世界の為に推しとの恋愛を諦めようとしたらヤンデレ化された件   作:赤坂緑語

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レイの過去編最終回となります。
※スプラッタ描写があるので、苦手な方はご注意ください。


第32話:血と夏の匂い【後編】

 

 悪夢が起きようとも、生きている限り、現実は続いていく。

 

 

 

「ユウ」

 

 ある晴れた日の朝。柔らかな光がカーテン越しに差し込む中、レイは弟の部屋のドアを静かに開けた。安らかな寝息が布団の中から聞こえる。その音だけが、この静かな空間を満たしていた。

 そっと近づき、彼女は布団越しに小さな身体に手を添えた。

 

「ユウ、朝だぞ」

 

 優しく、何度か揺すってみる。ぬくもりのある小さな体が少しだけ動いて、くぐもった声が返ってくる。

 

「うーん……」

「ほら、起きなさい。もう朝だぞ。……ベーコンも焼いたぞ?」

「うーん……もうちょっとだけぇ……」

 

 毛布を頭までかぶってしまおうとする弟に、レイは苦笑しながら口角を上げた。

 

「そうか。じゃあ、お前の好きなベーコン、私が食べておくぞ」

「それはダメ!」

 

 途端に、ユウは目をカッと見開き、まるで別人のように機敏に布団から飛び起きた。

 

「おはよう、ユウ」

「おはよう!」

 

 元気に挨拶をした弟は、軽快な動作でベッドから飛び降りると真っ先にリビングへと向かった。

 

「ご飯の前に歯を磨いて顔を洗うんだぞ!」

「わかってるー!」

 

 走り去った廊下の奥から返答が届く。

 レイは微かに笑みを浮かべ――そして、苦しそうに顔を伏せた。

 

 

 

♰♰♰♰♰ ♰♰♰✜♰♰♰ ♰♰♰♰♰

 

 

 

「ごちそうさま!」

 

 朝日が差し込む食卓で、レイが作った朝食をぺろりと平らげたユウが、満面の笑みで手を合わせた。

 

「美味しかった!」

「あぁ、ありがとう。……昼はどうしようかな。何か食べたい物あるか?」

 

 ユウは椅子の上で少し考えるように口を尖らせた後――無邪気に笑って言った。

 

「うーん、ニンニクパスタ!」

「……」

 

 レイの眉がぴくりと引き攣る。

 

「アハハ! おねえちゃん、凄い顔してるよ?」

「こらっ、お姉ちゃんに意地悪をするんじゃない」

「好き嫌いはダメだよー? おかあさんも言ってた。大きくなれないって!」

 

 “おかあさん”――その言葉に、レイの微笑みが、ほんの僅かに陰を帯びる。

 だが、ユウはその変化に気付かず、さらに言葉を続けた。

 

「あっ、そうだ。おとうさんとおかあさん、まだ帰ってこないのー?」

 

 彼の視線が窓の外へ向けられる。

 レイは一瞬、痛みに耐えるように顔を歪めて――しかし、すぐに困ったような表情を取り繕った。

 

「……あぁ。どうやら、長い“旅”になるらしい。私たちに修業を頑張れと言っていたよ」

 

 ユウが眠っている間、突然訪問してきた古い友人の誘いにのり、二人は友人の車に乗って長い旅に出た――レイはユウにそう伝えていた。

 

「そう、なんだ……だいじょうぶかな?」

 

 本能的に何かを悟ったのか。ユウは心配そうな表情で問い掛ける。

 レイはひとつ息を吸い、吐いた。

 

「……きっと、大丈夫だ」

 

 それは、ユウに向けた言葉であり、自分自身を保つための呪文であり――

 紛れもない()であった。

 

 嘘。

 全て、嘘だ。

 

 ユウの両親は()()()()()()()()()()()()()

 彼らは二度と、元気なユウの姿を見ることは出来ないし、ユウもその笑顔を両親に向けることは出来ない。

 何故なら、悪魔に呆気なく殺されたから。

 

 レイはテーブルの下でギュッと拳を握った。

 

 嘘をついているという罪悪感と――この少年にいずれは残酷な真実を伝えなければならないことを想い、途方もない悲しみに打ちひしがれる。

 

 だが、レイはその全てを笑顔の仮面の下に仕舞った。

 今はまだ、その時じゃない。

 

 だって――今、真実を伝えてどうなるというのか。

 

 せっかく元気な身体を手に入れたばっかりなのに。

 幸せになろうとしているのに。

 自分の身体を治すために悪魔に縋り、殺されたと教えられて、優しい彼の心が無事で居られるとは思えなかった。

 

 だからレイは、あえて真実を包んだ。

 その代わり、彼の心が受け止められる日が来るまで、少しずつ、優しく、かすかな形にして言葉を選びながら伝えていく。

 

 ユウは聡い子だ。レイが真実を隠していることに気が付き、彼女を激しく糾弾することになるかもしれない。

 怒り、失望し、彼女を責めるかもしれない。

 

 ……それでもいい。

 その日が来るまで、レイは真実を胸の奥に封じ続ける。

 

 彼の中の両親は、草原で笑っていた、あの夏の日のままの姿でいて欲しいから――

 

「そうなんだ、よかったぁ!」

 

 レイの言葉を無条件に信じたユウは安心したのかいつもの笑顔を取り戻し、椅子から勢いよく立ち上がった。

 

「おねえちゃん、遊ぼうよ!」

 

 彼は急に元気になった身体を心底喜んでいるらしく、昨日も体力がなくなるまでずっと駆け回っていた。

 その喜びに満ちた表情を見たレイは、嬉しさに頬を緩ませると同時に、彼の表情を温かく見守っているはずの二人がいないことを寂しく思った。

 

(分かっている……分かっているさ)

 

 彼らは、()()()()

 間違った存在に縋り、間違った方法で息子を救おうとし――その報いを受けた。

 だが、レイはそれでも彼らのことを恨む気にはなれなかった。

 

『私は……私は、あの子が笑ってる姿を、もっと見たかった。誕生日を祝って、成長を見守って、将来を語って……ただ、それだけでよかったのに!』

 

 涙ながらに語っていた霧島優菜の言葉を思い出す。

 今なら分かる。

 こうして彼の成長を見守ることがどれほど幸せなことなのか。

 

 だからこそ、その未来を閉ざさない為に彼らは――

 

「お姉ちゃん、行かないの?」

 

 心配そうに首を傾げた弟の声で現実に回帰する。

 彼女はここ最近で上手くなった作り笑いを浮かべた。

 

「行くに決まっているじゃないか。調子に乗っている弟に、どっちが上か思い知らせてやらないといけないからな」

「あっ、言ったなー! 今日の僕は一味違うから! 目にもの見せてやる!」

「それは楽しみだな」

 

 ボールとバットを手に外へ駆け出す弟の小さな背中を追い掛ける。

 

 外は昨日の雨が嘘のように綺麗に晴れ渡っていた。

 憎々しいほどに、透き通った青空。

 

 レイは、星空を眺めていた時のことを思い出した。

 

 自分たちがどれほど苦しんでも、悩んでも、この世界はそんなこと、微塵も気にしてはいないのだ。

 不幸な目に遭ったから幸福がやってくるわけもなく、世界はただ理不尽であり続ける。

 

 だからこそ――

 

「行くよー!」

「来い」

 

 レイは、強く決心した。

 

 この少年だけは、どんな理不尽が襲い掛かってこようとも、必ず守り通して見せる――と。

 

 決意を胸に、レイは弟が投げたボールを蒼穹の空に向かって打ち返した。

 

 

 

 

◆◆◆彼女の記憶にはない一幕◆◆◆

 

 

 そこは、荘厳な教会だった。

 

 高く聳える天井、彩色されたステンドグラスから差し込む神の光。

 静寂を破るのは、神父が手にした聖書を朗読する低く深い声だけ。

 何者も侵してはならぬ、清められた神聖なる空間――

 

 だが、その空間に、突如として“異物”が舞い込んだ。

 

 それは、一羽の白い鳩だった。

 まるで祝福の象徴のような、純白の翼をもつ鳥。

 しかしその目は、どこまでも無機質で冷たい。

 教会内を滑空し、神父の肩に音もなく降り立つ。

 

 神父はまるで予期していたかのように祈りを止め、視線も動かさぬまま鳩に語りかけた。

 

「……どうした」

『報告。“悪魔王ベルファルド”、現世への干渉を確認』

 

 神父の指先が、ぴたりと止まる。

 

「……干渉時間は」

『約10分。物質顕現も確認』

 

 10分――それだけならば、大した脅威ではない。

 ただの下位の悪魔であれば。

 

 だが、それが“ベルファルド”とあっては話が違った。

 神父の目に一瞬だけ、緊張の色が走る。

 

「……召喚媒体は?」

『魔力の波長から、“ロザリオの禁書”と推定』

 

 神父の表情が露骨に険しくなる。

 それは教会の極秘庫に封印されていたはずの禁書――

 金に目が眩んだ裏切り者によって盗まれ、行方知れずになっていたはずの遺物。

 裏切り者は既に処分したが、現物は既に裏ルートに流れてしまっていた。

 

「発動場所は?」

『特定済み。スイスの南部にある――、という村の近くです』

「……何がある。そんな名も知らぬ寒村に」

 

 神父は聖書を閉じた。

 荘厳な礼拝堂に微かに冷気が走る。

 

「腕利きを集めて即刻派遣しろ。……奴のことだ。どうせ悪趣味な“置き土産”を残しているに違いない。その痕跡ごと消去しろ」

『了解』

 

 命令が下った瞬間、鳩は神父の肩から飛び去って行った。

 

 灰色の雲に紛れて――

 

 白い影が蠢き始めていた。

 

 

 

♰♰♰♰♰ ♰♰♰✜♰♰♰ ♰♰♰♰♰

 

 

 

「あと三日といったところか……」

 

 レイは食糧庫に備えられていた食料を数え、ポツリと独り言を漏らした。

 霧島夫妻は出来るだけ長い間ここに滞在すべく、かなりの食料を持ち込んでいたようだが、それでも限界はある。

 

 幸いにもここから車で30分ほど移動すれば小さな街があるので食料調達自体は難しくない。

 レイであれば霧化して移動すれば、もっと早く到着できるだろう。

 

 問題は食料調達ではなく――時間である。

 

 あの悪夢から、既に三日が経過した。

 

 その間、ユウはいつもと変わらず元気に過ごしていた。

 いや、身体が元気になった分、いつも以上にはしゃいでいるように見えた。

 

 だが、それでもやはり10歳の子供である。

 彼は日に日に両親のことを恋しがるようになり、最近ではよく遠くまで行っては父と母の姿を探すようになっていた。

 

 両親が出掛けた長い“旅”がどれほどの期間になるのか、ユウには話していない。

 そして、ユウもまた聞いてはこなかった。

 

 だが、もしかしたら既に薄々感づいているのかもしれない。

 

 ――あの優しかった両親が、“旅”に出掛けたまま帰って来ないことを。

 

「……」

 

 レイはこみ上げる吐き気を堪えながら、昼食用の食材を手に取ってゆっくりと立ち上がった。

 重たい足取りでキッチンへ向かいながらも、美味しそうに食べてくれる弟の顔を思い浮かべる。

 その笑顔だけを支えに、手際よく調理を始めた。

 

 自分自身は、どうにも食欲が湧かない。

 胃の奥に重く沈むストレスが、食べ物を受けつけてくれないのだ。

 けれど、最近になって食欲が戻り、元気になってきたユウのためには――と、レイは気を取り直し、大盛りの料理を丁寧に盛り付けた。

 

「ユウ、昼食が出来たぞ。一緒に食べよう」

 

 テーブルの上に出来立ての料理を置き、レイは家の中に響くように大きめの声で呼びかける。

 彼のことだ。すぐに飛び出してくるだろう。

 そう思っていたのだが――

 

「ユウ……?」

 

 一向に食いしん坊になった弟がやってくる気配がない。

 レイは怪訝な表情を浮かべながら、もっと大きな声で呼びかけた。

 

「ユウ! ご飯だぞ! 冷めてしまうから早く出て来なさい!」

 

 良く通る彼女の声が家の中に響き渡る。

 静まり返った家の中から、返事が返ってくることはなかった。

 

「何をしているんだか……」

 

 何かに熱中していてレイの声が聞こえていないのかもしれない。レイはユウの部屋まで赴き、ノックをしてからドアを開いた。

 彼は、いなかった。

 

「……」

 

 嫌な予感がする。

 レイはすぐに家のありとあらゆる場所を探し始めた。

 

 お風呂、トイレ、レイの部屋、両親の部屋、食糧庫、――悪魔が召喚された部屋。

 

 いない。どこにも、彼の姿がない。

 

「ユウ……!」

 

 青ざめた表情でレイは外へ飛び出した。家の周りを念入りに確認していく。

 二人で薪割りをしていた裏口。

 賢一とラジコンで遊んでいた場所。

 優菜と一緒にピクニックをした丘。

 

 いない。

 どこにも、彼の姿がない。

 

「ユウ――!」

 

 レイの悲痛な叫びが響く。

 太陽のような弟の返事は、どこからも返ってこなかった。

 

 

 

◆◆◆彼女の記憶にはない一幕◆◆◆

 

 

 まるで、夢を見ているようだった。

 

『――霧島夫妻のものと思われる別荘を発見』

 

 白い衣装を身に纏った大人たちが、ユウたちの家の周りを取り囲んでどこかに連絡を取っている。

 

『情報によれば、半吸血鬼の娘を護衛として雇っているはずだ。注意しろ』

『了解。……ところで、もし仮にその娘がエクソシストとして祓魔器に選ばれていたとしたらどうしますか?』

『人間とのハーフとはいえ、吸血鬼風情が? ……フッ、あり得ん話だが、もしそうなら生かして連れて来い』

『了解』

 

 ユウは、ふらふらと歩いていた。

 彼の眼は虚ろで、正気には見えない。

 

 彼の目に映る不思議な光景は、現在のものではなかった。

 

『これより悪魔王が疑似召喚された場所へ突入を開始する』

 

 突入した彼らは剣を手に家の中へ侵入し、驚きながらも咄嗟に爪を出して黒霧となった少女と激突し――

 

「おねえちゃん……!」

 

 悲痛な叫びが響く。

 黒かったはずの彼の瞳は、()()色に染まっていた。

 爛々と輝く瞳が、ここではない場所を映し出し続ける。

 

『ユウ! 逃げろ……!』

『私を殺せるものなら殺してみろ! 生憎と、簡単には死なんぞ……!』

『……すまない、ユウ。もう、目が見えないんだ……』

『いいんだ……お前が生きていてくれれば、それでいい』

 

 幾度も繰り返される“死”の光景。

 レイは何度も、何度も彼を庇って命を散らしていた。

 

 手足を引きちぎられ、喉を裂かれ、血を吐きながら――

 それでも、最後の瞬間まで彼の名を呼んでいた。

 

 霧島ユウは降り出した雨に打たれながら、ただ一人、その瞳で見続けていた。

 

 ここではない場所を。

 

 ――決して見るべきではない、その光景を。

 

 

 

♰♰♰♰♰ ♰♰♰✜♰♰♰ ♰♰♰♰♰

 

 

「ユウ! どこだ! ユウ!」

 

 焦燥に駆られたレイは、その優れた身体能力を駆使してあちこちを駆け回った。

 

 だが――見つからない。

 

 レイは泣きそうな顔になりながら、それでも諦めずに探し続ける。ユウを怖がらせてはいけないからと封じていた霧化も使い、捜索範囲を広げていく。

 

「ユウ……!」

 

 実体に戻ったレイはどこまでも続く草原のどこにも彼の姿がないことを嘆き、悲痛な声を漏らした。

 

 そのときだった。

 

 ポツ、という感触が額を叩いた。

 レイは顔を顰め――

 

「……雨か」

 

 呟いて、空を仰ぐ。

 灰色の雲がどこまでも広がり、ゆっくりと涙を流すように、空から冷たい水滴が降ってきた。

 

 身体が丈夫になったとはいえ、ずっと雨に晒されていては風邪を引いてしまうかもしれない。

 

 レイは弟が心配で堪らなくて――再び、霧になって移動し始めた。

 必死に辺りを探して回る。

 

 二人で草原を駆け回り、両親に見守られていたあの日が遠い昔のようだ。

 

 レイはすっかり変わってしまった現状に嘆きながら、それでも弟の姿を探し求めて――

 

「ッ!」

 

 遠く、雨に霞む地平の向こう――

 一人、佇む小さな背中を見つけた。

 

「ユウ!」

 

 ようやく探し求めていた弟の姿を見つけ、レイは霧から実体へと戻った。

 濡れている草原の上を全力で疾走し、雨の中、呆然と立ち尽くしている弟の元へ駆けつける。

 

 ぼんやりとした彼の目がレイの方をゆっくりと振り返り――

 

「おねえ、ちゃん」

「馬鹿! 心配させるな……!」

 

 レイは強く、強くユウを抱きしめ、雨に打たれながら涙を零した。

 ユウは心配性な姉を抱きしめ返す――ことはせず、彼女の耳元でポツリと呟いた。

 

「ごめんね。心配掛けて」

「全くだ……! こんなところをびしょ濡れでほっつき歩いて! 風邪を引いたらどうするんだ……!」

 

 涙声での叱責をユウは甘んじて受け入れた。

 

「うん。ごめんね。ちょっと、ボーッとしてたら、こんなところまで来ちゃった」

「なんだ、それは……おっちょこちょいなやつめ」

 

 涙を拭いながら呆れたように笑い、レイはユウを抱き上げた。

 

「うわっ! 突然どうしたの……?」

「帰るぞ。家に」

 

 彼が離れないようにギュッと抱きしめ、レイは脚に力を込めた。

 

「ほら、しっかりと掴まれ。お姉ちゃん号が発進するぞ」

「……うん」

 

 ユウはギュッと姉にしがみついた。

 彼女から、離れないように。

 

 その瞳の色が“黄金”になって――しかし、すぐに元の黒色に戻る。

 雨の中、全力で疾走するレイはその事実に気が付くことがなかった。

 

 

 

♰♰♰♰♰ ♰♰♰✜♰♰♰ ♰♰♰♰♰

 

 

 

 先程の雨は一時的な通り雨だったらしいが、夜空には少し雲が掛かっていた。大きな月も出ているだろうに、その顔を灰色の雲が隠してしまっている。

 それでも星々は美しく輝いているが、やや物足りなさを感じなくもない。

 

 少し肌寒さを感じる夜の中、ユウは一心不乱にそんな星を眺めていた。

 自分の脚で地面に立ち、真っすぐな瞳でひたすらに――

 

「風邪を引くぞ」

「おねえちゃん」

 

 背後から呆れたような声を掛けられ、ユウが振り向く。

 彼女は弟に毛布を手渡した。

 

「ほら、今夜は少し冷えるから羽織りなさい」

「ありがとう……だけど、これくらいなら平気だよ」

「いいから」

 

 バサッと広げた毛布をそっと掛けられる。

 レイはユウの真っ黒な瞳を見つめ、真剣な表情で言った。

 

「お前は今日、雨の中をふらふらと歩き回り、その後も碌にご飯を食べずにあちこちを見て回り、挙句の果てにはこんな夜に半袖で外に出るというトリプルコンボをかましている」

「うっ」

「どうしても風邪を引きたいというのであればお姉ちゃんは止めないが、その代わり看病はしないからな」

「……どうせ、するくせに」

「今、何か言ったか?」

「ご、ごめんなさい~」

 

 姉の拳で頭をぐりぐりとされ、ユウは目を回しながら慌てて謝罪の言葉を口にした。

 

「全く……どうしたんだ、ユウ。今日はちょっと様子が変だぞ?」

「あぁ……うん、ごめんなさい。ちょっと、色々と見えたものがあって」

「見えたもの……?」

 

 よく分からないことを言う弟に首を傾げるレイ。

 ユウは曖昧な笑みを浮かべてから、先程と同じように星を見上げた。

 

「綺麗だねぇ……」

「あぁ、そうだな。……あの雲がなければ月が見えたのにな」

「もうすぐ移動してくれるんじゃないかな?」

「だといいがな」

「おねえちゃん、すぐに動かしてきてよ。吸血鬼なんでしょ?」

「吸血鬼を何だと思ってるんだ」

 

 無茶を言う弟にツッコミを入れるレイ。

 

 それにしても、こうして二人で夜空を見上げていると、ユウと姉弟になったあの日の夜を思い出す。

 あれからレイは色々な物を手に入れ、そして同時に失って――今も、こうして星を見上げている。

 

「ねぇ、おねえちゃん」

「なんだ」

 

 お互いに星を見ながら言葉を交わす。

 ユウは、自身の姉に静かに問い掛けた。

 

「僕の本当のおねえちゃんっていうの、()でしょ」

「――――」

 

 レイは言葉を失い、ゆっくりと星から弟へと視線を移した。

 ユウもまた姉の方を向く。

 その瞳は静かで――ただ、偽りを許さない光を帯びていた。

 

 レイは俯き、そっと頷いた。

 

「……あぁ。そうだ」

 

 自身は所詮、偽物。本物の姉ではない。

 レイはすっかり忘れかけていた残酷な真実を思い出し、打ちのめされたような心境になっていた。

 ユウは怒るだろうか。

 騙していたといって、失望するだろうか。

 レイはそのどれも、しっかり受け止めようと決意を固めて――

 

「あぁ、やっぱりそうだったんだ」

「やっぱり?」

 

 思いも寄らぬ言葉を聞いて顔を上げ、首を傾げた。

 ユウは呆れたように肩を竦め、飄々と言った。

 

「気づいてたよ。だって、今時武者修行なんて、変だもん」

「……」

「あと、髪と目の色も違うから、ずっと変だなって思ってたんだ」

 

 『大丈夫! ユウは武者修行とか好きだから! 行けるって!』と力強く力説していた賢一を思い出す。

 すいません、お父さん。

 あなたの息子さん、思っていたよりもずっとお利口さんでしたよ。

 

「……すまん。お前には不誠実なことをしてしまったな。お前の言う通り、私はお前の本当の姉ではない。血は繋がっておらず、お前のご両親に雇われた身の上だ」

 

 ここに至り、隠す意味などない。

 レイは真っすぐにユウの瞳を見つめ、真実を語り始めた。

 

「“姉”を名乗ったのは、姉弟がいないお前に少しでも親身になってくれる者がいた方がいいだろうという、ご両親の判断だ。私はそれを受け入れ、そしてあの夜、お前に嘘をついた」

「……」

「すまなかった、ユウ。私はずっと、お前を騙していたんだ」

 

 レイは深々と頭を下げた。

 ユウは目の前にある銀色の頭を見て――

 

「えいっ」

「ひゃっ⁉」

 

 露わになっている首筋に、冷えた右手を突っ込んだ。

 

「アハハ! おもしろ~い」

「こ、こらっ! 急に何をするんだ! ()が真面目な話をしているんだから――」

「うん。たしかに僕が悪かったね。ごめん、()()()()()()

「えっ」

 

 レイは言葉を止めた。

 自分は今、何と言った?

 そして、ユウは今、何と言った?

 

 ユウは優しく微笑んだ。

 

「おねえちゃんは、おねえちゃんだよ。本当のじゃなくても――僕のおねえちゃんだよ」

 

 本当じゃなくても、おねえちゃん。

 その意味を、レイは確かに理解した。

 

 血の繋がりではなく、想いの繋がりで、彼女は“おねえちゃん”になったのだ。

 たった今、この瞬間に――。

 

 胸の奥から熱いものが込み上げてきて、視界がぼやけた。

 涙が、堰を切ったように溢れ出る。

 

「ありがとう……! ありがとう……ユウ……」

 

 レイは震える声でそう言って、愛おしい弟を力いっぱい抱きしめた。

 

「なんでお礼を言うの?」

「嬉しいからだよ。お前が弟であることが嬉しくて仕方がないから、お礼を言うんだ」

 

 ユウは一瞬きょとんとした後、くすりと笑った。

 

「……変なの」

 

 小さな声で呟いたその顔は、どこまでも穏やかで――

 それはまるで、あの夏の草原に咲く花のように、静かで優しい光を放っていた。

 

 二人の間に、しばしの沈黙が流れる。

 

 レイの腕の中で、ユウの体温がゆっくりと伝わってくる。

 鼓動が、静かに、しかし確かに響いていた。

 そのリズムが愛おしくて、レイは目を閉じた。

 

 けれど、その沈黙を破るように、ユウの小さな声がふと漏れる。

 

「ねぇ、おねえちゃん」

「なんだ?」

 

 その声は、まるで風の音に溶けてしまいそうなほど、静かで。

 さっきまでの明るさをほんの少しだけ隠した、慎重な響きだった。

 

 レイは胸騒ぎを覚えながらも、優しく返事をした。

 

 ユウは少しだけ体を離し、レイの顔を見上げる。

 その表情には、どこかおずおずとした迷いがあった。

 けれど、それでも彼は口を開く。

 

 本当の姉になってくれた彼女だからこそ。

 誰よりも信頼できる彼女だからこそ。

 聞きたかった。

 

 そして、向き合わなければいけないと思った。

 

「おとうさんとおかあさんは……もう、帰ってこないの?」

 

 その瞬間、星々の瞬きが遠のいたように感じた。

 冷たい夜気が肩にのしかかり、レイの口が、一瞬だけ閉ざされる。

 

「……」

 

 返す言葉を探す沈黙のなかで、ユウは不安そうに顔を曇らせていた。

 レイはその小さな胸の震えを受け止めるように、そっと言葉をかける。

 

「ユウ。……私の話を、聞いてくれるか?」

 

 ユウは黙って、こくりと頷いた。

 

「……私は、10歳のときに、本当の両親を亡くした」

 

 その告白は、優しく、けれど確かな痛みを伴っていた。

 焚き火のように胸の奥で燻っていた記憶を掘り起こすように、レイは静かに語りはじめる。

 

「二人とも、少し運が悪かっただけだ。でも、それだけで、私は……独りになった。どこにも居場所がなくて、ずっと逃げ回ってた。人を避けて、嘘をついて、傷つけて……」

 

 彼女の声は、凛としていた。

 けれど、どこか哀しげで、遠い過去を見つめるようだった。

 

「……苦しくなかったの?」

 

 ユウの問いかけは、小さくて、でも真っ直ぐだった。

 

「……苦しかったよ」

 

 レイは静かに微笑む。

 けれど、その笑みの奥に、夜のような深い孤独があった。

 

「毎日、自分が生きていていいのか分からなかった。でもね、ある日――お前たちに出会って、全部が変わった」

 

 彼女はユウを見つめる。

 その瞳に宿るものは、決して揺るがない決意だった。

 

「私は、救われたんだ。……お前たちに。ユウ。賢一さんと優菜さんのおかげで、私は“生きる”ってどういうことかを思い出せたんだよ」

 

 そして、レイは真実を語った。

 

「ユウ。……賢一さんと優菜さんは、()()()()()()()()

 

 その言葉は、まるで空から雪が降るように静かで――しかし、あまりにも重かった。

 ユウの瞳が大きく見開かれ、夜の空気が張り詰める。

 

「……すまない。……守れなかった。本当に、すまない……でも」

 

 レイは崩れそうになる心を堪え、涙を流しながら、ユウを力いっぱい抱きしめた。

 

「お前のことは、私が必ず守る。……たとえ、この世界のすべてが敵になっても、私だけは、絶対に味方でいる。一人きりじゃない。私が、傍にいる」

 

 星空の元、彼女は誓う。

 

「この先、何があったとしても――」

 

 

 

「――お姉ちゃんは、お前の味方だ」

 

 

 ユウは強く姉に抱きしめられながら、その光景を見ていた。

 雲が動き、月が現れるその瞬間を。

 

 今宵は、満月。

 今にも落ちて来そうな大きな月が、星々と共に、二人を照らしていた。

 

「……おねえちゃん、本当に僕の味方でいてくれる?」

「もちろんだ」

 

 力強く頷く。

 

「僕が嘘つきでも?」

「もちろんだ。……私だって、嘘をつくしな」

 

 断言する。

 

「……お姉ちゃんを騙しても?」

「私は騙されない」

「いやー、お姉ちゃんほど騙されやすそうな人はいないと思うけどね……」

「な、なんだと⁉」

「あんなにトランプ弱い人、初めて見たもん」

「げ、ゲームで人を決めつけるな!」

 

 ムキになったように怒るレイの姿を見て――ユウは笑い声をあげた。

 

「ねぇ、おねえちゃん」

「なんだ」

「――僕、おねえちゃんの弟で良かったよ」

 

 万感の思いで告げられた言葉に、胸が温かくなる。

 レイは自然と美しい微笑みを浮かべた。

 

「私も……」

 

 ハッキリと、思いを言葉にする。

 

「私も、お前が弟で良かったよ」

 

 ユウは嬉しそうに微笑んだ。

 本当の姉弟になった二人は、お互いにしっかりと抱きしめ合った。

 

 この瞬間が永遠であればいい、とレイは思った。

 そうであれば、どれほど幸せだろうか。

 それが叶わぬ願いであると知りながら、それでも彼女は願わずにはいられなかった。

 

 満月と、煌めく星空が、改めて彼女たちを祝福するように輝いた。

 ただ眩しく、ただ優しく、ただ――永遠のように、美しく。

 

 

 

♰♰♰♰♰ ♰♰♰✜♰♰♰ ♰♰♰♰♰

 

 

 本当の意味で姉弟になったレイとユウは心ゆくまで星空を堪能した後、家の中へ戻って来た。

 レイはユウの身体が冷えていることを心配し、早くお風呂に入って眠って欲しいと主張したが、ユウはまだ起きていたいと強請る。

 

 結局、ユウの我儘に折れたレイはまだ起きていたいという彼の願いに答えるために、賢一の書斎からオセロ盤を引っ張り出してきた。

 

「それなに⁉」

「オセロだ。初めてのゲームだろう? 一緒にやってみよう」

 

 やたらと心理戦に強い弟には初見の、それも心理が絡まないゲームであれば勝てるだろう――と大人気ない思惑でレイはほくそ笑む。

 ユウは初めてのゲームに喜び、ルールを教えてもらってから対戦を開始して――

 

「ほらほら~、早くしないと僕が勝っちゃうよ~」

 

 すぐにルールを把握して姉を完全に掌の上で弄んでいた。

 

「ちょ、ちょっと待て……! まだ私にも勝ち目があるはず……!」

「いや、もうここから逆転するのは無理だと思うんだけど……」

 

 殆ど白で染まったオセロの盤を見ながらユウが呆れたように呟く。

 

「まだだ! まだ手立てがあるはずだ……!」

「おねえちゃん、諦めの悪さは本当に凄いよね……」

 

 負けず嫌いにも程がある姉の姿を見て、ユウは苦笑いを浮かべた。

 10歳の子供に手玉に取られていることよりも、10歳の子供に呆れられていることの方が重症な気がするが、盤を睨みつけるレイは気が付かない。

 

 ユウは既に己の勝利が確定している盤から目を離し、リビングに取り付けられている時計を見て、静かに呟いた。

 

「……そろそろ、か」

「いや、まだだ……!」

「もう諦めてよ……」

 

 最後までらしさ全開の姉に苦笑しながら、ユウは立ち上がった。

 

「良し! それじゃあ、僕の勝ちってことで、おねえちゃんに罰ゲ~ム!」

「くっ……」

 

 悔しさで顔を赤くしながら俯く分かりやすい姉に向かって、弟は心底楽しそうな表情で予め決めていた罰ゲームの内容を告げた。

 

「今から街に行って僕の好きなチョコレートを買ってきて!」

「は、はぁ⁉ 今からか? 今、何時だと……」

「ゲーム始める前に言ったよね? 敗者は勝者に絶対服従だって」

「ぐっ……」

 

 歯嚙みするレイだが、確かにゲームを始める前にそういう取り交わしをし、レイも頷いたのだった。

 

「だ、だがチョコレートならまだ食糧庫の中に在庫が――」

「残念。昨日、全部食べちゃいました!」

「はぁ⁉ お、お前という奴は……」

 

 レイは食いしん坊な弟に呆れたように頭を抱えた。

 

「だから、おねがい~!」

 

 ユウは甘えるように上目遣いで姉に頼み込む。

 レイは、その目に弱かった。

 甘やかしてはダメだと思いつつ、それでも弟の願いを叶えてやりたくて、レイは諦めたように溜息をついた。

 

「はぁ……分かった。行ってくるよ」

「やった! ありがとうー!」

 

 満面の笑みを浮かべる弟に苦笑しながらレイは立ち上がる。財布を持ち、ユウに背を向けて家の扉を開く。

 

「おねえちゃん」

「なんだ?」

 

 その背中に向かって声を掛けるユウ。

 美しい銀髪を靡かせながら振り向いたレイに向かって、彼は言った。

 

「――いってらっしゃい」

 

 その言葉に、レイは一瞬だけ違和感を覚えた。

 言葉自体は何でもない、いつものやり取り。けれど、そこに込められた感情だけが、妙に深くて――

 

 弟が何を考えているのかは分からなかったが、レイは精いっぱいの愛情を籠めて言葉を返した。

 

「いってきます」

 

 扉がゆっくりと閉まっていく。

 レイは穏やかに微笑むユウの姿を何気なく見てから背を向け、ユウは家から出掛けていく姉の姿を目に焼き付けた。

 

 それが別れの挨拶であったことをレイが知るのは――もう少し先のことであった。

 

 

 

◆◆◆彼女の記憶にはない一幕◆◆◆

 

 

 

『おいおい、これでいいのかよ?』

 

 遠ざかっていく姉の背中を窓から見送り、ユウは後ろを振り向いた。

 そこには、“影”がいた。

 ユウの影が異質な形を取り、彼に喋りかけている。

 

 異常としか言えない光景をしかし、あっさりと受け入れてユウは再び窓に視線を戻した。

 

「うん。これでいいよ」

 

 そう言った少年の瞳は、“黄金”に染まっていた。

 まるで、悪魔と契約した者のように。

 “影”――こと悪魔王は笑った。

 

『おかしいな。俺がお前の母に言われて特典として渡した“悲劇を回避する” ための未来視は上手く機能してねェのか?』

「うぅん。してるよ。なんか、()()()()()()()

 

 最初は焦ったが、ユウはようやく理解した。

 自分に見えているものが一体何なのかを。

 

『ハハハ、そうかよ。なら分かってると思うがよォ、お前……このままじゃ、死ぬぜェ?

 

 悪魔は嗤った。

 

『連中は俺様が現れた場所の痕跡を、まるごと“清掃”していくのが常だ。空間に残された魔力の残滓も、目撃者も――何もかも消す。おまけに、今のお前は俺様と疑似契約中。魔眼が何よりの証拠だ。お前の姉は気が付かなかったが、隠しても腕の立つエクソシストが見れば、即座に“関係者”と判断されるだろうよ』

 

 言いながら、影の向こうで愉悦に歪んだ表情を深めていく。

 

『まぁ、もっとも――』

 

 ふと、その声が一段、冷たくなった。

 

『逃げたところで、あの吸血鬼の嬢ちゃんと一緒にいる限りは、一生、付け狙われるだろうがなァ』

 

 それが吸血鬼という種族の宿命であるが故に。

 

『お前が生き残る唯一の手段は、ここに姉を置いて、自分だけ逃げることだった。それが“最善解”だったんだよ。……なのに』

 

 ぞぶり、と心に突き刺すような声で、悪魔は問うた。

 

『なのに、姉の命を救うことを選んだのかァ? 血も繋がっていない、偽物の姉を』

 

 ユウは何も言わない。

 ただ、その黄金色に輝く魔眼をそっと閉じた。

 そして――ゆっくりと、確かな言葉を口にした。

 

「……だって、おねえちゃんだもん」

 

 その言葉は、理屈でも、打算でもない。

 ただ一つの、魂の真実だった。

 

『……分からねェな。どうしてそこまでする?』

 

 心底不思議そうな悪魔の問い掛けに対し、ユウは黄金の魔眼を輝かせながら答えた。

 

「僕ね、悪魔さんに貰ったこの目で色んな未来を見たんだ。ここからおねえちゃんと一緒に逃げ出す未来とか、逆に僕だけ逃げ出す未来とか、色々見たよ。だけど――」

 

 黄金の魔眼は契約に従い、ユウに訪れる“悲劇”を全て映していた。

 その上で、彼に選択を迫っていたのだ。

 ユウは時間を超越したこの瞳で数えきれない程の未来を見て、知った。

 

「おねえちゃんはいっつも僕を助けて、死んじゃうの。僕がどんなに我儘を言っても、嫌なことを言っても、ずっと隣に居て、僕のことを守ってくれたの」

『……』

「おねえちゃんは約束を守ってくれた。ずっと、僕の味方でいてくれた。だから――僕もおねえちゃんの味方になろうと思って」

 

 悪魔はユウの決意を鼻で笑った。

 

『残酷な奴だなァ。……あの女の性格じゃあ、そうやって生き残っても待つのは地獄だぜェ。絶望して、暴走する未来しか見えねェな』

 

 ユウはキョトンと首を傾げた。

 

「あれ? 悪魔さんには絶望しか見えてないんだ」

『なに?』

 

 予想だにしていない答えに、悪魔の王は思わず疑問を口にした。

 

『……お前には違うものが見えてるってのかァ?』

「うん。見えてるよ」

『なんだ?』

 

 ユウは答えた。

 

「その先にある――()()だよ」

 

 黄金の瞳が遥か未来を見通す。

 

 ――苦しみ続ける姉の姿に涙が溢れる。

 ――けれど、どこにも彼女が幸せになれる“未来”なんてなくて。

 ――何もかもに絶望した彼女が暴走し、全てを失って――

 

 ――それでも、一人だけ手を差し伸べる少年がいた。

 

 

()()ねェ……俺様には見えねェが、お前には見えてんのか』

 

 どうやら、少年はこの悪魔にすら見通せない先まで見ているようだった。

 常人が使えば発狂する魔眼をここまで使いこなすとは。

 悪魔の王は軽薄な口調を控え、魔界で君臨している時のように、荘厳な声に切り替えた。

 

『少年、名をなんという?』

「霧島ユウ!」

『霧島ユウ――その名前、覚えておく。そして、霧島レイの名もな。お前たちは、なかなか愉快な姉弟だった』

 

 王は静かに笑い、そして宣告する。

 

『終わりがあるからこそ、美しい。――じゃあな、霧島ユウ。よい旅を』

「さようなら、悪魔さん」

 

 そして、悪魔は消えた。

 ユウに残されたのは、未来が見える黄金の魔眼のみ。

 

「……あと、10分か」

 

 霧島ユウは、壁に掛けられた時計を一度だけ見上げ、静かに呟いた。

 それは、誰かに聞かせるためではなく、自分の心を落ち着かせるための確認だった。

 

 あまりに短い。けれど――彼にとっては、十分すぎる時間だった。

 

 ユウはゆっくりと、家の中を歩き出す。

 壁に飾られた家族の写真。賑やかだった食卓。

 美しい草原が見渡せる窓辺。

 

 そのすべてが、かけがえのない“日常”だった。

 

 夏の草原で笑い合い、星空の下で語り合った。

 皆と過ごした時間の一つ一つが、彼の中で宝石のように煌めいている。

 それらを一つずつ、胸の奥に丁寧にしまい込むように、彼は目を閉じ、息を整えた。

 

 

 

 ――まるで、死期を悟った老人のようだった。

 

 

 

 いや、それ以上に。

 彼の表情には、全てを知ったうえでなお、誰も責めず、全てを赦す者の静けさがあった。

 

 それは、聖人のまなざしだった。

 

 

 

 ギィ――……

 

 扉が軋む音が静けさを切り裂いた。

 

 外から吹き込んだ夜風が、ユウの頬を撫でる。

 草の匂い。土の匂い。

 

 

 ――“夏の夜の匂いがする”

 

 

 

 ユウは胸いっぱいにそれを吸い込んだ。

 まるで、それが今生の最後の空気だと知っていたかのように。

 

 

 

「悪魔の契約者を発見。排除する。……悪く思うな、少年」

 

 

 

 剣を手にした白衣のエクソシストたちが、次々と部屋へなだれ込んでくる。

 その光景を前にしても、ユウは微笑んだままだった。

 

 怯えることもなく、怒ることもなく――ただ、穏やかに。

 

 

 

 その身が裂かれ、肉が砕け、息絶えるその瞬間まで。

 彼が誰かを恨むことは、ただの一度もなかった。

 

 

 愛する人の未来が、どうか穏やかであるようにと。

 ただ、それだけを祈りながら。

 

 

 

 

 

 霧島ユウ。

 享年、十歳。

 

 

 

 

♰♰♰♰♰ ♰♰♰✜♰♰♰ ♰♰♰♰♰

 

 

 

 

 ユウ、喜んでくれるかな。

 

 レイは街で入手したチョコレートを手に全力疾走で帰路についていた。何とも運が良いことに、今日は街でお祭りが開かれており、たくさんの人が夜中まで起きていて、お店も開いていた。

 レイはユウが好きと言っていたチョコレートを入手し、足取り軽く弟の喜んでいる顔を想像しながら足を動かす。

 

 夜の草原を一人疾走するレイ。

 さーっと風が吹いて、彼女の背中を後押しする。

 

 「ありがとう!」と満面の笑顔で言ってくれる顔が見たい。その小さな手で受け取って、頬張る様子を想像して――

 

 レイは微笑んだ。

 

 だが。

 

 その笑みは、突如鼻をついた“匂い”によって凍りついた。

 

 鉄の匂い。

 いや、それはもっと濃密で、熱を孕んだ――“血の匂い”だった。

 

「ッ……!」

 

 一瞬で表情が消える。

 レイの足が止まった。

 次の瞬間、彼女は己の肉体を霧と化し、風よりも速く、空気を裂くように家へと駆ける。

 

 思考は削ぎ落とされていた。

 心臓の鼓動がうるさすぎて、景色が揺れる。

 速く、速く、速く――!

 

 風よりも速く疾走する。

 レイは足を止めず、霧のまま中へと突入した。

 

「ユウ……!」

 

 即座に実体へと戻り、最愛の弟の身に危険が起きていないか中を確認する。

 そして、その光景を目にした。

 

「ユ、ウ……?」

 

 それは、ユウではなかった。

 右腕が転がっていた。左腕も転がっていた。小さな胴体には、何本も剣が刺さっていた。

 まだ温かい血が、床に音を立てて滴っていた。

 かつてユウと呼ばれた存在が、無惨な肉片としてそこにあった。

 

「ん? あぁ、半吸血鬼の娘か」

 

 剣を持った白い衣の男が振り返る。

 その声が遠くに聞こえる。

 耳鳴りが煩い。

 

「確か、祓魔器に選ばれていたら生かしておくんだったかな。どうやって確認する?」

「さぁな。ったく、人手不足だからって面倒な指示出しやがって。もういいから殺そうぜ」

 

 心臓が変な音を立てている。

 現実が、歪んでいく。

 

 彼の為に買ってきたチョコレートが、ぽとりと床に落ちた。

 

 ――守ると誓ったのに。

 例え、世界が敵に回ろうとも、味方になると約束したのに。

 

 魂に誓ったはずの彼女の約束は、呆気なく散った。

 

「ああああああああああ――!!」

 

 感情が限界を迎える。

 理性の手綱が切れる。

 

 深い悲しみと、怒り。

 純度の高い絶望が眠っていた彼女の本能を目覚めさせる。

 

 そして――

 

 

「■■■■■■■■ッ‼」

 

 

 ――彼女は原種として最初の覚醒を迎えた。

 

 

 

♰♰♰♰♰ ♰♰♰✜♰♰♰ ♰♰♰♰♰

 

 

 

 嵐の中にいるようだった。

 何も分からないまま、ただ叫ぶことしか出来ない。

 

 レイの意識は暗く、深い霧の中に沈んでいた。

 自分の身体が、自分のものではない。

 手足は勝手に動き、牙が伸び、唸り声を上げて――すべてが崩れ去っていく音が、遠くで響いていた。

 

「ッ! なんて力だ!」

「あり得んだろう⁉ コイツ、まさか“原種”か⁉」

「撤退するぞ――っ、がぁ⁉」

 

 やめて、と叫んでいるはずの声も届かない。

 力が暴れている。

 悲しみが暴れている。

 

 ただ、止められない。

 

 壊す。壊す。壊す。

 何もかもが憎く、何もかもが悲しい。

 だからすべてを消してしまいたくて。

 

 その時――

 

 

 

 “おねえちゃん”

 

 

 

 どこか遠く、深い霧の向こうから、確かに声がした。

 

 優しく、細く、かすれた声。

 耳元に触れるようなぬくもりを感じた。

 

「ユウ……!」

 

 嵐が止む。

 レイは人の姿を捨てた魔物のような形態から、14歳の少女の形に戻っていた。

 覚醒状態が()()()

 意識が力に呑まれる寸前に目にした光景で記憶が止まっている彼女は、呆気にとられたように辺りを見渡す。

 

 小屋の中は嵐が直撃したかのように、ボロボロになっていた。

 思い出の机も、棚も、食器も、全てが壊れ、床に散らばっている。

 壊れているのは物だけではない。

 

 床には、バケツの水をぶちまけたように真っ赤な血が飛び散っていて――

 人間だったものの血肉で溢れかえっていた。

 

「うっ……!」

 

 強烈な死臭に思わず吐き気が込み上げ、口を手で塞ぐ。

 しかし、彼女はすぐにその手を口から離した。

 

「ひっ⁉」

 

 彼女の手は真っ赤に染まっていた。

 白い部分が見えないほどに、真っ赤な血で染まっていた。

 

 レイは吸血鬼としての本能で思わずその血を舐めとろうとして――もう一度床に散らばった肉片を見て、青ざめた。

 

「あ……あぁ! ユウ!」

 

 守ると誓った大事な弟が、いない。

 どこにもいない。

 レイは床に散らばった臓物の中から必死に弟を探そうとする。

 

「どこだ⁉ ユウ、どこにいる⁉」

 

 必死に探し回るが、どの死体も原型を留めていない今、霧島ユウを見つけ出すのは不可能に近い。

 だが、それでも彼女は諦めきれずに床の上に散らばっている肉片をぐちゃぐちゃと搔き分ける。

 

「どこだ……」

 

 涙が頬を伝うが、それを拭うこともせずに、壊れた機械のように肉塊の中から弟を探そうとする。

 

「どこだ……ユウ……」

 

 その血を全て啜りたい衝動を強い想いだけで抑え込み、ただ一心不乱に見つかるはずもない弟を探し続ける。

 

「お願いだ……出てきてくれ……おねえちゃんが、治してやるから……」

 

 やり方は分からないが、レイは吸血鬼だ。

 身体さえ見つかれば、きっと、眷属にして元に戻せるはず。

 

 ――既に亡くなった人間を眷属にすることは出来ず、また眷属化は覚醒状態の“原種”にしか不可能な術ではあるが、その事実を知らないレイは弟の蘇生に望みを掛けて彼を探し出そうとする。

 

 だって、おかしいじゃないか。

 誓ったばかりなのに。

 約束したばかりなのに。

 

 こんな……こんな最期なんて……あんまりじゃないか。

 

「ユウ……!」

 

 探して、探し続けて――レイの微かに残っていた理性は認めてしまった。

 弟は見つからない、と。

 

 何故なら、他ならぬ彼女自身が全てをぐちゃぐちゃに壊してしまったから。

 

「うぅぅぅぅ」

 

 唇を噛みしめ、口から血を、眼から血涙を流しながらレイは迷子になったようにキョロキョロと家の中を見渡す。

 

 どこにもあの太陽のような弟はいない。

 ここには血と、死体と、薄汚れた吸血鬼しかない。

 

 もう、彼女に弟を取り戻す手段は――

 

「……いや、まだだ」

 

 充血した真っ赤な瞳がぐちゃぐちゃの血肉を見つめる。

 彼女は、諦めが悪かった。

 弟が呆れ果てる程に、ただ諦めが悪かった。

 

「私が吸血鬼として未熟だから、今はまだ出来ないんだ。もっと、もっと成長すれば……もっと、強くなれば、きっと……!」

 

 心が壊れかけのレイは、自己防衛のようにブツブツとありもしない希望を口にする。

 どれほど階位が上がろうとも。

 仮に彼女が原種としての覚醒状態を常に維持できるようになったとしても。

 この状況では、どうしようもない。

 

 だが、この時のレイは、正気ではなかった。

 

「だから……ごめんね、ユウ。それまでは、ここで我慢して……!」

 

 そして――

 

 臓物にまみれたレイは、床に散らばった死体を()()()()()()()()

 

 ガツッ、ガツッ、ガツッ、ガツッ――

 

 獣のような咀嚼音が破壊され尽くされた部屋の中に響き渡る。

 レイは吸血鬼であり、“血”は好むが、人肉は別だ。

 

 ――弟を、人間の肉を食っているという事実に吐きそうになり、何度もえずきながら、それでも彼女は全てを喰らった。

 

 じゃないと、弟の肉がなくなってしまうと思ったから。

 本当に、彼のことを助けられなくなると思ったから。

 

 体内に弟の血肉を取り込んだという事実は彼女の心を深く傷つけ――後に、儀式絡みとはいえ、己の喉を切り裂いて血液を取り出すという自傷行為に繋がっていくことになる。

 

 だが、今のレイが知る由はなかった。

 

 今の彼女は、ただ必死だったのだ。

 そうでないと、心が壊れると思ったから。

 心が壊れたら、立ち上がれないと悟っていたから。

 

 既に心に罅は入っていたが、彼女はその罅に血肉を塗りたくって必死に割れないように両腕で抱え込んだ。

 まだ壊れるわけにはいかない。

 彼を呼び戻す、その時までは――

 

 散らばっていた全ての血肉を体内に取り込み終えたレイは、無言で家の中を掃除し始めた。

 

 また弟と一緒に訪れた時、綺麗な状態であって欲しかったから。

 

「ッ……!」

 

 ポロポロと、涙が溢れてくる。

 レイはそれを乱暴に拭いながら、掃除を続けた。

 

 ユウや優菜さんと一緒に料理をしたキッチン。

 ――ふざける彼を叱りながら、結局はレイが全部作った。

 

 皆で一緒にゲームをしたリビング。

 ――レイはいっつもビリで、皆から揶揄われていた。

 

「うぅ……」

 

 もう泣くな。泣いちゃダメだ。

 ここで泣いたら、立ち上がれなくなる。

 ここからレイは、彼が戻るまで、一人で歩き続けなければならないのだから。

 

 家の中を綺麗にしたレイは、静かに家の扉を閉じた。

 鍵を掛け、紐を通したそれを大事に首から掛ける。

 

「ユウ……待っていてくれ」

 

 赤い瞳に狂気が宿る。

 

「ぜったいに……ぜったいに、お前を蘇らせてみせるから……!」

 

 間違いでしかない“願い”が彼女に刻まれた瞬間であった。

 

 

 

 

 

 

 

 家に背を向け、レイは駆け出した。

 

 走る。走る。走る。

 

 草原を疾走し、森を抜け、道路を駆ける。

 人里を駆け抜け、駆け抜け続ける。

 

 そして、一度も立ち止まることなく彼女の日々は過ぎていく――

 

 弟を蘇らせるため、ありとあらゆるオカルトを調べた。

 霧の力を駆使して姿を隠し、正体を隠し、太陽の下から隠れて調べ続けた。

 

『ほう? 吸血鬼風情が祓魔器に選ばれたのか。奇妙な話だが……我らに下ると言うのなら、その命、生かしてやらんこともない』

「……」

 

 弟を殺した側に、自ら頭を垂れた。

 憎しみも憤りもあるが、エクソシストに追いかけ回されていては、ユウを蘇生させるための時間を確保することにも苦労することになる。

 復讐はあの一瞬で終わっていたこともあり、レイはなりふり構わず頭を下げた。

 

 エクソシストとして神に選ばれたという奇妙な事実に何の感慨も抱くこともない。

 弟以外は、全て思考の邪魔にしかならなかった。

 

 鍛錬を積み、悪魔を殺し、教会に認められて中枢に潜り込み、ありとあらゆる手段を探った。

 その過程で、霧島賢一と霧島優菜が手に入れた禁書の存在を知り、そして一つの可能性に辿り着いた。

 

 “悪魔”

 

 あの恐怖そのもののような存在を思い出し――“使える”と思った。

 

 秘密裏に血の大公を呼び出した。

 そして、彼と契約を取り交わした。

 その指示に従い、エクソシストとしての立場も利用して学園に潜り込み、十六夜蓮を狙おうとして断念し、一人の奇妙な少年に目を付けて――

 

 ここまで来た。

 

 裏切って、裏切られて、また裏切って。

 それでも彼女は止まらない。

 

 彼女はただ走り続ける。

 ただ、走り続けるのだ。

 

 考えている暇はない。

 足を止めれば、彼女は壊れて動けなくなるだろう。

 

 だから走り続ける。

 胸にただ一つ抱いた、願いが叶えられるその瞬間まで。

 

 だが、時折ふいに、彼女は思う。

 

 ――自分は、どこを走っているのだろう?

 

 どこへ向かっていたのか。

 どこまで走ってきたのか。

 本当に前に進めているのか。

 

 そのすべてが、わからなくなる。

 

 自分が迷子であることにも気が付けないまま――

 どこへ進めばいいかも分からず、彷徨いながら、レイは今も探し続けている。

 

 もう誰も待っていないはずのあの場所を。

 

 

 

 

 “おねえちゃん――”

 

 

 

 

 夏の匂いがする、あの家への帰り道を。

 

 

 

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