世界の為に推しとの恋愛を諦めようとしたらヤンデレ化された件 作:赤坂緑語
――あの家が、目の前にあった。
帰りたくて、帰りたくて仕方がなかった場所。
夢の中で幾度も手を伸ばし、そのたびに届かなかった“家”。
それが、目の前にある。
レイは言葉も出せず、ただそこに立ち尽くしていた。
風が頬を撫でる。懐かしい匂いが鼻先をくすぐる。
草の揺れる音、遠く虫の鳴く声。どれもがあの夏の日と同じだった。
気がつけば、頬を涙が伝っていた。
ずっと欲しかった光景が、目の前にある。
心が、ようやく帰れると告げていた。
それなのに。
足が、動かなかった。
前に進もうとしても、膝が震え、脚が硬直して一歩も出ない。
まるで、大地そのものに縫い止められているかのように。
レイは咄嗟に己の脚を見下ろし、歯を食いしばった。
傷などない。痛みもない。なのに――動けない。
彼女の脚を止めている原因は、恐怖だった。
帰ることを許されないかもしれないという、圧倒的な恐怖。
あの夜、血に濡れ、壊れた我が家。
バラバラになった最愛の弟の骸。
今でも夜な夜な夢に現れる、終わりなき悪夢。
再び、あの地獄を目の当たりにしたら――。
再び、あの絶望を味わうことになったら――。
それを考えるだけで彼女の膝はガタガタと震えて――
「おっ、上手いこといきましたね。流石は僕」
後ろから聞こえてきた呑気な声に思わずその場で飛び上がった。
「うわっ⁉ ち、地藤⁉」
そこには、レイをここへ送り込んだ張本人であろう彼がいた。
「どーも、地藤です」
お茶目に微笑むミステリアスな後輩。
レイは少し冷静さを取り戻し、改めて辺りを見渡しながら尋ねた。
「なぁ、地藤。これは一体どういう状況なんだ? ここは……」
「分かっていることをわざわざ聞くのはどうかと思いますよ。僕に尋ねるまでもなく、先輩はもう知っているはずです」
「……ということは、まさか――」
地藤は頷き、答えた。
「ここは文字通り、
時間旅行――タイムトラベル。
未だかつて誰も成し遂げたことがない大偉業をさらりと成し遂げた少年はしかし、特段誇る様子もなく、いつものように自然体でいる。
「そ、そんなことが……許されるのか……?」
そこまで口にして、レイはハッとここへ来る直前の光景を思い出した。
血だらけで、それでも笑顔で彼女を送り出した彼の姿を。
揺れるレイの瞳を見た地藤はニヒルな笑みを浮かべた。
「許されるか、許されないかで言えば、許されないでしょうね」
「地藤……」
「僕の心配は無用です。仮にも貴女の眷属ですから。“
不死身系の能力を二つ所持している絶対死なないマン。
地藤は遠い眼をした。
随分と、遠くまで来たな――と。
実に、今更の話だった。
「ちなみに、現実の肉体は放置されているので、何かあればこの意識は取り残されて、永遠に時空の狭間を彷徨う羽目になりますが……まぁ、そこは未来の僕に頑張ってもらうとしましょう」
「み、未来の僕……?」
しれっと、とんでもないことを言う地藤に慌てて疑問を差し込むレイ。
珍しく興奮状態にあったのか、地藤は「そういえば説明してなかったですね」と思い出したように自身を指さした。
「実は、この僕は本体ではなく
「……」
メフィラが聞けば、地藤が実行したことの凄さに素直に感心し、拍手でも送りそうなものだが、レイからすれば状況についていくのに精いっぱいで、何とも言えない曖昧な表情を浮かべていた。
期待していたリアクションが得られなかった地藤は残念そうに唇を尖らせたが、すぐに切り替えて目の前にある“家”を指さした。
「さて、時間もないので早く行きましょうか。――先輩の家に」
夜の風が草原を揺らす。
満天の星空の下、その家は唯一の人工的な輝きを放っていた。
我が家がそこにある。
あそこに――彼が、待っている。
「先輩?」
彼を蘇らせることができたら何を言おうか、考えていたことがたくさんある。
その殆どが謝罪の言葉ではあったが、それでもレイはユウに会って伝えたいことがたくさんあった。
だというのに――やはり、脚が動かない。
予感があるのだ。
この先に進めば、終わる。
全てが終わってしまう。
終わらせたかったはずなのに。
いざその時がくると躊躇してしまうのは、レイの弱さ故か。
「もう、じれったいですね」
「地藤⁉」
レイの葛藤をあっさりと終わらせたのは、軽快な声と共に握られた掌だった。
隣を見れば、優しく微笑んだ地藤がレイの手を握っていた。
「さぁ、行きますよ」
驚くレイを強引に導くように、地藤はレイの手を引いて家へと歩いていく。
どういう仕組みなのか分からないが、どうやら視覚、聴覚、嗅覚に加え、触覚も再現されているらしい。
手を握る彼から伝わってくる体温は温かくて――レイは、その温もりに支えられながら、一歩ずつ前へと歩いていく。
恐れを抱きながら、それでも一歩ずつ。
あの“家”が近づいてくる。
近づいてくるほどに、レイは確信を抱いた。
間違いなく、あれは彼女が焦がれていたあの“家”だと。
懐かしい記憶が込み上げてくる中――
不意に、窓辺に立っていた彼と、眼があった。
「あっ」
レイの脚が、地藤よりも一歩前に出た。
無意識の行動を見た地藤は、微笑んでから彼女の手を離した。
離れていく温もりを追いかけるように、レイが振り返る。
地藤は確信をもって、微笑んだ。
「もう、一人で行けますね?」
「……うん」
必死に涙を堪えながら頷く彼女に微笑んで、地藤はそっと優しく彼女の背を押した。
その温かい手に押されて、レイはゆっくりと自分の脚で歩き出す。
一歩ずつ、嚙みしめるように。
家が近づいてくる。
そして、彼女を迎え入れるように家の窓が開かれた。
夏の夜の風に吹かれ、真っ白なカーテンが靡く。
白いベールの中から、一人の少年が現れた。
何度も夢に見た、あの少年。
陽だまりのような――レイの大事な弟。
「ユウ……!」
叫ぶようにその名を口にする。
窓越しに再会した姉を前に、霧島ユウはいつものように嬉しそうな笑みを浮かべた。
「あっ、おねえちゃんだ!」
彼からすれば久々の再会でもなんでもないが、レイからすれば実に3年ぶりの再会だ。
涙を流しながら、あり得ない奇跡に胸を打たれる。
感極まった姉を前に、しかし弟はいつも通りだった。
「あれ? なんか、めちゃくちゃ大きくなったね~」
明らかに背丈が伸び、顔も大人びた姉の容姿を見て呑気な感想を口にする。
レイは懐かしい――記憶のままの彼を見て、さらに涙を流した。
「ユウ……! 私は……私は……!」
言葉に詰まりながら、自分のことについて説明をしようと試みるレイ。
だが、ユウは不意に大人びた表情を浮かべて、ゆっくりと首を振った。
「……うん。分かってる。分かっているよ。おねえちゃんは、
「えっ」
どうして、分かるのか。
レイは尋ねようとして――真っ直ぐにこちらを見つめる弟の瞳が黄金色に輝いていることに気が付いた。
黄金の瞳。
悪魔との、契約の証。
レイの中で、バラバラになっていた欠片が繋がっていく。
漠然と抱いていた疑問が、その答えが、確信に変わっていく。
彼女は直感的に全てを悟り――苦しそうな表情を浮かべた。
「そうか……お前は……」
「うん。悪魔さんからもらった目でね、未来が視えるようになったんだ。……黙っててごめんね」
申し訳なさそうな表情を浮かべる弟に、レイは首を振って答えた。
「謝らなくていい。謝らなければならないのは、私の方だ……お前がそんな重荷を背負わされていたことに気が付けなかった、私の過ちだ」
深刻な表情で懺悔するように項垂れる未来の姉を見て、ユウは呆れたように溜息をついた。
「そんなことないのに……おねえちゃんはいっつも、自分のせいだって言うよね」
そういう性質なのだろう。
分かっていたことではあるが、相変わらず成長しても姉は頑固なままらしい。
「これは、おねえちゃんのせいでも何でもないよ。ただ、そういう運命だっただけ。だから、おねえちゃんが気にする必要は――」
「そういうわけにはいかないッ!」
鋭い声が響く。
弟の言葉を遮ったレイは何かに耐えるように唇を噛みしめて――血を吐き出すように語った。
「私のせいなんだ……! あの時、私が大人しく殺されていれば……こんなことにはならなかった! あの時、あの悪魔が私に目を付けなければ……いや、そもそも私さえ生まれてなければ……!」
ずっと抱えていた罪の意識。
レイを苦しめ続けていた後悔。
自罰と、悲しみの果てにたどり着いた彼女の結論。
「いや、それは違うよ」
ユウは、自己の存在を否定する姉に悲しい気持ちになりながら、しかしハッキリと彼女の言葉を否定した。
「どうしてそんなことが言える……」
「……だって、おねえちゃんと出会えなかったとしても、お父さんたちは同じように魔力を持つ人を見つけ出して、同じことをしていたと思う。そして――」
あの悪魔さんがいる限りは、同じような結末を迎えていただろうから。
その声はあまりに淡々としていて、まるで他人事のようにすら聞こえる。
だが、ユウの瞳は静かに揺れていた。深く、哀しげに。
最初から、霧島ユウという少年は詰んでいたのだ。
生まれてから、死ぬ時まで。
レイは息を呑み、瞳を見開いた。
「そんな……」
胸を締めつけられるような現実に、レイの目から涙がこぼれる。
「そんな、救われない運命なんて……」
ただ純粋に、人の為を想って流す涙。
その純粋な想いに、ユウは小さく微笑んだ。
「でも、僕は幸せだよ。こうしておねえちゃんに出会えて、自分で選ぶことが出来たんだから」
「選ぶ……?」
「うん。僕はね、自分で選んだんだ。自分の意思で、自分の未来を」
誰に強制されるでもなく。
選ぶ権利があった上で、少年は自分の意思で未来を選んだ。
悪魔と同じ色でありながら、透き通るような美しさを持つ黄金の瞳が真っ直ぐに姉を見つめる。
レイは、ユウが本当に自分でこれから先の未来を選んだことを嫌でも悟って――
「だが!」
それでも、そんな未来は認めたくないと頭を振った。
「私はお前を守ると誓ったんだ! 誓ったのに……! 何も守れなかった……!」
この星空のもとで交わした誓い。
レイの中で何よりも大事だった約束。
自分なんかよりも、弟に幸せになって欲しいとレイは叫ぶ。
「うぅん。おねえちゃんは
「えっ」
レイの目が見開かれる。
ユウは静かに微笑んで、嬉しそうな表情を浮かべた。
「ここじゃない未来で、おねえちゃんはずっと僕のことを守ってくれた。どんなに酷い目にあっても、ずっと僕のことを守ってくれた。だから僕、思ったんだ。一つくらい、おねえちゃんが救われる未来があってもいいんじゃないかって」
「ユウ……お前……」
穏やかに微笑む少年の瞳に嘘はない。
彼はただ、守りたいだけだった。
頑固で、一途で、どこまでも愚直な姉を。
救われない彼女が、笑って過ごせる未来を迎えて欲しいと願っていた。
――この選択が必ずしも正解でないことはユウも分かっている。自分を愛することを知らない姉は、自暴自棄の果てに悲惨な最期を迎える結末もあるかもしれない。
だが、それでも――
そこに一縷の望みがあるのであれば、賭けてみたいとユウは思ったのだ。
「だから、生きてよ。おねえちゃん。生きて、幸せになるところを僕に見せてよ。それが見られれば、僕はこっちを選んで良かったって思えるから」
はにかむような笑みを浮かべるユウ。
“あぁ、そうか――”
陽だまりのような笑顔を見て、レイは理解した。
“私の弟は、ちゃんと自分で選んでくれていたのか”
その思いと覚悟が胸に響く。
誤解なく、言葉が心に届く。
――レイの心を縛っていた鎖が解けていく。
「幸せになっている未来か……そんな大層なものを、お前に見せられるのかな」
「大丈夫だよ。おねえちゃんは頑固だけど、優しいから。力の使い方を間違えなければきっと幸せになれるよ。それに――」
穏やかな表情で姉を見つめていた霧島ユウの視線が不意に、レイの後ろで静かに見守っていた地藤に向けられた。
「――勇敢な騎士のおにいちゃんもいるみたいだし」
突然流れ弾を受けた地藤は面食らった表情で「ぼ、僕⁉」と自分を指さしている。
そう。あなた。
ユウは頷いた。
「おにいちゃん、おねえちゃんのことお願いね。この人、すごくおっちょこちょいだから」
「いや、僕に頼まれても……」
「――あっ、おにいちゃんの悲惨な未来が視えちゃった。このままだと口が滑ってそっちに誘導しちゃいそうだな~」
「全力で、お姉さまを守らせていただきますッ!」
地藤のアバターは全力で、直角に腰を折って10歳の少年に頭を下げた。
(この餓鬼ィ、なかなかいい性格してやがる……!)
内心で冷や汗を搔きながら、頭を下げ続ける。
勢いでレイを守ると断言してしまい、嫉妬深い恋人が脳裏を過ったが――
(まぁ、苦労するのは本体の僕だし、ノーダメでしょ)
――アバターなことをいいことに、最悪の開き直りをしていた。
(頑張れ! 本体の僕! 多分、記憶還元されてこの光景も忘れられないんだろうけど、あとはお前に任せた!)
本体が見れば白目を剥きそうなことを考えながら、アバターは本体と相違ない思考回路で全部を自分に丸投げした。
「プッ――アハハ! おもしろい人だね! おにいちゃん!」
「至極恐悦でございます!」
10歳の少年に全力で頭を下げ、腹から声を出して媚を売る17歳の少年。
色々と、終わっている光景だった。
「うん。おねえちゃん、この人なら大丈夫じゃない? 多分、何が起きても簡単には死なないし、ゴキブリくらいしぶとそうだよ」
「いや、その……えぇ……?」
過去の弟と、未来の後輩のやり取りを見たレイは困惑でキョロキョロしながら首を傾げていた。
おかしい。私の弟はもっと純粋無垢で、キュートで、こんな黒幕みたいな顔で邪悪に笑っているはずなんて――
「……違うな。私が勝手に過去を捻じ曲げていただけか」
過去を追いかけるあまり、少しユウのことを美化し過ぎていたかもしれない。
今振り返ればちゃんと思い出せる。
彼にはこういう、少し意地悪な面があったのだった。
弟の姿がもっと鮮明になっていく。
レイはそれが嬉しくて、そっと微笑んだ。
「――そろそろ、時間かな」
穏やかな時間が3人の中に流れていたが、しかし何事にも終わりがある。
時計を見たユウは、少しばかり残念そうな表情で呟いた。
レイの表情が引き攣る。
その言葉の意味を聞くまでもない。
もう間もなく、エクソシストたちがここへやって来るのだろう。
そして、ユウは――
「ユウ……!」
――レイは「逃げて!」と言いそうになった口を、止めた。
これは、彼が望んで、彼が選んだ道だ。
それを否定することは――ユウの決意を踏みにじることになる。
だが、それでも、溢れ出す涙を抑えることはできなかった。
「……もう、おねえちゃんは泣き虫だね」
そう言うユウの目にも涙が溢れていた。
どれだけ強がって見せようとも、未来が視える異能で数年分の経験を得ようとも、彼は10歳の少年だ。
この先に待っている過酷な運命と、姉との別れには思うところがある。
けれど、後悔は微塵もなかった。
少年は、これこそが最も美しい終わり方だと思っていたから。
だからこそ。
お別れの瞬間も美しくあるべきだろう。
ユウは涙を拭い、全てを包み込むような、陽だまりのような笑みを浮かべた。
「おねえちゃん、頑張ってね。辛いこともたくさんあるだろうけど、おねえちゃんなら大丈夫。だって――」
その声は、夜空の星々よりも澄んでいて。
その言葉は、レイの魂をやさしく包み込んだ。
「――誰かが待っている、おねえちゃんの居場所があるはずだから」
それは、祝福のようであり、未来への祈りでもあった。
もう戻れないこの場所から、きちんと前を向いて、歩いてほしいという最後の願い。
レイは涙を流しながら微笑んだ。
「ありがとう……ユウ」
彼が、安心して天国にいけるように。
輝かしい未来をその目で見られるように。
もう大丈夫だと、告げるように。
「おねえちゃん、頑張るよ。頑張って生きて、お前に誇れるような未来を見せてやる」
「うん。頑張ってね、おねえちゃん。僕はずっと見守っているから」
輝かしい夏の日々が終わる。
だが、それは悲しい幕引きではない。
それぞれが、それぞれの思いを胸に、次へと向かうための、始まりを告げる終わり。
そして――奇跡の終わりが始まった。
「これは……」
レイと地藤の身体が揺らいでいく。
霧島ユウの未来が終わる時間が近づいてきたことで、タイムパラドックスを防ぐべく、世界が修正を掛けてきたのだ。
これで終わる。
もう、こうして会うことは出来ない。
「ユウ!」
レイは涙を流しながら――それでも笑顔を浮かべた。
大丈夫。
居場所はこれから見つけなければならないけれど、ユウはこの先で待っていてくれている。
全てが終わった後。
彼女は最後にはきっと、ここに帰って来られる。
だから――
いつか、この人生を駆け抜けた時に、また会うために。
レイは精いっぱいの笑顔でその言葉を自分から告げた。
「いってきます――!」
ユウは目を見開いて――
夏のひまわりのような、満面の笑みを浮かべた。
「――いってらっしゃい」
レイと地藤の身体が揺らいでいく。
ほんの短い間だけ許された奇跡が、その力を失っていく。
レイは弟の姿を目に焼き付けながら、そっとこの世界の匂いを吸い込んだ。
――“夏の夜の匂いがする”
二人の姿が揺らいでいく。
レイは愛おしさと、悲しさと、そして確かな喜びを胸に笑顔を浮かべる。
ユウもまた笑みを浮かべ――
こうして、奇跡の時間は幕を閉じた。
♰♰♰♰♰ ♰♰♰✜♰♰♰ ♰♰♰♰♰
『――そうだな。一先ず、大口を叩いただけのことはあると言っておこうか』
血の大公の尊大な声が響き渡る。
亡者の一体に憑依した彼は、辺りを見渡した。
四方八方を壁に囲まれた迷宮の一画は、山のように積み上げられた亡者の死体で埋まっていた。
亡者は殺されれば塵となって消滅する仕組みだが――消滅が間に合わない速度で殺され続け、迷宮に軽い処理不良が起こった結果、このような歪な光景が出来上がっていた。
仮にも己の従僕でありながら、情けない有様を晒す亡者たちに溜息をつきながら、血の大公は視線を中央に移した。
その空間は、異質だった。
辺りに積み上げられている亡者たちの死体は一つもなく、床に銀色の美しい少女が寝かせられている。
そして――少女を守るように、全身をエクソシストの十字剣を模した模造剣で貫かれた、一人の少年が、己の剣を杖のように立てて何とかそこに立っていた。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
少年――地藤優斗がここで戦闘を開始してから既に一時間が経過していた。
過去へ意識を飛ばすという誰も成し遂げたことがない奇跡の影響か、彼女の意識はまだ戻らない。
それでも、地藤は辛抱強く戦い続けていた。
彼女に傷一つ付けないよう、必死に。
『だが、流石にもう限界のようだな』
「はぁ、はぁ……勝手に、人の限界を決めないでもらえますか……?」
『……まだ軽口が叩けるか。呆れた奴だ』
限界などとっくの前に迎えている。
だが、それでも諦めることなく食らいついてくる少年。
原種の眷属になったことで手に入れた異常な回復能力と、死から蘇る“
厄介だな――血の大公は認めた。
生半可な傷では一秒も経過しないうちに傷を修復され、重傷も瞬く間に治してしまう。かと言って死に体に追い込めば、何事もなかったかのように復活する。
生命操作魔術を得意とする血の大公ではあるが、ここまで理不尽な生命体にお目にかかるのは久々のことだった。
ましてや、それがただの人間などと――
『くだらぬ』
己の心のうちに生じた疑問を払拭するように大公は呟いた。
くだらない。
不死が何だと言うのだ。
心が折れない限り、立ち上がり続けると言うのであれば――その心をへし折るだけのこと。
『よく回る口だが――塞いでしまえば何も出来まい』
この男を封じ込める方法は一つだけ。
生かさず、しかし殺さないギリギリのラインで拘束すること。
『貴様にくれてやる慈悲はもうない。全身を剣で貫かれ、死ぬことも出来ぬ地獄に堕ちるがいい……!』
血の大公が邪悪な笑みを浮かべながら指を鳴らす。
次の瞬間、串刺しにされて動けない地藤に四方八方から剣を持った亡者たちが突撃してきた。
血の大公の命令に従い、彼らは地藤をギリギリ死なないラインまで追いつめるだろう。
避ける術はない。
自ら命を絶とうにも、手が動かない。
舌を噛み切る力も残ってない。
地藤はこの後訪れる地獄のような苦痛に耐えるために目を閉じて―
「――私の眷属に、何をする」
凍てつくような声音と共に、銀色の風が吹き荒れた。
突撃してきた亡者たちが、一瞬にして薙ぎ払われる。
まるで斬撃というより、空間ごと切断されたかのような断絶。
目を開いた地藤の視界に映ったのは、散乱する亡者の死体と、その中心で銀髪を揺らすひとりの少女の後ろ姿。
刀を一閃し、彼女は振り向いた。
全ての迷いから解き放たれ、純粋な意志の輝きを放つ紅玉の瞳が地藤を見つめる。
「せん、ぱい……」
「ッ!」
全身に剣を突き刺され、碌に身動きも取れないその姿を真正面から見たレイは顔を悲痛に歪めた。
「すまない。待たせてしまったな」
風のように近づいてきたレイの手が、串刺しにされて身動きが取れない地藤の頬に触れる。
優しく――何よりも尊いものに触れるように、そっと。
「すぐに自由にしよう」
彼女は彼の身体に突き刺さった剣を一本ずつ引き抜く――なんて余計な苦痛を与えるようなことはせずに、頬に手を当てたまま目を閉じて、命じた。
「
普通の人間にそんなことを言ったところで何も起きるわけがない。
しかし、今や地藤優斗は普通の人間ではない。
“原種返り”の眷属なのだ。
主である彼女が命じれば、それは現実となる。
彼女の言葉が響き渡った次の瞬間――地藤の身体は黒霧となった。
実体を失ったことで、彼の身体に突き刺さっていた数々の剣が重力に引かれ、地面へガラクタのように散らばる。
『なにッ⁉』
大公の驚愕した声が響き渡る。
驚愕は地藤も同様であった。
「こ、これは……」
すぐに黒霧状態から人の姿に戻った地藤は困惑した表情で自分の掌を見下ろす。
レイは不敵な笑みを浮かべた。
「お前は私の眷属だからな。当然、回復能力に加えて霧化も使えるに決まっている」
「ま、マジすか……」
「マジだ」
心なしか、眼をキラキラと輝かせながら、地藤は目を閉じて先程の感触を思い返した。
自分の身体が解けて、雲のように移動していく様を。
『う、うぉお⁉ 凄い、凄い! 僕、
憧れだった霧化を手に入れた地藤は幼い子供のようにはしゃぎながら、霧の状態で辺りを飛び回る。
レイはその光景を微笑ましそうに眺めていた。
同じ反応をしそうな、別れを告げた弟のことを思い出しながら。
「喜んでくれたようで何よりだ。これで、お前への恩を返す第一歩にはなったかな?」
「もちろんですよ! というか、これだけでもお釣りがくるレベルですよ!」
霧から実体へ戻った地藤は満面の笑みを浮かべながら絶賛する。
先程死に掛けていたことも忘れて、ご満悦のようだ。
レイは微笑んだ。
「そう言ってもらえるのはありがたいが、お前への恩はまだまだ返しきれていない。――そうだ。まだ感謝の言葉も伝えられていなかったな」
レイが姿勢を正す。
彼女は心からの想いを込めて、地藤に頭を下げた。
「――ありがとう、地藤」
「それは、何に対する感謝の言葉ですか?」
「全てだ。私の本当の願いを教えてくれたこと、ユウと再会させてくれたこと、こうして、その身を挺して守り抜いてくれたこと。その全てに感謝している」
レイの言葉には心からの感謝が込められていた。
いや、それだけではない。
彼女は熱い吐息を吐き出し、悩まし気な表情を浮かべた。
「――すまない。感謝という言葉では到底足りそうもないな。お前は、恩人だ。私を救ってくれた、
道を踏み外しそうになっていたところを救ってもらっただけではなく、過去の弟に別れを告げるという奇跡も叶えてもらった。
これが恩人でなくて、何だというのか。
熱い言葉で告げられる言葉に対し、地藤はむずがゆそうな顔をした。
「そんな、過剰な礼には及びませんよ。僕にも色々と思惑があって、偶々それが先輩の手助けをすることに繋がっただけですから。そうやって過剰に感謝されると変な気持ちになるので止めてください」
何故か言い訳のように早口になりながら語られた地藤の言葉を聞いたレイは、楽し気に笑った。
まるで、可愛い我が子の拗ねた顔を楽しむ親のような――姉のような表情で。
「……フフッ、お前は本当に、筋金入りの捻くれ者だな」
「……悪かったですね」
「いや、すまない。何も馬鹿にしているわけじゃないんだ。お前は少し捻くれているだけで、本当は優しい男であることは良く分かっている」
少し捻くれた――決して自分を良い人間に見せようとはしない、分かりにくく素直じゃない優しさ。
不意に、そういう一面があった弟と彼の姿が重なった気がして――レイはまた微笑んだ。
「しかし、お前には迷惑ばかり掛けてしまったな……どうやって償ったものか」
「別に気にする必要ないですよ。さっきも言いましたが、この霧化でお釣りがくるくらいですし」
「そういうわけにはいかない。お前は私の眷属なのだから、この程度で満足してもらっては困る」
眷属。その言葉が重く響く。
吸血鬼にとってそれがどれほど重要な存在であるか、知識として知っている地藤は、不意にゾクリと悪寒を覚えた。
嫌な予感に震える地藤を他所に、レイは悩まし気に顎に指を当てて頭を捻る。
「かと言って、私のような不器用な女ではお前の役に立てる方法が思いつかない。どうしたものか……」
「いや、あの、本当に気を遣ってもらわなくても――」
「そうだ。一つだけ役に立てることがあったな」
真っ赤な瞳が地藤を見つめる。
その瞳に浮かぶ
「――私は、お前の
確固たる覚悟をもって告げられた宣言。
赤い瞳が迷いない光を帯びて、爛々と輝く。
己の半身ともいえる眷属を得て、心の迷いがなくなり、己の出自も含めて全て受け入れたことで、レイの中に確かな変化が起こっていた。
そしてそれは、精神的な変化を超えて、現実世界にも影響を与えていく。
彼女の身を包んでいた黒霧が、ふっと光を帯び始める。
夜を象徴する闇が、まるで夜明けの陽光に浄化されるかのように――
漆黒の霧は、光を孕んだ銀へと、静かに、そして力強く変化していく。
黒でも白でもない。中庸の曖昧な灰でもない。
研ぎ澄まされた――銀色。
キラキラと、赤と黒に染められた迷宮の中で光り輝く美しい光を全身に纏いながら、レイは微笑む。
それは、原作における中盤以降でしか見られない、霧島レイの本来の姿だった。
頑固で、一途で、何を犠牲にしようとも一人を想い続ける強い信念を持つ霧島レイ。
その全てが、“主人公”の為に向けられることで手にする本当の姿。
彼女は文字通り、地獄に堕ちようとも、この宣言を守り続けるだろう。
その身が朽ち果てる最後の瞬間まで、必ず。
一人の人間が受け取るには大きすぎる想いを受けた地藤は――
頬を引き攣らせた。
「いや、えぇと……種族的には貴女が僕の“主”なんですけどね」
「むっ、そういえばそうだったな。だが、お前を従僕として扱うのは気が引けるぞ」
「いや、そういうことじゃなくて……」
言い訳のように互いの立場を盾にして、やんわりと断ろうとする地藤だが、レイはそういったやり取りに鈍感だった。
「それに――」
地藤の思惑を知らないレイは、蒼穹の空と草原、そして柔らかく微笑む弟を思い出しながら言った。
「私は主として守られるよりも、誰かを守るための剣である方が性に合っている。……いや、そうありたいんだ」
弟との別れを経て、レイの胸に渦巻いていた妄執は、跡形もなく消えていた。
けれど、それでも消えない思いが一つだけあった。
――あの時、私がもっと強ければ。
エクソシストたちに負けないくらいの“力”があれば。
ユウがあの選択を取らずに済んだ未来が、どこかにあったのではないか。
後悔してもどうしようもない。
考えるべきは、これからのこと。
故に、レイは決意した。
力を手に入れた今こそ、同じ過ちを繰り返さない為に、彼女は剣になると。
今度こそ。
「
この少年の未来を守ることこそが、弟と約束した幸福な自身の未来に繋がると信じて。
「――
もはや、迷いなど微塵もない。
己の存在について明確にしたレイは、剣を振るう主に命令を願った。
地藤は決して鈍い少年ではない。
故に、気が付いた。その瞳に宿る
「……あの、僕の勘違いだったら申し訳ないんですが、僕には璃奈がいて――」
「分かっている。だから、
「ん? すいません。最後の方、なんて仰いました?」
「いや、なんでもない。ただの独り言だ」
誤魔化すように笑って、レイは真っすぐに剣になりたいと誓った主を見つめた。
「これでも、切れ味には自信がある。好きなように使ってくれ」
「……」
地藤は、自分が背負うにはあまりにも大きすぎる誓いを受け、何とか言い訳をしようとして――諦めた。
あの霧島レイが、“原種”というこの世界でも特異な存在である彼女が、地藤に心からの忠誠を誓ってくれるというのだ。
よくよく考えれば、これから先も強敵が待っているのだから、(滅茶苦茶怖い彼女のことは一旦置いておいて)戦力的な意味合いでは断る理由などない。
だが、それだけではなくて。
そういった打算的な考えは抜きにして。
彼女の誓いと在り方は、自身や璃奈と似通っているものがある気がして――
「はぁ、分かりましたよ……」
無下にすることが憚られた地藤は渋々といった様子で頷いた。
別に恋人関係になるわけではないのだし、剣が増える分にはいいだろうと割り切って。
……絶対に荒れそうな璃奈への説明は、未来の自分に託して。
「それが、僕の“主”の望みであれば、そうしましょう」
「フフッ、やはりお前は妙なところで律儀で、とことん捻くれた男だな」
レイはらしさ全開の主人を見て、微笑んだ。
地藤は言い返そうとして――面倒くさくなったのか、生温いレイの視線から逃れるように視線を周囲に向けた。
「……それじゃあ、記念すべき最初の
誤魔化すように向けられたその視線の先には、新たに姿を現し始めた亡者たちがいる。
不気味に蠢く、数知れぬ闇の群れ。
地藤は小さく息を吐き――命令を下した。
「この有象無象共を蹴散らせ」
「――承知」
次の瞬間、銀色の風が吹いた。
開花させた銀色の霧を身に纏い、実体化と霧化を繰り返しながら目に見えぬ速度で流れ作業のように敵を殲滅していく。
流星の如き剣技は一閃ごとに亡者たちを斬り裂き、塵へと還す。
地藤も黙って剣に戦わせているだけではない。自身も手に入れた能力を試すように黒き霧となり、迷宮を縦横無尽に駆け抜ける。
疾走する闇は、剣となり、爪となり、牙となって、亡者の群れを蹂躙した。
二つの霧が交差する。
銀と黒、光と影。
狭い迷宮の空間を縦横無尽に駆け抜けながら、霧はやがて互いの軌跡を重ね合わせていく。
それは決して計算されたものではない。だが、不思議と衝突することはなかった。
互いの動きはあまりに自然に、完璧に噛み合っていた。
銀の流線と黒の奔流がひとつとなり、まるで空を昇る龍のように、とぐろを巻いて舞い上がる。
巻き上がった霧の龍は大きく身を仰け反らせ、力を溜め、全霊の一撃を放つように――迷宮の壁へと突進した。
凄まじい衝撃が空間を揺らし、壁面に大きな亀裂が走る。
刹那、時を逃さずレイが実体へと戻る。
「――斬霞刀」
その声と共に、銀に煌めく刀が召喚される。
彼女は迷いなく、それを壁の亀裂へと突き立てた。
轟音。空間が軋むような音が響き渡り、迷宮の壁が悲鳴を上げる。
次の瞬間、ひときわ大きな破裂音が鳴り――ついに、堅牢を誇った檻が、ただの紙細工のように崩れ落ちた。
「さて――」
破片が静かに宙を舞うなか、地藤がつぶやいた。
二人を閉じ込めていた箱庭は、もう存在しない。
銀の霧を身に纏う刀使いと、黒い霧を身に纏う剣使い。
二人の吸血鬼が背中合わせに並び立つ。
「――いい加減、ここから出るとしますか」
「あぁ……悪夢を終わらせよう」
レイは背中越しに感じるこの世界で唯一の眷属の温もりを感じながら、静かに刀を構えた。
そうだ。
夢は終わらせなければならない。
それがどれほど居心地のいい夢であったとしても。
目を背けたくなるような悪夢だとしても。
何故なら――
「私たちには、進むべき
言葉はなかったが、背中越しに彼が頷いたのが分かった。
レイたちには未来がある。
だからこそ、こんなところで立ち止まっているわけにはいかない。
新たなる誓いを胸に。
レイは力強い瞳で前を向いた。
亡者たちが一斉に襲い掛かって来る。
赤と黒に彩られた悪夢のような迷宮を終わらせるべく、主従は霧となって駆け出した。