ある日の夕方。橙色の陽光が道や建物を照らし、人の行き来もまばらになり始める頃。東京都にて新たに開店したばかりのライブハウス、『RiNG』でも暖かな光が優しく店内に差し込んでいる。そこに併設されたカフェテリアにて、黒髪の少年が談笑を楽しんでいる女性客が座している客席に近付いた。
「失礼します! お水のおかわりいかがですか?」
「あら、
氷水が入ったピッチャーを見せ、紺色を基調とした『RiNG』の制服に身を包んでいる星斗が女性客に明るく声を掛けると、女性は柔らかな表情でテーブルに置かれたコップを動かす。座っている2人の客の内1人は何度か顔を合わせたことがあり、フロアによく通る声が印象的な彼の顔と名前を記憶していた。星斗に水を入れてもらったコップを手前に引き寄せながら、女性は静かに笑う。
「ありがとう。ちょうど飲みたいと思ってたところだったの!」
「それなら良かったです! 店内、暑かったり寒かったりしたらいつでも言ってくださいね! 秒で温度調節するので!」
「うふふっ、頼もしいわねぇ」
「ねぇ〜。若いって良いわねぇ〜!」
星斗の心配りに女性客2人は楽しそうに笑い、彼もすぐに笑みを浮かべる。若さが有り余っていると言えるくらいに快活で元気なその声とテンションは自然と客を惹き付け、和やかな雰囲気を形成していた。
「あははっ。若さパワー全開で頑張っていきますんで! よろしくですっ!」
「頑張ってねぇ、
「ありがとうございます! では、失礼しますっ!」
もう1人の女性客から励ましの言葉を貰った星斗は頭に被っている黒いハットに手を当てながら、にこやかにカウンターに戻って行った。
この場所、『RiNG』は昨今のバンド需要に応える為にオープンした新規店舗で、店内にはライブ用のステージのみならず楽器の練習ができるスタジオやカフェテリアも併設されており、星斗はここにアルバイトとして雇われ、接客や料理作り、時にライブの機材運び、ステージ設営の補助を任されている。
『RiNG』で業務中の身だしなみに関しては近頃の多様性を尊重する動きに合わせて比較的緩めの規則となっており、派手なものでなく且つ店内のイメージを損なわないものに限りお洒落の一貫として帽子等を着用しての接客を許可されている。
星斗は学校へ行く時以外の外出時にはいつも身に付けているハットを被って仕事をしている。今は亡き祖父から貰った形見の1つであるそれは、幸いなことに従業員からの評判は良く、ハットを被っての接客を真似したいと言ってくれた先輩も居たことは彼にとって嬉しい誤算だった。
アルバイトを始めてまだ1ヶ月程ではあるが、星斗は成功と失敗を重ねながら着実に仕事を覚えている。彼が接客している姿を、店内のカウンターから腕を組みながら引き気味に見つめている少女が居た。
「
「おかえり。ソレ、いつもやってて疲れないの?」
少年と同じ制服を着用しており、
「『ソレ』って接客のこと? んー……疲れるっちゃ疲れるけど、おれ的にはそんな疲れない!」
「どっちだよ」
「や、ヒーヒー言うほど疲れないというか……そういうアレ」
「よくわかんないけど……良いんじゃない、星斗が平気なら」
立希は星斗の発言に一瞬遠い目をして言葉を返すと、彼はそんな立希の様子にすかさず言葉を重ねる。
「今諦めた? 諦めたよね? 悲しっ」
「どこが。全然悲しそうに見えないけど」
「おれは悲しいよ……立希に対話を諦められたような気がして……」
「じゃあ泣けば?」
「泣かねーよ! バイト中だよ今!」
「そこら辺は考えるのなんなんだよ……」
星斗の言うことに反応を返しながら、立希はコーヒーを淹れる練習をする為に手を動かし始める。他人が聞けばそっけなく、冷たい印象を抱かれるであろう物言いをされても星斗は負けじと反論し、口を尖らせる。
「こんなおれでも弁えるってことは知ってるよ。立希が思ってる以上に」
「いや、私はお前が弁えてないとは思ってないし」
「嬉しいねぇ! さすがぁ!」
「うるさい。仕事しろ」
「そっちも話乗っかってきたじゃねぇかよ!」
「なに? 無視すれば良かった?」
「それはやだ。ホントに泣く」
「じゃあ泣けって」
「泣かねぇって! どんだけおれの泣き顔見てぇんだよお前は!」
「見たい訳じゃないけど、鼻で笑えるから」
「この野郎……お前を泣かしてやろうか……?」
「は?」
「ごめんなさいすみませんおれが悪かったです許してくださいなんでもしますからぁっ!!」
「仕事しろ」
「はい……」
立希に圧を掛けられつつ仕事に戻るよう促された星斗は素直に応じ、先程客席から回収したカップと皿を洗い始めた。
星斗と立希は中学生の頃から互いに面識があり、今年で関わり始めてから1年と数ヶ月になる。出会った当初は星斗が立希から一方的に敵意にも近い感情を向けられており、一時期彼女との距離感が分からず悩んでいたこともあったが、星斗は何度も立希と顔を合わせ、
今では軽口を叩き合いながら『RiNG』のアルバイトの同期として一緒に働けるくらいに2人の仲は良好となり、立希にとって星斗は損得なしで関わることのできる数少ない友達だと認識している。
当初、彼が燈の幼馴染だと後に知るまでは彼女にいつもついて回る腰巾着という印象でしかなく、仲良くするつもりなど微塵もなかった。立希が関わってきた異性というのは周囲の人間に気遣うこともしない子どもばかりで、最初から期待などしていなかったのもある。
けれど何度か言葉を交わすうちに星斗の人間性に触れ、彼が決して悪い人物ではなく、むしろ人のことをよく見ている心優しい人間に思えた。立希にとって燈は自分の心を掬いあげてくれたやさしい人だけれど、彼女はどうしようもなく不器用だ。そんな燈と星斗が一緒に居るのは当然のことだろうと気付いた時、自分が彼にとっていた態度が馬鹿らしくなった。自分とは違って他人に優しくできる彼にある種の嫉妬をおぼえていたと知ったのはここ最近のことである。
「この前さー、おれらが高校入学して1ヶ月経つの、あっという間だなぁって燈と話してた」
洗剤を付けたスポンジで皿を擦りながら、星斗は立希に話を振る。
「それは同意」
「立希とおれは関わり始めてから1年ちょっと経ってるんだぜ? 時の流れ速すぎる」
「全然意識してなかった。お前、そういうの記念日みたいにいちいち覚えてる訳?」
「そりゃ覚えてるよ。他の人はそんなに意識してないんだろーけど……おれはそういうちっちゃなことでも、覚えてたい」
星斗は人と関わった記憶を大切にしたいという思いがある。誰といつ出会ったか、その人と一緒にどんなことをしたのか。細かいことでも彼はできる限り記憶するようにしていた。流水で皿に付着した泡を洗い落としている星斗をちらりと見やり、立希は口を動かす。
「ふーん。まぁ、星斗らしいけど」
「おれらしい? どゆこと?」
「なんだって良いでしょ。でも……お前はなるべくそのままでいなよ。きっと、燈もそう思ってる」
「そのままねぇ……」
「なに?」
先日自分が燈に伝えた、『好きをそのまま持っていてほしい』という言葉と似たようなことを言われたな、と星斗は心の中でそう思いながら、自分は果たして立希の言う通りそのままで居て良いのかを軽く思考する。そうしたら、現状の自分のままでは何だか良くない気がした。
「おれ、得意なこととかあんまりないし。バイトでちょくちょくミスして立希や
「え、今更?」
「言い返せねぇけど即答でその返しされんのけっこー傷付く!」
真顔で立希にそう問われ、星斗は蛇口の水を止めて彼女の発言に突っ込んだ。立希はそれに対し構うことなく続ける。
「色々ミスしてるのは事実でしょ」
「そうですね……その通りでございます……」
「けど、少なくとも私は迷惑だと思ってない。バイト初日に皿10枚割ってヘラヘラしてた奴よりずっとマシ」
「さすがにそれよりはマシだっておれでも思うよ!? 結局やめたよねあの人」
「やめた。というか、お前がそういう奴ってわかった上で関わってるから。じゃなきゃ友達やってない」
「立希……」
1年以上関わり続けていればその人がどんな性格なのかはなんとなくでも理解はできるもので、何から何までという訳ではないが立希は星斗がどういう人間かある程度知っていて、それらを分かった上で彼女は星斗と友達でいるのだと告げた。アルバイト中に起こる失敗も彼に悪気があってそうなったものではないのは見ていればすぐに分かることだ。彼なりの頑張りを否定する気は初めからない。
「変に気遣われる方が逆に気持ち悪いし。申し訳ないって思うんだったら、ミスしないようにすれば良い」
「……そうね。頑張ろ。さんきゅ、立希」
「お前は何するにしても色々考えすぎ。ちょっとは肩の力抜いたら?」
「意識します……!」
「期待しないで待っておく」
「ははっ! 言うじゃん。マジで頑張るから見てろよ!」
星斗は自分を励ましてくれた立希に礼を言いつつ、同時期にバイトを始めた彼女に負けていられないと感じ、握り拳を作って気合いを入れる。星斗に『期待していない』と伝えた立希は、彼に悟られないようにフッ、と笑みを溢した。
2人が話していたところに、関係者出入口からカフェテリアに入って来た人物が居た。カウンターで仕事をする星斗と立希を見つけた彼女は、明るく声を掛ける。
「あっ、2人とも! おつかれさまー!」
「凛々子さん! お疲れ様です!」
栗色のセミロングヘアーで、紺色の制服を着用している彼女の名は
元々凛々子は東京都に在ったライブハウス『SPACE』の従業員として働いていたが、そこが閉店したことを機に自身もかつての『SPACE』のように皆が楽しく音楽を奏でられる場所を作りたいという思いで新たに『RiNG』を立ち上げ、オープンするに至った。
凛々子はここで働いてくれる従業員全員を大切にすると決めている為、新人として雇った星斗と立希を常に気に掛け、世話を焼いている。そんな彼女を2人は尊敬しており、良い上下関係が生まれているようである。
「おつかれ! あら? 立希ちゃん、またコーヒー淹れるの上手になったね!」
「え……いえっ……」
「すぐ仕事覚えてくれて嬉しい! いつも助かってるよ!」
「ど、どうも……」
立希がコーヒーを淹れる練習をしているのを目にした凛々子が声を弾ませて立希を褒めると、彼女は褒められることに慣れていないのか、先程星斗と接していた態度とは打って変わって小さな声で礼を伝えただけであった。
目の前で立希が褒められているのを見て、星斗は日頃迷惑を掛けている申し訳なさから、凛々子に恐る恐る話しかける。
「あの、凛々子さん。すみません、おれ……いつもミスしちゃって……」
被っていた帽子を取って自分に頭を下げる星斗に凛々子は目を丸くしたが、すぐに笑顔を作って手を横に振る。
「ううん! 気にしないで! 星斗くんもできる仕事増えてきたし、最近は星斗くんに会いたくて来てくれるお客さんも居るくらいなんだから!」
「えっ……ほんとですか!? ……立希、気持ちはわかるけど『嘘でしょ……?』みたいな顔でこっち見んのやめて」
「別にそんな顔してない」
「してたよ!! してましたよね、凛々子さん!?」
「うふふっ。私もしてるように見えたかなぁ?」
「ほらぁ!」
「私は良いから。凛々子さんの話聞きなよ」
「へーい……それで、おれ目当てで来てくれる客がいるって……ほんとなんですか?」
話を戻し、星斗は凛々子に先程の話が本当なのかを問う。まさか自分に会う為に入店する客が居るとは毛頭思っておらず、彼は些か信じられない面持ちで居た。
「ほんとほんと! お客さん、星斗くんのこと『いつも元気で良い子だよね』って褒めてたよ〜?」
「マジですか……それは嬉しいですね……」
「良かったね」
「あざっす」
「星斗くん、いつもミスするって言うけど……私から見れば全然大したことないし、気に病まなくて大丈夫だよ! 人は、失敗を重ねて成長するんだから!」
「凛々子さん……ありがとうございます……!」
星斗は嬉しそうに凛々子に謝意を述べ、黒いハットを被り直す。まだ未熟なのは承知の上だが、微力ながら店の役に立てているという実感を得られたのは彼にとって嬉しく、自信になる事柄だった。
「ふふっ。期待してるからね! そうだ! 立希ちゃんも今度、フロアやってみない?」
「いや、人と接するのはちょっと……接客なら星斗ができるし……」
「えぇー? 私と接してるじゃない! 星斗くんといつも楽しそうに話してるのも見てるよー?」
「べっ、別に楽しい訳じゃ……」
「えっ……そんな……」
反射的に放たれた立希の一言に星斗は半ばショックを受けたような表情で立希を見て、彼女は舌打ちと共に面倒そうな目で彼を睨んだ。
「お前も! そういうのやめて。うざいから」
「えぇぇ!? ひどっ!!」
「もう、今度ほんとにやってもらうからねー?」
拗ねて自分に背を向けた立希に今度フロアの仕事を任せると凛々子はそう告げ、カウンター上に重なっているお盆を1枚持って空いたテーブルの食器を回収しに行った。
立希の気難しい性分は時に凛々子の手を焼かせていて、星斗もそれについて何も思わない訳ではない。けれどそれが椎名立希という人物だと理解しているが故に彼は立希の言動に何も言わずにいる。気になった点をその都度指摘していたらキリがない。それはきっと立希も同じだというのを分かっていて、許容と妥協の擦り合わせの過程を経たからこそ、今でも友人として彼女と関われているんだろうと星斗はそう思った。
既に乾いている食器を棚に収納しながら、先程立希に言われた『そのまま』で居ることの意味を星斗は考えた。アルバイトにおいてはまだまだ問題は山積みで、そのまま……言い換えれば未熟な状態ではいられないと彼は感じる。
ミスを少なくする努力を怠らないのと、できる仕事を増やすことを当面の目標に設定するが、それ以外の自身の根底にある部分は変わらずにいたいと星斗は結論を出した。
「おれで良かったら、今度接客の仕事教えるよ」
「はぁ? 何で?」
「大丈夫だって! 注文の取り方覚えれば立希もすぐできるよーになっから。凛々子さんとしてもすげぇ助かると思うし」
「……じゃあ、考えとく」
「よっしゃ」
「言っとくけど、お前みたいに笑顔で人と接するとか無理だから。何であんなニコニコできるのか不思議でしょうがない」
「そりゃあ……『いつでも笑ってたい』ってのが、おれの
「……ふっ。何それ」
半分呆れが混ざったその笑みが、星斗の口元に三日月を描いた。
もっと笑ってたい、ちょっと小言言われても。