「よっ。……
次の日の朝。
「……星斗」
少年の名を呼ぶ声には、後ろめたい気持ちが見え隠れしている。ウェーブがかった
「
「ま、そんなとこ。はいこれ」
ピアノの前に座している祥子に近付き、星斗はストロータイプのアールグレイを差し出す。
「これは?」
「自販機で買った。祥子も、紅茶好きだったよなぁって。気分転換したい時にでも飲んでくれよ」
差し入れとして校内の自動販売機で購入した紙パックの紅茶を受け取るように星斗が言うと、不愉快だと言わんばかりに祥子の眉間に皺が寄った。
「……要りませんわ」
「まぁまぁそんなこと言わずに。もらってくれなきゃ悲しいぜ?」
「そもそも、『買ってくれ』などと頼んだ覚えはありませんわ。私が……そんなに惨めに見えますこと?」
自分を睨め付けながら発された祥子の言葉に、星斗は首を横に振る。それと同時に、祥子の態度に妙な引っかかりを覚える。余裕がないような、彼女のささくれ立った物言いの数々に彼は頭をかく。
「見えてねぇし、思っちゃいねーよそんなこと。ただ……なんか最近辛そうにしてっから、ちょっと心配だったんだよ」
「……!」
祥子は目を見開き、ばつが悪そうに視線を逸らして俯いた。その様子から、祥子を目にする度に感じていたなんとも形容し難い違和感が確信に変わる。
羽丘に入学して1ヶ月と少し。その間、星斗は祥子が笑っているのを1度も見たことがなかった。クラスメイトの数人から話を聞いたところ、他の生徒とは会話を交わすことさえないと言う。中学の頃に然程友人が多い訳ではないと祥子本人から聞いていて、誰彼構わず交友関係を広めようとしない気質なのはなんとなく分かっていたが、他の人達の話を聞く限りでは意図的に他人と関わるのを避けているのではないかとも思えた。祥子と会っていなかった数ヶ月の間、彼女にどんな心境の変化が起きたのか。星斗は目を逸らしている祥子に向けて口を開く。
「すれ違う度にあんな顔見せられたら、ほっとけねーだろ。バンドのことなのか、それとは違う何かなのか。どっちにしろ、おれは黙って見過ごしたりはしたくねぇ。だからここに来た」
「相変わらず、よく見ていますのね。他人のことを」
以前と変わらない星斗の観察眼に肩をすくめ、祥子は再度彼に視線を合わせる。
「去年何度か遊んだ仲なんだし、気にはなるだろ。なんか……あったのか? おれにできることなら、力になるよ」
たとえ今は頻繫に会う関係ではなくても、友人が困っているなら力になりたいし助けたいというのが星斗の本音で、自分と関わったことのある相手には幸せでいてほしいとも願っている。祥子は彼の善意に触れ、数秒の間があった後に唇を動かす。
「別に……何もありませんわ。ですが、ひとつ言わせていただくとするなら……もう、
「えっ?」
一瞬、祥子の言ったことが飲み込めなかった。数回脳内でリピートし、星斗は驚きを露わにして両手をバタバタと振って彼女に問う。
「いやいやいや!? 何でそうなる!?」
「深い理由はありません。私と関わり続けても、あなたが得することは何もない。まるで味方かのように……擦り寄ってこなくて結構ですわ」
「得、ね……」
そう言われた星斗はピクリと眉を動かして復唱する。自分と関わるメリットがないから、もう相手にするなとでも言いたいのか。損得勘定で物事を考えるのは普通のことかもしれないが、交友関係においてもそれが適用されるのは歪な考え方だ。そんな悲しい考えを許容できる心を、星斗は到底持ち合わせていなかった。
「それでおれが『うん』って言うとでも思ってんのかよ。得することは何もないって? 少なくともおれは、友達ってそういうのじゃないと思ってるけど。祥子は違うのか?」
「っ……」
星斗の問いかけに、祥子は押し黙った。十数秒待っても答えが返ってこなかったのを受け、本意ではないと分かった彼は言葉を続ける。
「損得で考えんなよ。何か困ったことがあるなら、おれでも他の友達にでも頼りゃ良いんだよ。おれは拒まんし、できる限りのことはする」
「星斗……」
祥子が抱えている何かを解決まで導けるかは分からないが、話を聞いて一緒に方法を模索することはできるし、力になろうとしてくれる人は他にも居るはず。故に、もっと他人を頼れば良いと彼は真剣な眼差しで祥子に伝える。すれ違う度にまるでこの世の全てが自分の敵であるかのように辛苦の表情を浮かべている彼女を、他人事だと見過ごすことはできない。
「お節介だったらごめん。祥子はどうかわからんけど……おれはさ。まだ、お前のこと友達だと思ってるから」
星斗は笑って、今でも祥子を友達と思っている旨を打ち明ける。嘗て祥子が燈や立希、そよを交えて組んでいたバンドが解散した発端は祥子だと聞かされてはいたが、豊川祥子という人物を嫌うつもりはなかった。バンドが解散したことでたしかに燈はひどく傷付いた。大切な幼馴染である燈にあんなにも悲痛な顔をさせた彼女に、怒りが湧かなかった訳ではないものの、それでも星斗にとっては一緒に遊んだり言葉を交わした相手である祥子を憎めなかった。自分を見つめる星斗の真っ直ぐな目に負け、祥子はふっ、と頬を緩める。
「本当に、得のないことをしたがりますのね」
「ははっ。そうかもな」
高校に進学してから初めて目にした祥子の笑顔に、星斗はほっと肩の力を抜く。話を聞き入れてもらえたことに安堵しつつ、彼女の言葉を待つ。
「お気持ちは嬉しいですわ。でも、私は大丈夫。ご心配には及びませんわ」
祥子は静かにそう言って、微笑を見せる。星斗が音楽室に訪れた時は渋面を作っていた彼女であったが、星斗と会話を交わすうちに以前と変わらない彼の善性を改めて実感した祥子は先程までの刺々しい態度から一変し、柔らかなものとなっていた。彼女から大丈夫だと告げられた星斗は静かに頷きながら微笑みを返す。
「……そっか。祥子がそう言うなら詮索はしねぇ。なんか困ったことあれば、いつでも言ってくれよ」
「ありがとうございます。……星斗」
「うん?」
「あなたは……その優しさを忘れないで。あなたの優しさに救われる方は、たくさん居ますわ。だからどうか……お変わりなく」
祈りにも似た望みを、祥子は星斗の瞳を見つめながら言葉にする。いつでも他者への優しさを忘れないというのは、当たり前のようで難しい。優しさも、他人を慮る心もいとも容易く失われるものなのだと実感した祥子は、我儘だと理解していても、星斗にはそうなってほしくないと思った。
それが偽善であると周囲の人間が嘲るとしても、祥子は星斗の純粋な優しさを美徳だと思うし、できれば失わずにいてほしいと願う。祥子からそう言われた彼は、自身の左手をぎゅっと握って喉を震わせる。
「言われなくてもそのつもりだよ。そうやって生きるって、決めてっから。じいちゃんの願いでもあるし……曲げる訳にはいかねーんだわ」
迷いなく、星斗はそう答えてみせた。『どんなに落ちぶれても、人を想う心は忘れるな』。今は亡き祖父の教えを体現する為に彼はどんな時でも他者にできる限り優しく在ろうと決めていて、これ以外にも祖父から数え切れない程に人として大事なことを教えてもらった。その教えに背くことなく生きると彼は誓っていて、故に他者に対する優しさを忘れずに持っていたい、失くしたくないと強く自分に言い聞かせている。
「ふふっ。殊勝な心掛けですわね」
星斗の返答を受けた祥子は安堵したように笑みを見せ、彼が持っている紙パックの紅茶にそっと手を乗せる。
「あっ。もらってくれんの?」
「気が変わりましたの。理由はどうあれ、いただいた厚意を無下にするのは失礼ですので。ありがたくいただきます。この恩は、必ず返しますわ」
「別に恩とも思ってねぇんだけどな、こんくらい。ありがとな。祥子」
「こちらこそ。では、私はこれで。ごきげんよう」
「おう。またな」
紙パックから手を離して謝意を述べる星斗に祥子は軽く頭を下げた後、ゆっくり歩を進めて出入口へ向かっていく。彼女の丁寧且つ品のある所作は以前と変わっておらず、正真正銘、星斗が知っている豊川祥子であった。彼女が何に悩んでいるかまでは知れなかったが、本人が心配ないと言うのであればそれ以上詮索するのは野暮だし無理に聞き出そうとするのは本意ではない。今は祥子と話ができたことを喜ぶべきだと星斗は気持ちを切り替え、ちらりと室内の時計に目をやる。
「さて。戻るか」
一言呟き、星斗も祥子に続いて音楽室を後にするのだった。
『この、3つの星を線で結んで描かれた大きな三角形は、『夏の大三角形』と呼ばれています』
放課後。ライブハウス『RiNG』でのバイトが入っていない今日、星斗は燈と共に池袋にある施設でプラネタリウムを鑑賞していた。
このプラネタリウムには普段から燈とよく足を運んでおり、春夏秋冬問わず天井に投影されて生み出される星々に2人は心癒されている。本物の星は都内に住んでいるとあまり目にすることがなく、綺麗に見える場所で見るとなると東京から離れた県に行く必要がある為、高校生の懐事情を鑑みるといくら星が好き同士といえどそう気軽に実行できるものではない。
それ故、本物ではないにしろ手頃な価格且つ適切な気温が保たれた室内で星を見られるこのプラネタリウムは非常に助かっており、季節により流れる内容は異なるものの映し出されている星を解説するアナウンスを自然と暗唱できるくらいに星斗は燈と何度もここに通っている。
『実は、皆さんもよく知っている七夕の彦星と織姫は、アルタイルとベガのことなんです。日本では春から秋にかけて見えますが、旧七夕にあたる8月上旬が見頃です』
アナウンスと共に、おびただしい数の星達が観客の視線を釘付けにする。星斗も他の観客と同様に星々を見つめ、もう何度聞いたか分からない解説に耳を傾けた。
彦星と織姫。天の神によって結ばれ、幸せに暮らしていた2人だったが、ある時天の神により強制的に離れ離れにさせられた。しかし、会えない悲しみから泣いて閉じこもるようになってしまった彦星と織姫を見かねた神が年に1度だけ会うことを許可したのが7月7日……七夕として世間一般的に広まっている日だ。地域によっては8月に七夕を祝う場合もあり、理由としては旧暦の7月7日と新暦のその日では約1ヶ月ほどのズレが生じるからだと記事にそう書かれてあった。
プラネタリウムの解説では軽く触れられるだけで詳細が分からない為、気になった星斗は七夕について調べて彦星と織姫が離れ離れになった経緯を知った。本人の意思などお構いなしに仲を引き裂かれた彼等の関係を不幸だと思う者が多いだろうが、詳しく掘り下げていくと元々は熱心な働き者だった2人が結ばれたことで自身の仕事を忘れ、毎日遊んで暮らしていたことで天の神から怒りを買い、離れ離れにされたというのが一連の流れだと記されていた。
詳細を知ればたしかに最もな話だな、というのが星斗が抱いた感想であった。いくら互いが大切だからといって自身の役割を忘れて交遊していたとなれば怒りを買うのも当然ではある。
だが、理由があるとはいえ愛し合っていた2人が突然距離を離され、会うことさえ許さないと告げられた2人はどれだけ辛かっただろうか。自分に置き換えて想像するだけで身の毛がよだつ程恐ろしい。できれば考えたくないな、と星斗は心の中でそう呟く。
もし自分が燈と会うのを金輪際禁じられたとしたら、それこそ彦星のように家に籠るようになるのではないかと考えてしまった。小学生の頃に大好きな祖父を亡くし、悲しみで全てを塗りつぶされそうになった自分が引きこもりもせずにここまで生きてこられたのは、燈が側に居てくれたからだと大袈裟ではなくそう感じている。なんとなく、隣で仰向けになっている燈に目を向けると、彼女の視線はまるで初めて見るかのように天井に生み出されている星々に注がれており、星斗は思わずクスッと笑みを溢す。
幾度となく共に目にした筈の星であるのに、こんなにも澄んだ瞳で星を見つめる燈に星斗の心臓が早鐘を打つ。宝石のように光が灯っている彼女の眼は、視界に映る星の輝きに肩を並べられるのではないかと思う程に綺麗だった。隣に居る星斗から見られていることに気付かない程プラネタリウムに夢中になっている燈の邪魔をしたくない為、星斗も頭を天井の方へ向けて、もうすぐ消えてしまう星達を暫し眺め続けるのだった。
『以上で、本日のプログラムは終了となります。お楽しみいただけましたでしょうか。場内は段差がありますので……』
繰り返し流れるプラネタリウム終演を知らせるアナウンスに対し『今日も楽しかったよ』と心の中で返しながら星斗は燈と会場から出て、並んでゆっくりと廊下を歩いていた。
「今日も綺麗だったな! 燈、誘ってくれてありがと!」
「うん……! 楽しかった……」
どうやら燈もプラネタリウムを楽しめたようで、その表情には明るさが宿っている。いつもは星斗が誘ってここへ足を運ぶことが多いのだが、今日は燈から彼を誘っていた。
急な誘いではあったので少し心配になっていた燈であったが、軽い足取りで上機嫌に歩く星斗を見てそれが杞憂だったと分かった彼女は笑みを浮かべた後、今の時刻を見る為にスマホの電源を入れる。時間を確認し、鞄にスマホを仕舞おうとしたその時。手に特有の振動が伝わった。再度スマホに目をやると、画面に2件のチャット通知が表示されており、メッセージの送り主が誰か分かった瞬間、燈の喉から小さく声が漏れる。
「ん? 燈?」
急に燈が立ち止まったことに気付いた星斗が声を掛けると、彼女はスマホの画面を見せて届いたメッセージの内容を共有する。
「そよちゃんから……」
「そよから……でも、会いたいのは
「たぶん……」
メッセージを送ったのは、星斗と燈の共通の友人である
燈のチャットにそよから連絡が来るのは久しぶりの為、彼女は些か戸惑っている様子で、尚且つ愛音が自分に会いたいと言っているのもよくわからない。燈の隣で顎に手を当てたまま数秒画面を見ていた星斗だったが、ここで立ち止まっていては他の客の迷惑になるし、このメッセージの意図を考えていても何もならないと思った彼は燈に視線を戻す。
「燈、一旦外出るか。その間に、どこで待ち合わせするかそよに聞いてみようぜ」
「わかった。聞いてみる……」
星斗の提案に燈は頷き、とりあえず施設を出ることにした2人は再び出入口に向かって歩く。数分のうちにエントランスから出られ、外はもうすっかり暗くなっており、街灯が花壇に植えられている花々を淡く照らしている。星斗が燈にそよと連絡がついたか聞いてみたところ、驚くことに愛音が近くまで来ているとのことだった。辺りを見回してそれらしい人物が居ないか探してみたところ、エントランス付近の小階段に腰掛け、桜色の髪が背中まで伸びている少女を発見した。星斗や燈にとって、その佇まいには見覚えしかない。自分達と同じ羽丘学園の1年生、
「あ……あれじゃね? ……愛音ー!」
「……! 星斗君ー! 燈ちゃーん!」
少し離れた距離から彼女の名を呼ぶと、星斗の声に気付いた愛音は大きく手を振り返してきた。そよの連絡通り本当に近くまで来ていたことに驚きつつ、2人は顔を見合わせる。
「とりあえず……合流すっか!」
「ん……」
燈に会う為にここまで来ているのだから愛音は自分に用はないんだろうなと星斗はそう思ったが、一応軽く挨拶程度交わしてから退散することにし、2人は『早く早く』と言わんばかりにこちらへ手招きする彼女の元へ向かうのだった。
今日もきみと、星を仰ぐ。