小さな幸福
"ララ~仕事ってどうして~こんなに溜まっていくんだろう~~♪"
"やってもやっても終わるどころか増えるなんて~~"
"不思議なこともあるもんだ~~♪"
シャーレのオフィスに、気の抜けた鼻歌が漂っていた。
声の主――先生のデスクには、書類の山が小さな壁を築き、そこからのぞく顔には両目の下にしっかりとした隈。目の輝きも、どこか遠くへ旅立っている。
ペンを握ったまま、先生は机に額をこすりつけるようにうなだれた。
"あ~~死ぬ。"
「やる必要もない“雑用”を自分からしょい込むからこーなるんだよ、自業自得だね。」
淡々と告げたのは、隣のデスクで資料を整えていた吉良吉影だった。
彼の言う“雑用”とは――生徒たちのために自ら集めてきた頼み事や、連邦生徒会から七神リンが持ってきた案件のことだ。
どれも先生の善意と使命感で引き受けた仕事だが、吉良から見れば、明らかに一人二人で捌ける量ではない。「固定給なんだから、そんなものは無理にやる必要はない」と、内心で切り捨てているのが表情からも読み取れた。
吉良は書類の山には目もくれず、机の引き出しを閉め、きっちりと荷物をまとめ始める。時計の針は午後五時を指していた。
その様子に、先生は顔だけをこちらへ向け、青ざめた表情で口を開く。
"……まさか……何してるの?"
「ン? もう定時なんでね、わたしはこれで失礼す――」
立ち上がった吉良が、出口へ向けて足を踏み出す――が、その足首に突如重みがかかった。
必死の形相で目じりには涙が浮かんでいる。
"そんなぁ~~!? ちょっとだけ待ってよッ! 置いてかないでよォ~~!"
「キミが撒いた種じゃないか。自分のケツぐらい一人で拭きたまえ……クソッ、離せ」
"い、一時間だけ! 一時間だけでいいからさ! 頼むよ~~!"
吉良は眉間にしわを寄せ、足を軽く振りほどこうとする。が、対する先生も後に引けないのか意外と力強く、離れない。吉良はめんどくさそうに前髪を指先でいじりながら、低い声でつぶやいた。
「キミのことを慕っている生徒がいるだろォ?確か……早瀬、とか言ったかな。彼女にでも――」
ちょうどその時――
ガチャリ、とオフィスのドアが開いた。
「先生、ちょっとお時間よろしいでしょうか――」
白いジャケットに黒いブレザー、菫色のツーサイドアップが揺れる。
ミレニアムサイエンススクール2年生、早瀬ユウカが、紙片を片手に立っていた。
だが、彼女の視線はすぐさま一点に釘付けになる。
吉良の足にしがみつく、見るからに必死な先生――
「……どういう状況ですか?」
困惑の色を浮かべるユウカに、吉良は視線だけを向けた。
「話をすれば来てくれたようだ……早瀬ユウカ。」
「あ、こんにちは~吉良さん。」
軽く会釈を返すユウカ。
その横で、先生はしがみついたまま笑みを浮かべた。
"やあ、ユウカ。どうしたの?"
「……こっちのセリフなんですけど。いや、そんなことより――」
菫色の髪を揺らしながら、ユウカは冷ややかに返す。
だがすぐに、表情を引き締め、手にしていた紙片を、机にパシンと置いた。
「一体何ですか! この領収書は!? プラモデルで二万円って!」
"えっ、それは……"
「また計画性ゼロでお金を使ったんですね? 前に約束しましたよね、五千円以上の買い物は必ず私に相談するって! 家計簿もちゃんと付けるって言ったじゃないですか!」
“プラモデル”の領収書を手に、ユウカは容赦なく畳みかける。
先生はしどろもどろと、視線を逸らした。
「……キミは生徒に財布の紐を握られているのか?」
"あ、あはは~えっと………おっしゃる通りかなぁ。"
あきれ半分、引き半分の視線を送りながら、吉良は足を軽く動かす。
先生がシュンとなった、その一瞬の隙――吉良はするりと足首から先生の手を振りほどいた。
「フン……それじゃあ、あとは頼むよ。」
「あ、はい……お疲れさまでした。」
ドアへ向かいながら短く告げる吉良にユウカは一瞬きょとんとするも、すぐに背筋を正し、素直に返事をした。(悪い人ではないけど……やっぱり掴みどころのない人だわ。)
と、胸の内で小さくため息をつきながら。
"やさしくないなぁ……"
去っていく背中を見送りながら、先生は小声で呟いた。
だが、そんな空気を切り裂くように、ユウカの鋭い声が響く。
「せ~~ん~~せ~~い~~!?」
ビクリと肩を跳ねさせる先生。
その視線の先には、眉間に皺を寄せ、般若のような形相になったユウカが立っていた。
「……私の話は、まだ終わっていませんよ。」
低く、しかしよく通る声が先生を突き刺す。
「どうしてこんなことになったのか――ぜんぶきっちり説明してもらいますからね、先生♪」
"そ、そんなぁ~~~!"
情けない悲鳴を上げた先生が、思わずその場で小さく縮こまる。
その悲痛な声は、吉良の歩く廊下にまで響き渡っていた。
■
シャーレのオフィスルームを出た吉良は、この建物に併設されているコンビニへと足を向けた。
この施設は、オフィス区画とは別に広大な居住区を備えており、自習室、トレーニングルーム、コンビニ、食堂、菜園、果てはゲームセンターまで――まるで小さなショッピングモールのようだ。
一階にあるコンビニ「エンジェル24」の自動ドアをくぐると、吉良は迷うことなく雑誌コーナーへ向かう。並ぶ背表紙を素早く目で追い、ネイルやコスメ、ファッションといった女性向けの雑誌を二、三冊抜き取った。
「……これでいいか。」
小さくつぶやき、そのままレジへと向かう。
カウンターの奥では、この店をワンオペで切り盛りしている少女、ソラが立っていた。
ポロシャツ風のブラウスに黒い短パン、青いエプロンという制服姿。金髪のストレートロングは前髪を真ん中分けにし、左右の耳の後ろでリボンで留めているため、広い額がよく見える。年の頃は中学生といったところだ。
ソラは、ガラケーを指先でぽちぽちと操作しながら、「暇だなあ……」と呟き、吉良の接近にまったく気づいていない。
(パサリ)
吉良は黙って雑誌をカウンターに置いた。その音でソラはようやく顔を上げる。
「……え、うわあ!? い、いつから来てました?!」
目を丸くして慌てるソラに、吉良は興味なさげに短く言う。
「お会計、頼むよ。」
「あ、えっと……すみません……」
ソラは申し訳なさそうに会計を始め、恐る恐る金額を告げた。
「せ、1960円です……」
吉良は無言で財布を開くと、2060円を差し出す。
「ひゃ、100円とレシートのお返しです。」
会釈しながら手渡された釣銭とレシートを受け取り、吉良は雑誌を手に取る。
「…どうも」
「あ、ありがとうございました……」
背後から聞こえるソラの声を受けながらも、振り返ることなくコンビニを後にした。
その足で、吉良は休憩室へと向かう。
休憩室といっても、リクライニングチェアやバーカウンターが設置され、生徒に向けて開放された大きなラウンジのような部屋と、もう一つ、来客や職員用の簡易宿泊施設のようなゲストルームがある。カイザーローンを辞め、住む場所を失った吉良は、そのゲストルームで暮らすことになった。いわゆる「会社が家」という生活だ。もっとも、ここに来たばかりの頃は、その設備の多さにさすがに目を丸くしたものである。
休憩室へ続く廊下の途中、ふと窓の外に目をやると、野外テラスが見える。
あの向こうには、菜園があるはずだ。
(今度、サニーレタスでも植えさせてもらえるか聞いてみるかな……)
そんな取りとめのない考えを巡らせながら、ドアノブに手をかける。
扉を開け、吉良はゆっくりと休憩室へ足を踏み入れた。薄明かりの中、整然と並べられた家具と、わずかに漂う消毒液の匂いが妙に静けさを際立たせている。
彼は無言のまま椅子に腰を下ろし、手にしていた雑誌を開いた。
ページをめくる動作は機械的で、そこに「読む」という意思は感じられない。ただ、紙が擦れる音だけが、静まり返った室内に小さく響いていた。
数ページめくったところで、吉良の手が止まる。
視線の先には、艶やかな笑顔を浮かべる
彼は無言でテーブルの上に雑誌を広げ、引き出しから小ぶりのハサミを取り出す。
(チョキ……チョキ……チョキ……)
不自然なまでにゆっくりと、女性の"手"に当たる部分だけを切り抜いていく。
やがて切り取った写真をスクラップブックに挟み込み、糊で丁寧に貼り付けた。
ページを閉じることなく、貼ったばかりのそれをしばらく眺め、吉良の唇がわずかに歪む。
「……こうやって、キミをゆっくり眺めている時が――」
声はひどく穏やかで、それゆえに不気味さを孕んでいた。
「
その笑みは、決して誰かに見せるためのものではない。
ただ、自分だけの小さな世界で満たされる、静かな"幸福"がそこにあった。