「また来ましたの?」
横スライド式のドアを開き、こちらの顔を見るや真っ先に聞こえてきた言葉だった。
放課後の音楽室。本来は吹奏楽部が利用している時間帯だが、部活動開始までには時間が少しながら空いている。
空き時間を利用して、機会があれば毎日弾く。その演奏者を目当てに学生は音楽室に入っていた。 窓から差し掛かる陽は演奏者に当てられている。並べられている椅子には人一人おらず、音楽会は静かに奏でられていた。
音楽室に入る前までに聞こえていたグランドピアノの演奏は途絶えた。
演奏者であるその人はやや困り顔に、諦めたような顔をしながら、音楽室に入ってきた学生に目をやった。
無表情ながら、しかし穢れを払った宝石のような薄い金色の瞳。黒を基調としたリボンに結ばれたライトブルーの髪は腰元まで伸びており、それでいて気品さが現れているように感じた。
演奏者───
「しょーこちゃんの演奏が好きだから来ちゃった」
「“さきこ”ですわ。何回間違えるのですか、貴女は」
「あの漢字の並びを見てしょうこって読まない人の方がいないよ〜。小学校の時同じ間違え方されなかった?」
「特には」
嘘だぁ!
そこそこ響く声で叫ぶ。 その様子を気にすることもなく、気に欠けることもないまま鍵盤蓋を降ろし、そそくさに祥子は立ち上がる。
そのままスクールバッグを手に持って入室してきた学生に近づく。と言っても、厳密にはドアの方向になのだが。
「で、どうしましたの? 何の用事で?」
「いや? しょーこちゃんと一緒に帰りたいだけだから来ただけ。そろそろ吹奏楽部も来そうだし、どう?」
祥子は思案する。
この後にアルバイトを控えている。行き先は電車に乗って三駅程だ。
移動に時間は要するが、余裕がないわけでもない。
断る理由を挙げるならば、考える時間を奪われてしまうことくらいだった。
通すには弱い手札であると祥子は理解している。
「嫌と言っても付いてくる気なのでしょう? いいですわ」
「やった」
不承不承ながら答える祥子は更にため息をついていた。心底面倒くさい相手をしている時の対応であった。
一方、学生は祥子の言葉を聞いて、学生は握り拳を作って喜んだ。
その表情は見るからに“嬉しい”という感情が伝わってくるような笑顔だった。
「ですが、
「……どこでバイトをしてるんだっけ?」
「コールセンターですわ」
引き戸を引いて下校が始まった。音楽室を出て、隣り合って歩き始める。
ローファーの音が静かに響くが、他の生徒の言葉で薄れていく。
外からは部活動に勤しむ声が聞こえる。
話を振るのは基本的には学生の方からだ。
祥子は話を聞いては、当初、『そうですの』、『大変でしたわね』『そうなのですか』の3つを使いこなしてのらりくらりと素っ気ない対応しか行わなかった。
あるいは、質問されたことに対し、開示できる内容はそのまま話すことしかしなかった。
高校以前の話には地雷が敷かれており、言葉を向けた瞬間に“ごきげんよう”となり、交友関係が断たれてしまう。
それでも下校に誘う学生は関係なく、あるいは会話をしていると認識して交流を深めようとしている。中学時代の話を学生は振ってはいない。自分語りすらも。
当たり障りのない話題を繰り返すだけであり、この甲斐あってか、学生と祥子の会話は続いていき、そこそこ会話を交わす程度の関係性を構築するに至った。
そして現在も、昇降口を向かいながら話を進めている。
「ほぼ毎日してるよね。掛け持ち?」
「……そうですわね。といってもこの辺りではないですが」
「ふぅん……」
疲れそうだな、と学生は思った。
掛け持ちしてまで働く理由を聞いていないので知らないが、何となくの背景はうかがうことができた。 それでいて、学生から見た祥子は、どこか気品さのある人であると認識していた。忙しなく、何かに追われているようにバイトをこなす特待生。
言動にはどことなく上品さが現れているのだ。見え隠れするそれに学生は惹かれている。
「そうだ!」
ぱんっ、手を叩いて祥子の方を向く。
身長は学生の方が大きく、やや見下ろすような体制だ。 祥子は横目に、しかしこちらを見ながら言葉を待っている。
「バイトのない日に一緒に遊びに行かない?」
溜め込んでいるストレスがあるのではないかと、学生は推測した。
甘えさせたいというわけでもなく、純粋なる遊びの約束だった。
「
負担をかけさせない。 どこかで倒れてしまいそうだなと思っての言葉だった。
気晴らしをさせてあげたいという、純粋な気持ちでしかない。 打算のない提案に祥子は───眉を顰めて疑問をぶつけた。その目の奥には疑いの眼差しが向けられていた。
「……どういう目的ですの?」
「いや、目的とかはないよ? 純粋に遊びに行きたいだけ」
「何故です? こんな愛想なしを構う理由などありますか?」
「“ただ遊びに行きたい”。それだけのことに理由なんてないよ。女子高生がお互いに、ただただ放課後遊びに行くだけの約束だよ」
「…………」
「ダメかな?」
誘いに対する返答に答えないまま、二人は昇降口に辿り着いた。
ローファーに履き替えた彼女たちはそのまま校門に向かっていく。
回答を躊躇っていた祥子はどうするべきか、と考えてたところで校門前にうっすらといた人影を発見し───苦虫を噛むような顔を一瞬だけした。
その様子を学生は見逃さない。 同じように正面を見る。
円型の街灯のその付近に目をやると、一人の女子高生*1の後ろ姿があった。
明るいベージュ色の髪の毛は腰元まで伸びている。後ろ姿しか見えないが、身につけている制服に、学生は見覚えがあった。
月ノ森女子学園の制服だ。いわゆる、お嬢様学校だ。
幼稚舎から高等部まで存在する名門校。そんな気品さと優雅さを兼ね備えているような生徒が集まる学校。
初めて見る……というわけではない。ここ数日校門前に現れる謎の生徒として、学園内で少なからず噂になっている。 学生はその事を知っていた。二度もあれば知ることにもなる。
前は芸能人の娘だったか。今回は全然違う人だが。
おそらくは待ち合わせである、というのが噂の結論だった。誰を待っているのか。 学生はその正体を知ろうともしなかったが、今の祥子の表情を見てなんとなくの察しを得ることができた。
なので、質問をするという行為を可能にするための理由ができる。
「……知り合い?」
「貴女には関係ありませんわ」
ぴしゃりと言う祥子にはこれ以上何も聞くなという意思が強く宿っていた。
明確に否定の意思を提示されるため、学生はこの先に踏み込む権利はもうない。
食い気味に答える祥子に深掘った質問をしてみたい気もするが……答えてくれる気配は当然ない。
少なくとも校門前にいる月ノ森の生徒に、祥子がいることを気づかれると都合が悪い、という事実のみがあった。
「うーん……」
やや、めんどくささがありつつも、このまま学園から出れないのは忍びない。
学生は祥子の髪の毛に触れ始める。
「何しますの!?」
「いいから黙ってて。あれに気づかれたくないんでしょ?」
「それは……っ! そうですが……、わかりましたわ」
口を閉じた祥子に微笑みつつ、黒いリボンを外し、自由に動かせる箇所を一つにまとめて結びなおす。柔らかい髪の毛だった。それでいて花のような匂いが鼻腔をくすぐる。欠かさず整えている証拠だろう。
たとえそれがどんな状況に陥っていても、保つべきものは必ず保たなければならない。そんな信念のようなものを学生は感じた。
「いい匂いだな……」
「い、いきなりなんですの!?」
「大声出さないでって。気づかれるでしょ」
「〜〜〜!」
率直に思ったことを口にしつつ、祥子の慌てふためく顔を見たところで満足。
リボンを再利用してポニーテールっぽくまとめつつ、そのまま学生はカバンからアイテムを取り出した。
「……眼鏡?」
「ご名答。ではこちらを付けてもらって、行くわよ〜」
「なんなんですかその口調は……」
校門前にはすでに月ノ森女子学園の生徒の姿が何分もいる。出て左側に位置している。
目的地は出て右側だ。 校門前まで近づき、アーチをくぐる。
こちらの様子を月ノ森女子学園の生徒が見ていたがすぐにスマートフォンに目を移した。
少しの間こちらの様子を見続けていた気もするが、声をかけられる気配はない。
その様子を確認した祥子たちは逃げるようにその場を歩いては慣れた。
「「…………」」
お互いに早歩きだった。
獰猛な獣から足音を立てずに足早に逃げ去るかのような動作だった。
距離が離れたこともあって、影も見えなくなってきたところで、学生は訊いてみる。
「あの人毎回いるの?」
「ほぼ毎日ですわ。……何故諦めてくださらないの」
不意打ちでの質問にためか、祥子は隠すことなく事情の一端を話した。
毎日、ともなると相当厄介な案件になったものなのだろう。
その事情に首を突っ込みたくなかった。が、このまま放っておくのも祥子の今後に響くものだと考えられた。学生はそれらしい提案を試みる。
「面倒だね。顔とか隠した方が早いのかな」
「隠す……ですか」
「?」
のっぴきならない事情に対し、さして興味もなければ突っかかる気持ちも持つことはない。目の前の出来事の延長戦で話を進めただけだ。
深掘りしてまで聞くほど学生はしつこくはない。 会話の種を育て、育成しきろうとするタイミングで間を挟む。稀有なことにお互いそのつもりでいた。祥子からのレスポンスを待つだけだし、詳細をうかがう様子を微塵も見せなかった。
「なんでもありません。
「その時は一緒に帰ろうね……。いや待って、ごめん、それは困る。しょーこちゃんまた演奏してよ」
「さきこですわ。演奏はいたしますがしばらくはいたしません。直行でバイトですわ」
「しょんな……」
演奏を聴く機会が少なくなることを知ってしまったことで目に見えて落ち込んだ学生を傍目にしつつ、そのまま学園からさらに遠ざかる。
たわいもない話もなければ発展する話はそこになかった。 学園で過ごす以上共有される勉学の話題程度にしか話を行うことはしない。
それもそのはずで、学生と祥子は知り合ってまだ間もない。
同じクラスに所属している生徒同士、たまたま席が近いだけで学生から会話を振った。 それも数日。社交辞令程度の対応を当初、祥子は行なっていた。
杜撰な対応をとっていれば他のクラスメイトの方に行くだろうという考えが基盤にあった。 祥子は目的のために時間をフルに活用しなければならない身の上にいる。たまの日に行うピアノの演奏は比較的時間に余裕がある時だ。
加えて、定期的に指を慣れさせておかなければ廃れる恐れもある。自分自身にとってのチューニングも兼ねてのピアノだった。
「音楽のことあんまり知らないから聞くんだけど、普段ってどういうジャンルのを弾いてるの?」
「……クラシックか、もしくは何も考えずに思い浮かんだものをそのまま」
「クラシック……。威風堂々とか?」
「弾けますわ」
「はえー……すっごい器用。私でも知ってるような音や歌を弾けるってことだよね。すっごいや」
「……そうなのですか?」
「えっ、もちろん。私にはそんなのできないからさ」
「音楽の経験は?」
「ない」
会話を交わしながら、なおも時間と歩みは進む。
また、バイトは夕方頃に始まる。
最寄りの駅から三駅程離れた場所にあるものの、通路から直接繋がっている場所にある。分単位で数えても指を一つ動かす程度で数え切れる位置。 今日こそが余裕のある日。
そんな日だろうがなかろうか、関係なしに登校から下校に至るまで常に一緒にいる学生が、祥子が過ごす数時間の間だけ隣に立とうとしている。
「意外ですわ。今の時代、やっていない方が珍しいまであるというのに」
「向き不向きってものがあるんだなって。そういこともある。音楽は聴くけどね、sumimi*2とか」
「sumimi……ですか」
正直、学生に会話を仕掛けられてきた当初、祥子は困っていたのだ。
己の目的───を図るためには学生に関わる時間を割くことはできないからだ。 特待生である以上勉学を欠かすことができない。かつて己の心を震わせた音楽と、感銘を受けたことによって始めた活動を行うにしても、構想している脚本にも、行動をするにしても、常に考える時間を欠かすことができない。
客観的に見ればストレスの溜まる日常以外に言いようがない。吐き出したい言葉として形にできない衝動を抑制し、積み上げられた誇りを武器に日々を過ごす。
武器は磨かなければ、整備をしなければ、その機能を著しく低下させてしまう。
刀が錆びれるように。
銃口が詰まってしまうように。
筋肉が衰えてしまうように。
生活が一変するような現実に直面すれば、それまで行ってきた活動に妥協が入り、無理なもの無理であると切り捨てられてしまう時がある。
それでも向かい続けてくる学生に、祥子は否定すること無く対応を続けていた。そのうち、過ごすうえで今の日常に慣れて、受け入れた。
だから、会話はそれなりに弾んでいる。
「……」
豊川祥子は環境の一変化に左右されないまま、己を貫き続けた。譲れないものを多く据え、削れるところは限界まで削る。 それでも今日まで顔色ひとつ変えずに、極めて優美な様を維持している。
豊川祥子の努力はそこに現れている。
プライドを崩すことは今後一切ないだろう。
だから、己を保つための行動を起こす時もある。
「そういえば、先程の遊びに行かないか、というお誘いについてですが」
豊川祥子はかつて、大豪邸に住居を構えていた。 順風満帆ともいえただろう。敬愛する母親と父親に情愛を注ぎ込まれて、十五年もの時を過ごした。
時の重みは大きく、築かれた目に映ることのない牙城は決して揺らぐことがなかった。 だから、168億円の喪失を産んでしまい、祖父に勘当された父親を見捨てることができなかった。 母親との思い出と父親とのかけがえのない記憶を持って家を出た。
居着いた先は真逆のボロボロのアパート。経験したこともない事を自ら行う、という選択を採った。
そうして築き上げた、新しい豊川祥子。メンタリティは保たれるどころかダイヤモンドのように輝きを放ち、なおのこと、自分を保つための武器として成立している。
「いいですわ。遊びに行きましょう。先程のお礼も兼ねて」
故に、心は揺らがない。
一つ見据えた大きな目標と夢、それを己の手で叶えるために走っている。 見たくもなかった体たらくも、知りたくなかった現実も、全ては過程にして試練でしかない。
ノブレスオブリージュ。礼を返すほどのことはさして問題ではないゆえの判断であった。 祥子は普段の自分を保ち、やがては立つ大舞台を据えて行動する。
何が経験値として蓄積されるかは分からない。行き詰まりをやや感じていたこともあって、祥子はその方向にハンドルを握った。
「ですが、奢りというのはご勘弁を。お金がないわけではありません」
「ほんとぉ? お昼毎回コンビニのおにぎり1つなのに?」
「……節約、というやつです」
「身体崩したら損失大きくなっちゃうよ? しょーこちゃん」
「さきこ、ですわ。余計なお世話でしてよ」
「そこは素直に受け取っておきなよ……。この前一緒にご飯を食べた時、私のお弁当を物欲しそうに見てたじゃん……」
「見ていませんわ」
素直じゃないなぁ、と思いつつも駅内に入っていく。
祥子との行き先とは真逆の方向に学生は住んでいるため、ここで別れになる。
「じゃあね、しょーこちゃん。また明日」
「えぇ、ごきげんよう。あとさきこですわ」
「は~い! 遊びに行く日決めたら教えてね〜〜〜!」
電車内に入った学生に、右手を左右に動かす。
「……」
学生と過ごす時間を無駄と思ったことはなかった。有意義に思うこともなかったが。
明日以降も同じ日常が続くから諦めているというわけでもなく、それ以上にも如何にも理由はなく、ただそう思っている。
豊川祥子には休まる時間がない。
すでに思考を切り替えて頭の中で浮かべた構想をメモにとどめながらバイト先に向かっていく。
現時点では、変化を伴わない一日を過ごす。
再起、精算、けじめ。過ごす過程で踏ん切りを自分自身で付けられるように、メモを残す。
そうして、抱えている感情に整理を付けながら、今己がするべきことを果たす。
その間を学生と共に過ごす、そんな時間を祥子はどうにも嫌いになれなかった。