投下ぁ!
「――嗚呼…私は、マリーは……悪い子です…!」
月光すら雲に遮られた夜。
トリニティ郊外、豪奢な街並みから外れた地区。トリニティ生徒が、それも夜中に立ち入る場所では無いだろう。事実、少女もまた手元の携帯端末でマップを広げながら歩いている始末。
少女――伊落マリーは誰かから隠れるように、普段のシスター服を脱ぎ去り黒い上下長袖ジャージに身を包む。
初めて使う黒縁伊達メガネを掛け、マスクもまた普段の純情潔白な彼女に不似合いな黒マスクだ。自分を象徴する物を置いてきたマリー、その姿を暗闇で一目見て彼女であると気が付ける者も極小数だろう。
「ごくっ……し、深夜に牛丼…なんて…!ダメなのに……でもっ、うぅ……」
この衝動を無視したら、きっとマリーは寝付けない。我慢の代償は次の日の食欲にどんな影響を及ぼすのか――皆の前でシスターに有るまじき
――店の前で立ち往生すること15分。
最早帰る選択肢はないのに、前に進む勇気もない。矮小な自分が恥ずかしくなる。それなのに牛丼への不屈は決して折れず腹は鳴る。
あの牛丼が食べたい――極限まで味の染みた甘い玉ねぎ、噛む度に旨味が溢れる肉。白米には無情にも汁が掛かって絶妙な甘塩っぱさが丼の全てを支配しているのだろう。
ほんの少しの紅生姜は劇薬のようにご飯と肉の消費を促進させる。トッピングで生卵や薬味ネギも乗せたい、汁やサラダだってある。
「………よしっ」
腹の音は決意の証明。
――
振り返れば今日は昨日よりも沢山働いた気もする、日課のランニングを少しだけ増やせば寧ろマイナス、体型維持ならばもっと食べるべきなのでは。
決まったのであれば、後は進むのみ。明るい店内に入って極端に人の少ない奥の席にそっと座る。
ふと店内を見渡せば、ポツリポツリと人が居る。スーツを着た犬のサラリーマン、和服の猫、大盛り4杯目に突入する正義実現委員会の副委員長の羽川ハスミ、ふくやかな雀の女性。
誰もが目の前の丼に夢中で、マリーに気が付く様子もない。そも、普段は着ない上下長黒ジャージに黒マスク、伊達メガネまでしているのだから敢えて疑う者もこの場には居ないだろう。
テーブルにあるメニューを開き、食指の一番動く物を探す。ノーマルの牛丼は自由なトッピングの組み合わせが魅力的だ。ネギたま牛丼は決して外れがないし、普段は食べないキムチやとろろも度し難く美味しそうだ。
豚丼や焼鳥丼もあるが、まずは牛丼だ。そう思いページを捲り――
(っ!こ、これは……ッ!!)
――
伊達メガネの奥で空色の双眸が見開かれる。
カレー。野菜と肉の旨味を全て閉じ込めた究極のご飯のお供――否、相棒。整った鼻をスンスンと動かし、芳ばしい匂いの中に微かなスパイスを感じ取る。
牛丼屋のカレーは、普段家で作るようなレトルトカレーとは異なる美味しさがある。野菜を煮込み続けた結果なのか、或いは独自の調合の賜物なのか。
牛丼の舌が数秒後にはカレーの舌に変えられた。
マリーは恥じた。迂闊な自分を、意志薄弱な自分自身を恥じた。ここでカレーを選んでしまえば、先程まで店の前で葛藤していた長時間が無駄になる。もし牛丼を食べなければ帰り道で後悔するかもしれない。
然し、思考がカレーに染まっているのもまた事実。牛丼屋のカレーは特別だ。逃すにはあまりにも惜しい、そんな選択肢を容易く取れるほどマリーの心は強くない。
「ど、どうしたら…!牛丼か、カレーか……」
カレーであれば温玉や揚げ物を乗せ、サラダと共に頂けば最高の味が保証されている。それでも自由度を天秤にかけるのであれば牛丼も同様。寧ろ本体の主張が強いカレーと比べれば牛丼の方が自由度の面では微かに勝る。
だがカレーの主張の強さは一つの完成系である証明、寧ろトッピングを許すのは王者の余裕とすら思える。
牛丼、カレー、牛丼、カレー、牛丼、カレー。
今は深夜、友人とシェアするような状況でもない。この問題はマリー一人で抱え、解決しなければいけない。
(主よ……これは、これは試練なのですか…?)
主は決して解決出来ない試練を与えない。ならばどちらかを捨てる事は、果たして解決と呼べるのか?他に選択肢はないのか?
悩み、葛藤する。思考停止は破滅への第一歩、ならば選ぶしかないのだろう。どれだけ残酷な一手でも、どんなに非情な選択でも。選択するのは夜中に牛丼屋へと足を運んでしまった彼女の義務だ。責任なのだ。
それぞれの長所は理解している。同時に欠点なんて思い浮かばない。
好きの数で物の善し悪しは決まらない。同一でない物を比べる行為そのものが酷く不可解で、片方への食指を止めるには何の効力も持たない。
嫌な汗が頬を伝う。心做しか心臓の音がうるさい。度は入っていないのに伊達メガネの奥が歪む、回る。
「……落ち着きましょう」
――理性的になろう。
冷静な自分が囁く。何も大罪を犯した訳では無い、この状況こそが罪ではあるのだが、カレーと牛丼には何の罪もない。故に食べないといけない。
まず、思い付いたのは
今日は予定通り牛丼を食べれば良い。明日の夜食はカレー、たったそれだけで解決する問題なのだ。それが理性的だ、これが現実的だ。
幸い、空腹ではあるが多量を食べられる質でもない。空腹度で語るのであれば一杯で満足できる筈だ。
だが――
「違う…!」
(嗚呼、主よ……私はどうしたら…)
――刹那、
「ッ!?なっ…あ、アレは……!」
視界の端、六杯の牛丼の締めに入る羽川ハスミに最後のメニューが届けられる瞬間。
マリーは息を飲む。あまりにも神々しく、眩く、脳が其の状況を理解出来なかった。その憧憬は受け入れ難いのだ。
――"
それぞれが半量、それに選べる汁物とサラダ。どちらも素の牛丼とカレーライスなのでトッピングも自由だ。まさに芸術品、世界の創造した黄金比。救世の一手に他ならない。
一つの完成形を目にした少女は憧憬に突き動かされ、机上のコードレスチャイムを押した。大きな悩みが解決し、憂いない清々しい笑顔は店員のオートマタを発熱させる。
「ご注文はお決まりでしょうか?」
「はいっ、この牛丼とカレーのセットを。汁はお味噌汁で、サラダのドレッシングは胡麻ドレでお願いします。あと…トッピングで、薬味ネギと温玉を……いえ、追加でトンカツとチーズもお願いします…!」
「……あ、はい。畏まりました。では少々お待ちくださいませ」
オートマタの特性なのか、生徒がアルバイトをしている際とは異なり注文の確認がない。
――腹の奥で小さく虫が唸る。
マリーはこの時間が好きだ。愛おしく、一つのスリルのような。非現実感とでも言うべきか、もしくは空腹は最高のスパイスとでも言えるのだろうか。
美学と呼べるほど高尚でもないが、カップ焼きそばの待ち時間然り、注文した物を待っている時間然り、他にないワクワク感は深夜以外の節制を心掛けている少女にとっても良い刺激となっていた。
子気味良い空腹感。空いた手元で携帯端末を弄り、友人の勧めで入れた某SNSアプリを眺める。フォローしているのは美食研究会を初めとして、手作り料理やトリニティの菓子類、他諸々も食事に関するアカウントだ。
(……アビドスの柴関ラーメン……今度行ってみようかな。あっ、この麻薬たまご。簡単だし美味しそう…帰ったら漬けて、明日の夜食にしよう…!)
メニューのスクリーンショットを保存し、待つこと数分。
時刻は日付が変わる半刻前。オートマタの独特な駆動音と共に運ばれて来たのは二つのプラスチックトレー。牛丼とカレー、サラダに味噌汁が乗せられた物。もう一つはトッピングの類だ。
急く気持ちを抑えて店員に礼を言い、淡々とトッピングを牛丼とカレーに乗せる。
「〜〜♪」
不思議と、幼い頃に作った手料理を思い出す。あの頃も今と同じく料理と言うよりはトッピングをしていたが、楽しかった。充実感があったのだろう。
牛丼に薬味ネギを円を描くように撒き、空いた真ん中に卵を入れる。カレーには先にチーズをかけ、その上に揚げたてのトンカツを乗せた。きっと数秒後には熱で溶けたチーズが良いアクセントになって、最高のカレーライスが完成する筈だ。
準備は整った。いつも通り両手を合わせ、祈る様に食前の挨拶をする。
「――いただきます」
まずは牛丼からだ。汁の染みた米と具、合わせてネギをスプーンで掬って咀嚼。甘みと塩っぱい旨味のバランスは想像を裏切らず、口内を全て支配する。
少しばかり味の濃い其れを諄いと感じないのは他でもない薬味ネギのおかげだ。シャキ、と噛む事に独特な辛みが生じて牛丼への次の一口を誘う。
少量の紅生姜とは異なる薬味ネギの役割が牛丼の黄金比を崩さず、寧ろ中和している。
「はふっ、んくっ……幸せ、です…♡」
香ばしく優しい酸味をある胡麻ドレのサラダを一口、味噌汁で口の中をリセットしてから次はカレーだ。
家で作るカレーよりもスパイスの香りが強い。僅かなチーズと絡めて白飯にかけ、口内に入れると牛丼とは別種の塩味が舌を刺激する。
この刺激が欲しかったのだ。スパイスの辛み、拘りの見られる其れを手軽に食べられるのだ。熱いカレーを冷たい水で流し、ルーが絡んだトンカツを齧る。
過度に出ない肉汁はカレーを汚さず、寧ろ少しだけパサついた其れこそがカレーのお供として
果たして罪深い自分が、こんな幸せを感受しても良いのだろうか。また罪悪感が湧く――然しそれは、目の前のご馳走を残しても良い理由にはなり得ない。
もう注文してしまった、もう手を付けてしまった――ならば
「ふふっ♡仕方がない、ですよね…♪」
――時は満ちた。
食べ進め牛丼の三分の二が残る中、マリーは満を持して
淡白な卵の風味は塩味の続いていた舌に革命を齎すのだ。豪奢な卵かけご飯、これもまた決して家では作れない一品だ。
肉の旨味、甘い玉ねぎ、淡白な卵に全てを許容するお米。つまり最強だ。
カレー然り、牛丼然り、食べていると不思議と水が進む。口内の一時的なリセットで水を飲み、カレーを食べて水を飲み、牛丼を食べてまた水を飲む。
――幸せな時間も、終わりが見え始める。
最後の締め。其れにマリーは少しばかりの拘りがある。それが味噌汁だ。最初にサラダと牛丼を食べ終え、次にカレーを。僅かに残った氷と共に水で口の中を綺麗にし――最後は味噌汁で締める。
コリコリとしたワカメに絹豆腐、小口カットされたネギは煮詰めらた故に形を崩している。
それら全ての出汁を含んだ味噌汁はさながら完全食に相応しい。実に健康的で、罪悪感を払拭してくれるのだ。
汁を飲み、椀の底に残った具材を咀嚼して。
「ふぅ……ご馳走様でした」
空の食器には侘び寂びを覚える。半刻前までは沢山盛られていた。きっと、昨日も同様で明日も他の誰かの為に牛丼やカレーライスが盛られるのだろう。
その一環に自分も加わっていて、またいつの日か巡り会う事もあるかもしれない。満腹感と眠気故に何かを悟りそうになり、慌てて両頬を叩いて目を覚ます。
今日はまず、帰ってから麻薬たまごを漬けないといけない。明日の幸せのために今日の自分が尽力するのは何もおかしい事ではないのだ。
「すみません、お会計お願いします」
願わくば、この幸せがずっと続くように。ドアの隙間から侵入する夜風に浸りながら漠然と願うのまた、きっと抗いようのない深夜テンションなのだろう。
だが、不思議と妙なテンションに思考を委ねるのも嫌ではなかった。
◆◆◆
伊落マリー
・満腹満足シスターちゃん。夜食には妥協せず、極限まで満足を求めます。天啓を示してくれた某副委員長には手作りクッキーを差し入れをしました。実はお夜食には卵ばかり使ってます。でも育ち盛りなので明日も明後日も夜食致します、育ち盛りなので。
羽川ハスミ
・一般ドカ食い気絶部。シスターちゃんと違ってちゃんと太るし身長も伸びます。でもやめられない、止められない、そんな儘ならない人生についてお悩み中。そして悩みのストレスはドカ食いにぶつけます、自称育ち盛りなので。