてくるのを感じた。

 

(だが、逃げ場も……ない。)

 

吉良は拳銃の冷たい感触を確かめながら、静かに息を整えた。額に滲む汗が首筋を伝い、背中に嫌な冷気が張り付く。

身を隠しているとはいえ、あの女がそう長く油断するとは思えない。いずれ奴の視界が戻れば、すぐにでも次の攻撃を仕掛けてくるだろう。しかも、相手は銃の扱いに長けているだろう。

うかつに姿を見せれば一瞬で撃ち抜かれる。

 

(……だが、こんなヒドイ時にこそ…最悪の時にこそ!「チャンス」というものは訪れるという過去からの教訓だ……『追い詰められた時』こそ……冷静に物事に対処し…『チャンス』をものにするのだッ!!)

 

吉良は建物の壁にぴたりと体を寄せ、そっと顔を覗かせる。

 

「……ッ!」

 

次の瞬間、壁のすぐ向こう、わずか数メートルの距離にサオリの姿があった。視界は完全には戻っていないらしく、サオリは目を細めながら警戒の目を走らせていたが、その手はしっかりと拳銃を構え、あらゆる方向へ即座に対応できるようにしていた。

 

吉良は再び息を潜め、拳銃を握る手に力を込めた。

 

(……撃つしかない……今しか…ないッ!!)

 

覚悟を決め、吉良は拳銃を壁からそっと突き出した。照準はあの女の頭。引き金に指をかけ、わずかに息を止める。

 

「……そこか。」

 

突然、サオリの声が響いた。

 

「!?」

 

(ビタアァ)

 

吉良が反応する間もなく、サオリの持つサイドアームの拳銃。その銃口が正確に吉良の元へと向けられた。

 

(や やばい……こいつには わたしが見えているッ!!)

 

「このくそ野郎がァァァァァァァてめ――があぁ――ッ!!」

 

(ドバ ドバ ドバ ドバァッ!!)

 

パニックが走る中、吉良はとっさに引き金を引いた。

合計で4発。暗闇を穿つように銃声が轟く。

 

――しかし、鋭い金属音が鳴り響き、吉良の弾丸は空中で弾かれた。

…いや、目を凝らすと、彼女の体の周囲に無数の小さなカッターナイフが宙を舞い、うごめいていた。

 

「……こいつ…スタンド使いか…ッ!?」

 

吉良は直感的に理解した。この女…あのガキ(浅黄ムツキ)と同じッ!! 矢の関係者であるとッ!!

 

「一手…気づくのが遅かったな。」

 

サオリは静かに呟くと、カッターナイフが一斉に吉良へ向かって飛び掛かったッ!!

 

「クソッ……!」

 

吉良はとっさに転がるように地面に伏せる。カッターナイフはコンクリートを貫通し、ブロック塀に無数の刺痕が空いた。

 

(コイツ…殺意が本気(マジ)すぎるぞ……!)

 

身を隠しながら、吉良は奥歯を噛み締めた。

 

(隙を見て逃げるか…)

 

視界の片隅に、幻想がよぎる。

アビドスの生徒たち― そして、彼らに微笑みかける先生の姿。

 

(アビドス高校まで走れば…約5分あれば辿り着けるだろうか……)

 

5分――それだけ逃げ切れれば、きっと何とかなる。そう思った刹那、吉良はすぐにその考えを振り払った。

 

(……いや、無理だ。あの女が追ってこないはずがない。必ず追ってくる。そして……確実に仕留めに来る。)

 

あの女の容赦のない視線が脳裏に焼き付いて離れない。

あの冷たい目が、自分を獲物として見定めた以上、安易に背を向けるのは…非常にまずい。

 

吉良は拳銃の冷たい感触を再び確かめるように握りしめた。

 

(……なら、強引に突破するしかない!)

 

吉良は懐から小さな金属缶を取り出した。

 

(ガススプレー……これで目くらましをする…ッ!!)

 

「……今だッ!」

 

吉良は壁から飛び出し、スプレーをサオリの顔めがけて噴射した。

 

「チッ……!」

 

白い霧が一気に広がり、サオリの視界が遮られる。

――だが、銃口は即座に吉良の方へ向けられていた。

 

(……くそ、やはり反応が早い!)

 

吉良はすかさず拳銃を構え、引き金を引く――

 

(ズチャリ―)

 

「――ッ!」

 

弾丸が弾ける乾いた音と同時に、吉良の体に異様な冷たさが走った。

 

「……な…ん……だと?」

 

視線を落とすと、吉良の腕に奇怪な変化が起きていた。

 

腕の皮膚がうねり、内側から何かが這い出してくる。毛穴から染み出した鉄粉が、血管の中で絡みつくように凝固し、まるで糸を引くように絡まり合っていた。

 

「ぐっ……!!」

 

激痛が走る。次の瞬間、吉良の腕の皮膚が裂け、カミソリの刃が血肉の中から突き破るように現れたッ!!

 

「が……ぁぁぁッッ!!」

 

鋭利な刃が肉を裂き、傷口から赤黒い血が噴き出す。裂けた皮膚の隙間から、さらに細かな刃が次々と姿を現し、筋肉を押しのけるように蠢いていく。

 

「くっ……がぁ……ッ!!」

 

痛みが腕から肩、胸元へと広がる。筋肉が裂け、血の滴るカミソリの刃が次々と突き出しては、吉良の体を内側から引き裂いていく。

 

「フン……」

 

サオリの冷笑が響いた。

 

…気づいていなかったのか?(気づいてないの?自分に何が起こったのか?)

 

サオリの冷たい声が霧の向こうから響く。

 

「おまえがコソコソと壁の陰に隠れている間、じっくりと仕込ませてもらった……」

「…なに…を?」

 

吉良は腕を振り払おうとするが、痛みで力が入らない。それどころか、カミソリの刃がさらに増殖し、血管を軋ませるように広がっていく。

 

「「鉄分」が体内から一気に外に出てしまえば…どうなるのか分かるか?」

 

サオリが銃口を吉良に向け、薄く笑う。

 

「簡単にいうと…血がおぞましい黄色になって死ぬ…」

「クソッ……!」

 

吉良は歯を食いしばり、強引に腕を引き剥がそうとしたが、鉄片はまるで体の一部になったかのように絡みつき、どこまでも締め上げていく。

 

サオリの指が引き金を引き絞る瞬間、吉良の手が懐へと滑り込んだ。

 

(間に合え……ッ!)

 

指先が触れたのは、冷たい金属の感触――簡易バリア発生装置だった。

 

「……ッ!!」

 

吉良が装置のスイッチを押し込むのと、サオリの銃声が響き渡るのは、同時であった。

 

(バシュゥゥゥン!!)

 

眩い光とともに、空間に無数の正六角形が編み上がり、球状のバリアが瞬時に形成された。

 

(キィィンッ!!)

 

銃弾は吉良の肉体を穿つことなく、バリアの表面に弾かれ、火花を散らしながら弧を描いて地面に転がる。

 

「はぁ……はぁ……」

 

吉良は荒い息を吐きながら、バリアの内側で地面に膝をついた。

 

(助かった…ギリギリだった……)

 

――だが、その安堵は束の間で終わりを迎える。

 

「フン……」

 

サオリの含み笑いが、吉良の耳に鋭く突き刺さる。

その瞬間、吉良の喉に冷たいものが這い登ってくるような感覚がした。

 

「……ッぐァ!!」

 

喉の奥が急にふくれあがり、強烈な異物感が走る。

 

「がっ……は……ぅ……!!」

 

吉良は喉を押さえ、声にならない声を漏らした。

喉の内側に、何かが無理やり動き回っている。

 

「ゴボッ……!」

 

突如、吉良の喉が裂けるような激痛に襲われたッ!!

 

「……ッガアァァァアアア!!」

 

声とも叫びともつかない、獣のようなうめき声が響き渡る。

喉の皮膚が不自然に突き上がり、膨らんでは引き裂かれる。血がにじみ、肉が押し広げられていく。

 

「……ぐ、がぁぁッ!!」

 

赤黒い血がドロリとあふれ出し、その隙間から、銀色の刃がじわりと姿を現した。

 

(ギリ……ギリ……ギリ……)

 

――それは、鋏の刃だった。

 

刃はゆっくりと吉良の喉を裂きながらせり上がり、内側から喉元の皮膚を切り裂いていく。

喉の奥からギチギチと金属が軋む音が響き、鋏の柄が血肉を押し広げるように顔を出す。

鋭い刃が粘膜を裂き、喉の奥を貫く感覚。

鈍い金属の光が、滴る血に濡れ、不気味な鈍い輝きを放っていた。

 

「……が……ッ……ぁ……!!」

 

ごぼっ、と肺の奥から血を吐いた。

血が喉の奥から逆流し、吉良は激しく咳き込みながら膝をつく。

 

「ぐぅぅぅ……お、おぉ……ッ!!」

 

吉良は喉の裂け目に手をかけ、必死に鋏の柄を掴んだ。だが、刃が筋肉を裂きながらさらに広がり、喉の奥を引き裂いていく。

 

「助かった…?違うな。」

 

サオリの声が冷たく響く。

 

「すでにおまえはな…………出来あがっているのだからな!」

 

吉良の指が震えながらも鋏の柄を握りしめる。引き抜かなければ――だが、抜けばさらに傷が広がる。

 

「……クッ…ソ……カスがぁぁぁッッ!!」

 

吉良は力任せに鋏を引き抜いた。

 

(ズルッ…リィ…)

 

肉が裂け、皮膚が剥がれ、鮮血が弾け飛ぶ。喉から引き抜かれた鋏は、血に濡れてぬらぬらと光っていた。

 

「……がっ……ごぼっ……!!」

 

異物が喉をせり上がり、気道を圧迫し、吐き気すら催させる。

 

ぽた…ぽた……ぽたた……

 

「……が……ッ……ぁ……」

 

赤黒い血が滲み、顎を伝って地面に滴る。

食道が引き裂かれ、血の味とともに鉄の臭いが鼻孔を塗りつぶす。

 

―― 自分の身体の中に鋏が「生えてくる」 という、尋常ならざる現象。

 

吉良は 喉の奥を引き裂かれながらも、理解した。

 

(「どこからナイフやカミソリで攻撃してくるのか」とばかり考えていたが…それは違うッ!!)

 

「コイツ…鉄のカミソリを…『体内で作って』いるのかッ!!」

 

――これは、何かの手品ではない。

物理的に 私の『鉄分』が、鋏へと作り変えられたのだ。

 

そう認識した瞬間―― 悪寒が背筋を駆け上がった。

 

自分の体の中に潜んでいるモノが、無理やり形を変え、刃を作り出し、それが体を切り裂いて出てくる。これはただの攻撃ではない。

生理的な嫌悪感と、体の内側から蝕まれる恐怖を伴う異常な能力だ。

 

「い…痛いよ… なんて痛いんだ。…血もいっぱい出てるし 涙まで出てくる……」

 

手の中に残った鋏は、血に塗れ、喉を通ってきたばかりの 生々しい熱を持っていた。

吉良は乱れた呼吸を整えながら、静かに目の前の女を睨む。

 

――顔の半分を覆うマスクの奥で、サオリは…静かに吉良を見下ろしていた。

 

(バチッ……バチバチッ……)

 

耳障りな電気の音とともに、六角形で構成されたバリアの光が一瞬大きく揺らぎ――

 

(バシュウウウ……)

 

白煙を立てて、バリアが焼け落ちるように崩れ去った。

 

「…これでお前を守るモノは……何もない。」

 

サオリの冷ややかな声が響く。

 

吉良がうつむき、苦しげに喉を押さえるその隙を逃さず、サオリは懐から自身のサイドアーム――無骨なスチールグレーの拳銃を引き抜き、吉良の額に銃口を突きつけた。

 

「これも、命令なんでな――お前は…ここで始末する。」

 

冷たい声が追い打ちをかける。

 

「おまえを殺したら…次はシャーレの先生……あの大人だ。」

 

その言葉が、吉良の中に鈍い衝撃を響かせた。

 

(次は…先生……だと?)

 

サオリの指が、トリガーにかかる。

 

「裁きを受けろ。吉良吉影――」

 

その瞬間、その言葉に、吉良の脳裏に焼き付いていた声がよみがえった。

 

――(『裁いてもらうがいいわッ! 吉良吉影……!』)

 

夢に見た、あの女の声が。

 

(なぜだ……)

 

血の気が引いていく。

 

(なぜ…わたしばかりが……)

 

喉に残る灼けるような痛みが、意識を引き戻す。

 

(どうして……僕ばかりが……!!)

 

怒りが込み上げる。憎しみが―胸の奥で膨れ上がる。

 

(悪いことは…何もしていないのに――)

 

なぜ「平穏に暮らしたい」というささやかな願いさえ、ことごとく踏みにじられなければならないのか。

 

(…何もッ!! していないのに……ッ!!)

 

次々と湧き上がる怒り、憎しみ、恨み――

それが今、吉良吉影の心を灼き尽さんとしていた。

(じゅわ…)

「……殺して…やる。」

 

その声はかすれ、血とともに漏れ出るような微かなものだった。

(じゅわ…じゅわ…)

「……何か言ったのか?」

 

サオリの眉がわずかに動く。

吉良の目が、サオリを貫くように睨みつけた。

(じゅわじゅわじゅわじゅわ…)

「……おまえを…必ず……殺してやるッ!!」

 

――それはただの呟きではなかった。

そこには怒りも、苦痛も、恨みも、すべてが渦巻き、どす黒い感情だけが燃え上がっていた。

 

 

(じゅわ……)

 

 

その刹那。

吉良の体から、黒く、淀んだ煤のような霧がふわりと立ち上った。

 

「……?」

 

サオリの眉がわずかに動く。

だが、その霧はゆっくりと広がりながら、まるで意思を持つかのように吉良の周囲を這い回る。

 

ゆらり…ゆらり…

 

不規則に揺れる影のように、黒く粘ついた霧が渦を巻きながら形を変えていく。

 

――違う。

 

これは、ただの霧ではない。

 

怒りが、憎しみが、憎悪が、恨みが、殺意が、形となったものだ。

 

「……ッ!?」

 

サオリの指が、無意識にトリガーにかかる。

 

その瞬間――

 

(ズァアア…ッ!!)

 

空気が圧縮されるような重苦しい気配が場を満たした。

黒い霧がねっとりと絡みつくように凝縮され、その輪郭が次第にはっきりと姿を現した。

 

それは――吉良吉影の背後に立つ、異形の人影。

 

淡い紫色のボディ、筋肉質な体躯。

無機質な猫のような顔立ち。

 

――その全身を覆うように、なおも黒い霧がまとわりつき、まるで吉良の感情そのものが具現化したかのように不気味にゆらめいていた。

 

鋭い眼光がギラリと光る。

顔や手足の随所にあしらわれた、髑髏のデザインが、吉良の心に燃え盛る殺意と不吉に呼応するように鈍く輝いていた。

 

銃口をソレに向けながら、眉をひそめる。

サオリの脳裏に、一瞬で理解が走った。

 

(こいつは……)

「スタンド……だと!?」

 

その言葉が吉良の耳に届いた瞬間、彼の脳裏に過去の光景がフラッシュバックする。

以前、勝負をしたあのガキ(浅黄ムツキ)との……

 

――『これが吉良さんの能力…ヤバッ! なるほど……『爆弾』なんだねっ♪』――

 

その言葉が、今も耳にこびりついていた。

 

――爆弾。

 

あの時の、浅黄ムツキのその一言が、確かに吉良の胸の奥で何かを弾けさせた。

 

(……そうだ)

 

記憶の奥から、言葉が蘇る。

 

――それは、彼の内に宿る "殺意" そのもの。

 

かつて失われたはずの "能力"

 

今、そのスタンドは――

 

怒りを、憎しみを、憎悪を、恨みを、殺意を、糧にして、より禍々しく、より強く蘇った。

 

その名は……

 

【キラークイーン】――

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