世界の為に推しとの恋愛を諦めようとしたらヤンデレ化された件   作:赤坂緑語

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第31話:血と夏の匂い【中編】

 

 空はどこまでも青く、澄んでいた。

 高原を吹き抜ける風には夏の香りが混じり、標高の高い地に差す日差しは鋭くもどこか清々しい。

 

 美しい景色だが、日光が苦手なレイは霧島優菜からプレゼントされた麦わら帽子を目深に被った。

 

「おねえちゃん! 行くよー!」

「来い」

 

 草原に楽しそうな少年の声が響き渡る。

 レイは端的に答えてから木の棍棒――もとい、お手製のバットを構えた。

 

 霧島ユウが手にもつボールを握り締め、ピッチャーのように大きく振りかぶる。

 

「おりゃあっ!」

 

 そうして投げられた剛速球――というには、弱弱しい一球。

 レイはバットを振りかぶり、様になっているフォームで容赦なくボールを打ち返した。

 

「うわぁ!」

 

 ボールが宙を舞う。

 青空を突き抜けていきそうな勢いのボールを見上げ、ユウは打たれたにも拘わらず嬉しそうな笑みを浮かべ、犬のように駆け出した。

 

「ちょっとぉ! 飛ばしすぎ!」

「すまん!」

 

 ボールを追いかけながら草原を駆けるユウが大声で文句を言う。レイもまた大声で謝罪の言葉を口にしながら――そっと後ろから彼を追いかけ始めた。

 もしも何かあった時、すぐに彼を抱えて家まで帰ってこられるように。

 

「ハァ、ハァ、ハァ……」

 

 ボールを追いかけ、十メートルほど走ったところで、ユウは肩で息をしながら項垂れた。だが、すぐに顔を上げるとガッツで転がっているボールの元までたどり着いて――

 

「と、とったど~」

 

 フラフラになりながらボールを頭上に掲げ、コテンと地面に倒れた。

 

「ユウ!」

 

 倒れる瞬間を目撃したレイは、一瞬で距離を詰めた。すぐに倒れる彼のもとへ駆け寄り、そして心配そうに顔を覗き込む。

 

「大丈夫か⁉」

「だ、だいじょうぶ……」

 

 顔が少し赤い。久々の運動で血流が上がったらしい。

 あまり深刻そうな症状は見られないが、油断は禁物だ。

 

「立てるか?」

「うん。立てる、よ」

 

 地面に手をつき、ユウはゆっくりと上体を起こしてから立ち上がろうとする。

 レイは彼に見えない位置で手を差し出し、いつでもサポートできる体勢を取っていた。

 

「ふぅ……あ、あれ?」

 

 あと少しで立ち上がれるというところで、ユウの身体がガクンと傾く。

 このままいけば、頭を打ってしまう。

 ユウは痛みを覚悟し、眼を閉じて――

 

「おい、大丈夫か?」

 

 誰かに優しく包まれていることを悟り、そっと目を開けた。

 銀の糸が風に揺られ、日光を反射してキラキラと輝く。

 一見すると冷たそうな目にはしかし、愛情深さが滲み出ている。

 

 ユウは咄嗟に支えてくれた姉に微笑んだ。

 

「だいじょうぶ!」

「……本当か?」

「ほんとう!」

 

 あまり大丈夫には見えないが、こういう時に過剰に心配をすれば彼はますます自分の状態を隠そうとすることをここ数日で学んでいたので、レイは黙って頷いてからその場に膝まづいた。

 

「……おねえちゃん?」

「ほら、乗れ。肩車だ。私が運んでやる」

「だから、だいじょうぶだって――」

 

 我儘なように見えてその実、人に迷惑を掛けることを極端に嫌うユウが遠慮するが、レイはそんな彼に向かって思いも寄らないことを口にした。

 

「お前に秘密を教えてやろう」

「秘密……?」

 

 突然変なことを言いだしたレイに目を丸くするユウ。

 レイは悪戯っぽい表情で言った。

 

「実はな、私は吸血鬼なんだ」

「えっ」

 

 さーっと草原に風が吹く。

 母にプレゼントされた白いワンピースを身に纏い、麦わら帽子を被る少女は眩しくて――とても吸血鬼になんて見えない。

 

「……ほんとうに?」

「本当だ」

 

 力強く断言しながら、レイは自慢するように言った。

 

「だから私は誰よりも脚が速いんだ。お前を背負って運ぶことくらい、造作もないさ」

 

 突然のカミングアウトにユウは驚いた表情を浮かべ――

 

「吸血鬼って足速いの?」

「……気にするのはそこなのか」

 

 レイは呆れたように溜息をついた。相変わらず、この弟はどこか抜けているというか、妙にズレている気がする。

 まぁ、そういうところがまた、愛らしいのだが。

 

「それで、どうするんだユウ? このままだとお姉ちゃん号は発進してしまうぞ?」

「乗る!」

 

 ユウは好奇心旺盛な少年である。当然、吸血鬼だというお姉ちゃん号には興味津々だった。

 先程まで遠慮していたのが嘘のように姉の肩に跨ったユウは、元気な声で前方を指さした。

 

「出発進行!」

「了解――しっかり掴まっておけ。それから、舌を噛まないようにな」

「えっ」

 

 次の瞬間――レイは風になった。

 

「うわぁ⁉」

 

 ぐんッ!と加速したレイの身体は凄まじい速度で草原を疾走する。

 目を丸くするユウの横で、ビュンビュンと景色が流れていく。

 全身で風を浴びながら、ユウは楽しそうに大きな歓声を上げた。

 

「すごい! すごい!」

 

 喜んでいる弟の声を聞き、レイは走りながら笑みを浮かべた。

 これまでこの力のことを疎んでいた。

 この力があるから、自分はずっと独りぼっちなんだと。

 

 だが――こうして、弟に喜んでもらえるなら、そう悪いものでもないのかもしれない。

 レイは、初めてそう思えた。

 

 暫く草原を疾走していたレイは、やがて家から少し離れた場所で止まった。

 霧島賢一と優菜にはこの力のことは話していない。

 急に人間を超えた速度で疾走する様子を見せたらビックリさせてしまうだろう。

 

 止まったレイは興奮している様子のユウを肩からゆっくりと下ろした。

 肩から地面に降り立った少年は、顔を輝かせて見上げてくる。

 

「すごかったね! おねえちゃん、すっごく速い!」

 

 その言葉に、レイはふっと笑みを浮かべた。

 

「私が吸血鬼だっていうのはみんなには内緒だぞ?」

「うん! ……ねぇ、またやってくれる?」

「お前が、いい子にしていたらな」

「分かった! 約束だからね!」

 

 ぼさぼさの髪を揺らしながら、ユウは元気いっぱいに頷いた。

 レイは思わずその頭に手を伸ばしかけて――躊躇う。

 

 けれど。

 

「おねえちゃん?」

 

 ユウが首を傾げて、無邪気な声でそう呼んだ。

 その一言で、レイの迷いは霧のように消えた。

 

 そっとその小さな頭に手を置いて、優しく、ゆっくりと撫でた。

 

 

 

♰♰♰♰♰ ♰♰♰✜♰♰♰ ♰♰♰♰♰ 

 

 

 

「ただいまー!」

「ただいま戻りました」

「あら、お帰りなさい」

 

 草原での遊びを終え、仲良く手を繋いで帰宅した二人を優菜の優しい声が歓迎する。

 

「あれ? お父さんはー?」

「今、持ってきたラジコンの整備をしてるわ。午後から遊べるかもしれないって言ってたわ」

「本当⁉ うわー、楽しみだなぁ!」

 

 朝から賢一は奥の部屋に籠りっきりになっていた。

 あの部屋は未だに子供厳禁であり、レイもユウも立ち入ったことはない。

 どうやら、これから使う遊び道具がたくさん入っているらしく、新鮮なリアクションが見たいから入ってほしくないとのことだ。

 

「楽しみねぇ。その前に、お昼ご飯にしましょう。あと十分くらいで出来るから、二人とも手を洗ってらっしゃいね~」

「はーい」

「はい」

 

 二人は素直に頷き、並んで洗面所へと向かう。

 丁寧に手を洗ったあとは、自分たちの部屋に戻って軽くトランプをして時間を潰していた。

 

 そろそろ頃合いだろうと、ふたりは席へ戻ろうとした――そのとき。

 

「ん……?」

「わぷっ! どうしたの、おねえちゃん?」

 

 廊下の途中で急に立ち止まったレイの背中に鼻をぶつけたユウが、不思議そうに問いかけた。

 レイは形の良い鼻をひくひくと動かしながら、顔をしかめる。

 

「……なんか、変な匂いがしないか?」

「えー? 分かんない。もう僕、お腹ぺこぺこー!」

 

 ユウはそう言うや否や、レイの横を駆け抜けていった。

 

「あっ、おい!」

 

 慌てて追いかけようとしたレイだったが、台所に近づくにつれて匂いはどんどん強くなっていく。

 鼻腔を刺激する、どこか危険な匂い。

 軽い不安が、次第に確信へと変わる。

 

 そしてユウに一歩遅れて食卓に到着したレイの目に映ったのは、テーブルにきれいに並べられた、出来立ての昼食。

 四人分の料理が湯気を立てている。色とりどりの具材が混ざった、美味しそうな――しかし、彼女の鼻が猛烈にアラートを鳴らす。

 

 そのとき、キッチンに立っていた優菜が、いつものようににこやかに昼食メニューを告げた。

 

「今日のお昼はね、ニンニクたっぷり! スタミナ満点のガーリックパスタよ~!」

 

 ――終わった。

 

 レイの顔が、見る間に引き攣る。

 その場で立ち尽くし、天井を仰ぎ、「やっちまった」とばかりに両手で顔を覆う。

 今日まで全くそういった料理が出てこなかったのですっかり油断していたが、彼女の苦手な食材を伝え忘れていた。

 優菜は何も悪くない。レイのミスだ。

 

「おっ、美味しそうだな」

「あっ、お父さん。ラジコン動くようになったー?」

「あぁ。調子が悪そうだったから心配していたが、ちょっと回路を弄ったら直ったよ。これを食べたら遊ぼうか」

「やったー! 」

「おかわりもあるからたくさん食べてね~、元気になれるわよ」

「うんっ!」

「……」

「ほら、レイちゃんも座って。一緒に食べましょう」

「……」

「レイちゃん、どうしたの……?」

 

 皆が食卓に着いている中、一向に座ろうとしない彼女に怪訝な視線を向ける優菜。

 レイは苦渋に満ちた表情でパスタを睨みつけながら――

 

「優菜さん」

「なに?」

「申し訳ないが、ニンニクを抜いてもらうことはできるか?」

 

 無礼を承知で、無茶なお願いをするのだった。

 

 

♰♰♰♰♰ ♰♰♰✜♰♰♰ ♰♰♰♰♰ 

 

 

 結論から言えば、ニンニクは抜いてもらえなかった。

 

「ごめんなさいね、苦手だって知らなくて……もう作っちゃったものだから……」

 

 心底申し訳なさそうな顔で言われてしまえば、断れるはずもない。

 

「いえ、私の方こそ無理を言いました」

 

 鼻が捻じ曲がりそうになるのを必死に堪えながら、レイは無心でパスタを頬張った。

 種族的に弱点である食べ物だが、弱点というだけで別に死ぬわけではない。

 見事に完食したレイはフォークを置いて手を合わせた。

 

「美味しかったです」

「……レイちゃん、無理しなくていいのよ?」

「無理? なんのことですか?」

「そんなに血走った目で言われても説得力がないというか……」

 

 明らかに無理をしていそうな顔でブルブルと震えるレイを見ながら、霧島優菜は呆れたように溜息をついた。

 

「ごめんなさい。次から、ニンニクは抜くようにするわ」

「いえ、お構いなく。私は負けませんから」

「何と戦っているのかしら」

 

 霧島優菜は頑固な娘を見て呆れたように溜息をついてから、おかしそうに笑った。

 どうして急に笑い出したのか分からないレイは「???」と首を傾げている。

 

「あっ、おかあさん笑ってる! おねえちゃんが変なことをしたからだ!」

「変なこと⁉ い、いや私は何もしてないが……」

「ラジコンやろうか! あれ、なんで笑ってるんだ?」

 

 レイはオロオロしながら首を傾げ、ユウはそんな姉を見てはしゃぎ、奥の部屋からラジコンを持ってきた賢一が状況を掴めずに首を傾げる。

 

 そんな皆の様子がおかしくて、優菜はまた笑った。

 

 この幸せな光景を壊したくなくて――

 

 ただ、笑ってみせた。

 

 

 

♰♰♰♰♰ ♰♰♰✜♰♰♰ ♰♰♰♰♰ 

 

 

 

 日々は流れるように過ぎていく。

 

 野球、サッカー、バドミントン――病院に閉じ込められていたユウは、父や姉と一緒に草原の中でおもいっきり身体を動かすスポーツに熱中した。

 熱中しすぎて倒れてしまうこともあったが、それでも彼は毎日楽しそうに笑っていた。

 

 賢一が持参したラジコンでも遊んだ。

 車、ヘリコプター、そしてドローン。

 ユウは目を輝かせて操縦し、レイもまた珍しいそれらに興味を示した。

 弟が操るラジコンを追いかける姉。

 ……気を抜いて本気を出してしまい、常人を遥かに超えた身体能力で賢一をビックリさせたのはここだけの話だ。

 

 日が暮れれば、みんなでゲームをした。

 UNO、トランプ、ジェンガ……多種多様なゲームで盛り上がった。

 

 バーベキューをした。

 花火をした。

 みんなで草原に寝っ転がって星を眺めた。

 

 思い出は積み重なっていく。

 積み重ねていくほどに、星のように輝きを増していく。

 

 飽きることなどない。

 楽しくない瞬間なんてない。

 悲しくなる暇なんてない。

 

 その「全て」が、あまりにも眩しかったから。

 

 レイたちは気付かないふりをしていた。

 草原を走るユウの息が時折浅くなることも、咳を飲み込むように笑う仕草も、

 日に日にその影が薄れていっているような錯覚も――

 

 すべて、見ないふりをしていた。

 

 彼らはただ日々を一生懸命に生きて、楽しんで――

 

 

 

 遂に、その日を迎えた。

 

 

 

 

「ゴホッ! ゴホッ! ゴホッ!」

「ユウ……?」

 

 それは、いつも通りの薪割りをしていた時のことだった。

 薪割りにすっかり飽きてしまったのか、レイが作業する傍らで、ユウは余った薪を使ってお手製の木剣を作る遊びに夢中になっていた。夢中になって削っていた彼は、ようやく完成した得意の一振りを手に取り、満足そうに笑っていたが――

 ふいに、その剣を地面に取り落とし、激しく咳き込み始めた。

 

 レイは咄嗟に斧を放り出し、彼のもとへ駆け寄る。

 

 日によって体調に波のあるユウだが、ここ最近は安定していた。だからこそ、突然の発作にレイの胸を不安がよぎる。

 彼の背を優しく擦りながら、少しでも苦しみを和らげようとする――その時だった。

 

「ゴホッ……ゴホッ!」

「ッ……!」

 

 次の瞬間、ユウの小さな口から鮮血が飛び散った。

 それは、この小屋に来た初日にも見た、あまりにも忌まわしい光景。

 

 レイの顔から血の気が引く。

 

 突き上げるような吸血衝動など感じる余裕もなかった。

 ただ、必死に、彼の小さな身体を抱き上げて――

 レイは迷いなく、小屋の中へと飛び込んだ。

 

「賢一さん! 優菜さん! ユウが……!」

 

 あの日と同じように声を張り上げ、レイは二人を呼ぶ。

 二人はレイが立ち入ったことがない奥の部屋から飛び出してきた。

 ユウの状態を見て顔面蒼白になり――それでも気丈に振舞いながら彼を励まして薬と水を飲ませ、ベッドで休ませる。

 

 だが――

 

「ゴホッ! ゴホッ! ゴホッ……!」

「あ、あなた……! ユウの血が、ユウの血が止まらないの……!」

「……輸血パックを取って来る。楽な姿勢を取らせてあげてくれ」

 

 涙を流しながら絶望した表情を浮かべる優菜。

 賢一は険しい表情で奥の部屋へ輸血パックを取りに向かう。

 

「ユウ……」

 

 苦しむ弟の顔に手を当て、レイは優しく語り掛ける。

 いつもなら無理にでも微笑んでみせるユウはしかし、苦しそうな呼吸を吐き出すだけで精いっぱいで――

 

 レイは悟った。

 

 遠くにあれと願っていたその日が、すぐそこまで迫っていることを。

 

 

♰♰♰♰♰ ♰♰♰✜♰♰♰ ♰♰♰♰♰ 

 

 

 

 その日の夜、レイは外に出て一人で星を眺めていた。

 

 満天の星々は、ユウと姉弟になったあの夜と同じようにキラキラと輝き続けている。

 レイたちに幸せが起ころうが、不幸せが起ころうが、あの星には関係がないということなのだろう。

 

 何光年も先で、生まれては死んでいるだけだ。

 

 レイは溜息をつき、膝の中の顔を埋めた。

 

 考えるのは、この夏の間だけ姉弟となった――あの儚い弟のこと。

 

 目を閉じれば、咳き込み、吐血して苦しむ彼の姿が脳裏に浮かぶ。

 ぜぇー、ぜぇーと死にそうな吐息で、それでも両親を心配させまいと笑ってみせて、虚ろな目でレイを見つめるあの姿。

 

 考えるだけで胸が苦しくなる。

 頬を伝う涙を強引に拭い、レイは顔を上げて星空を見上げた。

 

 このままではユウは――死ぬ。

 

 だが、彼女には“手段”があった。

 

 右の掌を見つめる。意識すれば、すぐに鋭利な爪が伸びる。

 それは紛れもなく、吸血鬼の証。

 

 母から聞かされていた。

 吸血鬼には、血を吸い続けることで他者を眷属とし、人の限界を超えた再生能力と寿命を与える術があると。

 

 だが、レイはそれを一度も試したことがない。

 

 手順も、条件も、成功率も分からない。

 そもそも彼女のような“混血”に、それができるかどうかさえ定かではない。

 

 それでも、もし奇跡的にうまくいけば、ユウは助かるかもしれない。

 もしかすると、これが唯一の救いなのかもしれない。

 

 けれど――レイは安易にその手段を肯定することが出来ずにいた。

 

 何故なら、吸血鬼として生きるということが、どれほどの苦痛か、彼女は誰よりも知っていたから。

 夜を彷徨い、影に潜み、迫害され、逃げ回るだけの人生。

 誰にも手を伸ばせず、必要とされることのない存在。

 そんな運命を、ユウにも背負わせるというのか。

 

 ――人として、短くも愛に包まれた人生を全うさせるか。

 ――それとも、自分と同じ、闇に生きる者として、長く苦しみながら生かせるか。

 

 どちらが正解なのか、彼女には分からなかった。

 選べるわけがなかった。

 

 だが、もう一つ分かっていることもある。

 このまま、何もしなければ――彼は確実に死ぬ。

 

 だからこそ、決めた。

 

 己の苦悩だけで、この決断を下してはいけない。

 自分はあくまでも、偽物の家族なのだから。

 

 そう結論を下したレイはゆっくりと立ち上がり、家へと向かった。

 

 

 

♰♰♰♰♰ ♰♰♰✜♰♰♰ ♰♰♰♰♰ 

 

 

 

「優菜さん……?」

 

 レイが家の中に戻った時、リビングには霧島優菜がいた。

 テーブルの上で顔を伏せている彼女の姿は生気と呼べるようなものがなく――レイは思わず近づいて優しく肩を揺すった。

 

「……あら、レイちゃん」

 

 顔を上げた優菜は無理やり微笑んで見せた。

 焦燥した顔色と、引き攣った笑みが痛々しい。

 

「今日はもう、休んだ方がいいのではないですか……?」

 

 気持ちは分かるが、このまま体調を崩してしまったらユウも悲しむだろう。レイは心配そうな表情を浮かべながら語り掛ける。

 

「そうね……もう、休まないとね。でも、ごめんなさい。その前に、これを片付けることにするわ」

「これは……パスタ、ですか」

「えぇ。貴女が苦手なのは知っているけれど、昨日にユウが食べたいと言っていたから、特別に作っていたの。だけど、あの子、もう食べられそうにないから……」

 

 最後まで言い切ることが出来ず、霧島優菜は両手で顔を覆って泣き出した。

 

「本当にごめんなさい……捨てることも出来なくて……」

 

 レイは優しく彼女の背を擦りながら、尋ねた。

 

「……良ければ、私が食べましょうか? 捨ててしまうのはもったいない」

「そんな……貴女はニンニクが苦手なんでしょう? 無理をしないで……」

「いえ、大丈夫です。――私は、負けませんから」

 

 いつかの日と同じように強がって見せるレイに微笑んで、少しだけ元気を取り戻した優菜は立ち上がった。

 

「……フフッ、本当に頑固ね。冷たいままじゃあ、ますます美味しくないでしょう? 温めてくるから待っていてね」

「分かりました」

 

 そうして温め直されたパスタをレイは頬張った。

 今日は食べられそうにない弟の代わりに。

 

 舌がビリビリと痺れる。

 吸血鬼としての身体が悲鳴を上げている。

 だが、レイはそれを意志の力だけでねじ伏せて、パスタを平らげた。

 

「ご馳走さまでした。美味しかったです」

「……貴女は、()()()()律儀な子だったわね」

「いえ、そんなことは――」

 

 褒められたと思ったレイは謙遜したが、すぐに妙な単語に気が付いて首を傾げた。

 

「すいません。最後というのは……?」

「……レイちゃん、貴女は私たちの家族よ。そうよね?」

「え、えぇ……そう、ですが……」

 

 いつもなら照れくさそうに答えるレイだが、なんだか霧島優菜の様子がおかしい。

 不穏な気配を感じたレイは椅子から立ち上がろうとして――

 

「家族なら、家族の為に尽くすのは当然のことよね?」

「ッ!」

 

 立ち上がることができずにバランスを崩し、そのまま床に倒れ込んだ。

 身体のコントロールが効かない。

 レイの身体は、異常な痺れに襲われていた。

 

「こ、これは……!」

「ごめんね、レイちゃん」

 

 謎の液体を布に浸した霧島優菜が近づいてくる。レイは必死に身体を動かそうとするが、動けない。

 

「お願いだから――ユウのために()()()()()()()()

 

 彼女は布をレイの鼻に被せた。

 急速に意識が飛んでいく。

 

 そして――最悪の地獄が始まった。

 

 

 

♰♰♰♰♰ ♰♰♰✜♰♰♰ ♰♰♰♰♰ 

 

 

「う……」

 

 レイが目を覚ました時、そこは見知らぬ部屋の中だった。

 痺れる首を動かして辺りを見渡せば、怪しげな置物や書物に囲まれているのが分かる。

 さらに壁には複雑怪奇な呪文が描かれており、床には巨大な魔法陣まである。

 こんな呪物が近くにあればすぐに気が付きそうなものだが、奇妙なことにこの部屋に置いてあるものにはどれも“魔力”が宿っていなかった。

 

 しかし、魔力がないからといって、この部屋が危険な匂いに満ちた空間であることに間違いはない。

 レイは痺れる身体を無理やり動かそうとして――

 

 ガチャッ

 

「ッ!」

 

 自身の身体が鎖でがっちりと拘束されていることに気が付いた。

 両手は後ろに回されて本物の手錠を掛けられている上に、上から鎖で何重にも拘束されていて、両足もまた同じように拘束されてしまっている。

 普段であればこの程度の鎖、素の腕力だけで引き千切れるのだが、今は身体が痺れて上手く力が入らない。

 

 レイは何とか拘束から逃れようともがき――

 

「目が覚めたのね」

「ッ!」

 

 上から降って来た冷たい声に背筋を凍らせた。恐る恐る視線を向けると、これまで見て来た優しい眼差しが偽りであったかのように、冷酷な視線を向ける霧島優菜の姿があった。

 

「ゆ、ゆうな、さん……これは?」

 

 痺れる舌を何とか動かしながら尋ねる。

 彼女は一枚の用紙を取り出して、レイに見せた。そこにはどこからか隠し取りされたらしいレイの姿と――彼女のプロフィールが記載されていた。

 

「あの情報屋さんから聞いたわ。貴女、吸血鬼なんでしょう?」

「ッ!」

 

 レイの目が驚愕に見開かれる。

 優菜は歪んだ笑みを浮かべた。

 

「良かった。……まぁ、ニンニクが苦手で、吸血鬼対策に用意した薬が効いている時点で確信はあったんだけどね」

 

 彼女は笑みを浮かべながらレイが吸血鬼であったことに喜んでいる。さらに、今語った内容が本当であれば、彼女は最初からレイが吸血鬼であると分かった上で、巧妙に苦手なニンニクに薬を混ぜてレイを捕えたということになる。

 

 そこまで考えて、レイはようやく理解した。

 全ては――最初から仕組まれていたことなのだと。

 

『ちょっと変な依頼だが』

『吸血鬼は金になるからな』

 

 厭らしい笑みを浮かべた情報屋の顔が脳裏に浮かぶ。

 この依頼自体が、最初からレイを嵌めるために存在していたのだ。

 

「な、なぜ……?」

 

 痺れた舌をかろうじて動かし、レイはかすれた声を絞り出す。

 なぜここまでして、自分を騙したのか。

 あの温かな日々が、あの笑顔が、全て演技だったというのか。

 彼女が信じ、心から愛おしいと思った“家族”が作り物だったというのか。

 

 一筋の涙が、無防備に頬を伝った。

 

「ッ!」

 

 しかし、霧島優菜の顔にレイが予想していたような“歪んだ笑み”はなかった。

 目の前の彼女は目に涙を溜め、苦悶に顔を歪めていた。

 それは、罪を自覚する者の、哀しい母の顔だった。

 

「……貴女には悪いと思っているわ。でも……これしか、なかったの」

 

 優菜の声は震えていた。それは言い訳ではなかった。懺悔でもなかった。

 ただ、胸に抱えきれない想いを吐き出すような――慟哭だった。

 

「誰に頼んでも、誰に祈っても、ユウを助けられる方法なんてなかったの……! 諦めろって……見送ってやれって……そんなの、無理に決まってる!」

 

 拳を強く握りしめ、彼女は叫んだ。

 張り裂けそうな声だった。

 

「私は……私は、あの子が笑ってる姿を、もっと見たかった。誕生日を祝って、成長を見守って、将来を語って……ただ、それだけでよかったのに!」

 

 優しかった霧島優菜の瞳に狂気が宿る。

 霧島優菜は涙を流しながら、胸から零れ落ちる激情を口にした。

 

「人が、神があの子を見捨てるというのなら、私たちは他のものに頼るだけよ。あの子は死なせない! 絶対に! 生きて、生きて……私たちは、その成長を見守り続けるの!」

 

 霧島優菜の背後から、眠っているユウを抱いた霧島賢一が無言で前に出た。

 そして、優菜は魔術陣が刻まれた古い書物を手に取った。

 

「始めましょう。あなた」

 

 涙を拭い、優菜は告げる。

 

「あぁ。始めよう」

 

 賢一は答えた。

 重く、決意のこもった声だった。

 

「――悪魔の召喚を」

 

 その言葉に、レイの心臓が跳ねた。

 

 悪魔。魔術によって呼び出される異界の存在。

 欲望の代償に奇跡をもたらす、世界の理を無視した異端の力。

 何度かその存在を目にする機会はあったが、レイもよく知らない、魔物たち。

 

「私たちには、()()が足りなかったの。それから、生贄として捧げる“()()()()()”もね」

 

 優菜の目が、哀しくも冷たく光る。

 

 それが――全ての理由だった。

 

 なぜ突然、護衛という名目で雇われたのか。

 なぜあの夏の間、家族のように接してくれたのか。

 

 全ては、召喚の準備だったのだ。

 愛情も、絆も、美味しい料理も、あの笑顔も――全部。

 

 ただ、レイを“生贄”として仕立て上げるための布石にすぎなかったのだ。

 

「レイちゃん、貴女の魔力と血を貰うわね」

「――ッ!」

 

 ナイフが近づいてくる。

 抵抗しようと身体を動かすが、霧島優菜の腕は迷いなくレイの肩を押さえつけ――

 銀色の刃が、迷いなく彼女の喉を切り裂いた。

 

「ッ――!」

 

 激痛にのたうち回る――ことも痺れる身体では叶わず、レイは地獄のような苦痛に晒され続けることしか出来ない。

 目を限界まで見開き、身体を痙攣させながら苦しむレイの姿に一瞬だけ苦しそうな表情を浮かべたものの、優菜と賢一はすぐに彼女の身体を傾けて魔法陣にその血が流れていくように向きを調整した。

 

「うー、うー、うぅぅぅぅぅぅ」

 

 激痛に苦しむレイの視界に、自身の血が魔法陣へ流れていく様子が見える。

 潤沢な魔力を持つ彼女の血はあっという間に魔法陣へと吸い込まれ――

 

 次の瞬間、何の気配も感じ取れなかった魔法陣から光が発せられた。

 

 光は爆発的に広がっていきながら、部屋の中に置かれた呪物と連鎖反応を起こしていく。

 霧島優菜は手に持つ古い書物に記載されている呪文を詠唱し始めた。

 

「―――、―――、」

 

 詠唱の声が響くたび、魔法陣は輝きを増し、空間そのものが軋むような音を立て始める。

 高まる魔力。

 隔てられた現世と魔界の間に、小さな“道”が開かれていく。

 

 やがて、魔法陣の中心から黒い瘴気が滲み出し、静かに周囲を満たしていった。

 それは気配というにはあまりにも濃く、重く、確かな存在として場を支配し始める。

 

 本能が告げる――これは、呼び出してはならぬものだと。

 それでも霧島夫妻は、その警告を意志の力でねじ伏せた。

 彼らにとって大切なのは、ただ一つの願いだけ。

 

 神よ。

 もし貴方が、我らの祈りに耳を傾けぬというのなら――

 ならば、我らは貴方に仇なす者にこそ、すがろう。

 

 最後の一節を霧島優菜が読み終える。

 魔法陣の輝きは最高潮に達し、彼らの前には――

 

 

『不敬な、と言いたいところだが……ただの人間が俺様を呼び出すとは、面白れェじゃねェか』

 

 

 それは、黒い影だった。

 人の形をしているようで、していない。

 輪郭は曖昧で、深淵の闇をそのまま引きずってきたような異形の存在。

 禍々しき気配を纏いながら、魔法陣の中心に君臨していた。

 

 霧島賢一と優菜は、思わず顔を見合わせる。

 何かがおかしい。

 この悪魔は、呼び出したはずの“それ”ではない気がする。

 

 恐る恐る、賢一が口を開いた。

 

「我らの召喚に応じてくれたあなたは……血の大公ヴォルフェンハイト、で間違いないか?」

 

 ヴォルフェンハイト。

 禁書にその名を記された、古き血の大公。

 血を媒介とした魔術、そして生命操作を得意とする悪魔。

 その力であれば、息子の命を繋ぎとめることができる。

 そう信じて彼らはこの儀式を行ったのだ。

 

『あァ? ヴォルだァ? 俺様をあんな小物と間違うとはいい度胸――あァ、その本、懐かしいなァ! なるほどな、それで俺様に通知が来たってわけか!』

 

 何がおかしいのか、黒い影は身体を揺らしてケラケラと笑った。

 一方、呼び出した悪魔が目当ての存在ではないと知った二人は大きく失望していた。

 

「クソっ! ここまで準備をしたというのに失敗するなんて!」

 

 本を床に叩きつけ、優菜は頭を掻きむしった。

 全てを捧げ、倫理観に唾を吐き掛けてここまでやって来たのだ。だというのに、その結末がこんなのだなんて――

 

『おいおい、随分と失礼な人間だなァ。この俺様を外れ扱いとは。こっちだってなァ、こんな不完全な状態で召喚されて機嫌悪いんだ。そう露骨な態度取るんじゃねェよ』

 

 黒い影で構成された己の身体を見ながらぼやく悪魔。

 優菜はキッと悪魔を睨みつけた。

 

「じゃあ、アンタが願いを叶えなさいよ! 悪魔なんでしょ⁉」

『ハハハ! これはこれは、なかなかいい塩梅で絶望が育ってる。随分と苦労しているみてェだな。いいぜ、気に入った。願いを言ってみろよ。叶えてやるかは別だがな』

「ッ! 馬鹿にしてッ!」

 

 激昂する優菜だが、そんな彼女を賢一が制止した。

 

「待つんだ! ここまでの手順を踏んで召喚した悪魔なんだ。もしかしたら、俺たちの願いを叶えられるかもしれないぞ?」

「……」

 

 優菜は少しの間考え込んだ。確かに、この悪魔の放つ気配は異様だ。

 しかも、これほどの存在感を放っていながら、召喚自体は不完全だという。

 そこまでのポテンシャルを持つ悪魔であれば、或いは――

 

「……私たちの願いを、聞いてくれますか?」

『おう、いいぜェ。話してみな』

 

 気さくな悪魔の雰囲気に乗せられ、二人は叶えたくて仕方がないその願いの内容を口にした。

 悪魔は口を挟むことなく静かに聞き終え、納得したように頷いた。

 

『なるほどなァ。息子の病を治して欲しいと』

 

 黒い影に隠れた悪魔の眼が、賢一の腕に抱かれるユウをチラリと見た。

 

『ありふれた願いだが、対価はどうやって払うつもりだァ?』

 

 悪魔との取引で重要になってくるのは、その“対価”の存在だ。願いが大きければ大きいほど、その対価も大きくなければならない。

 優菜は拘束され、地面に転がっているレイを指さした。

 

「娘を! 娘の命を対価として捧げるわ!」

『ハハハハハハ! おいおい、碌でもねェ母親と父親だな』

 

 息子の命を救うために、娘の命を差し出す。

 悪魔は腹を抱えて嗤った。これだから人間は面白い。 

 

『そんなことを言われているが、小娘、お前はどうなんだ? えぇ?』

「かひゅッ、うー、うー、うぅぅぅぅぅぅ」

『あァ? なんだ、喉を切り裂かれてんのか。――ほれ、これで喋れるだろ』

 

 足元に転がっている拘束された娘を見た悪魔は笑いながら彼女の意思を確認しようとする。

 だが、すぐに喉を切られていて喋れないことに気が付いた悪魔は軽く右腕を振った。

 次の瞬間――レイの喉の傷は塞がっていた。まるで、魔法のように。

 

 レイと、夫婦の目が驚愕に見開かれる。

 

「こ、これは……」

『ほら、俺様が言葉を与えてやったんだ。さっさと話せよ、小娘』

 

 悪魔から見下ろされながら、レイはゆっくりと顔を上げた。その赤い瞳が真っ直ぐに悪魔を射抜く。

 その瞳に――怒りや恐怖の感情はなかった。

 

『ほう?』 

 

 悪魔が感心したような声を漏らす。

 レイは、静かに悪魔の問いに答えた。

 

「構わない」

 

 ただ一言、それだけを。

 

『……構わないってのは、テメェが弟の生贄にされても構わないって意味で良かったかァ?』

()()()

 

 悪魔が怪訝な声で尋ねるも、レイの答えに揺らぎはない。彼女は覚悟を決めた顔で、己の命を捧げても構わないと宣言した。

 彼女の言葉を受け、部屋の中で息を呑む気配が二つあった。

 

「レイ……あ、貴女……」

「レイ……」

 

 レイは未だに痺れる身体をゆっくりと動かして、振り向いた。

 そして、上手く表情が動かない顔で不器用に微笑んで見せた。

 

「……優菜さん、賢一さん。余計な手間を取らせてしまいましたね。別に、こんなことをする必要はなかったというのに」

「つまり、貴女は――」

「覚悟は出来ています。……寧ろ、今は安心しています。この方がいい。こっちの方が、いいに決まっている」

 

 自身の同族として虐げられながら生きるよりも、ずっと。

 レイは胸のつっかえが取れたように、穏やかな気持ちで微笑んだ。

 

「出来れば、先に相談してもらえていたらありがたかったですね。……まぁ、吸血鬼であることを隠していた私が言えた義理じゃありませんが」

 

 吸血鬼、という言葉を聞いてピクリと悪魔が反応した――気がしたが、今はそちらに構う余裕はない。

 レイは憑き物が落ちたような表情で、最期の別れの挨拶をしようと、短いながらも“家族”であった二人に向き合う。

 彼女の真摯な言葉を聞いた霧島優菜は顔を伏せた。

 

「……言えるわけ、ないじゃない。こんな自分勝手な願いで貴女を家族に引き込んで、それで仲良くなったら死んでくれなんて、言えるはずないじゃないッ!」

「……」

 

 泣きそうな顔で叫ぶ優菜と、同じく泣きそうな顔で俯く賢一。

 

 レイはその顔を見て、不意に安堵してしまった。

 あぁ、良かった。

 あの日々の中で感じた彼らの愛情は、“偽物”ではなかったのだ。

 

「あなたたちは、そうでしょうね。――だからこそ、悪役を演じるには迫力不足だ」

「レイ……」

「ありがとうございました。ここでの暮らしは、これまでの人生の中で一番幸せだった……後悔はありません」

 

 死期を悟った老人のような――しかし、それでいて全てを許す聖人のような顔でレイは素敵な思い出をくれた彼らに感謝の言葉を伝えた。

 

「……ごめんなさい、レイちゃん」

「すまない、レイちゃん」

「謝らないでください。こういう運命だったのです。ユウのために死ねる。そう思えば、すべてが報われます」

 

 探し求める同胞にも会えず、追い回され、ただ彷徨い続けるだけの人生。

 レイの心は既に疲れ切っていて――だからこそ、これは正しい運命だと思えた。

 不運も、不幸もこの日の為にあったのだと思えば、レイは全てを許せそうな気がした。

 

「ありがとう。……また会おうとは言わないわ。私たちは、地獄行きでしょうから」

「安心してください。また会えますよ。……私もどうせ、地獄行きでしょうから」

 

 生き残るため、罪を重ねたこともあった。

 故に、レイは最初から自分が天国に行けるなんて思っていなかった。

 

 だけど――たとえ地獄でも、この人たちと再会できるなら、それは悪くないことだと思えた。

 ユウに会えないのは残念だが……彼らなら、天国で楽しくやっているだろう。

 

 

 パチッ、パチッ、パチッーー

 

 

 お互いの思いを伝え合い、彼らが真の意味で“家族”になろうとしていたその時――部屋の中に乾いた音が響いた。

 全員の視線がそちらを向く。

 

『素晴らしい、素晴らしいねェ、あぁ、素晴らしい! 実に素晴らしくて()()()()!』

 

 レイと霧島優菜のやり取りを黙って見守っていた悪魔が両手を叩いて適当に拍手をしながら、嘲笑に満ちた声で彼女たちのことを愚弄していた。

 

『諸君! 下らねェ、家族ごっこ、ご苦労だった! ……あーあ、やる気なくすぜェ』

 

 悪魔は悲劇を好む。

 人の苦痛を餌にする。

 故に、この悪魔にとってレイと優菜のやり取りは、決して面白いものには映らなかった。

 

「好き勝手なことを言うな。お前はこうしてここに呼び出され、対価を差し出すと言われた以上、願いを叶える義務があるんじゃないのか?」

『普通の悪魔ならそうだろなァ。だが、この俺様を普通の悪魔と同列に扱うな。どうして俺様がこんな陳腐な願いを――』

 

 悪魔は気だるそうに言葉を発しながら、しかしふいに言葉を止めた。

 

 黒い影に覆われている悪魔は眼球の有無さえ不明だが、それでもその視線がじっとレイのことを見つめていることは何となく分かる。

 レイが戸惑う中、悪魔は突然彼女に向かって言った。

 

『おい、そこの娘、もっと俺に近づけ』

 

 悪魔が手招きするように人差し指を動かした瞬間、レイの身体は見えない何かに引っ張られるように魔法陣へと近づいた。

 そして――

 

「ッ!」

 

 顔のない真っ暗な影に迫られ、思わず声を上げそうになるレイ。悪魔はそんな彼女の瞳を真っすぐに覗き込んで――

 

『―――ほう? “()()()()”か。珍しいな』

 

 黒い影の中に潜む黄金の瞳を細めて、そんな言葉を口にした。

 一体何のことを言っているのか分からないレイは首を傾げることしか出来ない。

 

『だが勿体ないな。覚醒してねェのか。……ま、覚醒してるんならこんな目に遭ってないって話だがなァ』

「な、なにを……」

『自覚なし、か。面白れェな、嬢ちゃん』

 

 ケラケラと笑う悪魔。

 レイは首を傾げながらも、悪魔が己の中に何かを見出していることは分かった。

 

「何のことを言っているのかは分からないが……私にユウを蘇らせる対価の価値はあるということでいいのか?」

『あァ、あるぜ。寧ろ、()()()()()()()()()()()

「なら――」

『だが、あり過ぎるせいで釣り合いが取れてねェ。受け取れねェな』

 

 その言葉を聞き、後ろで二人のやり取りを見守っていた霧島優菜は激昂した。

 

「ふざけたことを言わないで! アンタ悪魔でしょう⁉ 自分に有利なら黙って受け取りなさいよ!」

『いや、ダメだ。こういうのはバランスが肝要なんだよ。……ま、うちの()()()みたいにバランスなんかどうでもいいって変わり者もいるが、俺はダメなんだよ。立場ってもんがあるからなァ』

「とんだ役立たずねッ!」

 

 優菜は悔しそうに歯噛みをする。

 しかし、すぐにハッと何かを思いついたような表情を浮かべ矢継ぎ早に言葉を発した。

 

「そ、それなら! ユウの身体を治すだけじゃなくてもっと素晴らしいものを与えて!」

『というと?』

「な、何かよ! 例えば、二度と病に掛からないような丈夫な身体とか、悲劇を回避できる力とか、そういうものよ!」

『なるほどなァ。人間の身の丈を超えた願いを叶えろってか。上手いこと考えたじゃねェか』

「どう⁉ これならレイの命と釣り合いが取れているでしょう⁉」

『まァ、取れていなくもないが、別にわざわざその娘の命を使わなくたって、他の対価を払えば息子の命は助かるぜェ』

「何を言ってるのよ! 他に対価なんて――」

 

『あるぜェ。()()にな――』

 

 次の瞬間、霧島賢一と、霧島優菜の身体が()()()()()

 ただ息子の幸せだけを願っていた二人が、実に呆気なく。

 

「えっ」

 

 レイは唖然としながら、頭上から雨のように降り注ぐ二人の血肉を見上げていた。

 

『そんなに息子を助けたいんなら、まずはテメェらの命捧げろや、馬鹿が。――まァ、これで俺様への数々の不敬は許してやる。感謝しろよ? 人間』

 

 悪魔はケラケラと笑っていた。

 ケラケラと、ケラケラと。

 人の命を蟻のように潰して、心底楽しそうに。

 邪悪そのもののように、暴君のように。

 

『ハハハ! あー、面白かった。さて、対価を捧げられた以上は願いを叶えなきゃなァ……だが、あれだな。勢いで二人とも殺っちまったから、病を治すだけじゃバランスが悪いな』

 

 指すら動かさずに殺した人間たちの血を浴びながら、悪魔は思考する。

 悩む悪魔の視線が部屋の中を彷徨い――

 

『……ふむ。ここは貴重なものを見れたこともあるし、とびっきりの一品をプレゼントしてやるかァ』

 

 茫然自失としているレイに目を止め、悪魔は嗤う。

 彼は優雅に右手を持ち上げ――

 

『じゃあな、お嬢ちゃん。生きてたらまた会おうぜェ』

 

 彼の娘と同じような仕草で指を鳴らした。

 

 

 

♰♰♰♰♰ ♰♰♰✜♰♰♰ ♰♰♰♰♰

 

 

 

 部屋の中が真っ白な光に包まれる。

 眩しさに目を閉じたレイがゆっくりと目を開いた時――

 

「あ、れ……?」

 

 彼女を拘束していた鎖も、頭上から降り注いでいた筈の二人の血肉も、巨大な魔法陣も、刻まれた呪文も、何もかもがなくなっていた。

 まるで、全ては夢であったかのように。

 

「うぅん……あれ? おねえちゃん?」

 

 床で眠っていた弟が目を覚ます。

 

「……ユウ」

「あれー? お父さんとお母さんはー?」

 

 目を擦りながら立ち上がった弟は、辺りを見渡しながら家の中を歩き回る。

 だが、探しても、探しても見つからない。

 いや、見つかるわけがない。

 

 ――先程の悪夢が、現実であるならば。

 

「ねぇ、おねえちゃん、お父さんとお母さんどこ行ったの~?」

「……ユウ、身体の調子は?」

 

 弟の問いには答えず、逆に問い掛ける。

 ユウは首を傾げながら自分の身体を見渡して――

 

「あれ? なんか、すっごく調子がいいかも!」

 

 嬉しそうに飛び跳ねた。

 そのまま、はしゃぎながら家の中を駆け回る。

 元気いっぱいなその姿を見て、レイは確信した。

 

 先程の出来事は、夢ではなかったということを。

 

「……」

 

 草原を包んでいた光が、静かに翳り始める。

 いつの間にか、夏の青空には灰色の雲が立ち込めていた。

 

 最初の一滴が、音もなく草を濡らす。

 

 やがてそれは、音を伴って降り注ぎ、あたりの空気を湿らせていった。

 レイは、雨に打たれる草原をぼんやりと見つめる。

 

 夏の終わりが、静かに近づいていた。

 

 

 

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