世界の為に推しとの恋愛を諦めようとしたらヤンデレ化された件 作:赤坂緑語
レイの過去編です。
――血の匂いがする。
錆びた鉄のような、甘くも酸っぱい匂いが鼻を刺す。
「ハッ……ハッ……ハッ……!」
荒く息を吐きながら、レイはただ前だけを見て走っていた。
ぬかるむ地面を蹴り上げ、足元に跳ねる泥に気も留めず、肩で息をしながら必死に逃げる。
14歳でまだ成長しきっていないその身体にとって、既に限界はとうに過ぎていた。
ふと、何かが背後から自分を引きずるような違和感があって、レイは首をかしげるように視線を後ろに向けた。
――血。
自分の歩いた道に、細い赤が、点々と、尾を引いていた。
右腕を見ると、袖が裂け、そこから血が流れていた。気づかぬうちに切り裂かれていたらしい。
すぐに再生しようと意識を集中させるが、上手くいかない。
吸血鬼対策の武具で斬られたのだと気づき、歯を噛み締めた。
そのときだった。
ポツ、という感触が額を叩いた。
レイは顔を顰め――
「……雨か」
呟いて、空を仰ぐ。
灰色の雲がどこまでも広がり、ゆっくりと涙を流すように、空から冷たい水滴が降ってきた。
レイの血に染まった肌を、雨が洗い流していく。
彼女にとっては絶好の機会だ。
雨が血を洗い流し、痕跡も上手く隠せるかもしれない。
彼女は坂の上を目指して走り始めた。血が坂に沿って下へと流れていく。
そのまま坂の上の民家に辿り着いたレイは、そこから右腕の傷口を強く握りしめて強制的に止血をし、痛みを堪えながら全力で跳躍した。
軽く空を飛ぶ彼女は、そのまま離れた場所に着地し、用心深く周囲を見渡した。
“敵”の気配はない。血の跡を逆に活用できたから、これで暫くは時間を稼げるはずだ。
レイは疲れた身体を引きずって再び歩き始めた。もう一度あのジャンプをする体力は残っていない。このまま遠くまで逃げたいが、酷く消耗してしまっている。
どこかで身体を休める必要があるだろう。
「あら、どうしたのお嬢さん。ご家族はいないの……?」
雨に打たれながら、フラフラと彷徨っていたレイに優しい声が掛けられる。
いつでも襲い掛かれるよう、密かに鋭利な爪を伸ばしながら、レイは後ろを振り返った。
そこにいたのは、品の良さそうなマダムだった。洒落た傘を広げ、心配そうな表情でレイを見つめている。
「……」
レイの頭が高速で回転する。
どうすべきか一瞬で理解したレイは、表情を見られないように俯きながら、小さな声で囁くように言った。
「すいません。家族で旅行に来ていたんですが、途中ではぐれてしまって……」
「あら……」
マダムの声に同情が混じる。俯き、雨に打たれる幼い少女の姿は、良心的な人間からすればかなり胸が痛む光景だろう。
「ここにいたら風邪を引いてしまうわ。ご両親のことは心配だけれど、とりあえず家に来てみない?」
「……いえ、そんな。申し訳ないです」
「子供がそんな遠慮をするもんじゃありません」
一度否定をすれば、人はますます同情的になって、家に誘ってくれる。レイは経験でそれを学んでいた。
マダムはこれまでレイが出会ってきた何人もの“親切な人”と同じように彼女に手を差し伸べてくれた。
「貴女、名前は?」
「……レイ、です」
彼女はそれだけを名乗った。
性はない。
――捨てたから。
家族も、家も、ない。
――失ったから。
彼女に残されたのは、呪われた血とその名前だけだった。
「そう。私は――、よ」
レイはその名を記憶に刻んだ。親切なその人の名前を。
優しいマダムに手を引かれながら、レイは右腕をチラリと見た。
既に傷は塞がり、血は流れていない。
だが――
“血の匂いがする”
レイはぼんやりと悟っていた。自身にこびりついた血の匂いは、もう一生消えることがないのだと。
上機嫌で話し掛けてくれるマダムを見上げながら、レイは思った。
今回は、雨が降り終わるまではいられるだろうか――と。
♰♰♰♰♰ ♰♰♰✜♰♰♰ ♰♰♰♰♰
自分に居場所がないとレイが自覚したのは、両親が呆気なく殺された時だった。
母は純粋な吸血鬼であり、父はエクソシストであった。
決して相容れることはない、宿敵同士の二人はしかし、禁断の恋に落ちて――レイが生まれた。
二人の恋はロマンチックで、さぞかし燃え上がったことだろうが、現実は冷たく、容赦なかった。
まず、裏切り者の父が同じエクソシストに処刑された。
魔を殺す剣で、串刺しにされて同胞たちに殺されたのだという。
次に、母が殺された。
吸血鬼として生まれた罰。
エクソシストの心を惑わせた罰。
その全てを背負って、彼女もまた、父と同じ剣によって串刺しにされた。
幼いレイは母が殺される場面を目撃し――その能力の一端を開花させた。
“霧化”である。
空気に紛れ、姿を消し、接触をすり抜けるその能力は、ただ一つ、レイに生き延びる術を与えてくれた。
だがそれは、ただ地獄を延命させるだけの力であった。
レイは死にたくなくて、何度もその力を使って逃げ続ける。
逃げて、逃げて、逃げ続ける日々。
追ってくるのはエクソシストたちだ。
父と同じような服を着た者たち。母を殺した者と同じ剣を持つ者たち。
彼らが何を考え、何を信じているのかなど、レイには分からなかった。
分かっていたのは、自分が殺される側だということだけ。
なぜ追われるのか、なぜ憎まれるのか、なぜ生まれてきたのか。
答えのない問いを抱えたまま、少女は今日もまた、影のように世界の隅を彷徨っていた。
居場所はどこにもない。
あるのはただ、雨のように降り続ける悪意と、止まることのない追跡だけ。
それでも、彼女は生きていた。
そして、今も――彼女は彷徨い、逃げ続けている。
♰♰♰♰♰ ♰♰♰✜♰♰♰ ♰♰♰♰♰
「ダメです! 家の中にはいません!」
「チッ、逃げられたか……! この街を封鎖しろ! まだ遠くには行っていないはずだ!」
結局、レイがその家に滞在できたのは三日間だった。
その頃には街中にエクソシストの監視網が敷かれ、各家に教会の神父を装った者たちが捜索に現れ始めていた。
ここまでくれば、バレるのは時間の問題だ。
体力が回復したレイはなけなしのお金と手紙をマダムの家に置き、夫に先立たれて寂しそうだった彼女の元を去った。
たった三日間とはいえ、彼女のもとで暮らすのはとても心地が良かった。
だが、あそこに留まれば彼女に危害が及んでしまう。
レイは彼女が寝静まった深夜に家の中を抜け出し、月下のもと、建物の上を跳ねながらその街を後にした。
夜風を切りながら、レイはいつものように彷徨う。
結局のところ、この街にも目当ての存在はいなかった。
噂を聞いてやって来たが、金はなくなるし、傷も負ったし、散々な結果だったと言えるだろう。
さて――
次はどこへ行くべきか。
ここはイタリアの南部だが、既に教会の手があちこちに及んでいる。
少なくとも、イタリアからは出るべきだろう。
夜風を浴びながら、レイは思考する。
今回のように、いつもいつも親切な人と巡り合えて、助けてもらえるわけじゃない。
逆に親切を装って人を食い物にしているような連中も大勢いる。
彼女の身体は頑丈だが、それでも腹は空くし、寝床だって欲しい。
だからこそ、差し当たって必要なのは“金”だろう。
次の目的地を決めたレイは、着地した屋根から大きく飛び上がった。
♰♰♰♰♰ ♰♰♰✜♰♰♰ ♰♰♰♰♰
数日後。
霧化を使ってコッソリ電車を乗り継ぎ、レイはロンドンに辿り着いた。
ここはエクソシストが数多くいる街だ。あまり長居したい場所ではない。
レイは足早に街の中を歩き、薄暗い路地裏に入って、周囲を見渡してから秘密の入り口から地下へと潜った。
タバコとカビの混ざったような、どこか酸っぱい臭いが鼻につく。
「よぉ、お嬢ちゃん。久しぶりだな。今日は何の用だ?」
男は、いつものようにデスクの上に脚を乗せて煙草を吹かしていた。
この男と雑談をする気はない。
レイは端的に用件を告げた。
「……仕事が欲しい」
現在14歳のレイは、まともに職に就くことが出来ない。
しかし、大人びた表情と160㎝を超える身長により、10台後半――下手したら20代前半にも見える容貌のお陰で、“裏”のルートからであれば仕事を探すことは出来ていた。
もっとも、長く続けられるような仕事にありつけたことはないのだが。
「仕事ねぇ。前みたいに護衛の仕事が希望か?」
「あぁ……報酬が高い方がありがたい」
“表”の世界でレイのような年端も行かない少女が護衛を申し出たところで、一笑に付されるだけだろう。
だが、“裏”の世界においては、力こそが全てだ。
表沙汰に出来ない薄暗いことをしている連中や、悪魔と契約しておきながら利息を踏み倒し、取り立てに怯える者――等々、舞い込む依頼は絶えない。
この男は、そういった依頼を取り扱う“裏”の住人ご用達の斡旋業者であった。
「報酬が高い護衛の仕事ねぇ……あぁ、運がいいな嬢ちゃん。ちょっと
男は散らかっている机の上から、ヨレヨレになっている紙を取り出してレイに差し出した。用紙を受け取ったレイはそこに書かれている懐かしい言語を見て驚いた。
「日本人か?」
「あぁ。……なんだお前、日本語喋れるのか?」
「一応は」
レイは淡々と答える。彼女の母には日本の血が混じっており、日本語と英語を話していたので彼女も自然と二つの言語を習得していた。
吸血鬼の伝承が残るヨーロッパを転々としているうちに話せる言語はさらに増えたが、彼女の根幹を成しているのは未だにこの二つの言語だ。
「なら、ますます好都合だな。こいつ等は英語も喋れるみたいだが、母国語でコミュニケーションを取れるに越したことはないだろう」
男の言葉に頷きながら用紙を読み込んでいく。
依頼内容に目を通したレイは怪訝な表情を浮かべた。
「バカンスのお手伝い……これ、本当に護衛依頼なのか?」
写真に写る人は皆幸せそうな笑顔を浮かべていて――とても、争いごとに巻き込まれそうな気配はない。
男は新しい煙草に火を付けながら答えた。
「どちらかというと、ハウスキーパー的な役割らしいぜ。バカンスの間、田舎の別荘で過ごすから、身の回りを片付けてくれる人間を探しているみたいだ」
「表の人間がやりそうな真っ当な依頼に見えるが、そんなのがお前のところに流れてきたのか?」
「俺もそう思ったんだが……一番下の欄を見てみな」
「ん?」
レイは男に言われた通り、一番下の項目に目を通す。
そこにはこう記されていた。
“10歳の息子と歳が近い人間であればなお好ましい”
「お前、目つきは鋭いが、どうせまだティーンエイジャーなんだろ?」
「……どうだろうな。だが、どうしてこの両親はこんな依頼を出したんだ?」
「なんでも、そこの一人息子が人見知りらしくてな。少しでもリラックスできるよう、歳が近い人間がいいそうだ。変な依頼だよなぁ~」
「……」
理由としては、まぁ納得できなくもない。そして、ここに仕事が流れてきた理由も分からなくもない。未成年を働かせるのは表の世界では違法だからだ。
だが、妙な違和感があった。
男の言う通り、“変”な依頼だと思う程度の違和感であったが。
「だが、金払いの良さは確かだ。調べてみたんだが、この男が日本で社長をやっているらしくてな。それなりに金持ちらしい。羨ましいこった」
「……確かに、報酬は悪くないな」
用紙に記載された金額を見たレイはポツリと呟き――男に用紙を返して淡々と告げた。
「この依頼、受けさせてもらう」
「あいよ」
いつものように軽い調子でレイの言葉を受け取った男は、また違う用紙をレイに差し出した。
「場所と時間が書かれている。そこで集合だ」
「分かった」
レイは紙を受け取ろうとし――男がピッと紙を後ろに動かしたことで掴み損ねた。
意地悪なことをする男を睨みつける。
男は小馬鹿にするような笑みを浮かべた。
「1つ忠告しておいてやろう。その小汚い身なりは何とかしていくんだな」
「……善処する」
嫌味っぽい言葉に内心舌打ちをしながら、レイは今度こそ用紙を男から掴み取った。軽く目を通してからポケットに突っ込む。
これでここには用がない。
次に男と会うのは、依頼を終えて報酬を受け取る時だ。
「依頼の提供、助かった。感謝する」
気に食わない男ではあるが、それでもレイに仕事を斡旋してくれる貴重な存在でもある。レイは軽く感謝を口にし、その店を後にしようとした。
「ところでお嬢ちゃん」
だが、早々に退散したがっているレイを引き留めるように男の言葉が投げかけられた。レイは微かに面倒そうな表情を浮かべて振り返る。
男は意地の悪そうな笑みを浮かべて問い掛けた。
「あれだけ必死に探していた“
「……」
男の本質は、依頼を始めとした情報を集めて売買する“情報屋”だ。
自然、レイはこの男に金を払って“同胞”たちの情報提供を求めたことがあった。
結果は、レイが一人でいることからお察しの通りではあったが。
「その様子じゃあ、まだみたいだな。ま、見つけたら教えてくれや」
男はニヤリと邪悪な笑みを浮かべて言った。
「吸血鬼は、金になるからな」
「ッ!」
「おぉ、怖い怖い。そう睨むなよ」
両手を上げて降参のポーズを取る男。
レイは歯噛みしながら赤い瞳で彼を睨みつけたが――やがて、疲れたようにひとつ溜息をつき、鋭利な爪を静かに引っ込めた。
「じゃあな、お嬢ちゃん。いい休暇を」
からかうように笑ったその言葉に、背を向けたままレイは静かに答える。
「生憎と、仕事だ」
無機質な蛍光灯が揺れる薄暗い室内。
彼女の背に僅かな風が吹き込み、レイは一歩、店の外へと踏み出した。
夜の裏通りには、雨上がりの冷たい空気が漂っていた。
そこに立ちこめるのは、湿ったアスファルトと排気ガスと、微かに鉄が錆びたような血の匂い――。
いつもの、変わらない“現実”の匂い。
レイは帽子を深く被り、ただ前だけを見据えて歩き出す。
この先に何があるのかも知らずに。
ただ、一つの依頼を果たすために。
――だが、この足取りが、彼女を“運命”へと導くとは、まだ誰も知らなかった。
そして、一週間後。
その日は雲ひとつない快晴だった。
スイスの空港前。タクシー乗り場近くのベンチで、レイは人混みを避けるように帽子を目深に被り、ひっそりと立っていた。
照りつける太陽に白い肌を晒しながら、彼女は静かに待つ。
この数日で用意したばかりの服も、まるで長く着慣れたもののように馴染んでいた。
そして、時間通りに――彼らはやってきた。
「私は
穏やかな物腰の男が頭を下げ、隣の女性が柔らかな笑顔を浮かべて言った。
「よろしくね、レイさん」
レイは小さく頷き、わずかに肩の力を抜く。
その直後――彼の背に抱かれていた小さな少年が、ゆっくりと顔を上げた。
黒く柔らかな髪。繊細な顔立ち。どこか影を感じさせるが、まっすぐで曇りのない瞳。
その瞳が、レイをまっすぐに見つめ返してくる。
「……ユウです」
二人の視線が、静かに交差する。
その瞬間、世界の音が消えたように感じた。
風が止まり、時間がわずかに揺れた気がした。
これが、彼女の運命を大きく変える霧島一家との出会い。
そして――
彼女にとって忘れられない、眩しくも切ない夏の日々が、今、始まろうとしていた。
♰♰♰♰♰ ♰♰♰✜♰♰♰ ♰♰♰♰♰
風が緑あふれる草原をすべり、さらさらと草の海を揺らしていく。
その音は波のようで、どこか懐かしく感じられた。
都会の喧騒から隔離されたその場所は、まるで異世界のようで――
“夏の匂いがする”
レイは草原のただ中にぽつんと建てられた、木造の小さな小屋を見上げながら、ふとそう思った。
強い日差しに炙られた草の香りと、土の匂い。
どこからか漂う甘い野花の香気。それらが混ざり合って、彼女の胸に確かな記憶として染み込んでいく。
まるで、心の奥底に眠っていた原風景に触れたような――初めてなのに、どこか懐かしい感覚。
空港から半日掛けて移動し、ホテルに宿泊したのが昨日のこと。
そして今日、数時間に渡る長距離ドライブを終え、この場所に到着したレイは荷物を持って歩きながら何とも言えない情動を胸の内に抱いていた。
「ユウ、着いたわよ。……あらあら、全然起きる気配ないわね。レイさん、悪いけど開けてくれる?」
「分かりました」
レイに小屋の鍵を渡しながら、彼女は息子をおんぶしたまま微笑んだ。
彼女――“霧島優菜”は優しそうな顔をした品のいい女性である。
接したのは短い時間ではあるが、レイは彼女に同じ女性として敬意を持っていた。
「ありがとう。レイさん」
レイは渡された鍵を使って玄関の扉を開き、扉を押さえて優菜たちに先に入るように促した。
お礼を言いながら先に入っていく優菜と彼女に背負われた小さな少年。
レイはその後に続いて先に入ることはせず、続いてやってきた男性の為に扉を押さえ続けていた。
「おっ、ありがとうレイさん。だけど、そんなに気を遣わなくても大丈夫だよ?」
「いえ、仕事ですから」
扉を押さえながら淡々と答える。
車を止め、大きな荷物を持ってきたこの一家の大黒柱である“霧島賢一”は苦笑いを浮かべた。
「それじゃあ、遠慮なくお先に入らせてもらうよ」
彼が家の中の入っていくのを見送り、一拍おいてからレイはその後に続いた。
扉を開けた瞬間、外の香りとは異なる、ひんやりとした木の匂いが鼻先をくすぐった。
土壁と椋の木材を組み合わせた内装は、どこか懐かしさを感じさせる北欧風で統一されており、梁の通った高い天井が開放感を生んでいた。
リビングには広々としたソファセットとローテーブル、窓の外には草原を一望できるデッキ。
白木の床には麻のラグが敷かれ、自然の光を柔らかく受け止めるカーテンが、風にゆっくりと揺れていた。
奥には二つの寝室とバスルーム、簡素ながら整ったキッチンがあり、窓際には読書用の椅子と小さな本棚。
贅沢さよりも丁寧な生活の空気に包まれた、落ち着きのある空間だった。
ここは霧島夫妻が夏の休暇を楽しむために購入したという別荘である。
お金持ちならもっと快適な場所に住むと思っていたが、彼ら曰く「不便を楽しみたい」とのことだ。
随分と楽しそうだが、レイにはどうにも彼らの考えが理解出来そうになかった。
「よいしょっと……さて、この荷物はどこに置こうかな」
「奥の部屋に運んでおいてくれる?」
「分かった。やれやれ、この荷物がまだ山ほどあるのか。気が滅入るな……」
「頑張ってね、あなた」
「はいはい。頑張りますよ。だけど、ちょっと休憩……」
腰に手を当てながらぼやいている依頼主の声を聞き、レイは即座に車へと引き返した。
彼の言う通り、車の中には荷物がたくさんある。職務に忠実なレイは成人男性でも苦労しそうな荷物を二つ同時に持ち、小屋へと運び込んだ。
「ん? おぉ、悪いねレイさん!」
長時間の運転で疲れていたのか、荷物を適当なところに置き、ソファーに腰かけて家の中で談笑していた霧島賢一の視線がレイを向く。
彼はレイが持ってきた大きな荷物を見て驚きの表情を浮かべながら礼を口にした。
「いえ、お気になさらないでください。これはどこに置けばいいですか?」
「あぁ、そこに置いておいてくれ」
「分かりました。他の荷物も取ってきます」
「いや、それは俺がやるから大丈夫だよ」
「しかし……」
「小さな女の子に任せてばかりじゃあ、男の威厳がなくなってしまうからね。ここは俺に任せて、家の掃除とかをしてもらえると助かる。それに――」
ちょいちょい、手で呼ばれて彼に近づいていく。
霧島賢一はレイの耳元で内緒話をするように囁いた。
「この荷物の中にはあまり人に見られたくない物もあってね……その、ほら、分かるだろう……?」
「はぁ……」
正直、何のことだかさっぱりだったレイだが、依頼主の機嫌を損ねるわけにもいかない。大人しく頷いておく。
レイが理解してくれたと判断したのか、霧島賢一は満足したように頷いた。
「あと、それからもう一つお願いがあるんだけど、いいかな」
「なんでしょうか」
背筋を正してレイは命令を待つ。
霧島賢一は優しく微笑んで言った。
「もっとリラックスして、楽しんでくれ! せっかくの休暇なんだから、お手伝いさんとはいえ、君にもいい思い出を作って欲しいんだ」
レイは困ったような表情を浮かべてから、
「……善処します」
とてもリラックスできそうにはない、固い返事をしたのだった。
♰♰♰♰♰ ♰♰♰✜♰♰♰ ♰♰♰♰♰
「フッ!」
大人でも両手でやっと振るえる斧を、彼女は片手で軽々と振り下ろす。
硬い薪が一瞬で真っ二つに裂けた。
ここは都会から一際離れたところにある小さな小屋だ。
ガスなど当然通っておらず、火を起こすには薪が必要だった。
霧島一家は現在、長期滞在予定のこの小屋でせっせと荷解きをしている。
あまり私物には触られたくないと言われたレイは、こうして外で出来る仕事をこなしていた。
黙々と、無心で薪を割り続けていたレイは積み上げられた薪を見て一息つき、休憩すべく斧を置いてふと顔を上げ――目を見開いた。
目の前に広がる草原が、真紅に染まっていた。
太陽が沈みかけ、地平線へと吸い込まれるように降りていく。
それに伴って、草のひとつひとつが夕陽に焦がされるように朱を帯びていた。
風が草原を横切るたびに、赤く染まった波が緩やかに揺れ、ざわめく音がどこまでも続く。
空は金から朱、そして紫へと色を変え、まるで世界そのものが静かに燃え尽きていくようだった。
――美しい。
思わず、レイは心の内で呟いた。
こんなにも圧倒的で、理不尽なまでに美しい景色に、彼女は今までのすべての感覚を奪われたような錯覚に陥っていた。
燃えるような夕陽、香り立つ土と草と花の匂い。
レイは吸血鬼として、あらゆる「匂い」に鋭敏な体質を持っている。
血の匂い、魔の匂い、人の匂い――それらを察知して生き延びてきた。
警戒心は常に張り詰めていたはずだった。
だが今、その感覚がふっと緩んだ。
危機感が薄れる。
判断が甘くなる。
それは逃亡者として、あってはならない失策で――
“おかあさん”
思わずこぼれた声に、レイは自分で口を塞いだ。
いつの間にか胸の奥に溜まっていた想いが、音に変わって零れてしまった。
「まずいな……」
ここは、自分のような人間には不似合いな場所だ。
意識をしっかりと持たなければならない。
自分を失ってはいけない。
「……あと少し、やるか」
短い休憩を終え、意識を切り替えたレイは再び斧を振り上げた。
積み上がった薪の山を背に、また一つ、薪を幹の上に置き、斧を振り下ろす。
ザクリという音と共に、まっすぐに割れた木片が左右に散った。
「すごい!」
「ッ⁉」
突然聞こえた声に驚き、斧を落としそうになりながら慌てて振り向く。
「……ユウ」
そこには、満面の眩しい笑顔を浮かべた霧島ユウが、窓から上半身を突き出した状態で彼女のことを見つめていた。
“霧島ユウ”。この一家の一人息子である10歳の幼い少年だ。
黒髪黒目で両親譲りの整った顔立ちをしており、将来は美男子になることが確約されていそうな、将来有望な男の子である。
依頼書には人見知りをする性質と記載されており、事実、初対面の時にはレイのことを怖がっているような印象があったのだが――何故か、ここにたどり着くまでの道中であっという間にレイに懐いてしまった。
特に子供に喜ばれそうなことをしたつもりはなく、淡々と車の中で眠るまで話し相手になっていただけなのだが、一体レイの何をそんなに気に入ったのか……。
子供に好かれるどころか、碌に接したこともないレイは困惑していたが、しかし同時に決して悪い気もしていなかった。
最初は依頼主の息子ということで「ユウさん」と呼んでいたレイだが、「他人行儀な感じがする」と言われ、下の名前で呼び捨てすることになったのはつい昨日のことだ。
「もう一回やってよ!」
先程までスヤスヤと眠っていたユウは窓から身を乗り出しながら、キラキラと好奇心旺盛に輝く瞳でレイを見つめながら薪割りをせがむ。
「構わないが……」
これの何が面白いのかさっぱり分からないが、雇い主の長男に命じられたのだ。従わない理由はない。
レイは再び薪をセットすると、片手で素早く斧を振り下ろした。
パキン、と音を立てて、木が割れる。
「すごい! すごい!」
まるで魔法でも見たかのように、ユウは目を輝かせて声をあげる。
褒められ慣れていないレイは、照れくささに思わず顔をそむけた。
「ぼくもやる!」
男の子らしく、カッコいいものには目がないユウは上半身を突き出していた窓枠に手を当て、そのまま外に飛び出そうとする。
「お、おい……」
危なっかしい姿を見て、レイは斧を置き彼のところへ近づいていく。
好奇心旺盛な少年は窓枠に足を掛け――
「ッ!」
つるっと足を滑らせてそのまま頭から地面に落下した。
言わんこっちゃない!
レイは優れた脚力で地面を蹴り、一瞬で距離を詰める。
ユウの頭が地面に激突するその間近――
「あ、危なかった……」
ギリギリで間に合ったレイは、ユウの腰あたりを両腕ホールドしながら、一息ついた。
「おぉ……!」
地面まであと数ミリというところで静止した状況が物珍しかったのか、感心したような声を上げる呑気な少年。
レイはゆっくりとユウの身体を横倒しにし、彼の脚が地面に着くまで補助した。
「すごいね!」
レイによって傷一つなく地面に着地できたユウは全く反省していなさそうな眩しい笑みを浮かべた。
「ユウ……」
呆れたように少年の名を呼ぶレイ。
霧島ユウは先程のハプニングも忘れたようにニコッと笑って、薪を指さした。
「ぼくもやりたい!」
「いや、でも……」
こんな小さな子供にやらせてもいいのだろうか。
判断に困ったレイは辺りを見渡すが、彼の両親が姿を現す気配はない。
家の中で慌ただしい音が出ているから、慣れない環境での作業に四苦八苦しているのだろう。
「えーと、ユウ。これはとても危なくてね……」
「ぼくもやりたい!」
「そこの斧だって、私は軽々と振り回しているけど、本当は凄く重くてね……」
「ぼくもやりたい!」
「ちょっと力加減を間違えたら自分が怪我をする可能性も……」
「ぼくもやりたい!」
「話聞いてる?」
可愛らしい笑顔でゴリ押ししてくる少年に末恐ろしいものを感じたレイは戦慄した。
「どうしてもダメー?」
「ごめんだけど、許可はできないな」
「むっー、おねえちゃんがダメって言うならお父さんたちに言いつけちゃうもん」
「結構えげつないな、君」
子供らしい「お父さんに言いつけちゃう」だが、彼の両親が雇い主であるレイにとってはクリティカルヒットだ。
本能的にこれをやっているとしたら、本当に末恐ろしい少年である。
「はぁ……分かった」
霧島ユウの熱意に根負けしたレイは溜息をついてから、渋々と頷いた。
「本当に⁉ やったー!」
「ただし」
満面の笑みを浮かべて飛び跳ねる少年に釘を指すように、レイは人差し指を立てて条件を口にした。
「怪我したらダメだから、私が手伝う」
「えぇ~? ひとりでやりたい!」
「それはダメ」
これで怪我でもさせようものなら――あの優しい雇い主たちに合わせる顔がない。
レイは真剣な表情でそれだけは譲れないと言う。
「ん~、わかった! じゃあ、いっしょにやろう!」
彼女の顔を見て何かを悟ったのか。ユウはレイが手放した斧に駆け寄り、か細い腕で柄を握って持ち上げ始めた。
「ちょ、ちょっと……」
慌てて後ろに回り、ふらついている身体をサポートしながら、一緒に持ち手を握る。
何とか構えるところまで至ったユウは、真剣な表情で後ろから支えてくれているレイの顔を見つめた。
「せ~の、でやるんだよ? わかった?」
「……分かった」
いつの間にか主導権を握っていたユウが一方的にタイミングを伝える。もうなるようになれ、と思いながらレイは持ち手に力を込めた。
「せ~のっ!」
彼の掛け声に合わせて斧を振り上げて、一気に振り下ろす。
カコンッ!と小気味いい音が響き、振り下ろした斧の刃が幹に浅く刺さる。
一拍の後、薪は真っ二つになっていた。
「おぉ! すごい! すごい!」
興奮した様子で嬉しそうにはしゃぐユウ。
(なんとかうまくいった……)
彼の非力では斧を持ち上げることすら出来ない。
故に、ほぼ全ての動作がレイの力によって行われていたのだが、上手く誤魔化せたようだ。
「おねえちゃん、力持ちだねぇ!」
「あ、あぁ……」
己のこの力を誇ったことなど一度もないレイだが、現金にも、こうして人に褒められる瞬間があるのであれば悪くないのかもしれない、と思った。
「もう一回やろう! もう一回!」
「はぁ……あと、一回だけだぞ」
「はーい」
多分、一回じゃ終わらないんだろうな、と確信しながらレイは再び斧を持ち上げようとするユウのサポートに回ろうとする。
だが、その瞬間――
「ゴホッ、ゴホッ――!」
「ユウ……?」
急に苦しそうに咳き込みだした少年を前に足を止めた。ただの咳であればいいが、少年の苦しみ方は尋常ではなかった。
くぐもった声で何度も咳き込み、立っていられなくなり地面に膝をつく。
レイは急いで駆け寄り、彼の背中を摩った。
長時間の移動で疲れが溜まっていたのかもしれない。すぐに家の中に運び込もうとして――
「おい、大丈夫か……」
「ゴホッ!」
彼が口から吐き出した
吐血をするということは、内臓が弱っているということだ。
それも、深刻なレベルで。
レイはすぐに彼の両親を呼びに行こうとして――その目が吐き出された血に固定されて動かなかった。
ゴクリ、と喉が鳴る。
飲みたい。飲みたい。飲み干したい。
啜りたい。啜り尽くしたい。
その血が――飲みたいッ!
「ッ!」
バキッ!と鈍い音が響く。
理知的な目を取り戻したレイは未だに咳き込み続けるユウに近づき、折れた鼻の激痛を無視しながらそっと優しく彼を抱き上げた。
そのまま小屋の扉を開き、レイは滅多にない大声でユウの両親の名を呼んだ。
「賢一さん! 優菜さん!」
レイが声を張り上げるなど出会ってから初めてのことだ。
バタバタと驚いた両親が入り口に集まって来る。
困惑した様子の彼らは何故か鼻が折れているレイを見て驚いた表情を浮かべ――次いで、口元から血を垂れ流している息子を見て、ハッと顔面蒼白になった。
「ユウッ!」
「まずいな、またか……!」
「何してるの⁉ ユウを離して!」
「おい! 落ち着け……!」
悲鳴を上げながらレイからユウを奪い取るように息子を抱きかかえる霧島優菜。レイは大人しく彼女にユウを手渡し、バタバタとリビングへ息子を運んでいく夫妻を尻目にそっと顔を伏せて――
「ッ!」
声を気合で抑えながら折れた鼻を手で無理やり元に戻し、即座に傷口を回復させた。
そして、ベッドの上に息子を寝かせ、様々な鞄を引っ張り出して必死に動き回っている夫妻を後ろから見守ることにした。
「あぁ、可哀そうに! 苦しいよね、苦しいよね、ユウ。大丈夫よ、大丈夫だから……!」
「ほら、水だ。ゆっくり飲みなさい。ゆっくり、ゆっくりとな」
優しく少年の頭を撫でながら、涙を浮かべる霧島優菜。
霧島賢一はコップに注いだ水を手渡しながら、鞄から錠剤を取り出した。
「ユウ、この薬が飲めるか? 大丈夫。苦いやつじゃない。お前が好きな、甘い味だ」
「ゴホッ! ゴホッ! ……ほんとう……?」
ぜェー、ぜェーと枯れ掛けの喉を酷使しながら微かに笑みを浮かべるユウ。
「ッ! あぁ、本当だ! ほら、ゆっくりと飲みなさい……」
「うん……」
今にも死んでしまいそうな、儚い息子の姿を見た霧島賢一は唇を噛みしめながら、それでも笑ってみせた。
父の姿を見て安心したのか、ユウは手渡された薬と水を母の手を借りながら少しずつ飲み込んでいく。
「ごめんね、ユウ。これも飲める? すぐに楽になるから」
「ゴホッ! えー、それ、きら~い」
恐らく、胸部が痛むのだろう。咳をするたびに顔を顰め、震える手で胸を抑えるユウだが、母から差し出された薬を見て露骨に嫌そうな顔をした。
まるで、自分はまだ元気で余裕があると――両親に思わせるように。
心配させまいと、気丈に振舞うように。
「こらっ、好き嫌いはダメでしょう? お母さんと約束したじゃない」
「ゴホッ! ゴホッ! じゃあ……ゴホッ! それのんだら、おねえちゃん……ゴホッ! おねえちゃんと、まきわりしていい……?」
喋るだけで苦しいだろうに、ユウは咳き込みながら自分の要望を両親に伝える。
「薪割り……?」
「うん。ゴホッ! ぼくね、おねえちゃんと、まきわり、してたんだよ? ゴホッ! おねえちゃん、すごくてね……ゴホッ! ぼくのために、けがもしたんだよ? ゴホッ! だから――」
優しくユウの頭を撫でながら、霧島優菜は困惑した表情でレイの方を振り向いた。
レイは静かに頷き、裏口を指さした。
何となく彼女がしていた作業にユウが首を突っ込んだと理解をしたのだろう。
霧島優菜はどこか安堵したような表情で頷いた。
「分かったわ。薪があれば私たちもすごーく助かるから、ユウ、頑張ってくれる?」
「うん! ゴホッ! 任せて!」
力強く――と言い切るには儚い表情で、しかし彼なりの笑みを浮かべてユウは頷いた。
霧島優菜は今にも泣きだしそうになるところを必死に堪えて、彼に錠剤を飲ませていく。
ゆっくりとそれを飲み切ったユウは、すぐに目をウトウトとさせた。
やがて、その目がゆっくりと閉じられる。
「すぅー、すぅー」
苦しんでいた息子がようやく安らかな眠りにつけたことを確認した霧島優菜は立ち上がり、じっと背後から見守っていたレイの方を振り返った。
「――レイさん。お話があります」
レイは、静かに頷いた。
♰♰♰♰♰ ♰♰♰✜♰♰♰ ♰♰♰♰♰
「……あの子、もう長くないんです」
向かい合ってソファーに座り、霧島優菜は静かにそう切り出した。
その目は悲しみと絶望に揺れている。
この家に着くまでに彼女が見せていた明るい笑顔は、全て息子の為に作られた優しい嘘の仮面であったことをレイは悟った。
「幼い頃からずっと身体が弱くて、ずっと入院と退院を繰り返していたんです。だけど――」
震える唇を嚙みしめて顔を伏せる霧島優菜。
先を告げられなくなった妻の背を優しく摩り、霧島賢一は彼女の言葉を継ぐように口を開いた。
「この間、医者から言われたんです。もう、長くはもたないと」
妻を慰める彼の瞳もまた、深い悲しみと絶望に満ちていた。
苦悩を吐き出すように、彼は言葉を続ける。
「金に糸目はつけず、色んな医者を頼り、色んな薬を試しました。だけど、どの医者も言うのです。私たちに出来ることは、最期の瞬間に一緒にいてやることだと――」
「うぅ……」
堪えきれなくなったのか、霧島優菜は両手で顔を覆い、肩を震わせて泣き出した。
そんな妻を優しく抱き寄せながら、霧島賢一は深いため息をついた。
「……今回の旅行は、ユウに楽しい思い出を残してほしいと思って企画したものなんです。せめて、最期の瞬間には、この美しい自然の中で、一緒に笑って最期を迎えたいと願って」
冷静に見えた霧島賢一の目にも涙が浮かぶ。
あまりにも重い話を聞き終えたレイは、静かに問い掛けた。
「どうして私に依頼をされたのでしょうか? その、私はこの場には不釣り合いな存在なように思うのですが……」
彼らの話に思うところはある。特に、あんな幼い少年に課せられた過酷な運命には同情して余りあるほどだ。
しかし、そうであるが故に、レイには分からなかった。
どうして、この家族にとって神聖ともいえる場所に彼女を呼び寄せたのかが。
「そのことについて、お話しなければなりませんね。――レイさん。当初の依頼内容とは異なっているかもしれませんが、改めて貴女に依頼したいことがあるのです」
「なんでしょうか」
霧島賢一は背筋を正してレイと向き直った。
レイもまた背筋を正して聞く姿勢を取る。
彼は神妙な顔つきで言った。
「この夏の間だけで構いません。ユウの
「……はい?」
言葉の意味を理解するまで、数秒の空白が必要だった。
レイはぽかんとした顔で、無防備にも間抜けな返事を漏らしてしまう。
困惑するレイに対し、霧島賢一は真剣な表情で説明を始めた。
「……ユウは幼い頃からずっと病院通いで、碌に学校に通ったことがなかったんです。それに、兄弟もいないものですから、歳が近い存在がいなくてですね……本人は気にしていないように振舞っていましたが、ずっと歳が近い友人か、それこそ“姉”を求めていたように思います」
チラリ、とレイを見る霧島賢一。
レイは内心で溜息をついた。
「ようやく理解しました。それで、依頼の要望が“息子さんと歳が近い存在を”だったわけですか」
「そういうことです」
レイは納得したように頷いた。
要するに、自分は最初から“姉”役として呼び寄せられたらしい。
「しかし、それでもわざわざ本物の“姉”と名乗るのはやりすぎではないでしょうか? そんな、すぐにバレる嘘をついても……」
「ユウは、この夏を乗り越えられないかもしれないと言われています」
「ッ!」
淡々と告げられた事実にレイが息を呑む。
もう長くはないと言っていたが、そこまで短い命なのか……。
「ユウには少しでも楽しく、そして安心して最期を迎えて欲しいのです。あの子は優しく、心配性ですから……私たちに娘もいると分かれば、安心してくれるかもしれません」
「はぁ……」
10歳の子供がそこまで親のことを考えて、心配するものなのか。
レイは内心で首を傾げたが、表に出すことはせず曖昧な返事をするに留めた。
「戸籍まで入れろと言っているわけではありません。ただ、ユウがこの夏を楽しく過ごしてくれるサプライズプレゼントになって欲しいのです……いかがでしょうか?」
「いかが、と言われましても……」
「やはり、嫌でしょうか……?」
戸惑いを隠せずにいるレイに向けられたのは、不安を湛えた眼差しだった。
レイは慌てて頭を振る。
「い、いえ! 決して嫌ではありません! ですが……そんな、大それたことを私のように怪しい女にこんなことを頼んでもいいのですか……?」
自分のような人間に“姉”などという立場を与えられていいのか。
それが、この家族に対する冒涜にならないのか――胸の内に渦巻くのは、困惑と自責だった。
「レイさん、貴女は怪しい人なんかではありませんよ。貴女を紹介していただいた方から聞いています。ご両親を亡くされ、それでも懸命に生きている心の強い立派な女性だと」
誰だ、それは。
思わずそう言いそうになったレイだが――グッと堪えて、脳内で仕事を取るために適当なことを言ったであろう、あの怪しげな男をグーで殴った。
「どうか、お願いできませんか? 貴女が姉なら、ユウもきっと……本当に、嬉しいと思うんです」
「……」
レイは俯いて、考え込んだ。
ハッキリ言って、理性は「関わるべきではない」と警鐘を鳴らしていた。
この居心地の良さに身を任せれば、自分が保てなくなることを、どこかで分かっていたから。
しかし――彼女の本能は、違った。
『追え!』
『殺せ!』
『あの化け物、どこに行った⁉』
追いかけられ、逃げ回り続けるだけの日々。
そんな日々の中で一番つらかったのは、命をいつ失うか分からないこと――ではない。
誰にも必要とされず、疎まれ続けることだった。
もう一度だけでいい、誰かの“何か”でありたかった。
両親を失い、居場所を失って誰にも望まれなかった自分が、誰かの支えになれるのなら――その嘘は、きっと、自分を殺すほどの罪にはならないはずだ。
だから。
「分かりました」
レイは、そっと言った。
「ではこの夏の間だけ、私は貴方たちの娘に……ユウの姉となりましょう」
その瞬間、霧島賢一の顔がぱっと明るくなった。
「おぉ! 本当ですか⁉ 本当に……ありがとうございます!」
彼は思わず立ち上がり、レイの手を取って何度も強く握りしめる。
その手は温かく、信じがたいほど優しかった。
「霧島レイ――良い響きですね」
二人のやり取りを見守っていた霧島優菜が微笑みながら言った。
“霧島レイ”。
思いがけず与えられたその名を、レイは胸の内で何度も繰り返す。
遠い記憶の中にあったような、けれど初めて手にした確かな居場所のように感じられて――
「あっ、そうだレイちゃん。貴女に謝りたいことがあったの」
「なんでしょうか?」
早速と言わんばかりにレイのことを“ちゃん”付けで呼びながら、霧島優菜は申し訳なさそうな表情を浮かべた。
「ごめんなさいね。せっかくユウを運んできてくれたのに、あんな剣幕で怒ったりして……」
「いえ、お気になさらないでください。誰だって、大事な息子さんが血を流していたら動揺するものです」
「そう言ってもらえると助かるわ……でも、本当にごめんなさいね? 私、ユウを抱えている貴女を見た時に嫌な勘違いをしてしまったの」
「勘違い、とは?」
恥ずかしそうに顔を伏せながら霧島優菜は言った。
「いえ、貴女が顔に傷を負っていたので、つい、ユウと争いごとになって貴女がユウを傷つけたのかと思ってしまいまして……」
レイはハッとした表情を浮かべた。
「でも、二人で仲良く薪割りをされていたんですね。本当にすいません……あれ? そういえば、レイさん鼻を怪我していたような――」
霧島優菜の声が遠くに聞こえる。
彼女の言葉を聞き、遅まきながらレイは理解した。
自分は――
今にも死んでしまいそうな、あの儚い少年に庇われたのだと。
♰♰♰♰♰ ♰♰♰✜♰♰♰ ♰♰♰♰♰
「うぅん……あれ、おねえちゃん……?」
「起きたか」
静かに目を覚ましたユウは、寝ぼけた目を擦り、ベッドに腰かける銀色の女性を見上げた。
「おはよう!」
「おはよう。……もう、夜だがな」
取り敢えず挨拶をしたユウは彼女の言葉を聞き、窓の外を見た。
「あっ、ほんとだー。じゃあ、こんばんは!」
「こんばんは。……身体の調子はどうだ?」
優しい声音で問い掛けるレイ。
ユウは、月光を浴びて光り輝く彼女の銀髪をボーっと眺めながら答えた。
「うん。大丈夫だよ。絶好調」
「それは良かった」
レイは心の底から安堵したように、そっと嬉しそうな笑みを浮かべた。
――もっと、笑えばいいのに。
美しい微笑を見たユウは、そんなことを思った。
「なぁ、ユウ」
「なに?」
ぎこちなかった昼間よりも幾分か気さくな口調で名前を呼ばれ、ユウは笑顔で首を傾げる。
レイは微笑みながら提案をした。
「少し散歩をしないか?」
♰♰♰♰♰ ♰♰♰✜♰♰♰ ♰♰♰♰♰
「うわぁ! 凄い!」
レイに抱きかかえられながら外へ出たユウは、思わず歓声を上げた。
夜空が、ひときわ大きく広がっていた。
見上げれば、息を呑むほどの星々――。
数え切れないほどの光が、空一面にまるで宝石をちりばめたように散らばっている。
この草原の空は、都会では決して見ることのできない夜の表情を持っていた。
星の一つひとつが明確に、くっきりと、彼らに語りかけるように輝いている。
風は静かに吹き、草は夜露に濡れながらもさらさらと揺れ、その音さえ星の音のように感じられた。
レイは、そのあまりにも美しい空に包まれながら、ユウの横顔を見つめる。
その頬に映る星の光。まるで、彼自身が星に選ばれたようだった。
そして、意を決したように口を開いた。
「ユウ」
「なにー?」
「……私が実は、お前の姉だと言ったら、驚くか?」
「えっ」
その一言に、ユウはぱちくりと目を瞬かせた。
レイは家の窓辺からそっとこちらを見つめている霧島夫妻の姿を感じながら、彼らと話し合って決めた“設定”を、なるべく自然な口調で話し始めた。
――幼い頃に家を出て、武者修行のために世界を旅していたこと。
――本当はずっとユウに会いたかったこと。
――この夏の休暇をきっかけに、ようやく戻ってきたこと。
なんだその設定は……と呆れたレイだが、相手は10歳の子供だ。
変に腹違いの子供だと説明するよりも、喜んでくれるに違いない――とこの設定を考えた霧島賢一は自信満々に言っていた。
ユウについて詳しいのはあの二人だ。
レイは淡々と、妙に恥ずかしいその説明をし終えた。
突然のカミングアウトを最後まで聞き終えたユウは俯き――
「おねえちゃん!」
「うわっ⁉」
突然、彼を抱きかかえているレイに勢いよくしがみついた。レイは突然のことに驚きながらも上手くバランスを取って倒れないように踏ん張る。
「ちょ、ちょっと危ない……」
「おねえちゃん!」
とっさに注意を口にしようとしたレイだったが――
ふと、彼の顔を覗き込んだ瞬間、言葉が喉で止まった。
そこには、星明かりを映してきらめく、眩しすぎるほどの笑顔があった。
胸の奥が、ぎゅっと熱くなる。
レイは臆病な自分がしようとしていた、情けない質問を仕舞った。
彼女が“姉”であることが嬉しいか否かなど、この顔を見れば一目瞭然だろう。
「ユウ」
「おねえちゃん」
二人は、静かに夏の夜の匂いを吸い込み、微笑みあった。
夜風が優しく二人を撫で、草原が彼らを包む。
まるでこの瞬間を祝福するように、瞬く星々の光が頭上に降り注ぐ。
この瞬間だけは、世界が二人のためだけに存在しているようだった。
ただ眩しく、ただ優しく、ただ――永遠のように、美しく。