「……ふぅ。綺麗になってきた。そろそろカフェに戻れそうだな」
日が暮れて辺りが徐々に薄暗くなり始めた頃。
ガラス用洗剤と布巾を用いて入念に拭いたドアは真正面に立っている自分の姿をくっきりはっきり映し出し、その成果に星斗はにやりと笑みを浮かべる。
「やばい、ピカピカすぎる。ドア拭きの達人名乗ろうかな」
「達人の肩書き軽すぎでしょ……お前で名乗れるなら私も達人になるけど」
星斗の隣で左側のドアを拭いていた立希が星斗の自惚れた発言に突っ込みを入れる。こういう具合に立希に自信を削がれるのは今に始まったことではないが、ものの数秒で自尊心を打ち砕かれるのはやはりいたたまれないもので、星斗は立希の方を向いて人差し指で頬を掻いた。
「相変わらず手厳しいこって……」
「あんまり調子乗られても困るし。お前も私もまだその立場にないんだから」
「そ、そうね……精進せねば」
立希も星斗も『RiNG』で働き始めてまだ1ヶ月の新人スタッフであり、オーナーである凛々子の仕事ぶりには到底及ばない。たとえバイトといえども店で働く以上はある程度の責任感と向上心を持ってやるべきだと立希は思っている。
無論、星斗も自分とそれと似た考えを持っているのは知っていて、他者の為に頑張りたいという気持ちの1点で言えば立希よりもその思いが強いのは確かなのだが、如何せん彼は軽率に自分を褒めがちな為、慢心による不要なミスを誘発しないように彼女は時たま星斗に釘を刺している。だが、彼にあるのは指摘する点ばかりではない。立希には持ち得ない、大きな強みが星斗にはあるのだ。
「まぁ、星斗の愛想の良さは……褒められても良い、とは思う」
「……ハッ。嬉しいこと言ってくれんじゃん」
彼の持つ明るさや接しやすさ、愛想の良さはどれも立希にはないもので、それらに関しては手放しで尊敬できる。明るすぎてうるさい時もあるが、それに救われている者はきっとどこかに居るんだろうな、と立希は感じていた。素直にそう伝えるのはなんだか癪なので、立希は敢えて言わずに別の言葉に言い換える。
「愛想だけね」
「えーっ!? 『だけ』ってなんだよ!! それ以外も褒めてくれても良いじゃん!?」
「それは、頑張ってとしか……」
「っし、頑張るかぁ。立希と一緒に!」
星斗は屈託のない笑みでそう言ってみせると、立希は呆れたように額に手を当てる。
「そういうのを平気な顔で言えるの、お前ほんと……」
「えっおれなんか変なこと言った!?」
「いちいちリアクション大きい。近所迷惑」
「それはごめん!」
「そこは素直に謝るのかよ」
「『ありがとう』と『ごめんなさい』はいくつになっても言えってじいちゃんに散々言われたしな。親にもだけど」
「星斗って意外とそこら辺しっかりしてるよね」
「意外とは余計じゃい。ふぉっふぉっ。立希も見習いたまえ」
「うざ。やっぱ撤回」
「ごめんって! 撤回しないで~~!!」
『意外と』という単語を付け足したくなるのは些か失礼ではあるが、星斗は同年代の異性と比較して人間が出来ていると立希はそう思う。人として当たり前だと言われる礼儀を当たり前に履行するのは簡単なようで難しい。立希自身、常日頃それができているかと問われれば首を横に振るだろう。
彼が疑いようのない善人であるからこそ、人と接するのがお世辞にも得意とは言えない
「ったく……ん?」
「んぁ? どったの?」
「あれ……燈?」
「んん? あぁ、燈っぽいな。一緒にいるのは……羽丘の人?」
立希の目線の先に星斗も目を向けると、そこには彼の幼馴染である燈と、彼女の手を掴む桜色の長髪をした少女が共に立っていた。着ている制服を見るにおそらく羽丘学園の生徒だろうかと彼は考える。ここから距離が離れているので2人が何を話しているのかまでは分からない。しかし、燈が少女に頭を下げているのを目にして、星斗は尚更今どんな状況なのかと首を傾げた。
「燈とあの人、何してんだろ? 喧嘩とかではなさそうだけど……」
「私、声掛けてくる」
「あっ、おい! 立希!?」
立希が燈達の話に割って入ろうとし、星斗は流石に良くないのではないかと思い彼女を引き止めると、立希は星斗に布巾を渡しながら、燈が居る方へ目線をやる。
「あいつ……燈のこと追いかけてたっぽいし。何したのか聞く。ここ、拭いといて」
「それは構わんけど、いくらなんでも急……行っちゃったよ」
急に話に混ざろうとする行為を止めるよりも先に燈が居る方へ駆けて行く立希。彼女の突飛な行動に、やれやれと言わんばかりに星斗は頭に被った帽子に手を当てる。
「まぁ……立希なら大丈夫か」
そんな彼女に星斗は強引な奴だと内心思いつつも、立希が近くに居るのであれば燈が何かしらのトラブルに見舞われることは恐らくないと見込む。立希の燈への接し方はやや過保護な気はするが彼女なりに燈を大切に想っているのは分かるので、こうなっては仕方ないと軽く息を吐いた後にしゃがんだ星斗は、彼女に渡された布巾を綺麗に畳み直してからガラス製のドアを丁寧に磨き始めるのだった。
「燈!」
燈を呼びながら彼女の元へ駆け寄った立希に、燈は少し驚いたように肩を跳ねさせる。桜色の髪の女子生徒と燈を隔てる形で立ち塞がったことで困惑する少女に構うことなく、立希が燈に声を掛ける。
「立希ちゃん……」
「燈、大丈夫?」
「あ……うん……」
燈が小さく頷き、彼女の無事を確認してから立希は自身の前に居る少女に鋭い視線を向ける。
「誰? 何の用?」
「何って……燈ちゃんの知り合い?」
「私が聞いてんだけど?」
少女の質問に答えずに立希は腕を組んで燈と一緒に居た彼女を睨む。その刺々しい物言いは初対面の人への接し方とは到底思えず、桃色髪の少女は若干引いたような目線を向ける。すると燈は焦った様子で唇を震わせた後、2人を置いて一気に駆け出した。
「あっ……燈!」
「待って!」
「ちょっ……」
すぐに燈を追おうとする立希の腕を少女が掴んでその場に留まらせる。彼女にいきなり話に割って入られただけでなく訳も分からず因縁まで付けられた状況で立希まで逃がしてしまうのは流石に許容できない。まずはこの立希という名前の彼女が燈の何なのかを聞かせてもらおうと少女は考えた。みるみるうちに燈が遠ざかっていくのを目にした立希は、少し離れた場所でせっせとガラスドアを拭いている少年に視線を移す。
「仕方ない。……星斗っ!」
「えっ? なにー?」
いきなり鬼気迫るような声で立希に名を呼ばれ、何事かと思い星斗は彼女が居る方向へ首を動かす。
「燈を追って!」
「はぁ!? バイト中だけど!?」
立希が指差す方へ顔を向けると、燈が走って行くのが見えた。何故燈が逃げるようにあの場を去っていったのか気にならないと言えば嘘になるが、それでも今は勤務中である。その状態で彼女を追うというのは流石に無理があると星斗は立希に訴える。
「早く! 何か言われたら私のせいにして良い! 行ってっ!」
「ええっ!?」
基本は真面目で規則を破ろうとしない立希がバイトを抜け出してまで燈を追ってくれと頼み、且つその責任は自分がとるという発言に星斗は驚きながら自身の良心と葛藤する。
幸いなことにカフェテリア目当てやスタジオ入りする客が少ない時間帯に差し掛かってはいるものの、それでもオーナーである
「もうっ……知らんからなぁぁぁぁっ!」
星斗は叫びながら全速力で走り出し、燈が通った道を通行人を搔い潜って駆け抜けていった。向かい風で帽子が飛ばないように押さえながら力走していく星斗を見送ってほっと胸をなで下ろしてから、立希は真後ろに居る少女へと向き直る。
「お前……何?」
「だから、友達だって!」
「友達? お前が?」
自分の腕を掴み続けている少女の手を振りほどき、立希は懐疑的な目でまだ名も知らない彼女を睨み付ける。燈から直近で新しい友達ができたとは聞いていない為、恐らく燈と関わり始めて間もない段階だと結論付ける。そんな人物が燈を『友達』だと言い張るのは説得力に欠けるし、少し言葉を交わした程度で友達だと言えるのであれば自分とは価値観が合いそうにないと感じながら、彼女は再度腕を組んだ。
「友達ですっ! 文句あるんですか?」
「燈のこと、追いかけてたよね?」
「逃げるから追いかけただけ! ってか、そっちも追いかけさせてたじゃん!」
「あいつは燈の幼馴染」
「あ、そうなんだ」
「元々、お前のせいで燈が逃げたんでしょ?」
「違いますぅ!」
先程燈を追うように頼んだ少年は燈と幼馴染の間柄だと伝えると少女は納得の意を見せ、間髪入れずに立希が質問すると、彼女は即座に否定する。何故自分が初対面の人間にそんなことを言われなければいけないのかと少々苛立ち、先程誘いを断られた悔しさも声に乗せて一言呟く。
「私は、
「……は?」
少女の呟きに、立希は一瞬硬直する。
「お前……燈をバンドに誘ったの?」
先程よりも眉間に皺を寄せて怒りを滲ませた声で一言問われ、少女はそれに気圧されるも、噓はひとつも言っていないので堂々とした様子で立希の問いに返答する。
「そうだけど? あのさ、さっきから人のことお前お前って……」
「最悪……」
「はぁっ? 絡んできたのはそっちでしょ!?」
ただ質問に答えただけなのに話が飲み込めないまま立希に『最悪』と言い放たれ、こちらの問いを相手にせずに好き放題言ってくる態度に堪忍袋の緒が切れた彼女は立希に食ってかかる。今の燈にとってバンドやそれにまつわる話題は禁句だと立希は思っていて、事情を知らないとはいえ燈を軽々しくバンドに誘った彼女にもう話すことはないと感じた彼女は、呆れた様子でこの場を後にした。
「ちょっ……待ってよ! ……はぁぁ?」
自分にこれ以上何も言うことなく立ち去った立希の後ろ姿を、少女は不愉快そうに見つめる。今まで生きてきた15年間であんなにも失礼な態度を、しかも自分と同世代の人間にとられたのは初めてで、モヤモヤとした気持ちが彼女に渦巻く。憤りで地団駄を踏みたくなる衝動に耐えながら立ち尽くしていたところ、背後から声が聞こえた。
「あの……大丈夫?」
振り返るとそこにはウェーブがかった茶色の髪を肩まで伸ばし、都内に在る創立100年以上の名門校で知られる学校、『月ノ森学園』の制服を着た女子生徒が立っていた。
紺色のセーラーに灰色のスカーフ、裾に2本に白いラインが入ったその制服は近辺ではあまり見かけないデザインで、彼女が月ノ森生であるのは一目で分かった。
「どうしたの? 何か、あった?」
聞き心地の良い少し高めの声で月ノ森生に優しく問いかけられる。多分、自分を心配して声を掛けてくれたのだろうが、今はこれ以上初対面の人物と接する気力は残っておらず、桃色髪の彼女は慌てて両手を身体の前であたふたと振り、平気を装う為に笑顔を作った。
「なっ……なんでもないですっ! ごめんなさい! それじゃっ!」
「あっ……」
小走りでその場を去る羽丘学園の制服を纏うその女子生徒を不思議そうな表情で見つめ、姿が完全に見えなくなったのを確認してから、茶髪の少女は少し不服そうに顔を下に向けた。
「……立希ちゃんと何を話してたのか、聞こうと思ったんだけどな」
普段は燈と星斗以外の人物と関わろうとしない立希があの少女と話していたのを珍しく感じて声を掛けてみたのだが、結局彼女からは何も聞けず終いとなった。立希の他者にきつい言い方をする性格は今も変わっていないのだな、と思いつつ、少女は今しがた青信号に変わった横断歩道をゆっくりと歩くのだった。
「はっ……はっ……燈! 待ってくれっ! 燈っ!」
同時刻にて。星斗は力いっぱい走っているうちに燈の後ろ姿を捉え、彼女の名を呼んだ。星斗の声に気付いた燈が彼の方に振り返り、足を止めた。
「とも……うぁっ……!?」
燈が走るのをやめたことに気を取られて足元を見ていなかったことで、星斗が僅かな段差に躓いて転倒した。アスファルトに手のひらや膝を擦ってしまい、皮膚が剥けてジンジンと痛みが走る。転んだ拍子に被っていた帽子も外れ、手を伸ばせば届く位置に落ちている。
「いって……コケちった……」
「……! しょうちゃんっ!!」
星斗が転んだのを目の当たりにした燈は血相を変えて星斗に近付き、落ちている彼の帽子を拾ってから側にしゃがんだ。
「あっ……」
「しょうちゃん……大丈夫……?」
燈は鞄に手を入れて何かを掴もうと必死に探し始める。躓いて転んでしまったことで燈と合流を果たせたのは怪我の功名と言うべきか。何はともあれ、燈が自分の元へ来てくれたことで彼女と話ができると思った星斗は、安心してにかっと笑う。
「おれはだいじょぶ……。……燈。電車が来るまで、ちょっと話そうぜ」
「うん……でも、手当てしないと……」
「ん……? あぁ、けっこー擦りむいちまったな……おっ」
皮膚が擦り剝けて血が出始めた右の手のひらを見ながら話していると、燈が動物のイラストが描かれた絆創膏を何枚か取り出していた。
「ははっ! さんきゅ。絆創膏、もらうよ」
星斗は笑顔を見せて、ペンギンが描かれた絆創膏を1枚手に取るのだった。
「……そっか。さっきの人にバンド誘われたんか」
「うん……」
数分後。燈と星斗は少し歩いて駅の近くにあったベンチに腰掛け、2人は静かに会話を交わしていた。
星斗の右手にはペンギンが描かれた絆創膏が貼ってあり、手のひらだけでなく擦り剝いた膝や頬にも他の動物柄の絆創膏が貼られていて、そのどれも燈が貼付したものである。星斗は『自分で貼れる』と伝えていたものの燈が頑なに自分が手当てすると言い続け、その圧に押された結果、星斗は彼女の厚意を受け取って素直に手当てを受けたのだった。まだひりひりと痛む頬を絆創膏の上から摩りながら、星斗は言葉を返す。
「その誘いは、断ったかんじ?」
「……うん」
「ま、無理してやるもんでもないし、それで良いと思う。燈が楽しく過ごせることの方が大事だし」
「しょうちゃん……」
燈が先程一緒に居た女子生徒からの誘いを断ったと聞き、星斗は率直に思ったことを伝える。中学時代に燈がバンドを組んでいたのは知っていて、そのバンドがどのような結末を迎えたのかも彼はよく分かっている。無論、それで燈がどれだけ辛い思いをしたのかも。
メンバーではなかったにせよ燈が所属していたバンドの事情はある程度知っているからこそ、星斗は無理してまたバンドを始める必要はないと思っているし、それで燈が傷付く姿は見たくない。だが、それはあくまで星斗個人の考えであり、彼自身のエゴとも言えるものだ。大事なのは、彼女がこれからどうしたいかである。星斗は思い切って、燈は現状をどう感じているかを聞く為に言葉を紡いだ。
「燈は、今
「今……?」
「うん。バンドはもうやってないけど、前みたいに好きなことして過ごす生活に戻ったじゃん。だから、それでしあわせなら良いんじゃねぇかなって。おれはそう思う。燈はどう思ってるのか、ちと気になってさ」
燈のベージュ色の瞳を見ながら、星斗はそう言った。燈がバンドを辞めてからは石や落ち葉を集めたり、ノートに好きな言葉を書き記したり、彼女が好きなことを好きなだけする日々に戻った。星斗は燈がバンドを始める前も後も変わらず側に居る日々をおくっていて、燈という幼馴染や立希のように気の置けない友人……そういった大切な人達が居てくれる現状を星斗は幸せだと感じているし、不満を持ったことは1度もない。
けれど、燈が星斗と同じように現状を幸せと思っているとは限らない。彼女が今をどう感じているか些か不安な気持ちはあるが、星斗はじっと燈の返答を待つ。
「今は……しあわせだと、思う」
「そっか! なら、良かった……!」
星斗は燈の回答を受けて微笑み、燈も顔を綻ばせる。彼女は星斗と同様に思ったことを言語化する為に口を開いた。
「
「駄目に……それは嫌よね」
頷きながら星斗は同意する。後ろ向きな考え方かもしれないが、燈がそう思うのは無理もないことを知っている彼は口を挟まなかった。
「でも……愛音ちゃんは、『それなら駄目にならないように頑張れば良い』って……」
「あー。良いこと言うね。でも『駄目にならないように』ってのは正直難しいかもなぁ。メンバーの性格は皆違うし、時と場合によるとしか言えんけど……」
一緒に居た羽丘の生徒は『愛音』という名前なのを知り、星斗は愛音の言葉に感心する。駄目にならないように頑張れば良いのは至極真っ当で、的確なアドバイスと言える。各々が出来ることをしてバンドを長く続けられるようにするのがベストで、正しい事だと彼は思う。
駄目にならないように。それが理想なのはどのバンドもそうなのだろうと想像はつくが、どれだけ難しい事なのかは言うまでもない。簡単に出来るのなら、そもそもバンドが解散すること等ないのだから。大変で、時に苦しいこともあるだろう。星斗はバンドを組んでいない為あまり偉そうなことを言える立場にないと自覚しているが、もしも燈がやる気になったら、その時に自分がしたいことは既に決まっている。
「でも、燈が本気でまたバンドやりたいって思うんなら……おれは全力で応援する。できることはなんでもする。ホラ、おれバイト始めて給料もらえるから、スタジオ代もたまに出せるし」
一切の迷いなく、燈に自分の意思を伝えた。あの時出来なかったことを今度は出来るように、燈や他のメンバーが長くバンドをやれるように手助けをすると誓う。何より、燈が笑って過ごせる日々が続くことを祈っているからこそ、それが叶うのならなんだってしたいと星斗は考えていて、その言葉に噓偽りはない。
「燈にはさ、いつでも笑っててほしいから。おれにとってはそれがいっちゃん大事っつーか……そのために、おれも頑張りたい。まぁ、頼りないかもしれんけど……あはは……」
「そんなこと……ない。しょうちゃんがそう言ってくれて……嬉しい」
燈は首を横に振り、星斗の顔をじっと見つめる。彼の言葉は、暖かい。真っ直ぐで透き通っていて、優しい星斗の声は、いつだって自分を照らしてくれる。暗がりでうずくまっている自分を見つけては日向へ連れ出してくれるような……そんな彼と一緒に過ごせることがどれだけ幸せか。燈はいつも考える。
その幸せが行き着く先にある願いを、星斗は茶化さず聞いてくれるだろうか。今はきっと纏められないからと、燈はその言葉達を胸に秘める。いつかそれを伝えられるように、上手く伝わるように言える時が来たら言おうと心に決めた。今はただ、この日々を続けていたいから。
「ありがとう。いつも、私のために……」
「当たり前だろ? おれこそありがとうだよ。いつも、隣にいさせてくれて」
「ううん。いつも隣にいてくれて……ありがとう」
「こっちこそ……ってこれ、なんか無限ループになりそうだな。あははっ!」
楽しそうに隣で笑う星斗を目にし、燈の表情も自然と和らぐ。彼女が今の生活を幸せと思っているのを聞けただけで嬉しく、先程は愛音からバンドに誘われたり、立希が急に話に入ったことで動揺してその場から離れてしまったという旨も知れた。話しているうちに燈は落ち着いたようで、あとは電車に乗れば帰宅できる為、星斗が浮かべた憂いは完全に消え去った。スマホで時刻を確認した星斗は、軽く伸びをしてベンチから立ち上がる。
「さて、もうちょいで電車来るし、駅行くか! 送るよ!」
「しょうちゃん、バイトは……?」
「あー……燈を駅まで送ったら戻るよ! 大丈夫! 立希がいるから!」
「ごめん……」
「良いって! 燈がケガとかしなくて良かったよ。逆におれがケガしちまったけど……絆創膏、ありがとな!」
「うん……!」
星斗にバイトを中抜けさせてしまったことを謝る燈に彼は気にしないように伝え、立希も居るから問題ないと告げる。いざとなれば責任をとるという立希の言葉を信用し、星斗は最後まで燈に着いてから『RiNG』へ戻ることにした。燈もベンチから立ち、星斗の隣に移動する。
「そんじゃ、しゅっぱーつっ! なんつって!」
「あ……しょうちゃん。帽子……」
「おっ。さんきゅー! ……よし、行くか!」
「うん……行こう……!」
燈が先程まで膝に乗せていた星斗の黒いハットを手渡し、彼は受け取ったそれを頭に被せる。星斗の帽子を被る動作はこれまで何度も見てきた。これからもそんな星斗を見たり、彼に帽子を預けられたり。そんな日常が1日でも多く側にあるように。密かな祈りを心に留め、燈は星斗と歩幅を合わせて歩き出すのだった。
しあわせでいるために