デッドマンズ アーカイブ   作:地下ピ

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いつも見て頂き、誠にありがとうございます。
今回は焼き直し回となります。

前話『カリフォルニア・ガールズ ちゃん』その2のを修正していたところ、20000字超えてしまったので急遽、分割して投稿させていただきます。大まかな流れは修正前と同じですが、所々の展開が変わっているので一度読んでくださった方も是非もう一度、読んでいただければ幸いです。


『カリフォルニア・ガールズ ちゃん』その3

――便利屋68のオフィス

 

昼下がりの陽が窓から差し込む静かな室内。そこにあるべき静寂を打ち砕くように、床にひれ伏した男のうめき声が響いていた。

 

「ぐっ……うぅ……」

 

吉良吉影――その名に似つかわしくない無様な姿で、床に手をつき、喉の奥から漏れる嗚咽を噛み殺していた。冷や汗が額から滴り落ち、艶のない金髪を濡らしている。

 

目の前のデスクの上、ムツキは足をぶらぶらさせながら腰かけていた。手には二つの手榴弾のようなオブジェクト――その表面には“記憶”が映し出されている。

 

 

片方には、しなやかで整った“女性の手”。

もう片方には、明らかに吉良自身の、爪の長く伸びた“男の手”。

 

 

どちらも吉良にとって特別な意味を持っていたはずだった。

 

……だが、今となってはそれすら思い出せない。

 

「手の綺麗な人が好き~とか? 爪が人より早く伸びる~とか?」

 

ムツキが興味なさげに口にする言葉に、吉良はぎり、と歯を噛みしめた。

 

「う~ん、なんかつまんな~い。」

 

ムツキはひょいと身を乗り出し、地に伏した吉良の顔を覗き込む。

 

「もっとさぁ、こう……“ゾクゾクするようなヒミツ”とかないの~~?」

 

後ろに揺らめく"カリフォルニア・ガールズちゃん"の不定形なシルエットが、壁にまで歪んだ影を落とす。

 

ムツキはくるりと手榴弾を回しながら、問いかけた。

 

「ねぇねぇ吉良さん。この“手”ってさ、本当にそんなに大事なものだったの?」

 

「手――わたしの…か……?」

 

吉良はぼんやりと自分の手を見つめる。しかし、何の実感も湧かない。ただの手。ただの皮膚と骨の塊だ。

 

記憶の重みだけが抜け落ちたその手を前に、彼はゆっくりと両手で頭を抱え込む。

 

「クソッ……なんなんだ……これは――」

 

震える肩を抑えることもできず、吉良はただ呻いた。体が、本能が、失った何かの重大さを告げていた。

 

「ふ~~ん」

 

ムツキは小さく溜め息をつき、面白くなさそうに足を止める。

 

「吉良さん、大丈夫~? 疲れちゃったんなら、そこのソファで横にでもなれば?」

 

床に手をつき、荒い息を繰り返す吉良の頭上から、まるで子どもがいたずらを仕掛けた後のような軽やかな声が降ってきた。その言葉に、吉良はゆっくりと顔を上げる。額に汗を浮かべたまま、荒い呼吸を無理やり整えると、ふっと薄い笑みを浮かべながら、立ち上がった。

 

「……いいや、その必要はないな。」

 

ぐらつく足を踏みしめ、彼はムツキの正面へと立つ。そして、わずかに首を傾けながら、鼻先で笑うように言った。

 

「勝つ時っていうのはな……こうやって、“相手を見下ろしながら”勝つもんだからなァ……ン?」

 

ムツキは一瞬だけ眉をひそめたが、すぐにくすりと笑って見せた。

 

「へぇー、強がっちゃって。……でもさ、吉良さんって、私にもう“四連敗”してるよ?」

 

彼女は指を一本ずつ折りながら、ゆっくりと数える仕草をする。

 

「ひとーつ、ふたーつ、みっつ……そして、よっつ!」

 

そして最後にぴょんと肩をすくめると、小さく首を振った。

 

「吉良さんはね、今……“勝負の下り坂”にいるんだよ。」

 

「……下り坂?」

 

「そ!どんどんスピード出ちゃって、止められなくなるヤツ。」

 

ムツキは人差し指をぴしっと突きつけると、まるで宣告するように口元を吊り上げて言い放った。

 

「くふふ♪もう一回言うからね、吉良さんは今!」

 

 

「とっくに"下り坂"にいるの!」

 

 

吉良は肩で息をしながら、ゆっくりと顔を上げた。

 

「小娘……『プレッシャー』のかけ方が……随分とうまくなったじゃあないか……」

 

「プレッシャー? ん~……でも事実じゃん?」

 

ムツキは軽く片手を広げて見せながら、無邪気に続けた。

 

「吉良さんが、このムツキちゃんに“4連敗”してるのは事実でしょ? ん~認めない?」

 

「事実か……確かにな……」

 

吉良は鼻で笑いながら、ポケットに手を差し込む。少しだけ視線を伏せ、そして静かに言葉を継いだ。

 

「だがな、キミがそれを言うのなら……わたしの方からも、“ひとつ事実”を言ってやろう。」

 

ムツキは黙ったまま、吉良の動きを見つめる。ふざけたような表情の奥に、わずかな緊張が走った。

 

「次の勝負……君は、決してわたしに勝てないよ。」

 

「……は?」

 

ムツキが眉をひそめる。

 

「何それ? “予言”のつもり? それとも負け惜しみ?」

 

「いいや。これは“宣告”だよ。」

 

吉良の言葉は静かだったが、その声音には、氷のような冷たさと確信が混ざっていた。どこまでも底知れない――そんな重さを伴っていた。

 

ムツキはしばし沈黙し、吉良の顔をじっと見つめた。まるでその奥にある何かを探るように。

 

そして、くるっと首を傾ける。

 

「……ふぅん。じゃあ何するの?」

 

「何を、とは?」

 

「だって、勝負するんでしょ?」

 

ムツキは楽しげに足をぶらぶら揺らしながら言った。

 

「もう“神経衰弱”はやったし、“七並べ”もやったし……他に何かある? また『お手軽なやつ』にする?」

 

吉良は黙って考えるふりをする。ほんの数秒だけ、顎に手を添え、目を伏せて沈黙する。

……そしてすぐに、わずかに口角を上げながら言った。

 

「ジャンケンだ。」

 

「……えぇ~~!? またぁ?」

 

ムツキは思わず椅子の背にもたれかかり、天井を仰ぐ。

 

「最初にやったやつじゃん、それ! ちょっとさぁ、吉良さん。それしか無いの? なんか芸がないっていうか~」

 

吉良はそんな彼女の反応に微笑を浮かべると、ふっと目を細めて言った。

 

「じゃあ、こうしようか」

 

言葉と同時に、吉良は胸の前で静かに片手を握り、拳を作る。

 

「わたしは“グー”を出すことにしよう。」

 

「……は?」

 

ムツキの表情がわずかに強張る。笑っているが、その瞳が揺れていた。

 

「それって……ひょっとして、私を動揺させようって作戦?」

 

「おいおいおいおい………」

 

吉良は肩をすくめ、ソファに腰をかけるムツキを見下ろした。

 

「キミは今、言ったばかりじゃあないか。“わたしは今、勝負の下り坂にいる”、と……」

 

ムツキは口を閉じる。ジリ、と背筋が硬直するのが自分でもわかった。

 

「わたしは最初のジャンケンで“グー”を出して敗北したんだ。」

 

「つまり“グー”は、わたしにとって“悪運のグー”というワケだ。ン? 違うかい?」

 

「……」

 

 

「だがな」

 

 

吉良の声が、ひときわ低くなる。

 

「この吉良吉影がもっとも許せないことはな……“恥”をかくことなんだよ。」

 

握られた拳に力がこもる。

 

「もし“グー”以外を出したら、それはつまり――わたし自身が“下り坂”にあることを認めるということだ……」

 

「……へえ」

 

ムツキは強がるように目を細めたが、吉良の静かな迫力に、笑顔の輪郭が少しだけ崩れた。

 

(陽動のつもり…? まさか、私がそれでパーを出すと思っているの?)

 

「まだ勝ってもないのに、よく言うね。ほんとに、自信満々ってやつかな?」

 

だが口調は少しだけ硬い。それを感じ取った吉良は、すぐさま言葉を重ねた。

 

「いいや、運命は最終的に――この吉良吉影に味方してくれるだろーさ。」

 

 

沈黙が流れた。

部屋の空気が、どこまでも静かに、しかし確実に張り詰めていく。

 

 

しばし睨み合った末に、ムツキが口元を歪め、立ち上がった。

 

「いいよ。乗ってあげる。どうせまた勝つのはこのムツキちゃんなんだから!」

 

片手を上げながら、不敵に笑う。

 

「いくよ――ジャンケン……」

 

ムツキが構えた。

 

「ポンッ!!」

 

両者の腕が、同時に振り下ろされた。

 

 

――出されたのは、どちらも『グー』

 

「……ッ!」

「うそっ!?」

 

互いの拳がぴたりと重なり合った瞬間、二人の目が見開かれる。

 

(良し……! どうやら“悪運のグー”ではないようだな……)

 

(読み間違えた……っ! 吉良さん、あれだけはったりかましておいて……それでも『グー』を出してくるなんて……)

 

吉良は拳を握ったまま、密かに頬の内側を噛みしめた。

その反面、ムツキの眉がわずかに引きつる。

 

(まずいかも……吉良さんの“裏”が読めないっ!)

 

睨み合いのまま、一瞬の沈黙。

吉良の口元が、再びわずかに吊り上がった。

 

(もう一度“グー”だ……! “悪運のグー”を……このわたしに従わせてやるッ!!)

 

ムツキも素早く手を構えながら、息を殺す。

 

(こうなったら……直感に従う! “パー”でいくよっ!)

 

「……あいこだよっ、吉良さん!」

 

声に微かな焦りを滲ませながら、ムツキが叫んだ。

 

「――あいこでッ!」

 

 

ふたたび、両者の腕が同時に振り下ろされる――

その瞬間

 

 

「しまった……ヒザの力が……ッ!」

 

吉良の身体がわずかによろめく。体勢が崩れ、踏み出す一歩が半歩分、遅れた。

 

ムツキはそれを見逃さなかった。

 

(な、なに……? 吉良さん……さっきとジャンケンの“フォーム”が違うっ!? やっぱり最初のアレは――ハッタリだったってこと!? “グー”を出すって宣言しておいて……“フォーム”をわざと崩して、私の裏をかく作戦!吉良さんは"チョキ"を出してくるハズッ!なら……っ!)

 

 

「しょっ!!」

 

 

ムツキが叫び、吉良もその声に合わせて拳を振るう。

弾かれるように、再び両者の手がぶつかり合った。

 

 

出されたのは――またしても"グー"

 

 

「えっ!? そんなっ!?」

 

(……“フォーム”に惑わされた!? これ……まさかの、深読みしすぎたパターン!?)

 

ムツキの声が裏返る。

 

「フフフ……やはり運命は、この吉良吉影に味方してくれているぞッ!!」

 

目の前の吉良は、ふっと笑みを浮かべる。勝ち誇るような声が、オフィスに響いた。

 

「わたしのこれは……『悪運のグー』なんかじゃあなかったようだなァ……」

 

荒く続く息をゆっくりと整えながら、口元に微かな笑みを乗せる。

 

「本当に『運』がなくなっているのは……浅黄ムツキ」

 

一拍おき、少しだけ肩をすくめるようにして――

 

 

「おまえの方なんじゃあないのかなぁ、ン~?」

 

 

低く囁くその声音は、皮肉混じりの余裕を漂わせていた。

だが、ムツキは――その顔に汗を滲ませながらも、再びにやりと笑みを浮かべる。

 

「ふーん……でも、もう吉良さんのハッタリには騙されないよ?」

 

言葉とともに、ムツキの声色は軽やかに跳ねた。

 

「最後に勝つのは、このムツキちゃんだもんねぇ~♪」

 

ふざけたような調子のまま、彼女はいたずらっぽく続ける。

 

「今回、吉良さんが負けたらね~……うん、そうだっ!」

 

ぱんっと手を打つ。

 

 

「次はね……吉良さんの“名前”を奪っちゃおっか♪」

 

 

ニィッと唇を引いて笑ったムツキの顔は、子供が悪戯を思いついたときのそれに似ていた。しかし、その背後にはまたしても“カリフォルニア・ガールズちゃん”が蠢いている。

 

(まあ、貰える"ヒミツ"はぜんぶランダムなんだけどね~♪)

 

ただのブラフ、しかし――

 

「………」

 

吉良は一瞬だけ、表情を動かした。名を奪う。たった一言で心をざわめかせるには十分すぎた。

 

「くふふ♪ さあ……どっちが勝つか、最後の勝負だよ、吉良さん!」

 

そう言いながら、ムツキは軽やかに構える。

対して吉良は何も言わず、ゆっくりと胸の前で片手を握る。静かに。深く。

 

ムツキは少しだけ首を傾げた。

 

「え、ちょっと……もう“待ったなし”だよ? “何を出すのか”、決めてよ、吉良さん?」

 

吉良はそれでも無言のまま、胸の前で握った拳をほどこうとはしなかった。

その沈黙に、ムツキは眉をひそめる。

 

「……? なにしてるの? 早く“ジャンケン”の構えに入ってもらわないと、カウント始めちゃうよ?」

 

その言葉を受けても、吉良はわずかに口角を上げただけだった。

そして――静かに、拳を持ち上げると、そのままムツキへと見せつけるように差し出した。

 

「もう……始めているじゃあないか。見ての通りだよ。」

 

「わたしは……これでいく。」

 

その手は、力強く握られていた。

 

 

“グー”

 

 

吉良が掲げたその“グー”を、ムツキは信じられないといった様子でじっと見つめた。

 

「……また、それ?」

 

にやけた笑みの奥で、彼女の目がかすかに揺れる。

 

「理解できないなあ……また"グー"を出すなんて、さすがにバカじゃん?」

 

吉良は何も言わない。拳を動かさず、そのままじっとムツキを見据えていた。

 

「……それとも、まさか……“ブラフ”? そのグー、ほんとは“チョキ”に変えるつもりなんでしょ?」

 

ムツキの声がわずかに尖る。揺さぶるように、牽制するように。

だが吉良は、静かに――そして断言するように言った。

 

「いいや、本気だよ。」

 

拳をわずかに動かし、グーであることを改めて見せつけるように掲げたまま、彼は低く言葉を続けた。

 

「わたしのこれに“勝つ手”を、君が決めて勝負するんだな。」

 

「……!」

 

 

「早く、そらッ!」

 

 

その声音には焦りも迷いもない。ムツキは一瞬だけ唇を引き結び――それから笑った。

 

「……後悔しても知らないよ?」

 

それでも吉良は応じるように、吐き捨てるように言い放つ。

 

「“悪運のグー”でおまえに勝ってやることでしか、この気分は収まらんのだ。」

 

目に宿るのは執念の炎。ムツキの軽口を、既にただの戯言と断じるような鋭さがあった。

 

「それと、一つだけ言っておこう……」

 

吉良は拳を胸の前で固く掲げたまま、言葉を噛みしめるように続ける。

 

「この吉良吉影が、切り抜けられなかった物事など――ただの一度も存在しないのだよ。」

 

 

再び、静寂が降りた。

 

 

拳を握る吉良。その姿に、ムツキはどこかで気圧されたように、わずかに目を伏せた。

 

だが――

 

「……くふふ。」

 

笑った。

 

「何を言っても、ムダだよ吉良さん。私はね……“負ける気”しないよ?」

 

強がりのようにも、確信のようにも聞こえたその声。

 

「いくよっ! 吉良さんッ!」

 

両者が同時に、一歩、踏み出す。

 

「ジャンケン――」

 

 

 

「ポンッ!!」

 

 

 

振り下ろされた二人の腕。

 

 

吉良の拳は――固く握られた“グー”

そしてムツキの手は、広げられた“パー”

 

 

「……やったーーっ!!」

 

 

ムツキの声が、歓喜に満ちてはじける。

 

「これで私の勝ち――」

 

 

そう言い切る、寸前だった。

 

 

「……えっ なんで動いて――ちょ、痛っ!

 

突如、ムツキははじかれたように視線を上げた。

 

その目が、吉良の背後――何もない空間を捉えたかと思えば、急に自分の手首を押さえ込むように握りしめる。

 

「……なに? い、いたい……なんで……っ」

 

ムツキの開いた指先が――

グググ……と、じわり、じわりと、押し戻されていく。

 

「ちょ、ちょっと待って! なんで動いてるの!? やめてよ! 離してってば!」

 

手のひらが、自分の意志に反して閉じていく。

 

親指、薬指、小指――

一本ずつ、まるで透明な力にねじ伏せられるように沈んでいき――

 

やがてその手は、“チョキ”の形で固まった。

 

「そ、そんな……」

 

ムツキの顔から、一気に血の気が引いていく。

 

「なんで……っ!? わたし、吉良さんから“キラークイーン”の記憶は奪ったはず……!」

 

慌てて手を振り解こうとするも、形は崩れない。まるで見えない拘束具で固定されたかのように――その指は動かなかった。

 

「いや、まさか……スタンドが……」

 

焦燥が、彼女の全身を支配していく。

 

「ひとりでに動いてるっていうのっ……!?」

 

震える声が空間に木霊する。

目には見えない“何か”が、たしかにそこにいる。

 

ムツキは、目の前の“チョキ”に変えられた自分の手を、ただ呆然と見つめていた。

 

突如起こった一連の出来事に、吉良も一瞬きょとんとしたが――

 

目の前のムツキが、抵抗もできずに立ち尽くしている姿を見た瞬間、肩を小さく震わせ、ゆっくりと顔を上げる。

 

ふっと、その唇が笑みを刻んだ。

 

「何か分からんが――勝ったぞ、ざまあみろッ!」

 

張りつめていた空気が破裂するように、吉良の声が響く。

 

「生まれてこの方、ジャンケンで勝って……こんなにうれしかったことはないなッ!」

 

 

その叫びの刹那――

 

(パァンッ!)

 

甲高い破裂音が、唐突に空間を揺らす。

 

――記憶の手榴弾が、ひとつ弾けた。

 

「なっ……!」

 

ムツキが小さく息を呑む。心なしか顔が引きつり、その視線はテーブルの上を走った。

 

(あっ…! 記憶が――)

 

その直後

 

「……ああ、そうだ。」

 

ぽつりと、吉良は呟いた。

 

「シャーレの先生。あの男のことを……ようやく思い出したよ。」

 

遠く霞んでいた輪郭が、鮮やかに像を結ぶ。

脳裏に浮かんだのは、あの穏やかな笑みだった。飾らない仕草、真剣な目。肩越しに見せた笑顔。教師然とした落ち着いた声。やたらと生徒の世話を焼きたがるあの性格――

 

吉良はそっと目を閉じる。

静かに呼吸を整え、やがてゆっくりと瞼を持ち上げた。

 

「そして……確か先生のところへ、紫関ラーメンとやらに行かなくちゃならなかったなァ。」

 

その視線の先には、なおも必死に“チョキ”の形を崩そうと指を震わせている浅黄ムツキの姿があった。彼女の混乱と苛立ちが、その小さな背中に滲んでいる。

 

「……ちょ、ちょっと待って……今の、ナシだからねっ!?」

 

ムツキが振り返り、憤ったように叫ぶ。

 

「い、今のは反則! イカサマっ! ノーカンだよ、ノーカンっ!!」

 

吉良は一瞬だけ眉をひそめ――やがて小さく肩をすくめ、鼻で笑った。

 

「ン?さっき言ってたじゃあないか。バレなければイカサマじゃない……だったかな? イヤ、バレてるからそれは違うか。それにわたしがしたワケでもないしな。」

 

一体、何が起こったのか皆目見当もつかんが。と、そう言って唇の端を歪める。

 

「まあ、どちらにせよ……現に“先生”の記憶は返してもらった。イカサマだろうが何だろうが――勝ちは勝ちだよ。」

 

「くぅ……!」

 

ムツキの頬がひくついた。

 

吉良はその様子を余裕たっぷりに見下ろしながら、歩み寄っていく。

 

「じゃあ――残りの“記憶”もすべて返してもらおうか。」

 

「……ッ!」

 

ムツキは即座に構えを取る。固まった手を見下ろしながら、歯を食いしばった。

 

「カリフォルニア・ガールズ ちゃんっ!私の手を……! キラークイーンを引き剥がしてっ!」

 

呼応するように、ムツキの背後に立っていた“カリフォルニア・ガールズちゃん”が滑るように動き出す。伸び上がるように宙を滑空し、その体をムツキの固まった手へと伸ばした――

 

 

 

 

 

 

 

(メシャァッ!!)

 

 

『――ッ!?』

「あぐっ!?」

 

 

直後、鈍い衝撃音とともに、カリフォルニア・ガールズちゃんの身体が弾き飛ばされる。その軌道の先、ムツキの側頭部に何かがぶつかったような衝撃が走り、短く呻いた彼女の身体が、そのまま崩れるように床へと倒れた。

 

その拍子に、テーブルの上に置かれていた残りの三つの“記憶の手榴弾”がカラカラと転がり――

パンッ、と破裂するような軽やかな音と共に、紫色の光が空間を照らす。

 

放たれた光は一直線に吉良の胸元へ吸い込まれ、彼の身体に、脳に、記憶の断片を焼き戻していった。

 

――『綺麗な手』『爪の伸びた手』『キラークイーン』――

 

 

それらの単語が、吉良の脳内で静かに回りはじめる。確かな形ではない。ただの断片だ。だがそれでも――吉良の表情に、微かな満足の色が浮かんでいた。

 

「フフフ……いい気味だよ、浅黄ムツキ」

 

かつて自分が地面に這いつくばっていたように、今はムツキがその姿勢でこちらを見上げていた。崩れ落ちたムツキの瞳が、悔しさに震えながら吉良を睨み返す。だが、当の本人はまるで気にする素振りも見せない。ゆっくりと膝を折り、視線を合わせる高さにしゃがむと、口元に薄い笑みを浮かべたまま言った。

 

「オイオイオイオイオイオイ……誤解しないでくれよ、わたしだって今のキミのよーに地べたを這いつくばったんだ。」

 

「……っ」

 

「そんな親の仇を見るよーな目でわたしを睨まないでくれたまえ。」

 

その声音には、どこか愉悦すら混じっていた。地面に膝をつき、片目を細めるムツキを、吉良は静かに見下ろしている。余裕と勝利に裏打ちされたその態度は、ほんの数分前まで這いつくばっていた男のものとは思えなかった。

 

ムツキは唇を噛みながら、それでも睨むことをやめなかった。だがその視線には、悔しさとともに、ほんのわずかな怯えが混ざっている。

 

「……さてと」

 

吉良はゆっくりと立ち上がり、乱れたスーツの裾を一度、軽く払い落とす。

 

 

 

「ついにおまえに勝ったぞッ!! 盗られたものは戻ったッ……!!」

 

 

 

「…ッ!」

 

吉良の声が、オフィスの静けさに冷たく響く。その口調には、先ほどまでの焦燥や必死さは微塵も残っていなかった。床に手をついたまま動けないムツキを、吉良の鋭い視線が射抜く。

 

「散々、わたしをこんな"赤っ恥のコキッ恥"をかかせたんだ――これからキミを嬲り殺してでも、気分をキレイスッキリ晴らしたいトコなんだが……」

 

そこまで言って、吉良はムツキの耳元にまで顔を近づけた。

吐息が触れる距離で、低く、小さく囁く。

 

「その前に、ちょっとキミに聞きたいことがあるんだ。」

 

その声音は、穏やかであるにもかかわらず、氷の刃のような冷たさと緊迫感を孕んでいた。

ムツキの表情がぴくりと引きつる。汗が額から流れ、顎を伝って床へと落ちていく。

 

「浅黄ムツキ……おまえ、何者だ。その能力は、どこで手に入れたのだ……」

 

空気が軋むように、重く、静寂が部屋を満たした。

 

「……き、」

 

ムツキの唇が微かに震える。声にならない呟き。いつもの軽口や悪戯めいた笑顔は、そこにはなかった。

 

突如として現れたこの男。先生と共にいたというのに、今、目の前にいる“吉良吉影”は、それまで感じていたどんな“大人”とも違っていた。

 

――優しく寄り添い、子供の論理を受け止めてくれる存在。それが、ムツキにとっての“先生”という大人だった。

 

 

だが、この男は違う。彼は“大人”という仮面を被った、別の“何か”だ。

 

 

「吉良さんだって……何者なの――」

 

 

 

 

「質問を質問で返すなあ―――っ!!」

 

 

 

 

「疑問文には疑問文で答えろと学校で教えているのか? 私は"その能力をどうやって手に入れたのだ"と聞いているんだ―――ッ!!」

 

 

「わわっ!?」

 

突如響き渡った吉良の怒号に、ムツキの肩が跳ね上がる。

同時に、吉良は自身の人差し指をぐりぐりとムツキの額へと押し付けた。

 

「わっ分かんない……なんか、“矢”みたいなものでケガした夢みたいなのを見た気がするけど……」

 

か細く漏れる声。いつもの強がりはそこになく、ただの少女らしい不安が言葉に滲んでいた。

“遊び”の支配者だったムツキが、今、この瞬間――“遊び”の枠を逸脱した男の前で、ただ怯えていた。

 

そして同時に、吉良の眼が――彼女のそのたった一言に、強く反応した。

 

(矢……だと?)

 

一瞬、吉良の瞳孔が細まり、瞼の裏を記憶が駆け抜ける。

 

(まさか……あの時の――)

 

首筋に、ぞくりと幻の痛みが走る。あの男、“黒服”。人間離れした異形の顔。その男が近づいてきたあの日――

 

喉を裂くようにして這い出てきた、“矢じり”の記憶。

その感覚が、鮮烈に蘇る。

 

吉良は静かに指を引き、ムツキから距離を取った。

 

「おまえ、“黒服”の――あの男の仲間……なのか?」

 

1歩…2歩…と、無意識に後ろへ下がる足。それと同時に吉良の声音が、さらに冷たさを増す。

しかし、吉良の思惑に反して、ムツキの眉がひくりと動いた。

 

「くろ…ふく? なにそれ、知らない……」

 

その返答には、作為も駆け引きもなかった。あるのは、ただの純粋な疑問の色――

吉良の眼差しが、一層鋭さを帯びてムツキを見据えた。

 

(浅黄ムツキ……コイツ、あの“矢”を知っているというのに“黒服”については何も知らないのか……?)

 

吉良の脳裏を、また一つ疑念がよぎる。

 

『矢じり』によって芽吹いた“能力”。

いつの間にか引き込まれていた、この異様な世界――キヴォトス。

 

それらは決してバラバラではない。どこかで確実に繋がっている。

 

(クソ……ヤツに直接、真相を聞き出すほかはないか。)

 

思考を巡らせながら、吉良は静かに口を開いた。

 

「それより――おまえ先ほど、“何か”が見えていたな?」

 

「う、うん。吉良さんのスタンド、今は見えないけど……」

 

ムツキが少しおびえたように頷く。その反応を見て、吉良の視線が鋭さを帯びた。

 

「“スタンド”は、同じ“スタンド”を持つ人にしか見えないはず……アルちゃんたちには、私の“カリフォルニア・ガールズちゃん”が見えてなかったから。」

 

その言葉に、吉良の脳内であの“黒服”の声が反響する。

 

――『確かに“スタンドの矢”は頂きましたよ』――

 

(スタンド……“能力”を与える“矢”……“スタンド”とは、その力の総称……?)

 

吉良の思考が急速に回転する。

 

(あのときの痛み……首を裂かれるような感覚。そして、キラークイーン……)

 

自分の意思を離れ、勝手に浅黄ムツキの手を押さえ込んだ“何か”。

 

――まるで、意思を持つ別の存在のように。

 

(……なぜだ。なぜ、わたしには“能力”の記憶がない。なぜ……その“キラークイーン”が、勝手に動いている?)

 

「吉良さん……? えっと……どうしたの?」

 

ムツキが恐る恐る顔を覗き込む。その目に浮かぶのは、不安と、少しばかりの気遣いの色。

まるで、先ほどまでの残酷な遊戯を繰り広げていた人物とは、別人のような表情だった。

 

しかし――

 

(フン……小娘め。さんざんわたしをコケにしていたくせに。今さら、そんな顔をして……)

 

その冷たい視線の奥で、吉良の中にひとつの“衝動”が芽生え始めた。

 

「……イヤ、すまないな。さっきは少し、つい声を荒げてしまったよ。」

 

吉良はそう言いながら、わずかに視線を逸らした。頭を下げることまではしない。ただ、どこかバツが悪そうに吐き出すように、その言葉を口にする。

 

「えっ?」

 

ムツキが驚いたように瞬きする。

 

「オ~ットォ、勘違いするなよ。べつにわたしはキミに対して屈したわけじゃあない。少々感情的になってしまっただけだ。それに――キミにも……何か事情があったんだろう。人の記憶を奪うような真似をしてまで、な」

 

ムツキは一瞬、戸惑いを見せたが、次第に表情が和らぎ、うつむいてポツリと呟く。

 

「……その…吉良さんの記憶、勝手に奪っちゃって……ごめん。」

 

「フン、今さら恨んでなど……いないよ。」

 

ムツキは小さく笑った。吉良の口調は相変わらず尊大だったが、その態度にはわずかに、信頼のようなものが含まれている()()()()

 

その時だった。

 

「……ところで、浅黄ムツキ」

 

「ん?」

 

()()()()()()()()()持っていないかね?()()()()でもいいんだが……」

 

「え、あーたぶんそこにあったと思う!」

 

ムツキは疑うこともなく、事務机へと足を向ける。背を向けたまま、無邪気な口調で「ちょっと待っててね」と付け加えた。

 

――まるで、本当にすべてが終わったかのように。

 

 

しかし

 

 

(フン、結局はただの生徒(クソガキ)だ。せいぜいそうやって安心しているといい……)

 

吉良の視線が、テーブルの一角に置かれた“それ”に向かう。

 

窓から差し込む陽光に照らされ、()()()()()がきらりと光を放っていた。

ずっしりとした"硝子製の灰皿"。無骨なフォルムと重厚な質感。それは、陸八魔アルが“アウトローっぽい雰囲気”に憧れて購入したものであり、本来の用途――灰を落とすため――には一度も使われていなかった、ただの“雰囲気小物”。

 

吉良はその灰皿に静かに手を伸ばす。ひんやりとした感触。しっかりと重みがある。

これなら確実に()()()()()()()()

 

(散々わたしの記憶を玩具のように扱ってくれたな……)

 

吉良の足が、静かに、だが確実にムツキの背後へと歩を進める。

 

「………」

 

右腕が、ゆっくりと持ち上がる。

陽光に照らされた床に、二つの影が交差していた。

 

一つは、あどけない少女――浅黄ムツキの影

もう一つは、その背後から覆いかぶさるように伸びた、吉良吉影の影だった。

 

掌の中で硝子の灰皿が鈍く煌めき、窓から差し込む斜陽が、その側面に反射して、まるで儚くも美しい凶器のように輝いていた。

 

その時――

 

「……あ、あったあった! 吉良さん、これでいい……?」

 

ムツキの声。机の奥から新品の箱ティッシュを取り出したその瞬間、彼女の小さな肩がゆっくりとこちらへ回り始める。

 

――刹那

 

 

(ブゥンッ!!)

 

 

吉良の手に握られた灰皿が、弧を描いて振り降ろされた。

静かに笑っていた少女の横顔に、影が落ちる。

 

 

 

そして――

 

 

 

 

――アビドス自治区 紫関ラーメン店

 

"カイザーローンから君たちに支払う依頼料。その2倍の給料で君たちを雇いたいんだ。"

 

その言葉が空気を切り裂いた瞬間、店内は凍りついたような静けさに包まれた。

 

「っ!?」

 

"お金だって、対策委員会の子たちから巻き上げたものじゃない。ちゃんと出所のはっきりした、シャーレの公式な資金で支払うことを約束する。"

 

先生の一言一言が、静かに、だが確実に少女たちの胸に染み渡っていく。三人の目が驚きに見開かれ、先生の瞳は真剣なまま、彼女たちの顔をまっすぐに見据えていた。

 

"カイザーグループがアビドス高校を狙っている理由。それを調べる手助けを、お願いしたいんだ。"

 

そう言って、先生は机に額をぶつけるほど深々と頭を下げた。その真摯な姿勢に、三人は言葉を失う。沈黙の中で、さまざまな感情が交錯していた。

 

「……社長、この依頼、悪くないと思う。シャーレに恩を売るチャンスよ。」

 

最初に口を開いたのはカヨコだった。理知的な声が、重く垂れこめた空気に風穴を開ける。

 

「い、依頼料が2倍って……も、もしかして……もう食べ物に困らなくていいってこと、ですよねっ!?」

 

ハルカの声には、安堵と期待が混ざり合っていた。二人の視線が、一斉にアルへと向けられる。

 

アルは、店内の空気を吸い込むように息を吸い、しばらくの間、黙って目を閉じていた。社長としての責任と、一人の少女としての葛藤がその胸に重くのしかかる。

 

「す、少し……考える時間をくれないかしら。」

 

その声には、彼女にしては珍しいほどの迷いが滲んでいた。

 

「私一人じゃ、決めきれない。カイザーグループは横同士のパイプが強い会社だもの…今回の案件を断ったら、便利屋としての今後の仕事にも影響が出るかもしれないし……それに、ムツキとも話してからじゃないと……」

 

「でも社長、うちのモットーって『金さえもらえれば何でもOK』じゃなかったっけ?」

 

「う、うるさいわね!……でも、ちゃんと4人で話し合って決めたいの。」

 

"うん、もちろん大丈夫だよ。"

 

先生の声は穏やかだった。

 

"しっかりみんなで話して、結論が出たら教えてほしい。私は、どんな答えでも尊重するよ。"

 

先生は微笑んだ。穏やかな表情で、しかし決意のこもったまなざしで、生徒たちを見つめていた。

 

"私は…生徒たち全員の味方だから――"

 

 

――その時だった

 

 

(ビーッ!! ビーッ!! ビーッ!! ビーッ!!)

 

突如として鳴り響く警報音が、場の空気を一変させる。

 

「これは……」

 

「け、警告音…ですか?」

 

「なっ、何!? 何なのよっ!?」

 

"これは……うん、ちょっとマズイよね……"

 

先生の持つタブレット端末から発せられているつんざくような警報音が、迫り来る危機を明確に告げているかのように耳を刺す。

 

――【シッテムの箱】その画面に表示された"彼女"が、()()()にしか聞こえることのできないその"声"が、彼の表情を一瞬にして苦いモノへと変えた。

 

"■■■っ!! 半径5mでバリアを展開―――"

 

「先生、一体何がっ—――」

 

(カッ――!!)

 

――その刹那、世界が白く染まった。

 

 

 

(ドゴォォォォォォンッ!!!)

 

 

 

紫関ラーメン店に突如として着弾した一発の擲弾。それが炸裂した瞬間、偶然にも店内に設置されていた伊草ハルカのC4爆弾と連鎖し、凄まじい爆発が起きる。

 

衝撃波が空間を引き裂き、光と熱が一瞬で店すべてを飲み込んだ。

 

上がる黒煙、吹き飛ぶ瓦礫――

 

そして数秒後、そこにかつてラーメン店があったことを示すものは、何一つ残ることはなく

 

――ただ、ひとつの更地があるのみだった。

 

 

――同時刻:便利屋68のオフィス

 

 

 

(ドゴォォォォォォンッ!!!)

 

 

 

爆音が突然、空気を突き破った。

窓ガラスがビリリと震え、机の上の紙が舞い上がる。

 

「なッ……!?」

 

同時に、吉良の腕が止まった。

振り下ろされようとしていた一撃は、手にしたガラスの灰皿は、ムツキの髪一本すらかすめることなく、虚空を切るのみとなった。

 

(この音は……!?)

 

「えっ……!? 今の音、紫関ラーメンのほうからじゃ……」

 

ムツキが反射的に振り返ろうとする、その一瞬――

 

 

吉良は素早く、しかし自然な動作で、手にしていた灰皿を背後に隠した。

咄嗟の判断だったが、手の内の冷たい質感がやけに重く感じられる。

 

だが――

 

ムツキの意識は、完全に“音”と“仲間”に向いていた。

 

焦燥に駆られた彼女は、吉良の動作にまったく気づいていない。

そのまま、彼女は慌ててスマートフォンを取り出し、素早くアルの番号をタップしていた。

 

『お掛けになった電話番号は、現在――』

 

無機質なアナウンスが、オフィスに虚しく響く。

ムツキの顔が見る間に青ざめていくのが、吉良の視界に映った。

 

 

(チッ、今はこの小娘を“片づけている”場合じゃあないな……)

 

吉良はそっと、後ろ手にした灰皿を机の影に戻す。

 

窓の外、紫関ラーメンがある方角――そこからは今もなお黒煙が立ち上っており、先ほどまであれほど強く燃えていた殺意は、まるで黒煙と共に風へと散っていくかのようだった。

 

(先生は……あの場所にいるはずだったな。)

 

「アルちゃん……お願い、出てよ……!」

 

ムツキが泣きそうな声でスマホを握りしめる。彼女の小さな肩が震えているのを、吉良はちらと視線で捉えた。

 

(……あの爆発は、偶然じゃあない)

 

(何らかの目的があるのか。誰かが仕掛けたというのか? イヤ、だとすれば…いや、ともかく今ここにいたとしても何も分からない。ならば――)

 

状況の輪郭が、ゆっくりと吉良の中で結びついていく。

紫関。先生。黒服。能力。そして――この小娘。

 

「行くしか……ないな」

 

吉良は小さく呟いた。

その声には、もはや殺意はない。だが、その代わりに、ある種の“焦り”が滲んでいた。

そして――戸惑い。

 

(……だがなぜ、わたしはそこへ行こうとしている?)

 

(爆発があった。それだけだ。助けに行く義理など、わたしには――)

 

そんな感情が、一瞬脳裏をよぎる。

 

“わたしらしくない”、“吉良吉影らしくない”

 

だが、次に浮かんだのは――初めて出会ったあの時の“記憶”。

 

(そうだ……あのとき先生は、手を差し伸べてくれた……)

 

記憶を失ったわたしを、拒絶することなく、ただ静かに、受け入れてくれた。

偽りのない誠実さ。冷たさとは無縁の眼差し。言葉にしなくても感じられたまっさらな“善意”。

 

(……あの男を助けたいと思っているのか? このわたしが……? フン、馬鹿馬鹿しいな。)

 

(だが、もし……もしもまた記憶を失ったとき、彼にしか頼れないなら?)

 

苦々しい思考が脳裏を駆ける。

 

「……合理的な判断だな。行って、現場の情報を得る。何があったのか、確認する。すべてはそれだけだ、ただ…それだけの話。」

 

吉良は無理やり自己完結した。

 

 

だがそのとき――

 

 

「待って!」

 

 

背後から声がした。

振り返ると、浅黄ムツキが立ち上がっていた。

 

「わたしも行く! アルちゃんが……みんなが心配なの!」

 

その声は、先ほどまでの遊び好きなムツキのものではなかった。

今そこにいるのは、仲間のために行動しようとする、一人の少女だった。

 

吉良は数秒、黙って彼女を見つめ――やがて静かに視線を外した。

 

「……好きにしたまえ。」

 

すでに玄関へと向かっていた彼の背中。その足取りには、急くような力強さがこもっていた。

ムツキもまた、彼の背を追って駆け出す。

 

吉良の胸の奥で、欠けた記憶が微かに疼く。

ムツキの心には、仲間への思いが燃える。

 

そして今、確かに運命の歯車が音を立てて、動き始めたのだった。

 

 

――続く




今回のイラストはこちらです。

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