今回、13000字です。
校門のアーチが、夜風に揺れる影を作っていた。
アビドス高校──
たった5人しか生徒のいないこの学校は、夜の風に吹かれて静かに眠っている。
――イヤ、1人抜けて4人になったとでも言うべきだろうかな?ま、そんなことはどうでもいいか。
電灯に照らされたその校門の前に、ふと
「…………」
白いスーツ、整えられた髪型、趣味の悪い髑髏のネクタイ、そして落ち着いた佇まい。背中を壁に預け、脚を組み、まるで“最初からそこにいました”とでも言いたげにスカした顔で――
「……なんだ、先生か。ずいぶんと遅かったじゃあないか。」
吉良吉影がいた。
先生は一瞬、立ち止まり、瞬きをした。
つい先ほど、あんなにカッコよく背中を見せて別れたはずの男が――普通に校門の前で待っていたのだ。
"……あれ? 吉良さん、さっき……"
「ン? イヤまあ、色々あったんだよ、ウン。ちょっと道に迷ってねェ……」
どこか視線を泳がせながら、吉良はスッとスーツの襟を整えた。
「カイザーローンの件は……まあ、契約面の不一致だ。お互いにとって最良の選択とゆーか、つまり……アレだ、“円満退職”というやつだな。ウン。」
堂々とした顔のわりに、どこか言い訳じみている。
"……円満?"
先生は眉を片方だけ上げる。
そんな彼の反応に、吉良は少し咳払いをして、言葉を重ねた。
「そもそもの話だがな? カイザーローンとか言うから大層に聞こえるが、結局のところあんな職場ではわたしの才能が腐ってしまうというのかねェ?この吉良吉影にはやはり、もっと平穏な暮らしの期待できそうな環境ってモノがね――」
――その時
"ぷっ……ふふっ"
先生が思わず吹き出した。
"……ふふ、なにそれ、どの口が言うのさ。"
肩を震わせて笑う先生に、吉良の顔が一瞬だけムッとする。
だが、反論するほどでもない。言い返せない程度には、図星だった。
「……はぁ、まったく。なんか…ちょっとした【敗北感】まで感じるよ……」
吉良は眉間を押さえ、重たそうに吐息をついた。
「わかったよ。結局は、また戻ってきてしまったってワケだ。これ以上、言い訳するのも面倒だしな。カイザーローンをクビになったのだよ……昨日から無職ってヤツ、分かる?ムショク。」
その表情は、どこか“負けを認めた男”のようであり――同時に、“肩の力が抜けた顔”でもあった。
"……え?"
先生は一瞬、目を丸くした。
驚きが込み上げる――が、それと同時に昨日の全てが、すべての辻褄が――
不思議なほど、ストンと胸に落ちた。
――吉良に電話を掛けて繋がらなかったこと
――ホシノと別れた後、吉良がボロボロになって帰ってきたこと
すべてが、自然につながった。
("……そっか。そういうことだったんだね。")
胸の奥で何かがふっとほどけるような感覚。
そして、目の前の男に対してなにか"奇妙な友情"を感じていた。
"うん、大丈夫だよ。"
先生がにこっと笑みを浮かべた。
夜風に揺れる茶髪、無垢な青年でありながらも、ほんの少しだけ悪戯っぽい笑顔。
その無邪気さが、逆に吉良にとってはどうにも居心地が悪い。
"だから、吉良さん。一緒に考えようよ。 これからのことを――"
吉良は一瞬、言葉を飲み込んだ。
何か言いかけたが、やめた。
そして、ただ静かに――頷いた。
「……ああ。まぁ……そうだな。」
そして、先生がふっと、またニヤリと笑った。
まるで、何か企みでも思いついた子どものように。
"吉良さんって――"
先生が口を開きかけたそのタイミングで。
「オーッとォ。そうだった、そうだったなァ――」
吉良は強引に割り込んだ。
あからさまに「これ以上は勘弁してくれ」と言わんばかりに。
わざとらしく咳払いをひとつし、そらすように話題を変える。
「さっきキミが会った相手……えっと、黒服だったかな? イヤ、わたしが来た時にはもういなかったみたいだったがねェ――」
軽く顎をしゃくる。
その目には露骨な嫌悪が滲んでいた。
「それで――ヤツと話して、キミの望んでいた
問われた先生は、一瞬だけきゅっと唇を結んだ。
そして、力強く、こくりと頷く。
"うん。もちろん。"
それだけを端的に告げると――
夜空を見上げるように、ひとつ息を吐いてから、続けた。
"だから……明日、みんなに話そう。ちゃんと、全部。"
その言葉に、吉良はふっと目を細める。
どこか呆れたように、どこか諦めたように、そして――ほんのわずか、楽しそうに。
「……フッ」
小さく、ほくそ笑む。
そのままポケットに手を突っ込みながら、ぼそりと呟いた。
「まったく……キミの近くにいた方が平穏な暮らしが送れそーな……どことなくそんな気がするよ……チョッピリだがね。」
夜風が、ふたりの間をやさしく通り抜けた。
先ほどまでの苛立ちも、言い訳も、何もかもが夜風の中に溶けていく。
先生は笑って、何も言わず、ただ前を向く。
吉良もその隣に並び、言葉少なに歩き出す。
そしてふたりは、無言で――しかし確かな歩みで、アビドス高校の門をくぐった。
静かな夜に、淡い足音がふたつ、吸い込まれていく。
■
朝のアビドス高校――
どこか落ち着かない空気の中、対策委員会室には
ひとりは勿論に先生。 そして、もうひとりは……吉良吉影。
"……さて。"
先生が口を開いた。 視線を一度、メンバー全員にしっかりと向ける。
"改めて、みんなに話したいことがある。"
少しの間。 誰も口を挟まない。誰も、身じろぎひとつしない。
それを確かめるように、先生は静かに言葉を紡ぐ。
"情報によると……カイザーPMCの基地、そこの実験施設に――ホシノがいるらしい。"
言い終えた瞬間、空気がピンと張り詰めた。
アヤネ、セリカ、ノノミ、シロコ。 それぞれが一斉に顔を上げる。
「カイザーPMCの実験室……ですか?」
「そこにホシノ先輩が……」
セリカが、椅子から身を乗り出した。 ノノミが目を見開き、アヤネは小さく息を呑む。
「本当なの……?」
シロコの声が、静かに、けれど重く問いかけた。
"うん、間違いない。ホシノはそこにいる。"
先生は短く頷いた。 ――確信と、決意を込めて。
重い沈黙が流れる。
そんな中、視線がもう一度だけ、ちらりと吉良へと向かった。
……そう、まだこの場には"わだかまり"が残っていた。
数日前までカイザーローンに所属していた男。 何を考えているか分からない、不可解な言動。 そして、何よりも――ホシノを連れ去った側の【カイザー】にいたという事実。
どこか張り詰めた視線の波が、吉良に突き刺さる。
だが吉良は――ただ、つまらなそうにポケットに手を突っ込んだまま、軽く肩を竦めて言った。
「どー思おうが勝手だがねェ……まァ、わたしがここにいる理由は、『君たちに好かれたいから』みたいなちっぽけなコトじゃあない。わたしが必要だと”そっち”が判断するかどうか──それだけだろう?」
ちらりと、先生にだけ一瞥を送る。
ほんの、わずかに。意味ありげな、視線。
「――提案を受けたんだよ。明後日のことすら考える余裕のないよーな……今後の生活に怯えるかもしれない今の状況よりはずっとイイ……この席に座っていた方が都合がいいってだけの話をさ。最も、このわたしの【心の平穏】を守るためだ。ソレ以上でもソレ以下でもないよ。」
淡々と。 どこか面倒くさそうに。
だが、その声音には嘘も、虚勢もなかった。
が
それでも。 セリカは難しい顔をしていたし、アヤネも警戒心を隠せなかった。
それに対して、先生は――にこっと、いつもの柔らかな笑みを浮かべた。
"大丈夫だよ。"
静かに、しかし確かな声で。
それは対策委員会の子たちにも、そして吉良にも向けられた言葉であり
ここにいる”みんな”に向けられた――そんな声だった。
"彼を……吉良さんをどう見るかは、それぞれに任せる。でも……今、ホシノを助けに行くためには、全員の力が必要なんだ。"
「……うん。」
ノノミが、迷いながらも頷いた。 セリカも、渋い顔のままだが、口を閉ざしたまま座り直す。
シロコだけが、最初から変わらない静かな目で吉良を見つめたまま、ひとつ、軽く頷いた。
(今は、それでいい。)
先生はそう思った。
すべての不安が消えたわけじゃない。
けれど今は――一歩、前へ進まなければならない。
先生は、胸に力を込めるようにして、ゆっくりと椅子を立ち上がった。
一人ひとりを見回し――そして、ふっとあたたかく笑みを浮かべた。
"じゃあ、あらためて――"
拳を小さく握りしめ、胸の前で掲げる。
“――ホシノを助けに行こう!”
空気が震えた。
「……うん、行こう。」
シロコが小さく、しかし確かな声で応じた。
“ホシノを助けて、ここに連れ戻す!”
「はい!そう言ってくださると思ってました!」
アヤネが、パッと笑顔を見せ、勢いよく頷いた。
“助けて、その後は――厳しく叱ってあげないと!”
「うんうん!自分で言ったことを守れなかったんですから、お仕置きです!キチンと叱ってあげないと!」
先生がきゅっと拳を握ると、ノノミがすかさず乗ってくる。
"……『おかえり』って言って、『ただいま』って言わせよう!"
「うん……えっ!?」
セリカが素っ頓狂な声を上げた。
「な、なにそれ……!恥ずかしい!青春っぽい!!透き通った学園生活っぽい感じがする!!」
「――私はする。」
顔を赤らめてジタバタするセリカに、シロコが淡々と言った。
「え、ええっ!?」
「セリカちゃんがしなくても、私もします!」
さらにノノミがすかさず笑顔で追い打ちをかける。
「えっ、ええっ!?」
あたふたするセリカ。
そして――アヤネまでも、そっと手を挙げた。
「……わ、私も。ちょっと恥ずかしいけど……」
「か、勝手にしてッ!!私は絶対、そんな恥ずかしいこと言わないからぁ!!」
顔を真っ赤にして叫ぶセリカに、みんなが微笑む。
ささやかな笑いが、重かった空気をほんの少しだけ、柔らかくした。
「あ、あはは……で、では、それはそれとして……!」
アヤネが咳払いをして、真面目な顔に戻る。
「救出のための、準備を進めましょう。」
場の空気が、再び引き締まる。
「でも……」
シロコが低く言った。
「今の私たちだけじゃ、勝てない。」
「……誰か、協力者を。」
「でしたら…便利屋のみなさんはどうでしょうか?」
アヤネがぽつりと呟いた。
「確かに私たちのことを助けてくれましたが……もう一度お願いしても良いのでしょうか?」
ノノミが手を頬に添えて考える。
「大丈夫だって!またどこに行ったんだか知らないけど、ここまで散々迷惑かけられてきたんだから、これくらいのお願いは聞いてもらわないと!」
セリカがグッと拳を握る。
その勢いに、クスリと笑う先生。
そして、ふっと表情を引き締めた。
"――私に、考えがあるんだ。"
「先生……?」
みんなの視線が集中する。
「考え、ですか……?」
アヤネが首を傾げながら聞く。
先生は、ゆっくりと頷いた。
その瞳には、確かな光――そして、黄金のような【覚悟】が宿っていた。
この夜明けを、掴み取るために。
ホシノを、必ず取り戻すために。
――もう一度、アビドス対策委員会を”完全な形”にするために。
そして――
そんな一体感に包まれる空気の外で、吉良吉影はただ壁際に凭れ、静かに肩をすくめた。
(フン! 聖人ぶりやがって……そんなに小鳥遊ホシノを助けたいのか? 気苦労の方が多いだろうに……)
思わず口の端に嘲るような笑みが浮かぶ。だが、それがほんの一瞬、何かを思い出したように消えた。
(……いや、このわたしも他人のことをどうこう言えた義理でもないな。)
ふと視線を落としながら、吉良は一つ息を吐いた。
彼の脳裏をよぎったのは、昨日の夜のことだった。
□
夜――アビドス高校の校舎。
静まり返った空間に、外から虫の声が微かに届く。
"――吉良さんもシャーレで働かない?"
不意に、先生がそんなことを口にした。
キヴォトスに存在する超法規的組織、連邦捜査部 S.C.H.A.L.E(シャーレ)。
「先生」を顧問とし、生徒たちの相談を受けつつ、学籍や所属にとらわれず活動することが許される特異な機関。連邦生徒会長によって与えられた特別な権限のもと、既存の規約や罰則からほとんど外れている、いわば“治外法権”のような存在――。
……まさか自分が、そんな大層な組織に関わる日が来るとは思ってもいなかった。
閉め切ったはずの窓。
だがその隙間から、夜風がそっと吹き込んだような気がして、吉良はわずかに目を細めた。
「シャーレ、か。……このわたしに【先生】でもやれってのかな?」
冗談めかして言うと、先生はすぐにかぶりを振った。
"ううん。ちょっとした書類仕事を手伝ってもらいたいんだ。……えっと、用務員さんみたいな感じかな。"
照れくさそうな笑みを浮かべながら、先生はタブレットを取り出して吉良に見せる。
"それに……シャーレってちょっとした複合施設でもあってね。こういう福利厚生もあるし、ほら、あんなメリットも、それから――"
勢いよくまくし立てるように続く説明は、どこか必死で、けれど妙に愛嬌があった。
そんな様子を吉良は静かに見つめる。
"もちろん、無理にとは言わないけど――"
「――いや、やろう。」
その言葉が終わるより早く、吉良は軽く頷いた。
意外そうに目を見開く先生を見て、吉良は肩をすくめる。
「ン?どうしたんだい? 別に構わないさ。」
さらりとそう返した後、少し間を置いて、ぽつりと続けた。
「それも、悪くないのかもしれない……案外、そういう場所にこそ、わたしの求める“安定した生活”があるのかもしれないしな……」
視線を伏せる吉良の横顔には、いつになく柔らかな光が浮かんでいた。
そこには、いつもの皮肉や斜に構えた態度とは違う、素顔の彼が確かにあった。
夜の静けさが、言葉の余韻ごと静かに包み込んでいく。
*
"――ってことで、吉良さんも手伝ってくれることになったんだよ!"
先生の明るい声が教室に響き、アビドス対策委員会の面々に、自然と安堵の空気が広がった。
和やかな笑い声、くだけたやりとり。
…ただ一人、砂狼シロコが、何かを言いたげな複雑な目でこちらを見ていたが、吉良は、何事もなかったかのように視線をそらし、目立たぬように口元を緩めた。
小さく、静かに、誰にも気づかれぬように。
■
──場面は切り替わる。
白亜の石造りの校舎に、厳格な列柱と規則的に配置された赤い旗。
青空の下、陽の光を反射して硬質に輝くその建物は、まるで威風堂々たる要塞のようだった。
ここは――ゲヘナ学園、風紀委員会本部。
銃声が日常のように鳴り響く混沌の学園ゲヘナにおいて、この一画だけは例外だった。
均整の取れた建築。整然と整備された石畳。掲げられた旗のひとつひとつが、秩序の象徴として風に翻っている。
その威容の前に立つ者は、自然と姿勢を正さずにはいられない。
「……ふむ。まるでテーマパークに来たみたいだなァ。チョッピリだけだが、テンションが上がったよーな気分がするよ。」
吉良吉影が、ポケットに手を突っ込んだまま口を開いた。
軽口のようでいて、その声にはほんのわずかに本音の色が混じっていた。
隣で先生は、一転して表情を引き締める。
"……行こう。"
静かにそう呟いて、建物へと足を向ける。
(“ここからが本番だ。絶対に、気を抜くな――”)
強く言い聞かせるように、重厚な石段を一歩ずつ上がっていく。
手前に立ちはだかる巨大な扉に、先生が手を伸ばしかけた――その時だった。
「オイ、そこのオマエたち。」
叩きつけるような鋭い声が、背後から飛んできた。
先生と吉良が振り返る。
そこにいたのは――
銀色のツインテールを風に揺らし、紅の瞳を細める少女。
ゲヘナ風紀委員会、銀鏡イオリ。
制服の袖には真紅の腕章。片手は腰に、もう片方の手で自身の愛銃を無造作に肩へ担ぎながら、こちらを睨み据えている。
(……銀鏡イオリ)
彼女は、かつてアビドスで対峙した風紀委員会の一員。
相当な実力を持った、油断ならない相手だ。
だが、先生はイオリを見てふっと笑った。
"久しぶりだね。イオリ。"
まるで旧知の友人にでも再会したかのような、柔らかな声音
イオリはその態度にわずかに眉をひそめ、鼻を鳴らす。
「……ふん。風紀委員会に何の用だよ、先生。」
鋭く刺すような口調。けれど先生は微塵も怯まず、まっすぐイオリを見据えた。
"ヒナと会って話がしたいんだ。"
その言葉に、イオリはほんの一瞬だけ目を細め――
そして、呆れたように肩をすくめた。
「……はあ?風紀委員長に会いたい?ゲヘナの風紀委員長に、そんなに容易く会えるとでも思ってるのか?」
唇の端に、わずかな嘲笑を浮かべながら、腕を組み直すイオリ。
明らかに、簡単には通さないという意志がにじんでいた。
吉良は片眉をわずかに上げると、ぼそりと漏らす。
「……まったく、どこへ行っても歓迎されないよーだな。」
先生はそれを制するように手を挙げ、
正面からイオリに向き直った。
この壁を、越えなければならない。
――ホシノを救うために。
"大事な生徒を助けたいんだ。"
その一言に、イオリの表情が微かに揺れた。
だが、すぐに口元に不敵な笑みを浮かべる。
からかってやろうと、そんな意地悪な気持ちが顔に滲んでいた。
「そうだな……じゃあ土下座して、
その台詞を最後まで言い切るより早く。
――先生は、すっとイオリの足元へ手を伸ばしていた。
「ひゃんっ!? ちょ、ちょっと待って!?」
イオリが悲鳴のような声を上げた。
視線を落とせば、そこには、もう彼女の素足を迷いなく掴む先生の手があった。
すぐ横には、きちんと畳まれた靴下と整えられた靴。
「ま、まだ話の途中――んっ! や、やめっ……!?」
先生は微動だにせず、真剣な顔でイオリの足に手を添えていた。
こんな要求など、一切問題にならないという、圧倒的な”覚悟”。
「……たまげたな。」
まるで時間でも止められたかのようだった。
その行動のあまりの速さに、隣にいた吉良も思わず目を細める。
「な、何やってんだよあんた……! 大人としてのプライドとか、人としての迷いとかはないのか!? ちょっとは恥を知れよ!!」
イオリが慌てて叫ぶ。
だが――先生は真っ直ぐにイオリを見上げ
"緊急事態なんだっ!!"
と、どこまでも清々しい、まるで人を助けるために己の全力を尽くす救急救命士のような眼差しで即答した。
「いやいやいやいやッ!? おかしいだろ!? ヘンタイか!? 歪んでるぞこの大人――!!」
イオリが必死に叫ぶ間にも、先生は一切手を止めない。
そして、足を掴まれたままに――
「ああああああああああぁぁあぁああ~~~~~~~!!!???」
イオリの絶叫がゲヘナの校舎に木霊した。
流石だ、先生。このわたしに出来ないことを平然とやってのける。
そこにシビれないし、あこがれもないが。
「う、うわっ……わっ……!! やめろ!! 誰かっ!!」
必死にもがくイオリ。
なんとか先生を引き剥がそうと暴れるが、先生は鉄壁の集中力で微動だにしない。
そんな中、イオリは目の前にいた吉良に助けを求めた。
「そこのアンタも黙って見てないで、この変態を何とかしてよッ!!」
イオリ、必死の叫び。
だが、吉良はポケットに手を突っ込んだまま、肩をすくめて一言。
「ン?……いやァ、わたしは一応“平穏”主義者なのだよ。チョット無理だね。」
まるで他人事のように、冷たく答えた。
そして、静かに――遠い目をした。
「はぁっ!? ちょっと、なにフザけたこと言ってんだ! クソッ 大人にまともなヤツは居ないのかよっ!」
(他人のフリをしておこう……関わったら負けだね、これは。)
吉良吉影、絶対安全圏からの静観を決め込んでいた。
そんな中――
「何だか楽しそうね?」
軽やかで、けれどどこか威厳を感じさせる声が降ってきた。
振り向けば、そこにいたのは――
ゲヘナ風紀委員会、委員長・空崎ヒナ。
「い、委員長……っ!!?」
イオリが、助かったと言わんばかりに叫んだ。
顔をパッと輝かせ、まるで水に溺れた者が浮き輪を見つけたかのよーに、必死にヒナへ向き直る。
だが、ヒナはそんなイオリに目もくれず、静かに歩み寄った。
そして――
「……自分の望みのために膝をつく姿なら、これまで何度も見てきた。」
ゆっくりと、場の空気を掌握するように。
「でも、生徒のために跪く大人を見たのは……初めて。」
その声音は、どこか驚きと、ほんのわずかな敬意を孕んでいた。
「顔を上げてちょうだい、先生。」
先生を真っ直ぐに見つめ、穏やかに言う。
「言ってみて。私に――何をしてほしいの?」
その問いかけに、イオリが慌てたように口を挟んだ。
「い、いや!その、委員長! 誤解だよ! あの、その、先生は別に
歯切れの悪い説明。
「……?」
ヒナが小さく首を傾げ、ゆっくりと視線を落とす。
そこには――
イオリの素足をしっかりと掴み、さらに、その指の付け根にまで口を……
ぐっと食い込ませている先生の姿があった。
「ッッ……
イオリの足をくわえたまま、必死にヒナに訴える先生。
――静寂。
ヒナの表情が、みるみる赤く染まっていく。
「!!!!???」
声にならない悲鳴。
顔から火が出る勢いで、ヒナが震える。
その横で、吉良はポケットに手を突っ込んだまま、ひとつ、静かに深い溜息を吐いた。
■
──ゲヘナ風紀委員会 応接室。
柔らかなシャンデリアの灯り。
磨き上げられた黒のテーブルと重厚なソファ。
上品で洗練された空間――のはずだった。
だが、漂う空気は冷たく張り詰め、触れれば裂けそうなほどに鋭く尖っていた。
この部屋にいるのは、二人だけ。
ゲヘナ学園 風紀委員会の行政官、甘雨アコ
そしてシャーレの――吉良吉影
アコは、ゆっくりと紅茶を口に運ぶ。
優雅な指の動き、完璧な所作。だが、目は笑っていない。むしろ睨んでいた。
一方、吉良は出された紅茶には一瞥もくれず、ポケットに手を突っ込んだままソファにもたれ、宙を眺めていた。
そんな男に向け、アコが皮肉混じりに言葉を放つ。
「……“シャーレの先生”は、随分と奔放な方のようですね。」
「……」
「公共の場で、あのような騒動を……風紀を守る立場としては、到底容認できませんが。」
吉良は小さく鼻で笑った。
「別に、わたしのやったことじゃあない。そうだろォ?」
「見ていただけで、責任を感じることもない……と?」
「ヒマじゃあないんでねェ……いちいち他人の道徳にまで責任は持てないよ。」
言葉の応酬は淡々としている。だが、その無関心さが逆にアコの神経を逆撫でする。
アコの眉がピクリと動いた。
吉良はふと、奥の扉へ視線を向ける。
その向こうでは今まさに、先生とヒナが話をしている。長い沈黙――だが、重みのある沈黙だった。
その様子にアコが苛立ちを募らせ、ついに堪え切れず声を上げた。
「……ちょっと!!」
吉良が振り返る。アコは眉を吊り上げ、明らかに不機嫌な様子だった。
「さっきから視線が怪しすぎるんですよ! 一体何を見てるんですか!」
「……ン? ああ、先生がまだか、と思ってね。」
「それに、いきなり風紀委員会の敷地内に来て何が目的ですか!? 答えてください!」
吉良は肩を竦め、すっと気の抜けた笑みを浮かべる。
「別に立ち入り禁止ってわけでもないんだろォ? それとも、事前に面談予約が要るとか?」
「――ッ、言葉尻を捕まえないでくださいっ! オ、オリコーさんのつもりですか!」
吉良が軽く口元をゆがめ、ソファの肘掛けを指でトントンと叩く。
「ふうん…君がこの組織のナンバー2で、ホントに合ってるのか……?」
「ちょっとォ~!! 質問は私がしてるんですよ!」
「…………」
「それより怪しいですね…あなた……!」
アコが詰め寄ろうとしたそのとき――
(カチャ)
控えめな音とともに、火宮チナツが再び扉を開けて顔を出した。額にはうっすらと汗が滲んでいる。
「お、お待たせしてすみません……ようやく事が済みまして――」
言いかけたところで、吉良が何気なく自分の前の紅茶を持ち上げ、無言でテーブル越しに差し出した。
「……飲むといい。冷めてはいるが。」
「あっ……ありがとうございます!」
チナツは少し驚いた表情で受け取り、紅茶を一口含む。
「……ふぅ、すみません。お待たせしました――」
思わず漏れる安堵の吐息。だが、それも束の間だった。
(バァン!)
またしても扉が開く。
「失礼しますっ! 休憩中すみません! 今度は食堂でトラブルが!!」
部員の一人が大慌てで駆け込んでくる。
「ーーッ了解です!」
チナツは慌ててカップを置き、吉良に深く頭を下げる。
「す、すみませんバタバタして! どうぞごゆっくり!!」
そのまま、紅茶の余韻も残したまま、チナツはまたバタバタと応接室を飛び出していった。
カップの中、飲みかけの紅茶が揺れていた。
チナツが慌ただしく去っていった扉が、重く閉じる。
バタン、と音が響いたあと、応接室には再び沈黙が落ちた。
ほんのわずか前までの喧騒が嘘のように、空気がぴたりと凍りつく。
静けさが戻った……かに思えたが、その実、そこに漂っていたのは“静寂”というよりも、“殺気”に近い空気だった。
「……フッ」
吉良はソファに深く背を預け、紅茶の冷めた香りをぼんやりと鼻に通しながら、斜め向かいの少女を見た。
アコは腕を組んでいた。視線は逸らしたまま、だがそのつま先は微妙にこちらを向いている。
沈黙は続く。
やがて吉良が、ちらと視線を扉の方へ向けた。
先生と空崎ヒナ――
あのふたりが今まさに、奥の部屋で話をしている。内容は詳しくは知らない。まあ十中八九、小鳥遊ホシノを助けたいとかそんなトコだろーな。だが、その空気の重たさだけは、応接室にいてもわかる。
アコのまなざしが、ついに吉良へと向けられた。
彼女は――睨んでいた。さっきよりも、ほんの少しだけ強く。
吉良は、その視線を正面から受け止めることもせず、ふいっと横に視線を逸らす。
(コツ、コツ、コツ)
遠くからゆっくりとした足音が響く。
廊下の奥、応接室の扉の向こう――その向かう先を、吉良は横目でちらりと見やった。
(居心地の悪さにそろそろ辟易して来たところだ。サッサと帰りたい気分だよ。)
「……どうやら、そろそろ話も終わったようだね。」
ソファにもたれていた背中をゆるく起こしながら、吉良はポケットから手を抜き、静かに立ち上がる。
革靴の音が、床の上で乾いた音を立てる。
まるで何事もなかったかのように、自然な足取りだった。
その瞬間――
「……本当に、面の皮が厚い方ですね。」
アコの声が、鋭く突き刺さった。
まるでタイミングを見計らっていたかのように。
だがその言葉には、明確な怒気がにじんでいた。
「そんな態度で、よくも堂々と他校の施設に入り込めたものです。」
それを受けた吉良は、ぴたりと足を止めてアコを振り返る。
そして――ちらりと先生とヒナが話しているであろう扉を見やりながら、わざとらしくため息をつきながら、小さく言い捨てた。
「……羨ましいな、
ぴたり。
その場の空気が止まる。
「っ……!」
アコの顔が一瞬で真っ赤に染まる。
口をパクパクさせながら、言葉にならない苛立ちをそのまま唇に乗せ――
「ちょ、ちょっと!! 逃げるんですか!?」
けれど吉良は、振り返らずに片手をひらひらと振っただけだった。
そのまま、廊下へとゆったりとした足取りで消えていく。
「このっ、このこのこの……ヒナ委員長のこと狙ってるんですか……あームカつきます……っ!!」
手元の紅茶のカップも、もうぬるくなっていた。
──応接室に、再び静けさが戻る。
それでも、先ほどまでの空気とは明らかに違っていた。
吉良の気配が去ったことで、まるで薄氷が砕けた後のような、どこか落ち着かない余韻だけが残されている。
「……ふぅ」
アコはわずかに息をついた。
だがその瞬間――ふと、違和感を覚えた。
(……?)
彼女の視線が、ソファの下へと吸い寄せられる。
(ぴらり)
そこから、わずかにのぞく白い布。
アコの眉がぴくりと動いた。
「……あれは……?」
目を細めて覗き込む。
その白布は、畳まれもせず、まるでぽとりと落とされたようにそのまま。
無地のシンプルなハンカチ。だがアコの勘が告げていた。
――これは、ただのハンカチではない。
彼女はそろりとソファに膝をつき、慎重に顔を近づけた。
鼻先に触れる、わずかな残り香。
香水のような、でも決して人工的ではない――太陽と、柔らかな花の匂い。
「っ……! これは……」
アコの目が、ぐるぐると回りそうなほど見開かれる。
「おおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!!!!」
乾いた喉から、声が迸った。
まるで伝説の宝を見つけた考古学者のように。
それはあまりに大袈裟で、滑稽で、それでいて真剣な絶叫だった。
「やっぱりドロボーでしたか……!! ですがっ、この私――甘雨アコの目は誤魔化せませんよ……!」
小さく、かすかに、笑った。
その目は、確信に満ちていた。
この汗の滲み……微かに香る、花のような香水と陽だまりのような柔らかさ。
ヒナ委員長の香り。間違いなく――!
(ll:ll)(じゅるり――)
彼女はもう、何の迷いもなかった。
彼女は一度、深呼吸をした。
一歩引いてから、周囲を見渡す。
誰もいない。誰も見ていない。
「……うふふ。」
微笑んだ。静かに、確かに。
アコは再び膝をつき、両手を膝の上で整える。
その動作はまるで神前での礼のように、慎み深く、敬虔だった。
「ヒ……ヒナ委員長の……ヒナ委員長の……残り香が……」
細い指が、震えながらハンカチへと近づく。
ついに、アコはその“神の遺物”に触れようと――
【カチリ】
小さな、子気味の良い音。
「――へ?」
指先が、
(ボンッ!!)
直後、白い閃光と共に、アコの身体がふわりと宙に舞った。
音すらなく、ただ空間がひずむような感覚。
熱と圧力が一瞬にして彼女の意識をさらっていく。
ソファの上にふわりと跳ね上げられ、天井のシャンデリアがぐるりと回る視界のなか――
それでも――
アコの表情は、崩れていなかった。
いや、むしろ満足げにさえ見えた。
「ハ…ハ……ハン――」
そして、そのまま意識を失う寸前。
彼女の唇が、かすかに動いた。
( やったぁ~~ ラッキ――ッ❤ )
■
──ドォンッ!!
遠く離れた廊下にまで響く、乾いた爆発音。
"えっ、今のって……?"
ヒナとの話を終え、建物の出口で待っていた先生が思わず振り返った。
"……大丈夫なのかな? けっこうな音したけど……"
指さす先は、吉良が出てきたばかりの応接室。
しかし当の吉良はと言えば、ポケットに手を突っ込んだまま、ほんのり口角を上げるだけ。
「ン?さあ? ……
吉良吉影が、いつものように涼しい顔で、こともなげに言った。
それ以上、何かを語ることもなく。
どこか“仕方ないか”とでも言いたげな表情で、彼は建物の外へと歩き出していく。
先生は一瞬だけ戸惑いながらも、
静かにその背中を追いかけて――
ふたりは、ゲヘナを後にした。
■
――時間は進む――
──ガタン、ゴトン。
金属の車輪が線路を叩く音が、心地よいリズムで車内に響いていた。
揺れる車両の中、窓の外では都市の景色が後ろへと流れていく。
遠ざかるゲヘナの街並み。その喧騒は、今はただ静かな映像のようだった。
吉良吉影と先生は、電車の横並びの座席に座っていた。
座席の背もたれに体を預けた吉良は、腕を組み、つまらなそうに窓の外をぼんやり眺めている。
頬杖をつくでもなく、背筋を伸ばすでもなく
一方、先生は少しだけ背筋を伸ばして座っていた。肩の力が抜け切らず、手元で指を組んだりほどいたりを繰り返している。
――沈黙
けれど、気まずいそれではなかった。
いくつかの感情が、まだ静かに胸の底をくすぶっている――そんな沈黙。
やがて、吉良がぼそりと呟いた。
「……ままならないよーだな、世の中ってヤツは。」
その言葉は独り言のようで、しかし隣の先生にしっかりと届くようなトーンだった。
先生は気まずそうに頬を掻きながら、ぎこちなく笑みを浮かべた。
"私から提案しておいて……ごめん。そう簡単にはいかないよね。"
目を逸らしつつも、言葉にほんの少しの自信を滲ませる。
吉良は鼻で小さく笑った。揶揄するでもなく、諦めるでもなく。
「保留、か。」
"う、うん……。即答は、難しいよね。委員長のヒナ、すごくしっかりしてたし……"
「フン “しっかり”って言葉は便利だなァ。常識人とも言えるし、融通の効かない石頭とも言えるよ。」
言って、吉良は窓の外に視線を戻した。
空には薄い雲がかかり、夕方の光がビルの端に滲んでいる。
先生は返す言葉に困ったように小さくうつむき、それでも無理やり笑って見せた。
"そ、そうかもね……"
電車は少し揺れ、アナウンスが控えめに次の停車駅を告げた。
乗客はまばらで、誰も二人の会話に耳を傾けていない。
吉良は、指先で膝を軽く叩きながら言った。
「ところで。行き先は合ってるんだろう?」
"うん、合ってるよ。次は――トリニティ総合学園"
先生は窓の外を見ながら、小さく息をつく。
"アビドスの生徒たちは、もう先に向かってる。私たちは少し、後から合流する形になると思う。"
「なるほど。つまり、また面倒ごとの真っ只中ってワケか。」
吉良はふぅ……とため息をついた。
「どうしてだろうねェ……“平穏”に暮らしたいだけなんだけどなァ。」
先生はその言葉にふと笑いかけたが、それもすぐに小さくなり、再び視線は窓の外へ。
"
そして、二人は言葉を交わさなくなった。
電車の揺れが、再び静けさを包み込む。
ゆっくりと、次の舞台が近づいてくる。
次なる目的地――トリニティ総合学園。
まだ見ぬ対話と戦いの予感が、車輪の音に紛れて小さく、車内に鳴り響いていた。
──それでも今はただ、束の間の【平穏】の中で。
二人は、流れる景色に身を預けていた。