世界の為に推しとの恋愛を諦めようとしたらヤンデレ化された件   作:赤坂緑語

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第15話:僕と彼女が話し合うべき件

 

「話し合いをしよう」

 

 僕は提案した。

 静かに、優しく、それでいて逃げられないように。

 

 彼女の瞳が揺れる。

 紫色の瞳が、驚きと、不安と、戸惑いと、そして……悲しみを映している。

 

「……僕たちの、今後について」

「ッ」

 

 璃奈の肩がビクッと跳ねた。

 

 まるで、傷ついた野良猫のようだった。

 今にも逃げ出しそうな、恐れに満ちた瞳。

 防御するように腕を抱え、縮こまる姿は、痛々しくて――

 

 胸が締め付けられる。

 

 僕は彼女を、傷つけた。

 誰よりも深く。

 誰よりも痛く。

 

 璃奈は何も悪くなかった。

 ただ、一途に僕のことを想い、考えてくれていたのだ。

 それを分かっていた筈なのに――僕は彼女を突き放した。

 

 世界のために、と自分を正当化して。

 弱気になった自分可愛さに、全てを彼女と主人公に押し付けようとして。

 

「璃奈……」

 

 ゆっくりと、跪くように彼女の目線に合わせる。

 怯えた小動物のような彼女を、そっと安心させるように。

 

「……ごめん」

 

 璃奈の瞳が大きく揺れた。

 まるで信じられないものを見たように、驚きに満ちた表情。

 

「僕は、君を……傷つけた」

 

 真摯に謝る。

 

「本当は、ずっと一緒にいたかったのに……それを自分の臆病さで手放したんだ」

「えっ―――」

 

 ――いや、違う。

 本当は"手放した"のではなく、"手放しきれなかった"。

 

 だからこそ、僕は今ここにいる。

 彼女に謝るために。

 彼女を取り戻すために。

 

 既に原作は愚かな僕のせいで破綻している。

 もう壊れるくらいに壊れ切っているのであれば――

 僕は自分のやりたいようにやる。

 

 本当に欲しいものを、手に入れる。

 

「う……そ……」

 

 璃奈は震えていた。

 

 手をぎゅっと握りしめ、唇を噛み、僕を見つめている。

 何かを言いたそうなのに、言葉が出てこない。

 

 やがて、震える唇から、小さな声が漏れた。

 

「わたしと……一緒にいてくれるの……?」

 

 璃奈の声は、まるで触れれば壊れてしまいそうなほど、か細く震えていた。

 長い間、孤独と絶望の中で揺れ動いていた彼女の心が、ようやく一筋の光を求めようとしている――そんな声だった。

 

「璃奈が、それを許してくれるなら」

 

 それが、僕の精一杯の答えだった。

 

 許しを求めることに、躊躇いはあった。

 僕は彼女を傷つけた。

 何の説明もせず、突き放し、彼女の心を踏みにじった。

 

 それでも、彼女が許してくれるなら。

 彼女が僕の隣にいることを望んでくれるなら――

 

「……」

 

 璃奈は俯いていた。

 肩を震わせ、白い指をぎゅっと握りしめている。

 

「……じゃあ、どうして、別れようなんて言ったの……? あんな嘘までついて……」

「……嘘ってバレてたのか」

「当たり前だよッ!」

 

 鋭く、痛烈な声が響く。

 

「私が優斗君のことで間違えるなんて、ありえない!」

 

 璃奈の瞳は、怒りと悲しみに満ちていた。

 その紫の瞳が潤み、まるで僕の心の奥を引き裂くように突き刺さる。

 

「どうして嘘をついたの? おまけに――」

 

 言い淀む。

 言いたくないのではなく、言葉にすることが怖いのだろう。

 

「悪魔と契約した、なんて……」

 

 信じられない、と言いたげな声と表情だった。

 それも当然のことだろう。

 彼女はエクソシストとして生きてきた。

 

 “悪魔は殺すべし。その契約者もまた然り”

 

 その価値観を持つ彼女にとって、僕は裏切り者にしか見えないだろう。

 

「教えて、優斗君。お願いだから、全部、教えて……?」

 

 縋るような瞳。

 ここに至り、何も説明せずに元の関係に戻れるなんて欠片も思っていない。

 だから、僕は全てを話すことにした。

 前世の記憶があること。

 そこではこの世界はゲームになっていて、主人公である十六夜蓮を軸に据えた4つのルートがあること。

 僕は愚かにも、その中でもっとも安全なルートにする為、天羽璃奈と十六夜蓮をくっつけようと画策していたこと。

 心臓を対価にメフィラと契約したこと。

 

 その全てを説明しようとした。

 

「……分かった。実は―――」

 

 

 

 

 

 

――おっと、それはダメだよ。

 

 

 

 

 

 痛い。

 痛い。

 痛い。

 痛い。

 痛い。

 

 信じられないほどの激痛が走る。

 刃物を突き立てられたような鋭い痛みが、胸の奥を貫いた。

 

「優斗君ッ⁉」

 

 璃奈の悲鳴が聞こえる。

 だが、僕には何も応えられなかった。

 この心臓を握りつぶされているような痛みと圧迫感。

 

 これは――

 

 あの性悪な悪魔の仕業か。

 

「優斗君⁉ あぁ、どうしようっ、どうすれば……⁉」

 

 璃奈の声が焦燥と恐怖に染まる。

 彼女は必死に僕の身体を支えようとしながら、震える手で僕の頬を包み込んだ。

 

 僕は彼女を安心させようと、言葉を発そうとした。

 大丈夫と伝えたかった。

 でも、激痛に苛まれ、声にならない。

 

「胸……そこが痛いの⁉ 待って! 今から治癒するから!」

 

 璃奈は必死に冷静になろうとしていた。

 優しく僕を押し倒し、傷の様子を確かめるように胸に耳をあてる。

 

 そして、次の瞬間――

 

 彼女の顔が、絶望に染まった。

 

「心臓が……()()()()()……!」

 

 彼女は、震えた。

 信じられない、と言いたげな顔で、僕の胸に耳を押しつける。

 

「そんな……そんなこと……っ、嘘でしょ……?」

 

 心音がない。

 それはつまり、"死んでいる"ということ。

 璃奈の手が、震えながら僕の頬を撫でる。

 

「ダメ……ダメだよ、優斗君……」

 

 涙がぽろぽろと零れ落ちる。

 

 彼女は知らない。

 僕の心臓は、如月メフィラの手の中にあることを。

 

 教えなければならない。

 このままでは、彼女はこの苦しみに囚われたままだ。

 だけど――

 激痛が、それを許さない。

 地面をのたうち回りながら、僕はただ彼女の手を握る。

 伝えられるのは、それだけだった。

 

 璃奈は、その手を――

 決して離さなかった。

 

 絶望の涙を流す天羽と、激痛に苦しみ続ける僕。

 そんな僕らの前に――

 

「――お探しの物は、()()かな?」

 

 元凶である如月メフィラがふらりと現れた。

 その左手に僕の心臓をしっかりと握りしめながら。

 

「貴女は……!」

 

 血走った眼で天羽がメフィラを睨みつける。

 そして、彼女がその手に握っている心臓を見て驚き、僕の惨状に目を向けてから――

 

「――そう。そういうこと」

 

 全てを理解した。

 

「貴女……敵ね

 

 天羽は能面のような表情――しかし、瞳に苛烈な炎を宿しながら十銀銃を取り出し、その銃口を如月メフィラへ向けた。

 

「おぉ……怖い、怖い。我が愛しの契約者よ、君の元彼女、おっかないね」

「ッ~~~~~!」

「ん? あぁ、ごめん、ごめん。握りっぱなしだったね」

 

 メフィラは笑いながらパッ、と強く握りしめていた僕の心臓から手を離した。

 

「ッ――はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……」

 

 ようやく苦しみから解放された僕は、未だに痛む心臓部分を抑えながら大きく息を吸いこむ。

 

「優斗君!」

 

 右手の銃をメフィラに向けながら、心配そうな璃奈が近寄って来る。

 左手で僕の胸に触れ、もう残り少ないであろう霊力を注ぎ込んでくれる。

 だが、その行為は無駄だった。

 見ての通り、心臓はここにはないのだから。

 

「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……クソッ!」

 

 こうなることは分かっていた。

 奴に心臓を渡すということは、こうして気まぐれに玩具にされるということは覚悟していたはずだった。

 だが、いざこうして心臓を握られると――とんでもない痛みに絶望と、怒りが押し寄せてくる。

 

「お前……!」

 

 強く、性悪な悪魔を睨みつける。

 僕の視線などそよ風のように受け流し、メフィラは嗜虐的な笑みを浮かべた。

 

「名前で呼べと言ったでしょう? 我が契約者様」

「ぐぅっ!」

 

 彼女にギュッと心臓を掴まれれば、またもや信じ難い激痛が襲い掛かってくる。

 あの心を折に来る激痛が。

 

「ふざけ……ん、な……!」

「優斗君っ――!」

 

 泣きそうな顔の天羽は必死に僕を治そうとしながら、同時にメフィラのことも射抜こうとする。

 だが、実質的に僕の心臓を人質に取られていることもあり、引き金を引く決断が出来ないようだ。

 一撃で仕留められなければ、次に待っているのは僕に本当の“死”が訪れるから。

 

 このタイミングで仕掛けてくるのは予想外だったが、こうなったら仕方がない。

 

悪魔の屁理屈(ワンダー・トリック)

 

『悪魔とはいえ、メフィラが契約者を傷つけるはずがない。

 特に、あの心臓はお互いの契約成立を象徴する大事なもので――』

 

「おっと、それは()()だ」

 

 メフィラはその白い人差し指を向けてきた。

 その瞬間、発動させようとしていた僕の“悪魔の屁理屈(ワンダー・トリック)”は呆気なく霧散した。

 

「それは僕の力だよ? 持ち主が許可を出していないんだ。従僕が勝手に使っていいはずがないだろう?」

「……契約は」

「契約でそうなっている。忘れたとは言わせないよ」

 

 “悪魔の屁理屈(ワンダー・トリック)”には“悪魔の屁理屈(ワンダー・トリック)”をぶつけて相殺させる。

 そんな一か八かの賭けだったが、やはりダメだったか……。

 僕は彼女と結んだ契約内容を思い出した。

 

【地藤優斗の心臓を対価として差し出す代わりに、如月メフィラの権能、“悪魔の屁理屈(ワンダー・トリック)”を使用可能にする。なお、“悪魔の屁理屈(ワンダー・トリック)”が使用不可となっても心臓を地藤優斗に返却する義務は生じないものとする】

 

 契約のエキスパートである如月メフィラらしい、一部の隙も無い不平等な契約。

 彼女は僕に能力の使用許可を与える自由があるが――

 僕に自由はない。

 

「フフフ……そういうことだから、そこのお嬢さんも銃を下ろしてくれないかな? もう銃弾を撃つ霊力も殆ど残っていないだろう?」

「……」

「君の元彼の心臓は文字通り僕が握っている。何かの拍子に潰してしまうかもしれないから、大人しくてしておいた方が良いと思うよ?」

「ッ!」

 

 まるで親の仇を睨むように憎悪に満ちた視線がメフィラを貫く。

 天羽璃奈らしからぬ視線はしかし、悪魔を喜ばせるだけだ。

 背筋をゾクリと震わせたメフィラは嗜虐的な笑みを浮かべる。

 

「天羽……ごめんだけど、今は従ってほしい……」

「優斗君……撃ちたくなったらいつでも言ってね」

 

 僕の言葉を受けた天羽は渋々と銃を下ろした。

 その瞳に隠しきれない憎悪を滾らせながら。

 

「そうそう。それでいい。さて、皆が大人しくなったところで……改めて我が契約者には()を言っておこうかな」

 

 この場の主導権を握ったメフィラが嬉々として語りだす。

 

「今回の喜劇、なかなか見応えがあったよ。まさか、あの状況から誓い通りに天羽璃奈を救ってハッピーエンドで終えるとはね――人間の愛にはいつも驚かされるよ」

「えっ―――」

 

 パチ、パチ、パチ。

 どこかへ心臓を隠したメフィラは両手で拍手を送って来る。

 どこまでもふざけた態度に怒りがこみ上げてくるが、理性を失ってはコイツの思う壺だ。

 

 横から驚愕に満ちた視線を送って来る天羽のことは一旦置いておき、僕は努めて冷静な態度を心掛けながら言葉を返す。

 

「……どうも。お礼は受け取ったから、黙って帰ってくれないかな?」

「フフフ、そう契約者を邪険にするものじゃない。話には続きがあってね、やはりここまで奮闘してくれた君にはご褒美が必要だと思うんだ。例えば――」

 

 マジシャンのように左手を動かしたメフィラの掌に再び出現する僕の心臓。

 それを見せつけながら、彼女は心底楽しそうに提案した。

 

()()()()()の提案、とかね」

 

 契約のエキスパートである如月メフィラ側からの提案。

 こんなもの、内容を聞く前から返答は決まっている。

 

「……結構だよ。契約解除ならいつでも大歓迎だけどね」

「内容を聞く前から判断するものじゃないよ。話は最後まで聞かないと」

 

 コイツの話を最後まで聞く方が、リスクが高い。

 分かっているが故に耳を塞ぎたいが、そんなことは許さないとばかりに、メフィラは良く通る声で新たな契約内容を提示した。

 

「――この心臓を返す代わりに、僕と番えて悪魔にならないかい?」

「っ⁉」

「はぁ?」

 

 あまりにも滅茶苦茶な提案に、思考が一瞬停止した。

 

 コイツ、今、何と言った……?

 番えて、悪魔になる……?

 

 悪魔は生まれついた存在がほとんどだが、極まれに人間から悪魔へ転生する者もいるという。

 十六夜唯の「受容」とは異なり、本当の意味で身も心も悪魔に生まれ変わる――

 それを提案してきたのだ。

 

 思考が追いつかず、言葉に詰まる。

 僕の混乱を察したのか、メフィラは軽やかに言葉を継いだ。

 

「あぁ、人間的に言えばそうだね……結婚しない? 結婚して悪魔になろうよ」

「……結婚⁉」

 

 意味を理解した瞬間、背筋が凍る。

 僕と、この最低最悪の悪魔が結婚⁉

 考えるまでもなく、答えは決まっている。

 

「お断りだ。絶っっっ対にお断りだ!」

「……あらら、振られちゃったか。残念」

 

 本当に残念がっているのか、それともただの気まぐれなのか、メフィラは肩をすくめる。

 分からない。

 やっぱり、コイツの考えだけは永遠に理解できない……!

 

「あーあ、残念だったな。君と組めば、魔界も支配できると思ったのに」

「世迷言を……!」

「失礼な。結構本気で考えているんだよ? 今回の立ち回り、君は僕の想像をはるかに超えた活躍を見せた。まさか、本当に姉上を抑え込んでしまうとは……恐れ入ったよ」

 

 その言葉は、冗談のようでいて、どこか真剣だった。

 少なくとも、メフィラが僕の立ち回りに一定の満足感を得ており、期待値を上回ったことから"褒美"を与えたいと考えているのは嘘ではないのだろう。

 

 ……というか、そもそも勝てる見込みがないなら、なんで僕を送り出したんだ……?

 

「暇つぶしの予定だったんだ。姉上には勝てないし、真っ先に殺されるだろうから、もうあとは割り切って楽しもうって思って」

「最悪だッ!」

 

 あまり人のことを言える立場ではないが、本当に最悪だった。  

 コイツ本当に人間か? ……いや、悪魔だったな。

 

「しかし、一考の余地もなく振られちゃったとなると……この心臓は返せないなァ」

 

 メフィラは人の心臓をボールみたいに放り投げ、楽しそうにキャッチする。

 ニヤニヤと、こちらを挑発するように。

 

「……最初から返すつもりなんてないんでしょ?」

 

 分かりきっていたことを口にすると、メフィラは"よく分かってるじゃないか"と笑った。

 

「……メフィラ、と言いましたか」

「えぇ、そうですよ、お嬢さん。僕に何か用かな?」

 

 突然、これまで黙っていた天羽璃奈が口を開いた。

 

「天羽……?」

 

 嫌な予感がした。

 僕は咄嗟に彼女の名を呼ぶ。

 

 すると、璃奈は微かに微笑んだ。

 天使のように、慈愛に満ちた――それでいて、悲壮感と危うい決意を帯びた瞳で。

 

「――私の心臓と彼の心臓を取り換える契約を結べませんか?」

「ッ⁉ 何言ってんだ! そんなのダメだ! 絶対ダメだ!」

 

 咄嗟に叫んでいた。

 

 彼女は今、自分の身代わりになると言ったのだ。

 エクソシストとしての"禁忌"――悪魔との契約を、自ら申し出た。

 

 天羽璃奈のこれまでを否定し、そしてこれからの人生も捧げるような提案。

 それは僕を絶望させると同時に――

 この世の誰よりも、僕を愛してくれている証明だった。

 

 泣きそうになった。

 だからこそ、許せない。

 こんなふざけた提案が、まかり通っていいはずがない。

 

「ひゅぅ、健気だねェ。面白そうだし、一考の余地ありかな」

「貴様ッ! ふざけるのも大概にしろよ!」

「僕はいつだって真剣だよ。……ところで、そこのお嬢さんの心臓に鞍替えしたら君はどうするつもりなのかな?」

「殺す」

 

 絶対に、何が何でも。

 

 視界の端で、璃奈が小さく息を呑んだのが分かった。

 それでも、彼女を振り向くことはしなかった。

 

「冷静に考えろよ、如月メフィラ。お前、ここで僕を敵に回してみろ。死ぬまで後悔することになるぞ……!」

「ハハハハハ! これは、これは、人間風情が大きく出たものだ」

「悪魔風情が調子に乗るなよ……!」

「――ちょっと言葉が過ぎるね。仕置きが必要かな?」

「ぐぅっ……⁉」

「優斗君⁉」

 

 いつもの貼り付けたような笑みを消し、冷酷な表情を浮かべたメフィラは僕の心臓をギュッと握り締めた。

 耐え難い激痛が襲い来る。

 璃奈の悲鳴が遠くに聞こえる。

 視界がぐにゃりと歪む。

 

 だが、それでも――

 

「お前……八つ裂きにしてやるからな……!」

「フフフ……面白い! やってみなよ!」

 

 左手で心臓を握りつぶすようにしながら、右手をくいっと立てて挑発するメフィラ。

 胸が焼き切れるような激痛の中、僕はそれでも"怒り"だけは失わなかった。

 こいつが璃奈の心臓を手にしたら、何を要求するか分からない。

 想像したくもない。

 だから、殺す。

 

()()()()()

 

 その言葉と同時に、激痛がふっと消えた。

 メフィラは左手の心臓から手を離し、いつもの軽薄な笑みを浮かべている。

 

「お前……」

「フフフ……冗談だよ、冗談」

 

 からかうような声。

 僕の怒りを楽しむかのような態度。

 

「お嬢さん、君の献身性には目を見張るが、悪いね」

 

 メフィラは璃奈の方を見やりながら、肩をすくめる。

 

「君はあまり僕の好みじゃないんだ。心臓をもらっても正直、嬉しくはないな」

「ッ……!」

 

 璃奈は悔しそうに俯き、唇を噛んだ。

 僕は安堵したが、同時に――

 このままでは、彼女は僕のために死んでしまうんじゃないかと恐れを抱いた。

 

 璃奈は迷いがなかった。

 "私の心臓を差し出す"と、そう決めた瞬間、彼女の中には一切の躊躇がなかった。

 まるで、自分がそれをするのが当然であるかのように。

 

「天羽……」

「フフフ……君たち、見ていて本当に飽きないね」

「ッ! 見世物じゃないぞ!」

「そう怒るなよ。これでも褒めているんだよ?」

 

 俯く璃奈と苦悩する僕を見て悪魔は笑っていた。

 思わず睨みつけるが、僕の視線などどこ吹く風。

 メフィラは肩を竦めて話題を切り替えた。

 

「さて、僕の新しい契約は振られたわけだけど……やはり勝者に褒美は必要だよね? ふむ。だけど、結婚の提案を袖にされたこともあるし、どうしたものか――」

「もういいから、黙って帰ってくれない……?」

「よし! それじゃあ、こういう契約はどうかな?」

 

 僕の心の底からのお願いをガン無視し、メフィラは楽しそうに思いついたらしい契約の内容を口にした。

 

「僕、如月メフィラはこの心臓を今日から1年後まで決して傷つけることはしない。その代わり、地藤優斗は如月メフィラと契約前に話した内容とそれに紐づく秘密を如月メフィラ以外に伝えてはならない。どんな媒体であってもね」

「……なんだ、それ?」

 

 思わず訝しむ。

 

「条件としては悪くないだろう? 寧ろ、君にとってはとんでもなく有益な契約内容だと思うけれどね」

 

 確かに、悪くない。

 心臓の安全を保障するということは――彼女が僕を脅すためのネタが一つ減るということだ。

 コイツのことだから脅すためのネタなんて容易に思いつくのだろうが……先ほどのように心臓を強く握ってしまえば、正直、僕の直接的な抵抗はかなり難しくなる。

 そんな、脅しのネタとして好都合な心臓を(1年限定とはいえ)傷つけないための条件が、契約前に話したことを誰にも話さないこと――?

 

 僕にとっては好都合すぎて、逆に疑わしい。

 

「確かに僕にとっては条件が良いが……何を考えているんだ?」

「だから、ご褒美だって言っただろう? 素晴らしい成果には、素晴らしい契約で答えなければ契約者の名折れと言うもの。僕だって、偶には寛大さを見せるさ」

 

 それに――

 と、メフィラは妖しく微笑み、璃奈に流し目を送った。

 

()()()()()()()って、いいよね?」

「ッ――!」

 

 背筋にゾワリと悪寒が走る。

 嫌な予感がして、僕は恐る恐る隣を見た。

 

 天羽璃奈が、怒っていた。

 

 それも、ただの怒りではない。

 嫉妬と焦燥、そして"何かを壊してしまいそうな激情"を秘めた怒り。

 

「………………」

 

 普段の彼女からは想像もできないほど、鋭い瞳でメフィラを睨みつけている。

 その紫の瞳が、危ういほどに揺れていた。

 

「おやおや、嫉妬するなんて可愛いねぇ」

 

 コイツ、天羽を煽ることが目的だったのか……!

 つくづく、ろくでもない悪魔だな⁉

 

「フフフ……どうする? 契約を結ばないなら、このままこの心臓を握り潰すけど」

「こういうのは契約じゃなくて脅迫って言うんだ……!」

「そうか。覚えておくことにするよ。――で、どうするんだい?」

 

 僕の話なんか聞いちゃいない。

 聞くつもりもない。

 悪魔の掌の上で転がり続ける現状は決してよろしくないが……僕は今、ここで死ぬわけにはいかない。

 

 だって、天羽にまだ謝れていない。

 まだ、伝えていないことがある。

 

 だから――みっともなくとも、必死に生にしがみつくしくないのだ。

 

 どれだけ情けなくても。

 屈辱的でも。

 

「……契約を受け入れるよ」

「いい子だ」

 

 メフィラは貴族のように優雅な足取りで僕の目の前まで歩み寄り、左手に僕の心臓を握ったまま右手を差し出してきた。

 僕も右手を差し出し、陶磁器のように美しい彼女の手を握り返す。

 

 ここに、契約は成立した。

 

「今後ともよろしく頼むよ? 我が愛しの契約者様」

「……」

 

 僕にできる精いっぱいの抵抗は、嬉しそうなその声に返事をしないことだけだった。

 無視されたというのに満足そうに頷いたメフィラはこちらに背を向けた。

 これでようやく用事は終わったらしい。

 

 その身体が藍色の光に包まれ、実体化を解くその間際。

 首だけ振り返ったメフィラは心底楽しそうな笑みを浮かべた。

 

「――1年後の契約更新が楽しみだよ」

 

 それは、僕があの手この手でコイツに一生粘着されることが確定した瞬間だった。

 

 

 

 

♰♰♰♰♰ ♰♰♰✜♰♰♰ ♰♰♰♰♰ 

 

 

 

 

 最悪の悪魔が去り、病室に今度こそ本当の意味で静寂が訪れる。

 

「……優斗君、心臓は大丈夫……?」

 

 静かな声が響く。

 

 天羽は心配そうな瞳で僕を見つめていた。

 あんなことがあったというのに、ただ僕の身を案じて。

 

「えっ、あ、あぁ……うん。もう痛くないよ」

 

 なるべく自然に返す。

 事実、心臓はもう痛くなかった。

 

 契約は成立したのだ。

 

 如何にメフィラといえども、あの内容では僕の心臓を傷つけることは出来ない。

 その対価として、僕はメフィラに話した内容を天羽に話すことが出来なくなったわけだが……これは痛手だ。

 

 僕は全部を天羽に伝えようと思っていた。

 

 前世の記憶があり、この世界の結末を幾つか知っていること。

 そのために天羽と別れて、彼女が十六夜蓮と付き合って最も安全なルートへ誘導しようとしたこと。

 

 それが彼女への誠意だと思っていたから。

 だが――

 

“如月メフィラと契約前に話した内容とそれに紐づく秘密を如月メフィラ以外に伝えてはならない”

 

 この契約内容は、僕が天羽へ詳細な内容を伝えることを阻害していた。

 例えその内容が大したことではないとしても、隠しているという事実が不和を生む要因になりかねない。

 

 あの悪魔、つくづく余計なことを――

 

「優斗君」

「っ! な、なに……?」

 

 考え込んでいた僕を現実に引き戻す、美しい声。

 反射的に答えると、そこには先程よりも明らかに距離を詰めた天羽璃奈がいた。

 

 彼女はじっと僕の顔を覗き込んでいた。

 まるで、心の奥まで覗こうとするかのように。

 

「本当に大丈夫? 怖い顔してるよ?」

 

 天羽の静かな声が響く。

 

「あぁ、うん。大丈夫。あの悪魔へありったけの罵詈雑言をぶつけていただけだから」

「そうなんだ」

 

 一言だけ返答して――そして彼女は、ただじっと僕を見つめていた。

 穴が空きそうなくらいに、じっと僕のことを見つめている。

 その紫色の瞳には敵意など欠片もなく、寧ろ勘違いでなければ恋人であった時と同様に好意的な熱っぽさがあるように感じる。

 

 それはとても嬉しいことだ。

 嬉しいことなんだが……一言も発することなく熱心に見つめられては、どう対応したらいいか困ってしまう。

 

 沈黙が落ちる。

 妙に重たい、沈黙。

 

 何を話せばいいのか分からない。

 

 誠心誠意、彼女と話し合いをしようと決めていたのに、あの余計な悪魔のせいで、空気も含めてすべてぶち壊しになってしまった。

 どうしたものか考えていた時――

 

「あっ……」

 

 小さな声が聞こえた。

 

「天羽⁉」

 

 反射的に駆け寄る。

 その瞬間、璃奈の身体がふらりと崩れ落ちた。

 

「っ……!」

 

 咄嗟に腕を伸ばし、真正面から彼女を抱きとめる。

 腕の中に収まった身体は、驚くほど軽かった。

 

「ご、ごめんね……?」

 

 申し訳なさそうに微笑む天羽。

 けれど、その笑顔には力がなかった。

 

「急に、力が……入らなくて……」

 

 その言葉を聞いた瞬間――僕の心臓が、ギュッと締め付けられた。

 

 天羽は、すでに()()だった

 

 霊力は底をつき、祓器を展開することすらできない。

 体中から血を流し、拘束されていた手首は紫色に腫れ上がっている。

 触れた身体は異様に熱い。

 きっと、瞳が熱っぽかったのもそれが理由だろう。

 そんな状態なのに――

 

 ずっと、耐えていたのか。

 

 限界が来るまで、僕の前では無理にでも立っていようと。

 

 胸の奥が痛む。

 彼女がここまで傷ついているのに、気づいてやれなかった自分が情けない。

 

「いいよ。気にしないで」

 

 優しく、頭を撫でる。

 

「天羽は頑張ったんだから……ゆっくり休んで」

「……()()

「えっ?」

「また……苗字に戻ってる……」

 

 疲労のピークに達したのか。

 天羽は風邪を引いた時みたいに目をトロンとさせ、微かに微笑みながら指摘する。

 

「ご、ごめん……やっぱりこっちの方が呼び慣れてて……」

「フフ……なんか、優斗君って感じがする」

 

 眠たげな彼女の表情は、どこか甘えるようで――

 

「それもいいけど……私ね、蓮君に"名前で"呼ばれているんだよ?」

「……そ、それが?」

 

 僕は、何気なく返す。

 けれど、その瞬間、彼女の唇が甘美に歪んだ。

 

「あっ、嫉妬してる」

 

 ふふっ、と微かに息を漏らす。

 疲れ切っているはずなのに――

 どこか楽しそうに、嬉しそうに、愛しいものを確かめるように。

 

「なんだ、私の空回りじゃなかったんだね……」

 

 そう言って、くすぐったそうに笑う。

 

「……僕だって、嫉妬ぐらいする」

 

 僕がぼそりと呟くと、璃奈はますます愉悦に満ちた笑顔を浮かべた。

 その紫の瞳が、どこか愉しげに細められる。

 

「良かった……そうじゃなかったら、私、死んじゃってたよ」

「笑えない冗談はやめてよ」

 

 思わず、苦笑する。

 けれど――

 

「冗談じゃないよ」

 

 その言葉が落ちた瞬間、()()()と悪寒が背筋を駆け上がった。

 

 冗談じゃない。

 本当に、冗談じゃない。

 

 璃奈の唇に浮かぶのは、いつもの柔らかい笑顔じゃなかった。

 それは――ゾッとするほど妖艶な笑みだった。

 

「天羽。ちゃんと話そう」

 

 僕はしっかりと璃奈の肩を抱き、目を覗き込む。

 今の嫌な予感も含めて、彼女とはしっかり話し合う必要がある。

 あのクソ悪魔のせいで話せることに制限が掛かってしまったが、それでも話し合いをしないという理由にはならない。

 

 ただ、今の彼女は意識を保つのもやっとの状態だ。

 だから――

 

「だから、今はゆっくりと休んで。起きたらまた話し合いをしよう」

「……やだ」

「はい?」

「……だって、優斗君、どこかにいっちゃうでしょ……?」

 

 紫色の瞳が、不安げに揺れる。

 

「私が目を離したら、私を置いてどこかへ行っちゃうんでしょ……?」

 

 幼い子供みたいに僕の制服をぎゅっと握りしめる。

 離さない、と言わんばかりに。

 僕は答えた。馬鹿なことを笑い飛ばすみたいに。当然のこととして。

 

「行かないよ」

「……どこにもいかない?」

 

 不安げに揺れる瞳。

 縋るような声。

 僕は彼女の眼を見つめて頷いた。

 

「もちろん。ずっと、傍にいるよ」

「……嘘だったら酷いよ」

 

 指先が震えている。

 

「ずっと、ずっと、ずっと――」

 

 声も震えていた。

 だが、その震えは、何か得体の知れない熱を孕んだものに変わって――

 

「ずっと、いっしょに、いてね」

 

 願うように、命令するように、絡めとるように囁いた。

 

 そして、限界だったらしい彼女の意識は、そっと闇に沈んだ。

 僕の腕の中で、静かに寝息を立てながら。

 

「……」

 

 僕は何故か、尋常ではない汗を掻いていた。

 原因は言うまでもない。

 目を閉じ、静かに体力を回復させている彼女の寝顔は天使のように可憐で美しくて――

 だからこそ、先程の熱を帯びた紫色の瞳が嫌に記憶に焼き付く。

 

「……まぁ、いいか」

 

 天羽も疲れていたんだろう。

 僕は彼女をお姫様抱っこで持ち上げ、結界が解けて現実世界に回帰しつつある病院の中を歩き始めた。

 柔らかい彼女の身体の体温を感じながら、忘れないうちに一言。

 

「――お休み、璃奈」

 

 そっと囁くと、彼女の口元が微かに微笑んだ気がした。

 

 

 

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