「……しかし、どーなっているのだ、この施設は。」
吉良は低くつぶやきながら、足元のコンクリートを踏みしめた。
薄暗い空間の中、ひび割れた床のあちこちに苔がこびりつき、湿った匂いが漂っている。
見上げれば、頭上にはぽっかりと空いた落下口。
そこから光が差し込み、四人の影を淡く地面に落としていた。
高さはおおよそ四、五メートルといったところか――思っていたほど深くはない。
【資格を確認しました、入室権限を付与します】
――あの無機質な音声の直後だった。
足元が崩れたのは、本当に“一瞬”の出来事だった。
反応する暇もなく、床が沈み込み、わたしたちはそのまま一階層下へと落下した。
……まったく、悪趣味にもほどがある。
いまだに理解不能なことばかりだが、少なくとも――
この場所を作ったヤツは、間違いなく
「うぅ~っ扉前のワナなんてダンジョンじゃ"ゴホード"じゃん!」
「"
ミドリが肩をすくめて言うと、先生は頭をかきながら、落ちてきた穴を見上げた。
上から差し込む光は細く、届くには少し距離がある。
"うーん……どうやって上に戻ろうか……"
「そんなに深いところまで落ちたわけじゃないみたいだけど……ん?」
モモイが落ちてきた穴から視線を外し、ふと周囲に目を向ける。
――そして突然、息を呑んで立ち止まった。
「……えっ?」
「ん? どうしたのお姉ちゃ──……えっ」
ただならぬ姉の様子に、ミドリも訝しげに眉をひそめた。
その視線の先を追うように、先生、そして吉良もゆっくりと顔を向ける。
"あれって……"
「まさか――……」
次の瞬間――視界が、ひらけた。
そこは、広大な円形の広間だった。
天井のひび割れから漏れる光が、細い柱のように空間を貫き、舞い散る塵をきらめかせている。
恐らく、上階の扉の先など最初から存在していなかったのだろう。
その光はまるで舞台のスポットライトのように、中央の一点を照らしている。
そこに――無機質な玉座のような椅子に腰掛け、ひとりの
長い髪が肩を伝い、雪のように白い肌が淡く輝く。
衣服はまとっておらず、閉じられた瞼が開く気配はない。
まるで時間でも止まったかのように微動だにせず、彼女はただ静かに“在った”。
「……っ」
ミドリが息を呑む。
先生も無意識のうちに一歩退き、吉良は思わず目を細めた。
(間違いなく人間……まさか、死体か?)
そう結論づけかけた思考とは裏腹に、胸の内は異様なほど静かだった。
嫌悪も、動揺も、恐怖も――どれも決定打に欠ける。
本来なら、もっと強い拒絶反応があって然るべきだ。
得体の知れない“死体かもしれないもの”を前にして、
これほどまでに冷静でいられる自分自身が、逆に不気味だった。
天井から落ちる光と、冷たい空気の中で、その存在だけが異質に際立っている。
金属とコンクリートの冷たさに包まれた空間の中で、少女の肌だけが柔らかく、まるでただ眠っているかのような温かい“生”を宿しているようにさえ見えた。
「お……女の子?」
「この子……眠ってるのかな?」
光の柱の中心――少女のもとへ近づくと、モモイは人差し指をそっと伸ばし、頬を“つん、つん”と突いた。
「……」
反応はない。
少し考えた末、モモイは今度は指先をぐりぐりと頬に押しつけた。
「ノックしてもしもォ~~~しっ」
当然ながら、少女は微動だにしない。
「……返事がない。ただの死体のようだ。」
「不謹慎なネタ言わないで! それに、勝手に触っちゃダメでしょ!」
ミドリが思わず声を上げ、モモイの腕を引っ張る。
そのまま少女の方をまじまじと見つめ、少し首をかしげた。
「うーん……それに“死体”っていうより、なんか“電源の入ってない”感じがしない?」
「そう? 言われてみれば……なんかマネキンみたいだね。」
モモイがそう答えると、ミドリは小さく息をのんで少女へと歩み寄った。
少女の肌は白磁のように滑らかで――けれど、氷のような冷たさはなかった。
指先でそっと触れると、思いのほか柔らかく、かすかに温かい。
「すごい……肌もしっとりしてるし、柔らかい……」
感嘆の声を漏らしながら、ミドリは視線を下げる。
少女の座っていた金属製の椅子、その背の部分に刻まれた小さな文字が目に入った。
「……あれ? ここに何か書いてある。」
彼女は指先でゆっくりと文字をなぞる。
薄く掠れた刻印が、光を反射してかすかに浮かび上がった。
「……A、L、I、S? アル……イズ? エー、エル、アイ、エス……どう読むんだろ。もしかして、この子の名前――」
「……アリス?」
モモイがぽつりと呟いた。
「ちょっと待って、これ……よくみると全部ローマ字じゃない。“I”じゃなくて、“1”だよ。
“AL-1S”。」
「え、そうなの?」
「うん。何かの型番みたいな……。」
二人が少女の前で言葉を交わす中、先生と吉良は無言でその様子を見守っていた。ひんやりとした空気の中、足音だけが響く静まり返った空間。先生が小さく息をつき、ぽつりと呟く。
"……いったいこの子は、それにこの場所、何なんだろう?"
「この子に聞いた方が早いんじゃない?」
モモイがあっけらかんとした調子で言い返す。
その軽さに、吉良は小さく鼻を鳴らした。
「それができれば苦労はしない――できれば、の話だがね。」
「えー、そんな言い方しなくてもいいじゃん。もしかしたら起きてくれるかも。ね、先生?」
"まあ……もしかしたらね。"
先生の言葉に、モモイが小さく舌を出す。
軽口が飛び交うその中で、ミドリは3人のやり取りを聞き流しながら少女へと目を向けていた。
「起きて、話してくれるなら良いんだけど……とりあえずこのままじゃ可哀そうだし、服でも着せてあげよっか。」
彼女はそっとしゃがみ込み、少女の体へ手を伸ばした。
「へぇ、予備の服なんて持ってきてたんだ……って、それ私のパンツじゃん!」
「違うよ、これは私の。猫ちゃんの顔が違うでしょ!」
二人は手早く少女の体を覆い、ミドリがほっとしたように息をつく。
「……よし、これでいいかな。」
――その瞬間だった。
(ビ――ッ! ビ――ッ! ビィ――ッ!)
鋭い電子音が空間を貫いた。
まるで警報のような高音が反響し、広間の静寂を一瞬で打ち砕く。
「え……?」
モモイが声を漏らすのと同時に、
"――ッ! みんな、下がってッ!"
先生の叫びが響いた。
「チィッ……!」
反射的に舌打ちした吉良は、即座に2人のフードを掴み、後方へと強引に引っ張った。
ミドリはなんとか踏ん張ったが、モモイは勢いに負けて派手に後転し、地面に突っ伏す。
「きゃっ……!?」
「ぐぇっ!?」
乾いた音が床に響く。
だが、倒れ込んだモモイは痛みを気にする間もなく、顔を上げた。
「ん? な、何この音!?」
「警告音みたいだけど……もしかして、近くにロボットが?」
「ううん……」
モモイは首を振り、震える指で前方――少女を指さした。
「“この子”から……聞こえた気がする。」
広間の空気が、一瞬で張り詰めた。
静寂と警報が交錯する中、少女の閉じられた瞼が、わずかに――揺れた。
「え? ま、まさか――」
閉じられていた瞼がわずかに開き、淡い光がその瞳の奥に宿る。
冷たい電子音声が、どこからともなく響いた。
「状態の変化、および接触許可対象を感知。休眠状態を解除します。」
静寂を裂くように、無機質な音声が響いた。
全員の視線が、光の中心――少女へと注がれる。
少女――AL-1Sは、ゆっくりと瞼を開いた。ガラスのように透き通った青の瞳が、微かな光を映し返し、機械とも人ともつかぬ静かな輝きを放つ。
「め、目を覚ました……?」
「状況把握、難航。会話を試みます……説明をお願いできますか。」
冷たいようで、どこか温度を感じる声。
その響きに、一同の呼吸が止まる。
「え、えっ? せ、説明? なんのこと?」
「せ、説明が欲しいのはこっちの方! あなたは何者? ここは一体なんなの!?」
少女は小さく首を傾げ、機械的な間を置いて答えた。
「本機の自我、記憶、目的は消失状態であることを確認。データがありません。」
「ど、どういうこと……? いきなり攻撃してきたりしないよね……?」
ミドリが一歩下がり、先生の袖を軽くつかむ。
「肯定。接触許可対象への遭遇時、本機の敵対意思は発動しません。」
「うわぁ……すごい。ロボットの市民ならキヴォトスによくいるけど、こんなに私たちに似てるロボットなんて初めて見た……。」
「“人間らしさ”を再現しすぎていて、むしろ気味が悪いな。」
吉良が低く呟いたその瞬間、AL-1Sの青い瞳が、ゆっくりと彼の方を向いた。
感情の色を一切感じさせない、澄みきった光。
それは敵意でも警戒でもなく、ただ「観測」しているかのような――無垢すぎる視線だった。
にもかかわらず、吉良の背筋にひやりと冷たいものが走る。
まるで心の奥底を無造作に覗き込まれたよーな、他人に自分の"ケツの穴"を見られてしまったよーな。そんな感覚に、彼は無意識のうちに眉を寄せ、視線をそらした。
「うーん……先生、どうしましょう?」
“そうだね……『接触許可対象』って、どういう意味か教えてくれる?"
「回答不可。本機の深層意識における第一反応が発生したものと推定されます。」
「深層意識って……何のこと?」
"う~ん……"
ミドリが首を傾げ、先生は顎に手を当てて考え込む。
その傍らで、吉良はただ黙って少女――AL-1Sを見つめていた。
(“連邦生徒会長”とかいう女が秘匿していた場所……そんな、いわくつきの廃墟にいたのが――記憶を失ったオートマタ、か。)
偶然で片づけられる話ではない。
"ゲマトリア"――わたしの平穏を乱すあの連中とその女が裏で繋がっていたのだとしたら……
AL-1Sの瞳が、光を受けてわずかに揺れる。
その透明な輝きの奥に、吉良は“保証のない未知”を見た。
(なぜコイツが記憶を失っているのかは知らないし、正直心底どーでもいい。
だが、もしこの“人間の形をしたロボット”が――ヤツらが再びこのわたしに害をなすための存在 として作られたのだとしたら……)
彼の中で、ひとつの答えが冷たく形を成す。
(この吉良吉影の“平穏”を脅かす“敵”として現れる前に――大事を取って、破壊しておくべきか。)
AL-1Sの青い瞳と、吉良の無表情な眼差しが一瞬だけ交錯した。
腕を組み、無言のまま視線を外す。
冷えた空気が広がり、機械油のような金属の匂いが鼻をかすめる。
張りつめた沈黙。
その緊張を破ったのは――
「工場の地下、ほぼ全裸の女の子、おまけに記憶喪失……」
軽やかな声、モモイだった。
ぽんと手を打ち、にやりと口元を吊り上げる。
「ふふっ、良いこと思いついちゃった。」
「いや……今の言葉の羅列からは嫌なことしか思い当たらないんだけど……」
ミドリがジト目で呟く。
「ねえ、先生。」
"ん?"
「この子、連れて帰ってもいい?」
「……は?」
吉良の口から、思わず低い声が漏れた。
その顔は、信じられないというより“理解不能”といったほうが近い。
なぜ今この状況でそんな言葉が出てくるのか――まるで脳が拒否反応を起こしているかのように、ほんの一瞬、思考が止まった。
「お姉ちゃん、何言ってるの!? そんな簡単に決めちゃダメでしょ!」
「だってさ、ここに置いといたら可哀そうじゃん? それに、いろいろ聞きたいこともあるし!」
先生はしばし黙り、少女――AL-1Sの方を見た。
やがて小さく息をつき、穏やかに微笑む。
"……そうだね。危険な子ではなさそうだし。保護という形で、しばらく様子をみようか。"
その瞬間、吉良の目が細くなる。
「……正気か?」
低い声に、三人がはっとする。
吉良はゆっくりとモモイを見据えたまま、静かに言葉を紡いだ。
「このオートマタが“子どもの姿”をしているから、お前たちはそうやって甘っちょろい考え方になっているんじゃあないのか?」
吉良の声は低く、冷たく響いた。
「人畜無害そーな顔をして近づき、いずれこちらに“害”をもたらす存在になりえるのだよ。
そんな危険性を、おまえは理解しているのか。才羽モモイ」
吐き捨てるような声音。その奥には、確かな警戒と、理性で押し殺した焦りがあった。
モモイは一瞬だけ目を瞬かせ、頬を指で掻く。
「えーっと……つまり、“敵”になっちゃうかもってこと?」
「違うか?」
吉良が短く答える。その鋭い視線を正面から受け止めながら、モモイはほんの少しだけ考え込む素振りを見せ――そして、ぱっと笑った。
「う~ん……でもさ、友だちになれるかもしれないじゃん?」
「……よく言うな。」
吉良の眉がぴくりと動いた。
「わたしたちは何ひとつ知らない。このオートマタのことだって読めてもいない。」
「うん、でも――“何も知らない”ってことはさ、逆に言えば“悪い子”かどうかも分からないってことでしょ?」
その言葉は、あまりにも無邪気で、真っすぐだった。
打算も計算もない、ただ信じたいという“子どもの強さ”のような響きがそこにあった。
「だったらさ、吉良おじさん。仲間になってくれる可能性だってあるはずだよ!」
「理解出来んな。なにを根拠に――……」
言い終わるより早く、モモイはくるりとAL-1Sの方へ向き直った。
「ね、
その言葉は、まるで子どもが友だちを誘うような、まっすぐで迷いのない響きだった。
モモイの明るい声に呼応するように、少女の瞳がかすかに揺れる。
青く澄んだ光がわずかに瞬き、彼女はゆっくりと顔を上げ――モモイをまっすぐに見つめた。
「…………?」
「あなたの名前だよ、
「……本機の名称、“アリス”。確認をお願いします。」
「ちょ、ちょっと待って!それお姉ちゃんが勝手に読んだ名前でしょ!?本当ならAL-1Sちゃんなんじゃないの!?」
「そんなに長いと呼びにくいじゃん! どう、アリス? 気に入った?」
モモイがにっと笑い、少女の顔を覗き込む。
「…………」
少女――AL-1Sはしばらく沈黙していた。
目を伏せ、考えるように小さく首を傾げる。
そして、ほんのわずかに唇を動かした。
「……肯定。本機、“アリス”。」
その声音は冷たい機械のものではなく、どこか人間らしい温度を帯びていた。まるで自身に名付けられたその名を気に入ったように――にっこりと笑顔を浮かべて。
「ほら、見た!? 私のネーミングセンス、完璧じゃん!」
「うーん……本人(?)が気に入ってるなら、まあ……いいけど。」
ミドリが小さくため息をつきながらも、どこか安堵したように微笑む。
モモイは胸を張って満足げに笑い、先生もその光景に柔らかく目を細めていた。
冷たく沈んでいた廃墟の空気が、少しだけぬくもりを帯びる――まるで、場の緊張がようやく解けたかのように。
だが、その輪の外に立つ吉良だけは違った。
彼は静かに額へ手を当て、深く息を吐く。
表情は穏やかに見えたが、内側では冷たい思考がひたひたと波打っていた。
(……このオートマタを“破壊”するのは、目立つ。非常にまずいことだ。)
視線の先では、モモイが無邪気に笑い、アリスと手を取り合っている。
先生はそんな彼女たちを穏やかに見守っていた。――まるで家族のように。
音もなく、吉良の背後に“それ”が現れる。
ドス黒いオーラを纏い、紅い瞳に白い瞳孔が浮かぶ。
彼女の名は――キラークイーン。
(だが――……この吉良吉影の“平穏”を乱す可能性がある以上、やらざるを得ないッ!)
キラークイーンが無機質な動きで腕を伸ばす。
黒いレザーで覆われたその手がアリスの背後に回り、一本の髪をつまみ取るようにそっと撫でた。
少女の身体がわずかに震え、首を傾げる。
「……?」
まるで、自身に起こった異変の意味を理解できないかのように。
(……ここにいる連中には、見えやしない。今、AL-1Sの髪の毛一本を“爆弾”に変えた。これでコイツの頭をチョイと吹っ飛ばせば――誤作動で故障したことにできる。オートマタが爆発して壊れるなど、キヴォトスじゃあ珍しくもない事故だ。)
吉良は目を細め、無表情のままアリスを見下ろす。
そこには、哀れみも怒りもなく――ただ、冷ややかな確信だけがあった。
(……カワイソーだが、これで吹っ飛ばすッ!)
キラークイーンが、静かに右手を持ち上げる。
親指が押し込まれる、その瞬間――
"……吉良さん。"
不意に、肩へ柔らかい手が置かれた。
その感触に、吉良は反射的に振り向く。
そこにいた先生は、怒りも戸惑いも浮かべていなかった。
穏やかで、けれど逃げ道を与えない――
静かに腹を括った大人の表情で、まっすぐ吉良を見ていた。
「……何だね、先生。」
キラークイーンの手が、空中で止まる。
押し込もうとしていた親指が、わずかに引き戻される。
吉良の瞳が、ほんの少しだけ細められた。
"吉良さんが怒る理由も、もっともだと思う。"
先生の声は低く、落ち着いていた。
否定ではない。説教でもない。
ただ、そこには確かな“理解”があった。
"突然現れたこの子が、本当に安全なのかなんて……証明できない。確かに、怖いよね。"
「……ならば尚更――」
低く押し殺した声で言いかけた吉良の言葉を、先生は穏やかに遮った。
"でもさ、吉良さん。もし、少しずつ…ほんのチョッピリでいいから……お互いを知ることができたら――きっと“友達”にだって、なれるかもしれないよ。"
その言葉と同時に、先生はそっとモモイの頭に手を置いた。
"それこそ、さっきモモイが言ったみたいにね。"
柔らかい笑みを浮かべる先生に、吉良は目を細めた。
その眼差しは冷たく、けれどどこか測るようでもある。
「……たらればだな。」
短く、吐き捨てるように言う。
「【もし】【できたら】【かもしれない】そんな曖昧な可能性を根拠に、このわたしに納得させようとするんじゃあない。 実際に被害が出てからでは遅いのだよ。 そのとき、いったい誰が責任を取るというのだ?」
その言葉に、先生は一瞬だけ目を伏せ――それから、静かに口を紡ぐ。
"うん……確かに吉良さんの言うとおりだ。"
ゆっくりと顔を上げ、優しく笑う。
"でもね――"
少し間を置いて、先生は言葉を続けた。
"たとえロボットだったとしても、素性の分からない子だったとしても……――何も覚えていないこの子を見守りたいんだ。一人の“大人”として。"
吉良は黙ったまま、じっとその顔を見つめていた。
先生の浮かべる笑みは柔らかい。だがそこには、情に流されただけではない
――確かな“覚悟”が宿っている。
"それに、もし何かあっても……そのときは、私が責任を取るから。"
先生はそう言って、軽く肩をすくめ、はにかんでみせた。
その仕草を前に、吉良はすぐには視線を返さなかった。
ゆっくりと目を逸らし、思考を巡らせる。
(……なるほどな。)
先生の言葉は、理解できる。
ロボットであろうと、記憶を失っていようと、守るべき存在だと判断したのなら、自分が、大人が責任を背負うべきだ――その一貫した反吐が出るほどの博愛主義は、少なくとも筋は通っている。
(だが……キミとは意見が合わない。このわたしは違うのだよ。)
吉良は内心で切り捨てる。
生徒を救いたいだの、見守りたいだのといった感情は、彼の中には一片も存在しない。
共感したわけではない。賛同したわけでもない。
ただ――……
(……今、ここで破壊するのはマズいな。
この状況、どー考えてもわたしが何かしたと疑われるじゃあないか。)
眉をひとつ動かし、吉良はわずかに息を吐いた。
キラークイーンの赤い瞳が、ゆっくりと輝きを失い、
影のようにその存在を薄めていく。
(チッ……先生め、タイミングのいいことだ。)
忌々しさを噛み殺しながらも、結論はすでに出ていた。
「フン……好きにしたまえ。」
低く吐き捨てるようなその一言に、
モモイの表情が、ぱっと明るく弾けた。
「よし! これでアリスは正式に私たちの仲間だね!」
「…………?」
アリスはその声に反応するように瞬きをし、モモイが差し出した手を見下ろした。
そして、ほんの一拍の間を置いて――ぎこちなくも、その小さな手をそっと握り返す。
モモイが満足げに笑うのを見て、ミドリは胸をなで下ろし、静かに口を開いた。
「ありがとうございます、吉良さん。」
「……別に、礼などいらないよ。」
そっけなく言い捨てると、彼は視線を外し、腕を組み直した。
その動作の合間に、かすかに息を吐き、ぼそりと零す。
「ハァ……まったく。これだからガキは嫌いなのだよ。」
その声音に棘はあったが、どこか力が抜けていた。
"私からもありがとう、吉良さん。"
「……言っておくが、あくまで“今は”様子を見ておくだけだ。」
"ふふ、わかってるよ。吉良さんが慎重な性格なのは、悪いことじゃないしね。"
先生は穏やかに言いながら、ほんの少しだけ肩をすくめた。
"それにしても……
「……フン。」
アリスが首を傾げ、無垢な瞳で吉良を見上げる。
その仕草に、一瞬だけ彼の視線がわずかに揺れ――すぐに逸らされた。
「………?」
AL-1S――
名を与えられた少女は、そんな彼らを順番に見渡し、わずかに首を傾げた。
それは、まるで「この感情はなんだろう」とでも問うように。
――時間は、シャーレの先生の脳天にプライステーションが直撃した頃に遡る。
どこかの地区。
街の片隅にある、忘れ去られた雑居ビル。壁は黒ずみ、ひび割れたコンクリートの隙間からは、細い草が顔を覗かせている。砕けた窓ガラスは風に揺れてカタカタと鳴り、錆びついた鉄扉は、軋むたびに甲高い悲鳴を上げた。外から見れば、ただの廃墟――
だが今、その静寂を切り裂くように怒声が響き渡った。
「クソッ!!!」
怒声と同時に、椅子が宙を舞う。
次の瞬間、壁に叩きつけられた木製の椅子は鈍い音を立てて砕け散り、床に木片が降り注いだ。舞い上がった埃が、割れた窓から差し込む光の中で漂う。
薄暗い部屋の中央。
ひとりの少女が、荒い息を吐きながら立っていた。
くせのある紫色の髪を、赤いヘアバンドで乱暴に押さえつけるようにまとめ上げ、
袖をまくった白いパーカーの下にはタクティカルベストが覗き、腰にはスコーピオンEVO3。
小柄な体格には明らかに不釣り合いな、獰猛な銃火器が重々しくぶら下がっている。
その少女――ハルは、床に散らばった椅子の残骸を睨みつけ、舌打ちした。
「……チッ」
胸の奥が、まだじくじくと痛む。
無意識に手を当てれば、あの瞬間の感触が蘇る。
――あの瞬間、
――爆音、
――閃光、
――そして、吉良吉影。
指先ひとつで弾丸を“爆ぜさせた”あのスタンド能力。
不気味な静けさ。
理解できない余裕。
「……あり得ねェだろ。」
吐き捨てるように呟き、ハルは壁を殴った。
拳に走る鈍い痛みが、逆に神経を逆撫でする。
「ウチの……レッド・ホット・チリ・ペッパーが……」
歯を食いしばる。
電気を支配し、速度と破壊力を極限まで高めた自分のスタンド。
負けるはずがなかった。
少なくとも、“あんなヤツ”に。
「クソッ……クソッ!!」
怒りは吉良だけに向いていなかった。
脳裏に浮かぶ、もう一人の顔。
――シャーレの先生。
タブレットに侵入しようとした、あの瞬間。
確かに“入った”はずだった。
なのに、次の瞬間――
「……はじき返されやがった。」
スタンドが、たかがシステムに拒絶された。
そんな話、聞いたこともない。
「何なんだよ……あの大人どもは……」
理解不能な力。
計算の外にある存在。
そして、その結果が――これだ。
ハルは肩で息をしながら、天井を睨みつける。
その向こうにいる“女”を思い浮かべながら。
ベアトリーチェ。
「……見せられねェだろ、こんなザマをよォ。」
唇が、歪んだ。
――失敗。
――想定外。
その二文字が、脳裏で重く反響する。
「……クソッ」
吐き捨てた声は、さっきまでの怒号とは違い、やけに低かった。
ハルはその場に立ち尽くし、荒れていた呼吸が、逆に不規則に乱れ始める。
――このままだと、どうなる?
脳裏に、冷えた声がよみがえった。
――『……そうですか。非常に残念です』――
答えは分かっている。
嫌というほど、分かっている。
ベアトリーチェは“失敗”を許さない。
役に立たないと判断した瞬間、奪われるのは地位でも信頼でもない――
スタンドそのものだ。
情などない。
猶予など、最初から存在しない。
「………ッ」
喉が詰まり、言葉にならない声が漏れる。
ハルは思わず頭を抱えた。
指が紫の髪に食い込み、爪が頭皮を掠める。
痛みで正気を保とうとするかのように、力が込められた。
「このままじゃ……ヤツに、殺されちまうッ……!」
震えた声。
そこにあったのは怒りではない。
初めて、はっきりと形を持った――“恐怖”。
床に散らばる木片も、蹴り飛ばした椅子も、腰の銃も、
今は何ひとつ視界に入らない。
ただ、迫り来る未来だけが、
冷たい刃となって喉元に突きつけられている。
「まだだ……」
絞り出すように、言葉を繋ぐ。
「……まだ、アイツをブッ殺すまではよォ……
こんなトコで、死にたくねえってのによォ……」
膝が、わずかに揺れた。
その瞬間――
背後から、柔らかな感触が伝わる。
温度のある腕が、そっと。
拒む隙も与えず、しかし強すぎることもなく、
ハルの身体を包み込んだ。
「……大丈夫です。」
低く、落ち着いた声。
耳元に落とされるような、静かな囁きだった。
「まだ終わっていませんよ。ハル」
ランプの淡い光の中、視界の端にクリーム色が揺れる。
肩まで落ちる長い髪。額を覆う紺色のバンダナと、褐色の肌が柔らかく光を受けている。
その横顔には、優しい微笑みが浮かんでいた。
頭上から、髪がしだれ落ちる。
近い。
呼吸が、自然と重なる。
荒れていた鼓動が、
一拍、また一拍と、ゆっくり整っていくのが分かった。
「……シオン」
名を呼ぶ声は、掠れて弱々しかった。
「焦らずに、呼吸を整えましょう。ハル
――次の作戦を考えるためにも」
数秒。
あるいは、もっと長かったのかもしれない。
やがて、ハルはゆっくりと顔を上げる。
「……」
深く息を吸い、吐く。
頭の中を満たしていたざわめきが、ようやく静まり始めていた。
ふと視線がテーブルへ向く。
埃を被った古いテーブルの上に、二つのティーカップ。
白磁の縁には小さな欠けと、そこから伸びる細いひび。
中身は――紅茶。
……と言うには、あまりにも雑だ。
茶葉がそのまま沈み、湯気も立っていない。
ほとんど、色のついた水だった。
「……紅茶、入れたのか。」
ハルの呟きに、シオンは小さく頷く。
「ええ。気休め程度ですが」
「……そっか」
ゆっくりとテーブルに歩み寄り、カップを手に取る。
冷たい感触。
だが、今はそれでいい。
一口、喉に流し込む。
「……マズ」
そう言いながらも、
ハルはもう一口、静かに飲んだ。
埃まみれのソファに腰を下ろすと、
シオンも自然な仕草で、その隣に座る。
「……シオンの言うとおりだ。」
小さく息を吐き、ティーカップを傾ける。
「さっきまでのウチ、ムカッ腹立って……頭ん中、グチャグチャだったよ。」
小さく息を吐き、ハルはティーカップを傾けた。
やがてカップを膝に置くと、ゆっくりと拳を握りしめる。
「……ウチはマジなんだ。シオン
あのクソババアを……マダムをブッ殺してやる。そのためにここまで来たんだからさ。」
言葉の端が、わずかに震えた。
そこに滲んでいるのは怒りだけではない。
焦りと、拭いきれない恐怖が、静かに絡みついている。
シオンは何も言わず、ただその横顔を見つめた。
やがて淡く目を細め、手にしていたカップをテーブルへ戻す。
カチリ、と小さな音。
「――そのためにも “シャーレの先生”と、“吉良吉影”は殺す。
そうでしょう?」
ハルは、迷いなく頷いた。
シオンが一歩、距離を詰める。
近い。
不自然なほどに。
彼女の吐息が、ハルの頬をかすめた。
喉を鳴らし、ハルは言葉を継ぐ。
「ああ……マダムの信頼を手に入れるためにもだ……
ウチの射程距離内まで近づけるぐらい信頼を築き 即ッ! ブッ殺してやるッ!!」
拳が、わずかに震える。
「17年だ……17年。鳥籠の中で囚われてたウチらの“自由”が……
もう、すぐそこまで来てんだ。」
その声は、悲鳴にも、祈りにも似ていた。
シオンは、そっとハルの胸元へ指先を這わせる。
確かめるように、ゆっくりと。
「ええ……その意気です。ハル」
低く、囁く。
「今、あの二人を始末できなかったのは想定外でしたが……」
言葉を区切り、
シオンの唇が、かすかにハルの耳元へ近づく。
「――さして、時間の問題でしょう。」
「あなたの“レッド・ホット・チリ・ペッパー”は無敵です。
あらゆる電気を媒介に移動できる、あなたのスタンドに敵う者など、そうはいない。
ましてや……彼らが
始末する“タイミング”はいくらでも作れます。」
その言葉に、ハルはゆっくりと息を吐いた。
目を細め、張りつめていたものをほどくように。
そして――
口の端が、わずかに吊り上がる。
「……ああ、ウチらの