世界の為に推しとの恋愛を諦めようとしたらヤンデレ化された件 作:赤坂緑語
偽十六夜蓮――改め、血の大公を撃退した僕と璃奈は束の間の休憩を終え、迷宮の中央に向かって進み始めた。
血の大公に十六夜蓮の霊力を吸収されたら、かなり厄介なことになる。
幸いにも大公はゲーム感覚で狩りを楽しんでいるようだし、慢心している今のうちに何としても十六夜蓮のことを保護する必要があるだろう。
璃奈と一緒に黙々と迷宮の中を進んでいるが、血の大公が言っていた通り、中央に近づくにつれて亡者の数は増えていく一方だ。
時には通路にぎっしりと――満員電車のようにぎゅうぎゅう詰めで出現することもあり、僕たちは逃げるだけではなく、先に進むために殲滅という手を取らざるを得ない場面も出てきた。
今はまだ体力に余裕があるのでこの程度の亡者であれば問題はない。しかし、この状況がずっと続くのであれば、そう遠くないうちに限界が来ることは想像に難くない。
“
アイツは、ゲームのルール自体をひっくり返すような真似は嫌いだろうから、安易な逃げ道は許さないといったところだろう。
……自分でひっくり返すのはOKの癖に、面倒な奴だ。
そんなこんなで正攻法での攻略を強いられることになった僕と璃奈は、頭上に輝く赤い星を目指し、厄介極まりない迷宮を進み続けていた。
「優斗君、どっちに行こうか?」
何度目かも分からない分かれ道が現れ、璃奈が尋ねてくる。
僕は頭上の赤い星を見上げた。
迷宮の構造が変化し続けている以上、どちらが正解かは僕には分からない。
だが、着実に中央に向かって進んでいるようだし、こんなところで悩んでいる時間はない。
僕は直感に従って答えを口にした。
「右に行こう」
「分かった」
璃奈は頷き、チラリと左の通路を確認してから右へ進もうとして――
「えっ」
唖然とした声を漏らしながら、再度左側の通路に視線を移した。
「どうしたの? 璃奈――」
彼女に釣られて左の通路を見た僕は、衝撃のあまり言葉が出てこなかった。
……そうか。
この迷宮は迷い込んだものの記憶から偽物を作り出す権能の檻。
であれば、
「おかあ、さん……?」
問い掛ける璃奈の声は震えていた。
左通路に立つ女性を前に、封じていたトラウマを思い起こされたように顔面蒼白になっている。
「久しぶりね、璃奈」
亡霊のように立っていた女性――天羽玲子は、原作と同じ声で娘の名前を呼んだ。
「璃奈――」
「動かないで!」
彼女は偽物だ。璃奈にそう伝えようとするが、僕の警告よりも先に彼女は銃を母の姿をした人形に突き付けた。
「大丈夫だよ、優斗君。私は分かっているから。あれは――偽物」
先程までの動揺などなかったかのように、力強い声で断言する璃奈。
彼女の過去を知るが故に焦ったが、璃奈は想像以上に冷静だった。
その表情には確かな決意が宿っている。
「偽物だなんて、酷いこと言うじゃない。璃奈」
「偽物は偽物よ」
天羽璃奈にとって最も結びつきが強い故人の姿がそこにあるというのに、彼女に揺らぎはない。
過去を乗り越え、現実を生きている彼女は淡々と事実を口にしながら、冷たい瞳で決別を口にした。
「さようなら、悪趣味なお人形さん」
指が、トリガーにかけられる。
何のためらいもなく、ただ冷徹に。
だが――
「もう一度、私を殺すつもりなの?」
ピタリ、と彼女の動きが止まった。
「……璃奈?」
異変に気づいた僕が彼女の顔をのぞき込む。
さっきまで確かにあった余裕は、どこかへ消えていた。
顔面は蒼白。瞳は恐怖に縛られている。
「あら、これは効くのね。それだけお母さんを死なせた事実は大きかった? あぁ、それとも――隣にいる彼氏に聞かれたくなかったのかしら?」
「黙れッ!」
璃奈の怒声が飛ぶ。
滅多に聞かない激情に満ちた声で彼女は真実を突き付ける。
「貴女は勝手に一人で死んだだけだ! 私の目の前で、自分勝手に頭を吹き飛ばしただけだ!」
「最後の結果はそうね。だけど、私がどうして自分の頭を吹き飛ばすに至ったのか、その過程がすっぽり抜けているわよ」
「ッ! それも私の責任だと⁉ 貴女はお父さんがいなくなった事実に耐えられなくて、私に八つ当たりしていただけよ!」
「あら、えらく感情的じゃない。私の言葉が事実であると認めたくないだけじゃないの?」
「違う!」
震える声でそう言った彼女が、ふと、僕の方を見た。
その目が――揺れていた。
恐怖に、戸惑いに。
そして何より、そこにあったのは“拒絶されること”への恐れだった。
――そうか。
璃奈が本当に恐れているのは、母ではない。
僕に失望されることなのだろう。
そんなにムキにならなくたって、僕が彼女のことを嫌うなんてあり得ないのに。
僕は微笑みながら、「大丈夫だよ璃奈」と優しく声を掛けようとした。
だが――
「ッ!」
二人のやり取りに気を取られていたその隙をつかれ、僕は背後から何かに掴み掛かられた。
振り向けば、そこには腐りかけの身体を総動員し、僕をホールドしている亡者の姿がある。
「このッ!」
咄嗟に左肘を亡者の顎にぶつけ、さらに怯んで下がった顔面にもう一発左肘をお見舞いする。完全に距離が空いたところで、強烈な右のハイキックを顔面にお見舞いすれば、亡者の顔面は容易く吹き飛んだ。
「優斗君⁉」
背後でのゴタゴタに気が付いた璃奈が銃口を天羽玲子に向けたまま、こちらを振り向く。
大丈夫だよ、と安心させてやりたいが――いつの間に沸いていたのか、続々と出現した亡者たちが襲い掛かって来た。
「調子に、乗るな!」
剣を袖から取り出し、近づいてきた亡者を片っ端から切り裂いていく。
璃奈はすぐに僕に加勢しようとするが――
「貴女はこっちよ、璃奈」
「ッ! 邪魔するな!」
「親に向かって随分な口の利き方ね」
滑らかに接近していた天羽玲子に銃剣で斬り掛かられ、応戦せざるを得ない状況に追い込まれる。
亡者の群れを捌きながらチラリと天羽玲子を見るが、どうやら彼女はかなり力を入れて制作されたらしい。
通常、この迷宮に現れる偽物たちはその力が二段階ほど下がるが――璃奈と互角に渡り合っている辺り、全盛期ほどではないがそれなりの調整がされているのだろう。
「どけッ!」
しつこく掴みかかってきた亡者の一体を回し蹴りで吹き飛ばし、璃奈に加勢すべく踏み出す。
だが、その瞬間――
「ッ! まずい! 璃奈! 早くこっちへ!」
「えっ――」
鍔迫り合いの最中だった璃奈の背に声を飛ばす。
彼女は振り返り、目を見開いた。
僕たちの間に、巨大な壁がせり出してきていた。
それはまるで迷宮の意志が、僕たちの間を引き裂こうとしているかのようだった。
赤黒い岩の塊が、無機質なうなりを上げながら、ゆっくりと、だが確実に、中央で合わさろうとしている。
「クソっ!」
掴み掛かって来る亡者たちを乱暴に力任せに殴り飛ばしながら何とか壁の向こうへ行こうとする。
だが、異様にしつこい亡者たちは僕の髪を、服を、脚を掴み、あの壁の向こうへ行かせようとしない。
「璃奈ッ!」
彼女の名を叫びながら、それでも何とかその先へたどり着こうと亡者たちに傷をつけられながらも前に進み続ける。
「優斗君ッ!」
璃奈もまた抗っていた。天羽玲子に加勢するように出現した亡者の群れ。そして天羽玲子自身と刃を交えながら、それでも何とかこちらへ来ようと必死に暴れまわる。
ギィィ……ッ!
不気味な金属音を響かせながら、両側から迫る壁が、残酷なまでに、静かに、着実に狭まっていく。
僕たちが、引き裂かれる。
「璃奈!」
「優斗君!」
壁まであと一歩と言うところまで近づき、互いに手を伸ばす。
亡者に引っ張られながら、邪魔をされながら、それでも手を伸ばす。
あと少し。
あと少しで、届く。
指先が触れそうなところで――
僕たちは出現した壁に遮られた。
♰♰♰♰♰ ♰♰♰✜♰♰♰ ♰♰♰♰♰
「クソっ!」
怒りに任せて出現した亡者を全滅させた僕は、苛立ちを吐き出すように赤い壁を殴りつけた。当然、この程度の攻撃で傷がつくはずがないし、仮に傷がついたとしても、即修復される。
だが、そうせずにはいられなかった。
鬱陶しい壁を睨みつけながら、少しだけ冷静さを取り戻した僕は現状を踏まえたうえでこれからどうするべきか考え始めた。
「璃奈の十銀銃の全力砲撃なら、壁を破壊できるか……? いや、でも天羽玲子や亡者たちと戦いながら撃つのは無理だ。それに、迷宮の構造は絶えず変化し続けている。ここで璃奈が壁を壊してくれるのを待つのは無為に時間を消費するだけだ」
今も壁の向こうで戦っているであろう彼女の姿を思い浮かべる。
璃奈が一瞬で敵を片付けて壁を破壊することも考えたが、動揺していたとはいえ、璃奈が一蹴できなかった相手との決着が一瞬で着くとは思えない。
向こうの状況を考えるだけで不安に駆られるが、今は冷静にならなければならない。
冷静に、冷静に。
自分に出来ることを考えろ。
「だったら、僕がすべきは――」
頭上に輝く赤い星を睨みつける。
「――中央に向かうこと」
元より璃奈とはそういうつもりで動いていたのだ。
大丈夫。彼女ならきっと、僕と同じように中央へ向かってくれるはずだ。
そうと決まれば、さっさとここから移動すべきだろう。
僕は壁に手を当て――
「璃奈、絶対に再会しよう。だから、どうかそれまで無事で――」
聞こえるはずがない言葉を残し、僕は壁に背を向けて右の通路へ向けて駆け出した。
♰♰♰♰♰ ♰♰♰✜♰♰♰ ♰♰♰♰♰
いるべき人が、隣にいない。
長らく一人っきりの状況から遠ざかっていた僕は、その事実の寂しさに心が打ちのめされ掛けていた。
思えば、霧島レイに襲撃されてからというもの、璃奈とは同棲を開始したわけで――彼女とはそこから、文字通りずっと一緒にいた。
朝ご飯を食べる時も、通学する時も、お昼休みも、帰り道も、晩御飯を食べる時も一緒。
それだけ一緒にいてくれた彼女が、今はいない。
情けない話かもしれないが、僕は今、彼女がいなくなったことで改めてその存在の大きさを認識していた。
一刻も早く彼女に再会したい。その一心で、迷宮の中を進み続ける。
そうして迷宮内を彷徨うこと数分後。
僕は再会を果たした。
「璃奈じゃない。チェンジで」
別に、再会したくもなんともなかった相手と。
再会した相手――霧島レイは頬を引き攣らせた。
「……随分と失礼なことを言ってくれる」
「当り前でしょう。さっさとどっかに行ってください。僕は璃奈を探しに行かなきゃいけないんですから」
「……天羽とはぐれたのか」
「トラブルがありましてね」
鍔迫り合いをしながら、ある意味で元凶ともいえるレイを睨みつける。
「どうして貴女がここにいるかは知りませんが……貴女に僕を止める資格はないはずだ。いいから、さっさとどいてください」
「……」
霧島レイは僕に何かを言い返そうとして――だが、何も言葉が出てこなかったのか、もごもごと口を噤んだ。
この感じは多分、偽物じゃなくて本物だろう。まぁ、別にどっちだっていいのだが。
学校の屋上で激昂していた時の熱は一旦冷却され、落ち着きを取り戻しているようだが、生憎とこちらには彼女に優しくしている余裕はない。
「悪いですが、僕は先に行かせてもらいますよ。――
「ッ⁉」
霧島レイは僕の言葉に従い、刀を下ろして大きく後退した。
「な、なんだ……か、身体が勝手に……!」
自由が効かない己の身体を見下ろしながら驚愕の表情を浮かべる霧島レイ。
僕は剣を仕舞い、敵対の意思を解きながら口を開いた。
「契約の内容を忘れたんですか? ――地藤優斗に従い、なおかつ、彼と彼の仲間である天羽璃奈、十六夜蓮、十六夜唯に一切危害を加えない。貴女は、僕に従うしかないんですよ」
「馬鹿な! 貴様は私を裏切った! 弟を蘇生させられないと……!」
「……それについては確かに僕にも非があります。貴女を騙すようなことをしてしまって申し訳なかったです。ですが――」
この契約のお陰で少なくとも吸血鎖陣で大勢の人の命が奪われることは阻止できたのだから、後悔は微塵もない。
だから僕はちょっと伝え方に問題があった点だけ謝って、真実を告げた。
「――霧島先輩、貴女は人間のように複雑な生命体が抱く願いが一つだけだと思っているんですか?」
「なに?」
「貴女は半分吸血鬼の血が入っているとはいえ、人間でしょう? つまり、貴女もまた複雑な感情を持つただの人であり、抱いている願望が一つとは限らないはずです」
「ふざけるなッ!」
霧島レイは再び激昂した様子で僕の言葉を否定した。
「また言葉遊びか? 私の願いは弟の蘇生だけだ! これまでその為だけに生きてきたんだッ! 他に願いなどない!」
「貴女は今、冷静じゃありません。本当の願望は心の奥底に眠っていて、案外自分では気が付かないものです」
「黙れッ!」
霧島レイは歯を食いしばりながら何とかその場から動こうとする。契約で縛られているはずの身体を無理やり動かし、僕を切り裂こうともがいている。
……やれやれ。この時期の霧島レイが頑固で妄執的なのは分かっていたことだが、想像以上だ。
この状態の彼女を説得するにはかなり時間が掛かるだろう。
今後のことも考えると彼女とは良好な関係を築いておきたかったが、仕方ない。
今の僕にとっての最重要事項は璃奈と再会することなのだから、遠慮なくいかせてもらう。
「霧島先輩。すいませんが、僕は先を急いでいるので、四の五の言わず手伝ってもらいますよ」
「なにを――」
不穏な気配を感じ取ったのか、身構える彼女に向かって僕は告げた。
「――僕を霧に包み、高速で迷宮の中央まで連れていけ」
「ッ⁉」
僕の言葉を認識した霧島レイの身体が黒い霧に変化していく。
「こ、これはまさか……!」
「いやー、脚で移動するのにも疲れていたので、助かりましたよ。
「き、貴様……!」
彼女にとっては屈辱でしかないだろう。自分を裏切った相手に、自身の能力をタクシー扱いされるなど。
ただ、合理的に考えれば彼女の霧移動が亡者にも妨害されない最適な移動法なのだから、仕方がない。
ノコノコと僕の前に現れた不運を呪って欲しい。
「さて、行きましょうか。――あっ、初乗り運賃は500円で良かったですか?」
「貴様ァ!」
血の大公に指示されたこととはいえ、この迷宮に突き落としてくれたことへの嫌味も込めてニコニコ笑顔で尋ねる。
霧島レイは怒りで顔を染め上げながら――しかし、僕の言葉に逆らうことが出来ないまま完全に霧となり、そして僕のことを包み込んだ。
「それじゃあ運転手さん。中央までお願いしまーす」
『……覚えていろよ、貴様』
ギロリ、と霧の中に浮かぶ赤い瞳に睨みつけられる。
僕は肩を竦め、クールに前を指さした。
「発進」
そして、偶然にも手に入れた黒霧タクシーは高速で迷宮の中を進み始めた。
♰♰♰♰♰ ♰♰♰✜♰♰♰ ♰♰♰♰♰
メフィラから「霧になる方法を教えようか?」と提案され、速攻で連絡先をブロックした僕ではあるが……正直、あの申し出は受けるべきだったかもしれないと後悔し始めていた。
「おぉ! 凄いスピードですね! これが霧化か……」
迷宮の中を高速で移動する霧の中央部分に囲まれた状態で移動しながら、僕は霧の合間から見える景色を見て感嘆の声を上げた。
優秀なエクソシストとしての皮を被っている僕の移動速度もそれなりのものがあるが、流石にここまでスムーズに移動することは出来ない。
さらに、ルール上、壁を超えることはできないものの宙を浮いて移動しており、亡者たちをガン無視できることもあり、僕など比較にならないほどに迷宮内をすいすいと移動していく。
霧化は悪魔の中でも最上位に位置する存在か、霧島レイのように生まれついての吸血鬼にしか許されていない芸当の為、非常に羨ましく思う。
「あっ、先輩。途中で璃奈がいたら止まってくださいね」
『……』
返事はない。だが、契約上、彼女は僕に従う他ないだろう。
顔は見えないが、とても嫌そうな顔をしているのが分かる。
「あ、それから蓮君がいた時も止まってくださいね」
『……』
もちろん返事はないが、ちゃんと言葉に出して指示をしたのだから守ってくれるだろう。
僕は体力を温存しながら、優雅に迷宮移動を楽しんでいた。
だが――
「ん?」
ここは血の迷宮。
あの性格が悪い血の大公と、さらに性格が悪いメフィラが絡んでいるダンジョンである。
そう易々と突破することを許してはくれなかった。
「先輩、どうしたんですか? 急に止まって」
『……どうやら、大公は私たちを中央に行かせたくないようだな」
「はい?」
僕へ状況を説明する為、前方の視界を塞いでいた霧が晴れる。
そこには、壁が出現していた。
「行き止まりですか。それじゃあ、別のルートから――」
『無理だ』
「はい?」
『自分の眼で確かめてみろ』
「うわッ⁉」
突如、囲まれていた霧の中から地面に落とされ、僕は無様に尻餅をついた。
「痛てて……急に何を……あれ?」
僕は立ち上がりながら彼女に文句を言おうとして――周囲の景色の違和感に気が付いた。
前方には赤い壁がある。
右方向にも、赤い壁がある。
左方向にも、赤い壁がある。
そして――後方にも赤い壁がある。
「……はぁ⁉」
驚くべきことに、僕たちは四方八方を赤い壁に囲まれてしまっていた。
「ちょ、ちょっと! これは流石に無しでしょ⁉ もう迷宮でも何でもないぞ⁉」
「全くだな。これでは、何もしようがない……」
霧から実体化した霧島先輩も困り果てたような顔で周囲を見渡している。
彼女の事情は聞いていないが、どうせ血の大公に言われて十六夜蓮か璃奈のことを回収しに来たのだろう。
互いに先を急いでいることに変わりはない。こんなところで、迷宮のルール自体を捻じ曲げるような悪辣な足止めを受けている余裕はないのだ。
「先輩、全力でこの壁を攻撃してください。もしかしたら、何か抜け道が用意されているかもしれません」
「……」
ギロリ、と赤い瞳に睨みつけられる。僕は肩を竦めて見せた。
何を言っても無駄だと悟ったのだろう。
霧島レイは溜息をつきながら、契約に縛られた身体でノロノロと刀を構えた。
やる気はなさげだが、僕が“全力で”と注文を付けた以上、それは遵守してくれるだろう。
彼女の刀に膨大な霊力が収束していく。
霧島レイは居合の形を取り、そのまま力を開放しようとして――
「誰だッ!」
唐突に奥義の発動をキャンセルして後ろを振り向いた。
僕も突然現れた気配には気づいており、剣を取り出して構えている。
亡者程度であれば、僕が相手をしておくのでその間に霧島レイにはここを脱出するための試行錯誤をしてもらおうと思っていた。
だが、そこにいたのは僕でもどうにもできない、そういう存在であった。
「えっ」
カラン、と刀が地面に落ちる音がした。
霧島レイは溜めていた霊力を霧散させ、震える声で背後に現れた存在の名を呼んだ。
「ユウ……?」
霧島ユウ。
彼女が全てを代償にしてでも辿り着こうとしている最も大事な存在。
幼い少年は、天使のような笑みを浮かべてそこに立っていた。
「……そうきたか」
知らず知らずのうちに歯を食いしばりながら、僕は血の大公の悪辣さに内心舌打ちをした。
「ユウ……そこにいたのか……!」
「ちょっ、先輩!」
フラフラと、吸い寄せられるように弟の姿をした偽物へと歩み寄っていく霧島レイ。
僕は慌てて彼女の肩を掴み、その場に引き留めた。
「止まってください! あれは偽物です!」
「ユウ……! そうか、血の大公が蘇らせてくれたのか……!」
「ちょっと! 話聞いてますか⁉ 止まってください!」
僕の言葉が契約を介して通じたのか、霧島レイの動きは止まった。
だが――
「ユウ……すまない……私は……!」
彼女の視線は少年の姿を捉えたまま離さない。
譫言のように弟の名を口にしながら、彼女は契約で縛られているはずの身体を無理やり前進させようとする。
「先輩! 霧島先輩! 僕の声が聞こえてますか⁉」
「ユウ……!」
まずいな。正気を失いつつある。
屋上で激昂していた時から精神的に怪しい部分があるとは思っていたが、彼女はいよいよ限界なのかもしれない。
……荒療治になるが、仕方がないか。
「いい加減にしてください!」
パシンッ!と乾いた音が迷宮に響いた。
僕に右頬を平手打ちされた霧島レイは打たれた右頬を抑えながら唖然と立ち尽くしている。
彼女の動きが止まった隙を見計らって、僕は言葉を紡ぐ。
「この迷宮は迷い込んだ者の記憶をもとに疑似的な生命体を生み出すギミックが仕掛けられています。あれは、貴女の記憶をもとに作られた偽物。ただの、泥人形です」
「……だが」
「だが、も何もないんですよ! 死んだ人間は生き返らない! 貴女の弟は死んだ! もう蘇ることはないんだ!」
「ッ! なぜそう決めつける⁉ 血の大公は私に言った! 必ず弟を蘇らせるとな! お前とは違い、ハッキリとそう断言したんだ!」
「おねえちゃん」
言い争う僕たちの間を縫うように、幼い少年の声が姉を呼ぶ。
「ゆ、ユウ……!」
「チッ!」
今の彼女には何を言っても通じないだろう。僕は舌打ちをしながら剣――は止めて、十字架を取り出した。
彼女の目の前で弟の姿をした存在を消すのは心苦しいが、今はこれくらいの衝撃がなければ正気に戻ってくれないだろう。
僕は霧島ユウの形をした人形をこの世界から消そうとして――
「えっ」
それよりも早く、どこからともなく亡者たちが出現した。
ただの亡者のように見えるが、全員“白い”衣装を着ている。
さらに、彼らの手の中にはエクソシストたちが使う十字剣が握られていた。
その光景を
いや、正確にはその光景の元になった悲劇を知っている。
まるで過去の惨劇をチープに再現したかのような――あまりにも露骨で、悪意に満ちた演出。
悲劇を嘲笑うかのような、どす黒い悪意に彩られた光景。
僕は怒りで血管が切れそうになりながら駆け出したその瞬間、亡者たちは一斉に剣を振り上げた。
そして――
何本もの剣が四方から容赦なく振り下ろされ、霧島ユウの幼い肉体を切り裂いた。
♰♰♰♰♰ ♰♰♰✜♰♰♰ ♰♰♰♰♰
ズシャ、ズシャ、ズシャ――
鋼の刃が肉を裂き、骨を砕き、命を無惨に刻む音が響き渡る。
地藤はあまりの光景に言葉を失って立ち尽くすことしか出来ない。
そして、霧島レイは――
「ああああああああああああああああああッ!!」
喉が張り裂けそうな絶叫を上げた。
あの日の記憶が蘇る。
――満月の夜。
――静まり返る家。
――白衣。
――十字の剣。
――輪になった、大人たち。
――中央に転がる、小さな肉の塊。
――リビングを濡らす、べったりとした赤。
――ゴミのように殺された、彼女の――
「ユウッ!」
また、繰り返すのか。
また、この苦しみを味わなければならないのか。
危ういバランスの上に立っていた理性が失われていく。悲鳴を上げ続けていた心に罅が入る。
肺が破れるほどの悲鳴を上げながら、レイはその場に膝をついた。視界が滲み、鼓動が狂い、息ができない。頭が焼き切れそうなほど熱いのに、身体は凍えるほど冷たい。
「やめろ……やめろ、やめてくれ……」
か細い懇願が、亡者には届かない。剣は何度も何度も、無力な身体を貫く。
その光景を否定したくて、ここまで来た。
誰かを騙してでも、裏切ってでも、どうしても――もう一度、会いたかった。
それなのに、また。
また目の前で、奪われるのか。
そんな残酷な世界なら、いっそのこと――
『』
ぱきん――と、どこかで音がした気がした。
心の中の何かが、亀裂から崩れ落ちていく。
彼女の“正気”が失われる。
赤い瞳が、ゆっくりと裏返る。
絶叫を伴って、彼女の意識は狂気の淵へと堕ちていった。
♰♰♰♰♰ ♰♰♰✜♰♰♰ ♰♰♰♰♰
「悪趣味にも程があるぞ! 大公!」
胸の内から突き上げてくる怒りを抑えきれず、僕は思わず叫んだ。
目の前では、霧島レイが今まさに狂気に呑まれつつある。
歯を食いしばり、僕は彼女の名を呼んだ。
「霧島先輩! 落ち着いてください! さっきも言ったようにあれは偽物です! 貴女の弟は――」
「ああああああああああああああああああ!」
「ッ! 手遅れか……!」
ここに至り――いや、もっと前から彼女の心は限界を迎えていたのだろう。
大公は、その最後のトリガーを引いただけに過ぎない。
僕は必死に彼女をこちら側に引き留めようとするが、声が一切届かない。
「仕方ない……! 我が契約者、霧島レイに契りの理をもって命ずる! ――止まれ!」
僕は契約の効果を上乗せする条文を口にし、強い言葉で彼女に制止を呼び掛けた。
それは絶対の縛り。悪魔ですら逆らえないはずの“鎖”だ。
だが――
「ああああああああああああああああああ」
絶叫とともに、レイの身体が震える。
まるで拘束を破ろうとするように、全身がのたうつ。
そしてその肉体から、荒れ狂うように黒い霧が噴き上がった。
「ぐっ!」
反射的に腕で顔を庇う。
だが、防ぎきれない。嵐のような魔力が肌を焼くように襲ってくる。
霧の中、見えるのは彼女の姿。
闇の王にでも見紛うような威容。
その瞳にはもはや何の感情もない。ただ、冷たく燃える赤い光だけが灯っていた。
一歩――また一歩。
黒霧を従えながら、彼女は前進してくる。
まるで、世界そのものを踏み砕くように。
「嘘、だろ……」
“
この世界にも一握りしかいない、絶対の“契約”を超越する存在。
まさか――
「“
『■■■■■■■■■■■■――‼』
彼女の声は、もはや人間のものではなかった。
獣のような咆哮を上げ、全身を黒い霧で包んだ霧島レイは“契約”による拘束を無視し、地面を蹴った。
視認することすら出来ない超スピードで移動した彼女は、一瞬で剣を持つ亡者の群れを、塵すら残さず皆殺しにした。
『■■■■■■■■■■■■――‼』
時間にして一秒も掛かっていないだろう。
元から霧島レイは強かったが……今の彼女は、文字通り次元が違った。
暴走状態の彼女は、そのまま全身に剣を刺された霧島ユウの偽物に襲い掛かろうとし――
「それは、ダメでしょ……!」
咄嗟に割り込んだ僕の剣に爪を食い止められ、首を傾げた。
自分でその存在を否定し、消そうとしておきながら、彼女の爪から庇うという矛盾した行為。
これがおかしな行動であることは分かっている。だが、直感的にそうしなければならないと思った。
偽物とはいえ、この状態の彼女が自分の手で弟の姿をしたものを殺した時――いよいよ、全ては終わるだろう。
「ぐぅ……!」
尋常ではない膂力に受け止めた剣がカタカタと悲鳴を上げ、地面に罅が走る。
「……我が契約者、霧島レイに契りの理をもって命ずる! ――止まれ!」
既に彼女は“契約”を超越しているが、それでも多少は拘束効果があるだろう。
至近距離で僕の言葉を受けた霧島レイは一瞬だけ動きを止め――
「ッ! やっぱりダメか!」
すぐに動きを再開し、その鋭い爪を振り抜いた。膂力で圧倒的に劣る僕の剣は弾かれ、爪が僕の首を掠る。
咄嗟に後ろに引いて躱したつもりだったが、掠った首筋から血が溢れだした。
僕は何とか弟の偽物から距離を取らせようと後ろに大きく飛びのき、予備の剣を取り出して構える。
『■■■■■、■■■■■――?』
正真正銘の化け物へと成り果てた霧島レイは僕を見て――何故か首を傾げた。禍々しく輝く赤い瞳が僕のことをじっと見つめている。
一体どうしたというのか。
僕になにかおかしなところでも――
「あっ」
首筋を抑える。肌にべったりと張り付く、赤い
彼女は吸血鬼だ。
そして、覚醒したばかりで腹が空いているに違いない。
即ち――
『■■■■■■■■■■■■――‼』
「まずっ!」
視認できない速度でこちらへ突進してくる黒霧の怪物。
僕は咄嗟にそこから飛びのこうとするが、敏捷性で彼女に敵うはずもない。
凄まじい速度で衝突してきた彼女に跳ね飛ばされ、僕は地面を転がった。
「ッ!」
急いで立ち上がろうとするが、それよりも先に僕の上に彼女がのしかかっていた。
『■■■■■■■■■■■■――‼』
「このッ!」
剣を突き刺そうとするが、彼女は容赦なく僕の両腕を抑えつけ、正気を失った瞳でじっと血が溢れだす首筋を見つめる。
これから何が起きるのか、語るまでもない。
「がっ⁉」
理性を失った霧島レイは鋭利な牙が生えた口を開き――いつかの夜のように、容赦なく僕の首筋に噛みついてきた。
ゴクッ、ゴクッ、ゴクッ、ゴクッ――
こちらの事情などお構いなしに牙を食い込ませ、遠慮なく、下品に血を飲み干していく。
まるで獣が獲物を捕食しているかのように。
「や、ば……」
彼女には一度噛まれて血を吸われていたから、これは二度目の吸血になる。
加えて、今の彼女は疑似的な“覚醒”状態にある。
こんな状況で血を吸われてしまえば――
ドクンッ
ここにない心臓が強く跳ねる。
身体中の血液が沸騰しているかのような感覚に襲われる。
自分の身体が異物に塗り替えられていくかのような感覚。
まずい。
このままじゃ、僕は――
身体中の血液を搾り取られていく。
代わりに、吸血鬼の因子が潜り込んでくる。
ただの因子ではない。
吸血鬼の中でも頂点に位置する、“原種”の因子が、僕の中を汚染していく。
僕という存在が塗り替えられ、意識があやふやになる中――
「あ……」
ふいに、脳のどこかで火花が散って、直感的に悟った。
僕と彼女の間に、主従のラインが走る。
確認しなくとも分かる。
僕の瞳は今、霧島レイと同じように真っ赤に染まっているだろう。
まるで、
『ユウ……』
そして――
僕は誘われていく。
僕の“主”となった彼女の内側へと。
狂える彼女の過去へと。
僕は、この目で直接目にすることになる。
霧島レイの血塗られた過去を。
血と、夏の匂いに満ちた、
凄惨で、歪で、それでも眩しかった――あの日々の思い出を。