世界の為に推しとの恋愛を諦めようとしたらヤンデレ化された件 作:赤坂緑語
静かに意識が浮上していく。
海底から、海面に引き上げられていくような感覚。
完全に身体が引き上げられたのを感じた瞬間、僕は目を開いた。
ゆっくりと上体を起こし、辺りを見渡す。
周囲は真っ黒な霧に覆われていた。恐らく、お姉ちゃんの霧だろう。
……お姉ちゃん? いや、違う。
私の名前は霧島レイ。
私には、大事なものがある。
そう。なによりも大切な――
「ユウ……」
思わず声を漏らし――
まずい。完全に意識が
自分をしっかりと保たないといけない。
頬を伝う涙を拭う。
さて――自己の再認識をしよう。僕の名前は地藤優斗。どこにでもいる普通の男子高校生だ。成績は普通で、友達も少ないが、素敵な彼女がいるリア充だ。性格は温厚で、良心的で、誠実そのもの。嘘をついたことなんてないし、これからもつくことはないだろう。ただ、そんな僕にはちょっとした秘密があって――
「……何をしているんだ? 一人でブツブツと……」
「自己の再認識ですよ」
自分の人格がしっかりと戻ってきたことを確認した僕は、怪訝そうな表情で見ている彼女の方へ向き直った。
彼女――霧島レイは僕に襲い掛かって来た時と違い、完全に理性を取り戻しているようだ。
恐らく、僕の血を吸って眷属化させたことで一度力を使い果たしたというところだろう。雑に言えば――賢者タイム的なあれだ。
僕は不審者を見るような彼女に向かって、肩を竦めながら言った。
「先輩の過去を見て、そっちに引っ張られていたみたいなので」
「……そうか」
それだけ言って、霧島先輩は重苦しい表情で俯いた。
「すまなかったな」
「それは、何に対する謝罪ですか?」
「……あまり記憶はないが、私はお前に襲い掛かったのだろう? その目を見れば分かる」
恐らく、真っ赤に染まっているであろう僕の瞳を見ながら先輩は申し訳なさそうな表情を浮かべる。
そして――
「それから、お前の記憶を勝手に見てしまった……申し訳ない」
「えっ」
申し訳なさそうな顔で告げられた言葉に思わず声を上げてしまった。
「先輩、どこまで見たんですか?」
「どこまでって……最初からだが?」
「最初ってことは、僕こと地藤優斗が
「それ以外に何がある?」
怪訝そうな表情で先輩は首を傾げる。
思わず焦ったが、この様子なら見たのは今世の記憶だけのようだ。
良かった、良かった。
……いや、別に前世の記憶を見られたところで困ることなんてないんだけどね。うん。
「いえ、記憶を見られたと言われて思わず焦っただけです。まぁ、別に謝らなくてもいいですよ。別に大した過去じゃ――」
「そんなことはない」
即座に返ってきた否定の言葉は、驚くほど強い響きを持っていた。面食らって顔を上げると、霧島先輩の赤い瞳が真っ直ぐに僕を射抜いていた。
「お前は、凄い男だ」
「……どうしたんですか急に」
彼女の真剣な眼差しが居たたまれず、冗談めかして返したが、先輩は冗談で言っているのではなかった。
彼女の視線は、どこか敬意を込めたように静かで、なおかつ切実だった。
「だって、お前は――
彼女の声は、まるでそれがどれだけ尊いことかを知っている者のものだった。
自らが守れなかった後悔を噛みしめながら、なお他人を讃えるその言葉に、僕は思わず言葉を詰まらせた。
「……守り通したなんて、そんな立派なものじゃありませんよ。たくさん璃奈を傷つけましたし、結果的に悪魔に目を付けられることになった。要するに、自業自得ですよ」
「だが、天羽は今もお前の隣で笑っているじゃないか。お前はやり遂げたんだ。……もっと誇りに思うべきだ」
目を伏せて語る霧島先輩の声には、確かな羨望が混じっていた。
誰よりも深く愛した弟を守れなかった過去が、彼女を今も責め続けているのだろう。
そんな彼女が僕に向ける言葉には、妬みや悔しさではなく、ただひたすらな敬意があった。
僕はその真っ直ぐな想いに、少しだけ気恥ずかしくなった。
「えーと、褒めてもらったところで恐縮なんですが……僕も、先輩に謝らなければならないことがあるんです」
「なんだ?」
先輩が顔を上げる。ここで言わなければフェアではないだろう。僕は彼女の眼を真っすぐに見つめながら言った。
「僕も、先輩の記憶を見ました。全部、です。……僕が知らなかった過去も、ユウくんとの日々も。……全部、見させてもらいました」
先輩の肩が僅かに揺れた。そして、俯いたまま呟いた。
「……そうか」
彼女は罪を告解する罪人のような――或いは、生きることに疲れた老人のような表情をしていた。
今は落ち着いている赤色の瞳はここではないどこかを見つめていて――
彼女が永遠に過去から解放されていないことを嫌でも伝えてくる。
僕は思わず問い掛けていた。
「先輩は、今でも弟さんを――ユウ君を蘇らせたいと思っているんですか?」
「当然だ」
一切の迷いもない、即答だった。
けれどその声には、どこか張り詰めた糸のような危うさが滲んでいた。
霧島先輩は赤い瞳で僕を真っ直ぐに見つめながら、噛みしめるように言葉を紡ぐ。
「あの時、死ぬべきではない者が無惨に殺され、そして死ぬべき者が生き残った。そんな結末は……認められない」
その声は怒りよりも哀しみに染まっていた。
「……だから、ユウ君を生き返らせようというんですか? 何を犠牲にしてでも」
「そうだ」
その答えにも迷いはなかった。けれど、次の瞬間――彼女の瞳に、一瞬、揺らぎが走った。
視線を落とし、肩がわずかに沈む。
「でも……最近は、分からなくなってきたんだ」
その声は、かすれていた。
「私が今でも本当に望んでいるのは、ユウの復活なのか。あんなにも必死に願ってきたはずなのに……今では、どうしてだか、自分の足がどこに向かっているのか分からないんだ」
それは、深い喪失の中でもがき続けてきた彼女の、本音だった。
「こんなやり方で、もしユウが戻ってきたとして……あいつは喜ぶだろうか? 私のしてきたことを、許してくれるだろうか……?」
震えるように絞り出される言葉。
彼女はもう、とっくに答えを知っていた。
「ふむ」
僕は少し腕を組み、あえて間を取って――静かに言った。
「きっと、喜ばないでしょうし、許しもしないと思います」
「ッ……!」
霧島先輩の顔が苦悶に歪む。その表情は、まるで心臓を抉られたようだった。
でも――それでも、彼女はそっと頷いた。
「……そうか。やっぱり……そう思うか」
「ええ。僕が見た霧島ユウ君なら……絶対にそんなこと、望まないはずです」
霧島先輩は顔を歪めて黙り込んだ。
きっと、彼女だって分かっていたのだ。
自分がしていることは大きな間違いであることを。
だからこそ、彼女は原作で精神崩壊を起こしていた。
分かっているなら止まればいい。
そう言うのは簡単だが――霧島レイは既にそういうラインを超えてしまっている。
彼女は、止まれないのだ。
願いを叶えるか、或いは己が朽ち果てるその瞬間まで止まることが出来ない。
自分がどこに向かっているのかも分からないまま、ただ走り続けることでしか自分を保てない少女。
ならば――誰かが止めてやるしかないだろう。
「はぁ……ここにきてアイツの言葉を思い出すなんて……最悪だ」
「地藤……?」
僕は溜息をつきながら、アイツの――メフィラの言葉を思い出していた。
“知っている、ということは時に武器ではなく呪いになる”
……あぁ、認めざるを得ない。
確かにあの悪魔の言葉は正しいよ。
知らなければ良かったんだ。
この少女の過去なんて、知らなければ良かった。体験しなければ良かった。
この人を守ろうとした、霧島ユウの決意も知らなければ良かったんだ。
そうすれば、余計な考えなんて抱かずに躊躇なく見捨てることが出来たのに。
“推し”の一人だったとはいえ、関わることを諦めて効率的にこの迷宮を攻略することが出来たというのに。
「まっ、僕にも人の心が残っていたとポジティブに捉えるか。……本当のこととはいえ、詐欺まがいなことをして騙した前科もあることだしね」
僕にだって問題がなかったわけではない。
だから、これで精算とさせてもらおう。
僕は深く息を吸い――真剣な表情で切り出した。
「先輩、貴女は立派にタクシーをやり遂げましたね?」
「……はっ?」
あっ、ヤベ。間違えた。
「すいません。間違えました。僕の指示にちゃんと従ってくれましたね――と言いたかったんです」
嘘じゃない。彼女はちゃんと契約に従って僕の指示に従ってくれた。
「あとは……そう、血の大公との契約を破棄する為に尽力してくれましたね。この迷宮に放り込まれたのは想定外ですが、あれは貴女ではなく血の大公が直接やったことなので、まぁ大目に見ましょう」
「な、なにを……」
困惑している彼女に向かって、僕は宣言した。
「――今こそ契約を果たす時です。貴女の願いを叶えましょう。霧島レイ」
彼女は目を見開いた。
「……お前は、ユウを蘇らせられないと断言した」
「えぇ、しましたね」
「だというのに――」
「だけど、貴女には本当の願いがあるとも言いました。だから――」
そこから、ゆっくりと、丁寧に。
僕は、彼女が決して見つめようとしなかった核心へ、踏み込んだ。
「――それを、今から教えます」
霧島レイは真っ赤な瞳で僕を見つめて――顔を歪めた。
「……お前は、ユウを蘇らせたい私の想いが偽りだというのか?」
「いえ、それも本当の願いだと思います。だけど先輩、よく考えてみてください。ユウ君を蘇らせて、一体どうするつもりなんですか?」
「どうするもこうするもあるか。私は、ユウと一緒に――」
そこまで口にして、霧島レイは固まった。
恐らくやりたいことがあるに違いない。
彼にあったら伝えたいこともあるに違いない。
だが、それが何を意味するのか、彼女は言葉にできない。
だから、僕は彼女の代わりに言葉を紡いだ。
「――帰りたいんですよね?」
「えっ」
口を半開きにして、ぽかんと僕を見つめる霧島レイは――まるで、自分の名前すら忘れてしまった幼子のようだった。
その姿に僕は、静かに、もう一度だけ言葉を届ける。
「貴女は、帰りたいんですよ。……あの家に」
夏の風が吹いた気がした。
あの草原の、懐かしい匂いが、かすかに鼻をくすぐる。
だが、それはもうどこにも存在しない。
あの家も、あの時間も、もう戻らない。――それでも。
「ただ、帰りたいだけなんだ」
彼女が求めたのは、時間ではなかった。場所でもない。
それは――
「霧島レイ。貴女の本当の願いは、ただ一つ」
目を背けてきた真実。
抗い続けてきた心の叫び。
僕は、それを代弁する。
「貴女は――
その言葉に、彼女の目が揺れた。
吸血鬼の同胞を探したのも。
霧島夫妻の依頼を受けたのも。
ユウを何としてでも蘇らせようとしたのも。
全て、居場所を求めた故の行動だった――。
霧島レイは震える指先で、そっと目元に触れた。
一筋、頬を伝う雫。
それが、自らの本当の願いを認めた証だった。
「そうか……それが、私の願い、か……」
彼女の声は掠れていた。
けれど、その顔は不思議なほど静かで――ほんの一瞬、まるで重荷から解き放たれたような、そんな安堵が浮かんでいた。
心の奥底に長く沈んでいた本当の願いが、今ようやく名前を与えられたのだ。
“居場所が欲しい”。その単純で、けれど切実な願いを。
「だから、先輩がこれからすべきことは、新しい居場所を見つけること――」
「違う!」
彼女は強く否定した。
赤い瞳から、今にも溢れそうな涙が揺れている。
「それは……ユウへの裏切りだ! 私の居場所はただ一つ! 帰るべき場所は、あそこだけなんだ!」
それは叫びではなく、祈りだった。
「だけど、あの場所に帰ることはできない」
僕の声は冷たい現実を突きつける。
目を背けることは許さない。
彼女はその現実を、誰より知っているはずだから。
自分に都合がいい奇跡が起きないことくらい、誰よりも強く。
「だから、貴女に必要なのは、新しい居場所を探す前に、ユウ君ときちんと
「えっ……」
「貴女は、ユウ君の死を否定し続けることで、あの家を唯一の帰る場所と定めた。けれど――」
僕は、やわらかく、けれど逃げ場を与えない口調で続けた。
「そんなの、ユウ君が可哀そうじゃないですか」
「ッ!」
霧島先輩は歯を食いしばり、痛みに耐えるような表情を浮かべた。
「ずっと、終わらせてもらえないまま、縛り続けている。貴女がそうしている限り、彼はずっと、あの夜に留まったままです」
「……だから、あいつのことは諦めろと? 前の居場所がなくなったから、ぬけぬけと新しい居場所を探せと? そんな……そんな不義理なこと……」
「それが、“生きる”ってことなんですよ、先輩」
これでも前世を加算したら先輩よりは年上だ。
それなりに言葉の重みはあったと思う。
霧島先輩は項垂れた。
僕の言葉の意味と、自身の本当の願望は理解できたが、納得しきれないといったところだろう。
「……これ以上は、僕がどうこう言ったところで意味がないですね」
言葉は尽くした。ここから彼女が立ち直るには、やはりしっかりと“お別れ”をするしかない。
僕は一歩、前に進んだ。
「――では、ここから先の主役は
深く息を吸う。
まぁ、物事ってのは大抵上手くいかないもので、特に僕の場合はアドリブの方が多いのだから、突然の予定変更くらいどうということはない。
……原作知識を活かせていない無能なだけでは? という反論に耳を貸すつもりはないです。はい。
「本当はもっと手順を踏んで、ちゃんとした形でやりたかったんですが……この現世から隔離された世界なら上手くいくかもしれません」
そして、僕は命令を下すように告げた。
「
「ッ!」
今の彼女は原種の覚醒状態ではない。
故に、僕との契約に従い、彼女の身体がピタリと静止した。
僕はゆっくりと彼女に歩み寄り、キスでもできそうなくらいに顔を近づけて――
「な、なにを――」
「……さっきはもう帰れないと言いましたが、あれは少し語弊がありましたね」
お互いの額をくっつけた。
「正直な話、少しの時間であれば帰ることは出来るはずです。反則技ですが、先輩の存在自体が反則みたいなものなので、ちょっとくらい見逃してくれるでしょう」
僕は目を閉じ、いつものように屁理屈を捏ね始めた。
“
『霧島ユウには未来が視えている。であれば、彼には
『向こうから視えているのなら、こちらだって見つめ返すことだってできるはずだ。過去と未来は繋がっているんだから』
『視えているなら、聞くことだって出来るはず。……読唇術だってあるんだし、これくらいは大目に見て欲しいな』
『姿が見えて、声を聞くことが出来るなら、霧島レイと霧島ユウの限定的な再会は叶うはずだ。もちろん、彼が未来を視る魔眼を所持している間だけではあるけどね』
『さて、この無法を通すための最後の条件を言おうか。僕の主である霧島レイは“原種”だ。そして“原種”は“契約”をも上回る存在。当然、世界のルールの外にいるんだから、ちょっと過去と話し合うくらいは可能でしょう? ――主の望みを叶えようという眷属の願い、聞き届けてくれよ?』
世界が歪んでいく。
時間の概念が、捩れる。
世界の禁忌に真っ向から立ち向かう暴挙。
到底、許されることではない。
必然、揺り戻しが僕に襲い掛かって来る。
「ぐっ……! あー、クソ……ここまで負荷を掛けたのは初めてだな……こうなるのか」
僕の存在を許さないように、世界が攻撃を仕掛けてきた。
とんでもない激痛が走り、目と鼻からダラダラと血が流れていく。
「地藤!」
「……僕の心配は後にしてください。先輩は今から、意識だけとはいえ、ちょっとした
歪んでいく世界の中、必死に僕に手を伸ばす彼女に笑い掛けながら――
僕はうまくいきますように、と祈った。
「さぁ、先輩。
「地藤ッ――!」
レイは必死に手を伸ばした。
彼女の手は届かず――血だらけの彼の姿が一気に遠ざかっていく。
レイの叫びは虚空に溶け、何かに引き込まれるように足元が揺らいだ。
気付けば、世界は闇に包まれていた。
音も、光も、感触もない。終わりのない黒の海を漂うように、意識はゆっくりと沈んでいく。
抗おうとする本能とは裏腹に、不思議と心は落ち着いていた。
(――何だ……この感覚は)
まるで、どこかで何度も感じたことがあるような、ぬくもりのある引力。
遠ざかるのではない。懐かしい何かに、呼び戻されている。
やがて、視界の端に柔らかな光が差し込んできた。
それは微睡みの中に射し込む朝日のように、少しずつ心を照らしてくる。
――そして、彼女はそこに立っていた。
夜風が頬を撫でる。草原が静かにざわめき、遠くで虫の音が鳴く。
「……っ」
息を呑んだ。
まるで夢の中に迷い込んだかのような光景が、そこにあった。
空は澄み渡り、数えきれない星が宝石のように瞬いている。
地面には小さな石の道が続き、その先には、見覚えのある古びた木造の家。
それは、何度も夢に見て、何度も涙して、何度も帰りたかった――
レイは、“家”へと続く道にいた。
夏の夜の匂いに満ちた――あの家への帰り道に。
♰♰♰♰♰ ♰♰♰✜♰♰♰ ♰♰♰♰♰
「ぐっ……」
焼けるような痛みが脳を貫き、地藤は思わず膝をついた。
視界が赤黒く染まり、目の奥からぬるりとした感触が流れ落ちる。
血だ。
だが、彼はそれを拭おうともしなかった。
「原種の眷属ってのは、便利だね……すぐに傷が治るなんてさ」
乾いた笑みを浮かべ、ゆっくりと立ち上がる。
通常であれば“
常軌を逸した光景を見た地藤は苦笑いを浮かべる。
いよいよ人間離れしてきたな――と嘆いた。
実に、今更の話だった。
「さて――」
辺りを包むのは、濃密な腐臭と、呻き声のような唸り。
霧島レイの意識が過去へと飛ばされ、その霧の力が霧散した瞬間、四方八方の迷宮の壁から湧き上がった亡者たち。
その数、優に百を超える。
歪な身体を引きずり、瞳も口も無い顔で、ただそこに生きた命があるというだけで地藤とレイを“敵”と定めていた。
彼はゆっくりと右腕を掲げ、袖から柄だけの剣を引き抜く。
空間が震え、虚無から形を成すように、柄の先に銀色の光を帯びた刀身が走る。
そして、その刃が振るわれた。
背後から跳び掛かってきた亡者の首が、花が咲くように宙を舞った。
「――過去に決着をつけるための旅路を邪魔するなんて、無粋なことをするつもりはないよね? 君たち」
地藤は一歩、霧島レイの前へと出た。
亡者たちは、二人の周囲を取り囲んでいた。
今にも襲いかかり、その肉を喰らわんと牙を剥く。
「……って、亡者に言っても無駄か」
地藤は呆れたように溜息をつきながら、チラリと後ろを見た。
地面に伏した彼女の背中は、微かに揺れている。
まだ“夢”から戻ってこられない。
――だから、その帰りを守るのは、送り出した自分の役目だ。
『ほう? 騎士の真似事か? 小僧』
「おやおや、これはこれは。大公じゃありませんか。突然、どうしたんです?」
群れの中から一歩前に進み出てきた亡者が流暢な言葉を紡ぐ。
その正体を即座に看破した地藤は肩を竦めて慇懃無礼に笑った。
『いやなに、貴様にその女を守る義理があるのか疑問に思って見に来ただけだ』
「彼女は僕の“主”ですから。それじゃあ、理由になりませんか?」
『ならないわけではないが、無理やり眷属にされた身の上にしてはやけに従順だと思ってな。――まるで、犬のようだ』
「メフィラの犬になっている男にそんなことを言われるとは、光栄ですね。涙が出そうです」
『……貴様、やはり性格が悪いな』
亡者の身体を乗っ取った血の大公は呆れたように呟く。
『……どういう風の吹き回しだ? 貴様はそういう情に厚い男ではなかったはずだがな』
「ひどいなぁ、人を情緒の欠片もない冷血漢みたいに言うのはやめてもらえません?」
にこやかに返す声は、しかし底が凍てついている。
『事実を言ったまでだ』
容赦ない指摘に、地藤は表情を消した。
仮面のような笑みが消え、代わりに静かな怒気が滲む。
「まぁ、確かに僕は冷たいところがある人間かもしれませんね。ぶっちゃけ、璃奈以外の人なんてどうでもいいですし」
淡々と呟く彼の目は乾いていて――優しい笑顔の下に隠された氷のような心が露わになっていた。
「だけど、残念ながら、彼女のことは他人だとは思えなくなったんですよね。だって――道を間違えたまま全てを失っていたのは、僕の方かもしれないですから」
璃奈を信じ切れず、焦りのままに誤った選択を重ねた。
その結果、世界を滅ぼしかねない存在を呼び出すことになってしまって、おまけに一番守りたかった璃奈も死にそうになって――
一歩間違えば、彼女のように全てを失っていたかもしれない。
代償を捧げれば全てをやり直せると聞かされれば、それに縋ったかもしれない。
霧島レイは――道を違えた地藤そのものだった。
あり得たかもしれない未来。
間違いを正してくれる運命に出会えなかった存在。
『フン、なるほどな。ただ似た者同士の女を哀れんで手を差し出したということか』
「まぁ、そんなところです。……ただ、哀れみだけで手を差し出すほど、僕は感傷的な人間じゃありません」
どこか偽悪的に笑いながら、地藤は手に握る剣を見つめた。
「本当はもっと単純な、もっとごく普通の理由ですよ」
普通の理由。
人間として、当たり前の理由。
「僕はただ、迷子になって泣いている女の子に、泣き止んで欲しかっただけです」
『……その理由と、俺が告げた理由のどこに違いがある?』
「違いならありますよ。だって、女の子にわんわん泣かれたら――五月蠅いでしょ?」
『ッ!』
その瞬間、地藤が投擲した剣が大公が憑依していた亡者の眉間を貫いた。
亡者は動きを止め、崩れ落ちる。
地藤は新しい剣を引き抜き、亡者の大軍を睨みつけた。
「気になってしょうがないんですよ。泣かれたら。泣き止んで欲しいじゃないですか。――何も気にせず、前に進むために」
『……貴様は、つくづく捻くれた男だな』
「誉め言葉として受け取っておきますよ」
後ろから聞こえた声に即座に剣を投擲する。
眉間に剣が刺さり、亡者は崩れ落ちた。
『フン。それで? その下らん理由の為に、貴様一人でこの数を相手取るつもりか? 実に滑稽だな』
どこからともなく大公の声が響く。
嘲笑と確信が滲んだその言葉に、地藤は肩を竦めた。
「笑いたいなら笑えばいいよ。あなたは悪魔なんだから、情も知らなければ、礼も解さない。そういう存在だ」
悪魔は地藤の思いを理解しない。
霧島レイの涙も嘲笑うだけだ。
それはそれで構わない。ただの事実として受け止めている。否定も怒りもない。
ただ、そこにある“差異”を理解しているに過ぎない。
「だけど」
地藤は、静かに手を掲げた。
そこには柄だけの剣が握られている。
そして、虚空が震えた。
何もなかった空間に、光が走り、銀の刃が形を成す。
一本の誓いの剣が、その場に現れる。
「そちらが情を知らず、礼を持たないというのなら――」
少年の瞳が細められる。
どこまでも静かに、どこまでも冷ややかに。
「――こちらも無礼を以て応えよう」
その声は静謐にして荘厳。
奇しくも、死王女と同じ台詞を宣告した地藤は、剣を胸の前で構えた。
十字を描くように掲げられた銀の刀身が、亡者の闇に反射して煌めく。
「さぁ、掛かってきなよ。無感の亡者共」
銀色の刀身が、眩い輝きを放つ。
偽りで塗り固められた彼の姿は、しかし確かに、主を守護する騎士そのものであった。
意図せずして結ばれた縁ではあるが、少年は今だけは彼女の剣として振舞う。
彼の“主”が過去に決着をつけるその瞬間まで。
「――無礼講だ。剣が尽きるまで相手をしてやる」
赤く染まった瞳が、亡者の群れを貫いた。
その威圧に圧された亡者たちが、一瞬だけ、足を止める。
剣は尽きることはない。
例え折れても、“
彼の心が折れない限り、剣は尽きない。
無粋な亡者を迎え撃つべく、地藤は最初の一歩を踏み出した。
次回:「霧島レイの件」