世界の為に推しとの恋愛を諦めようとしたらヤンデレ化された件 作:赤坂緑語
「なぁ、璃奈。頼みがあるんだ」
「なに?」
互いが“本物”であることを確認した璃奈と蓮は二人で迷宮の中を突き進んでいた。
亡者が出現すれば璃奈が掃討し、蓮はそれを隠れて見守るという流れで、先ほどと構図は大して変わらない。
あの病院での救出劇を思い出しながら、蓮は淡々と歩みを進める少女の背中に話しかけた。
「ここから出られたら、俺に戦う術を教えて欲しいんだ」
「戦う術?」
足を止め、璃奈が振り返る。
蓮は力強く頷いた。
「あぁ。幸いにも俺にはエクソシストになれる素質みたいなものがあるんだろ? それを鍛えるために力を貸してほしいんだ」
「……それは妹さんに禁止されていたんじゃないかな?」
十六夜唯は、自身が悪魔の契約者であるが故に、兄が敵対勢力であるエクソシスト側に加担することを嫌がっていたはずだ。
彼女が駄々をこねる分には問題ないが、仮にその怒りが頂点に達して中にいる死王女に本気を出されたら最後、どうなるかは分からない。
「確かにそうだが、唯は俺が説得して見せるよ」
だが、蓮は引き下がらない。
どれほど妹に反対されようとも、必ず説得して見せると強い決意を固めていた。
「どうしたの、急に」
基本的に地藤以外の人間に無関心な璃奈だが、それでも全く反応を見せないわけではない。
急に珍しい我儘を言い出した蓮に怪訝な表情を浮かべながら尋ねる。
蓮は顔を伏せ、悔しそうに歯を食いしばった。
「……俺、甘く見ていたんだと思う。地藤や璃奈、唯がいてくれて、何でも解決してくれていたから、勘違いしていたんだ。これから先も、皆がいてくれれば何とかなるって。唯の言う通り、俺は戦う必要なんてないんだって」
そう思うことは別に罪ではない。
十六夜蓮はエクソシストとしての素質を秘めているだけで、ただの一般人に過ぎないのだから。
「だけど、やっぱりそんなのは間違っている。皆を戦わせて、自分だけ安全な場所で隠れてみているだなんて、俺にはできない」
だが、彼はそれを許せない。
ただ、守られているだけの状況に我慢がならないのだ。
「だから璃奈、俺を鍛えてくれないか? 無茶なお願いだってのは分かってる。だが、それでも……俺は戦えるようになりたいんだ!」
青色の瞳が燃え上がる。
それは、彼の魂の輝きだった。
何人にも侵されることのない、黄金の精神の発露だった。
原作において、数々のヒロインの地獄の底から救い出したその輝きを真正面から受けた璃奈は――
「うん。取り敢えず、優斗君に聞いてみるね」
YesともNoとも答えず、彼氏に聞いてみるとだけ答えた。
地藤はこの件について頭を悩ませていた為、事前にどうすべきかその意思を確認しておくべきだろうという、璃奈なりの配慮であった。
……ここで即座にNoと答えないあたり、璃奈的には無力を嘆く蓮の気持ちを理解した上で最大限譲歩しているのだが、蓮からすれば一番反応に困る返答だ。
故に。
「あっ、はい」
蓮は、慣れたように宇宙猫のような虚無顔を晒すのだった。
♰♰♰♰♰ ♰♰♰✜♰♰♰ ♰♰♰♰♰
「ッ! 先輩!」
原作主人公が宇宙猫顔を晒していたその時、地藤は迷宮の中で黒霧を身に纏いながら、亡者たちを蹂躙していた。
剣だけではなく、吸血鬼固有の鋭利な爪も使い、亡者たちを切り裂いていく。
戦闘能力と技のレパートリーが一気に増えた地藤は、前方を見てから慌てて己の
「承知している!」
打てば響く――まさにそれを体現する応答。
呼ばれただけで即座に主人の意図を悟ったレイは、銀色の霧を纏い、周囲の亡者を一瞬で薙ぎ払う。
さらに、手に持っていた刀を勢いよく投擲。
空を裂きながら横回転し、まるでブーメランのように一直線に飛ぶ刀。
やがて、閉じかけていた壁の隙間へと突き刺さり、がちりと嵌った。
その動きが――壁の閉鎖を寸前で止めた。
「今だ!」
レイの叫びとともに、地藤は完全な霧の状態となり、亡者たちの群れをすり抜ける。
速度を緩めることなく、閉じかけていた壁の狭間を通り抜け――。
その背後を、銀霧が追う。
レイは壁のつっかえ棒となっていた刀を回収し、地藤のあとを続くように――閉じる寸前の隙間を、ギリギリで滑り抜けた。
「ふぅ……危機一髪ってところでしたね」
実体に戻った地藤は、急に出現した意地悪な壁を足先でげしげしと蹴りながらぼやく。
「壁が閉まっても、私たちなら容易く突破できたと思うがな」
同じく実体に戻ったレイは子供っぽい主に苦笑しながら、自分たちの力であれば容易く突破できたと自信を覗かせた。
その意見には地藤も同意だったが、すぐに首を振った。
「確かにその通りですが……まだ決戦が控えていますから。余計な体力は使わずに温存しておいた方がいいと思いますよ」
「ふむ。それもそうか」
血の迷宮は既に恐るべき存在ではないが、その大元である大公は未だに健在だ。彼を仕留めない限りは、この戦いは終わらない。
レイは納得したように頷き、称賛するような笑みを浮かべた。
「お前はいつも、先を見据えて行動しているな」
「……だったら良かったんですけどね。先を見据えた気になっているだけで、いつもその場しのぎのアドリブばかりです」
「思い通りにいく人生なんて、不気味なだけだ。それに、上手くいかない中でもお前は頭を回して何とか乗り切っているじゃないか。それは称賛されるべきことだ」
「そうなんですかね……僕が見据えている先はもっとハッキリしているというのに」
地藤は送られた賛辞を受け流し、苦々しい表情を浮かべた。
“原作知識”という未来予知にも等しい力を持っているにも関わらず、毎度後手に回っているのが現状だ。
一筋縄ではいかない連中ばかりなのは重々承知しているが、それでもやるせない悔しさのようなものは取り払えない。
「ふむ」
何やら悩んでいる様子の主を見たレイは、何気なくその右手を伸ばし――
「……あの、何をしているんですか?」
「見ての通り、主を慰めているのだが」
レイは静かに、しかし迷いなく地藤の頭に手を伸ばす。
女性としては高身長の彼女は、地藤よりもわずかに背が高い。ゆえに、軽く腕を伸ばせば、彼の黒髪を撫でることができる。
剣を握り続けていたせいか、少し硬い掌。その粗さを感じる指先が、地藤の髪をゆっくりと梳くように流れていく。
一定のリズムで繰り返される動作。
それに妙なやすらぎを覚えた地藤は、思わず目を閉じそうになって――。
「す、ストップーー!」
カッと目を見開き、慌てて彼女の動作を止めた。
「むっ。もういいのか?」
心底残念そうな表情で、それでも主の命令に従い、レイは手を止める。
「もう大丈夫です! ていうか、いきなり何をしているんですか⁉」
「だから、慰めていると言っただろう。ユウはいつもこうすると喜んでいたから、主にも喜んでもらえると思ったのだが……」
「僕は貴女の弟じゃないんですが……」
「分かっているとも」
本当に? 地藤は思わず疑わしげな視線を向ける。
レイは底の見えない紅玉のような瞳でじっと彼を見つめている。
その深い赤の輝きに、地藤は落ち着かなくなり、視線を外した。
「……それから、その“主”っていう呼び方も止めてもらえませんか? こう、仰々しすぎてむずがゆいというか」
「ふむ。確かに、少し仰々しかったか」
レイにとって「主」という呼称は、立場を明確にするための大切なものだった。しかし、地藤が嫌がるのであれば仕方がない。
代わりに何か適した呼び名はないかと考えていたところで、ふと閃く。
そういえば――彼の名前は地藤「
「そうだな……であれば、ユウと呼んでもいいか?」
「止めてください」
即答。
先ほどの問答をもう忘れたのか、弟の名前で呼ぼうとする彼女に地藤は容赦なく拒絶を示す。
それは単純に重い。重すぎる。
加えて、地藤の記憶に共有された霧島ユウがなかなかクセのある性格をしており、あれと同類とみなされるのも心外だった。
――人はそれを同族嫌悪と呼ぶのだが、地藤がそれに気づくことはなかった。
「冗談だ」
フッと大人びた微笑を浮かべながら、レイは悪戯っぽい眼差しを向ける。
「だが、せっかく世界にただ一人の私の眷属なのだから、苗字なんて他人行儀なことは止めて、下の名前で呼ばせてもらいたいな」
そして、熱を含んだ吐息とともに。
彼女はゆっくりと、その名を口にする。
「ユウト」
……なんか、呼び方が若干弟を呼ぶときに似ている気がするのは気のせいだろうか。
多分、気のせいだろう。
じゃないと、色々と面倒なことになる。
「……元の地藤呼びじゃダメですか?」
「お前がそうしろというならそうするが……口が滑って“ユウ”と呼んでしまうかもしれないな」
「うげぇ……」
想像の倍くらい性格が悪かったあの少年のことを思い出し、顔を顰める地藤。
そう呼ばれるくらいだったら下の名前の方がマシな気がするが……璃奈がいるのにそれはまずい。
地藤が煩悶しているのを見たレイは、苦笑しながら助け舟を出すように言った。
「私が勝手にお前の名前を呼ぶだけだ。お前は今まで通り、適当に私のことを呼べばいい。そうだな、“剣”とだけ呼んでくれれば、私はすぐに飛んでいくぞ」
「いや、流石にそこまで人権を投げ捨ててほしいわけじゃないので、普通に呼ばせてもらいますよ。先輩」
はっきりとした口調で宣言する地藤。
レイはフッと微笑みながら、どこか面白そうに呟いた。
「……私は頑固な人間だと弟に言われたが、お前も大概だな。
「好きに言ってください。いいから、さっさと先に進みますよ。
迷宮の先を見据え、地藤の身体が黒霧へと溶けていく。
照れ隠しのように先を急ぐその背中を、レイは微笑んで見つめる。
「承知した。――どこまでもついて行くとも」
彼女の身体もまた、銀色の霧となり、消えていく。
二人の吸血鬼は、理不尽な迷宮を理不尽に突破すべく、再び疾走を開始した。
♰♰♰♰♰ ♰♰♰✜♰♰♰ ♰♰♰♰♰
「璃奈、これって……」
「うん。どうやら、たどり着いたみたいだね」
蓮の問いかけに対し、璃奈は静かに首肯する。
気まぐれのように襲い掛かる亡者の群れを幾度となく突破しながら、迷宮の奥へと進んできた二人。
しかし、ここに至り、これまでとはまるで異なる光景が広がっていた。
赤い壁に囲まれた、閉塞感のある迷宮とは打って変わり――眼前に広がるのは、圧倒的に広い無機質な空間だった。
灰色の石で構成されたその空間は、どこかコンサートホールやコロッセオを思わせる造りをしている。
周囲をぐるりと囲むのは、円形状に配置された石の椅子のような構造物。中央へと近づくにつれ、階段のように段差が沈み込んでいく。その形状が、不気味なほど整然としていた。
まるで審判の場のように静まり返っている。
その異様な構造の中心――沈み込む階段の底には、一点だけ光が降り注いでいた。
それは迷宮の天井、暗闇の奥に輝く赤い星からの光。
空間の中心部分だけを照らすように、まるでスポットライトのごとく、静かにその場を照らし出している。
「ここが、迷宮の中央部か……」
蓮は周囲を見渡しながら、唖然と呟いた。
閉塞感のある迷宮とは違い、ここには不気味なほどの静寂と広がりがある。まるで、何かが始まるのを待っているかのような空気だった。
一方、璃奈はせわしなく辺りを見渡し、何かを探している。
やがて、探し求めているものがそこにないことを悟ったのか、えらく深いため息をついた。
「優斗君はまだ来てないんだ……」
「……」
もはや何も言うまい。
蓮は反応しないように口を固く閉じていた。
何かの拍子に彼女の狂気が溢れだして宇宙猫顔を晒すことになるのは勘弁だったから。
「よし。それじゃあ、暫くここで待つか? 先に脱出して唯たちを取り残すことになってもまずいだろうし」
「そうだね。ここで優斗君を待とう」
断固として恋人の名前しか出さない璃奈のことを自然とスルーできるようになった蓮は頷いて、長椅子のようになっている地面に腰を下ろした。
未だに霊力を上手くコントロールできない彼の体力と身体能力は一般人の域を超えておらず、ここまで歩き詰めで疲労が蓄積していたのだ。
一方、璃奈は全く疲れていないのか。或いは、それどころではないのか。
銃を仕舞わないまま周囲を見渡してずっと待ち人を待ち続けている。
放置していれば、何時間でもその場でじっと待ち続けそうな彼女を見て――蓮は溜息をついた。
「なぁ、璃奈。取りあえず座ったらどうだ? そこで忠犬ハチ公みたいに待ち続けても、地藤は逆に重く感じるだけだと思うぜ?」
「……人を犬扱いとは、失礼な人だね」
睨みをきかせながら答える璃奈。しかし、そのまま動く気配はない。
蓮は肩をすくめ、説得を続ける。
「そう邪険にするなよ。男としてアドバイスするが、女の子をずっと待たせていたなんて、男側からしたら罪悪感が凄いんだぞ。だから、余裕そうにくつろいでいた方が向こうも安心すると思うんだけどな」
「そういうものなのかな?」
「そういうもんだって。『待たせちゃった?』『ううん。今来たところ』――って会話、ドラマとかでよく見るだろ?」
「……確かにそれはそうかも」
璃奈としては、地藤に気を遣わせることは本意ではない。
彼には、自由気ままに生きていてほしいから。
そうやっている姿が好きだから。
「おっ、どうやら俺の提案を有益なものだと判断してくれたみたいだな」
「優斗君に気を遣わせるわけにはいかないからね。ありがとう。ためになる意見だった。今後の参考にさせてもらうね」
男心を理解できた気になった璃奈は礼を言いながら蓮の隣に腰かけた。
二人は赤い光が降り注ぐ迷宮の中央を見つめながら暫しの休憩と洒落こむ。
「――なぁ、璃奈」
黙って中央を見つめていた蓮だが、ふいに意を決したように口を開いた。
「なに?」
璃奈は相変わらず視線を周囲に向けながら聞き返す。
まるでこちらに意識を割いてくれない彼女に苦笑しながら、蓮はそっとその言葉を紡いだ。
「――好きだ」
突然紡がれた告白の言葉。
周囲を見渡していた璃奈は最初、言葉の意味が分からず適当に受け流して――しかし、その言葉に乗せられていた熱に気が付いて、目を見開いた。
ゆっくりと蓮の方を向く。
ようやくこちらを見てくれた紫色の瞳を見つめながら、蓮はもう一度その思いを言葉にした。
「君のことが、好きだ」
きっと、初めて出会ったあの夜から、そうだった。
病院での死闘。
学校での姿。
大好きな彼氏がいると分かっていても。
狂気的な姿を目にしても。
その思いに揺らぎはなかった。
「――――」
璃奈は驚きのあまり、珍しく間抜けな表情を晒して――しかし、すぐに姿勢を正した。
そして、真摯な視線で蓮と向き直った。
これから何を言われるのか、蓮は察している。
だが、それでも自分自身に決着をつけるために、一字一句逃さないために耳を澄ませた。
「
鈴が鳴るような美声が紡いだのは、謝罪の言葉だった。
蓮の予想通りの、言葉だった。
「私、好きな人がいるの。だから、貴方の気持ちには応えられない」
迷いなんて微塵もない。
相手に期待させることもない。
だが、冷たいわけではなく、相手に真っ直ぐに向き合った返答。
いっそ、気持ちがいいまでの振り方だった。
「そっか……そうだよな」
蓮は苦みを含んだ笑みを浮かべ、そっと項垂れた。
分かっていたことだった。
覚悟はしていたつもりだった。
だが――どれほど準備をしていたつもりでも、いざ真実を目の当たりにすると、どうしようもない失恋の痛みが胸に走る。
しかし、その一方で蓮の心はどこか晴れやかだった。
「……ごめんな、璃奈。いきなりこんなことを言って。でも、お陰様で吹っ切れたよ」
そうだ。モヤモヤ悩んでいるなんて、自分らしくない。
あまりにも真っすぐすぎる彼女と、自分への劣等感から捻じ曲がりかけていたが、蓮はようやく自分を取り戻せた。
「十六夜君が満足しているならそれで構わないけど……」
璃奈は何が何だかさっぱり分からないと言いたげな表情で困惑している。
一人、己に決着をつけた蓮は笑った。
「あぁ。もう、大丈夫だ。これで、前に進める」
いつだってそうだ。
白か黒かをハッキリつけて、前に進んできた。
今はかなり辛いけれど、答えは出たのだから、それに向き合って先に進もう。
晴れやかな表情で蓮は顔を上げて――その表情を引き締めた。
「……どうやら、休憩は終わりらしいな」
「そうみたいだね」
静かに立ち上がる。
璃奈もまた銃剣を手に立ち上がり、その銃口を中央へ向けていた。
『やれやれ……面白い見世物が見られると思っていて期待しながら鑑賞していたというのに、下らない三文芝居を見せられることになるとはな』
「あなたに言われたくはないかな――血の大公ヴォルフェンハイト」
中央の空間に突如出現した貴族衣装の男。
璃奈たちをこの迷宮に引き込んだ元凶。
上級悪魔に相応しい威厳と魔力を纏いながら、血の大公は邪悪な笑みを浮かべた。
「顔はいいのに、中身は狂犬のような女だな、天羽璃奈。――大事な母親をあっさりと殺しただけのことはある」
「偽物の、が抜けているわよ」
分かりやすい挑発を無表情で淡々と受け流す璃奈。
大公は嘲笑するような笑みを浮かべた。
「だが、全く同じ姿をしていたことに変わりはあるまい?」
「姿形を似せたところで、本物には遠く及ばないわ。それに――」
璃奈は紫色の瞳に狂気に等しい力強い輝きを宿し、悪趣味な遊戯に耽る悪魔を睨みつけた。
「――私が大事なのは、ただ一人だけよ」
この悪魔と言葉を交わす価値など微塵もない。
璃奈は躊躇なく引き金を引いた。
発射された無数の弾丸が血の大公目掛けて殺到する。
初級悪魔を一撃で屠り、中級悪魔も制圧する破魔の弾丸は血の大公に直撃し――
「くだらん」
腕の一振りで数十発の弾丸が全て消滅した。
「なっ――」
璃奈の弾丸の強さを知っている蓮が驚きの声を上げる。
一方、自身の弾丸を容易く防がれた璃奈は冷静だった。
「そう簡単にはいかないか……」
相手は恐らく上級悪魔だ。
璃奈が天賦の才を持つエクソシストであったとしても、若年の身で楽に倒せる相手ではない。
厳しい戦いになることを予見しながらも、銃口を構えて霊力を体内で練り上げる。
血の大公は無駄な抵抗を試みる少女を見て、鼻で笑った。
「今の攻防で力の差は理解しただろう? だというのに無駄な抵抗を試みるのか?」
「生憎と、この程度で諦めるほど物分かりがいい女じゃないの。それに――あなたより死王女を相手にした時の方が、ずっと絶望的だったわよ」
「ッ!」
大公の顔が歪む。
死王女――“四騎士”が一人。
嘗てその地位に焦がれていた。
悪魔王に次ぐその気高い勲章を手に入れたいと願っていた。
だが、どれほど研鑽を重ねようとも手が届くことはなくて――
「……フン。つまり、絶望が足りないということか。よかろう。であれば――」
璃奈の言葉が逆鱗に触れたのか。
血の大公は目の色を変え、両腕を広げた。
自らの領域を誇るように、劇場のような迷宮の中心を見渡す。
「俺も
言葉と同時に、床がわずかに震えた。
迷宮の石壁が脈動するように、血のような紅い輝きを発し始める。
まるで血管のように。
この迷宮自体が生きた動物のように、鼓動する。
主の命を受け、心臓へ血液を送る。
「ここまでたどり着いたのであれば、もはや亡者共は不要であろう? であれば、その魔力を全てこの俺に収束すれば――どうなるか、後は分かるな?」
「ッ!」
大公の意図に気が付いた璃奈が必死に銃弾を放つが、大公が展開する防御魔術に阻まれて傷をつけることも叶わない。
「ハハハ! さぁ、絶望するがいい! エクソシスト! これから貴様が立ち向かうのは、この迷宮そのものだッ!」
迷宮の中央に君臨する血の大公。
彼へと血液のように送り込まれてくる膨大な量の魔力。
それは、彼が語った通り、亡者たちが消滅した際に還元される魔力だった。
一体一体が抱える魔力量など、取るに足らないほど小さい。
だが――その数は膨大。
塵も積もれば山となる。
無数の亡者が消え、その魔力が収束することで、大公は今――まさしく「巨山」となった。
その変貌は、視覚的にも明らかだった。
身に纏う魔力の奔流に応じて、大公の姿は徐々に異形へと変わっていく。
赤く染まりゆく肌。黄金の瞳は、瞳孔が縦に割れ、獲物を狙う爬虫類のように鋭く光る。
人間の形を保っていた体躯は膨張し、衣装を突き破るほどに肥大化する。
そして――その背から血に濡れた巨大な翼が広がった。
蝙蝠のような形状を持ちつつ、その皮膜はボロボロに裂け、滴り落ちる血が石の床に染みを作る。
正しく化け物そのものといえる姿に変貌した大公は、その長い舌で下品に舌なめずりをすると――喉の奥から響くような、低い声で笑った。
『――この姿になるのも久しぶりだな。簡単に潰れてくれるなよ? 蟻どもッ!』
魔力が渦巻き、暴風となって璃奈たちに叩きつけられる。
攻撃ですらない威嚇行為ですらこの範囲と威力。
璃奈は恐れで身体を硬直させる――ことはせず、冷静にその場から飛び出して腰を抜かし掛けている十六夜蓮を抱き上げた。
「璃奈⁉」
「一旦逃げるよ。このままじゃ、勝ち目がない」
一瞬で己と悪魔の戦力差を判断した璃奈は撤退すべく、迅速に動き出した。
ここには命を懸けて守り抜かなければならない“彼”はいないのだから、余計な戦いで死んでしまう方が問題だ。
璃奈は的確な判断で撤退を選択する。
だが。
『この俺が用意した劇場から、演目中に逃げ出そうとはいい度胸だ。――もっとも、そのような無礼、許すつもりはないがな』
璃奈は脚を止めた。ここへ続いていた道が、いつの間にか出現していた壁に覆われていた。
「出口が……!」
璃奈に抱えられた蓮が絶望的な状況に悲痛な声を出す。この壁を無理やり破壊するしかここから脱出する手段はない。
しかし――
「ッ!」
強烈な殺気を感じた璃奈は蓮を抱えたまま咄嗟にその場から飛び退いた。
先程まで彼女がいた場所に現れた赤い怪物が右腕を振るい、壁を粉々に破壊した。
『ほう? なかなかいい動きをする。蟻というよりは、蝶だったか』
怪物に変貌した大公はその身に似合わぬ敏捷性を発揮させながら、長い舌を出して捕食者の笑みを浮かべた。
璃奈はさらに後ろへ飛び退いて距離を稼ぎつつ、大公の後ろにある出入り口の壁を見た。
大公自身の腕力によって粉々に破壊された壁はしかし――即座に時間を遡るように再生され、元の形に戻った。
(修復能力は相当なものね。あの壁を超えるには、破壊した後、すぐに通り抜けなければならない。だけど、私の攻撃では人間が通れるだけの穴を空けられるかどうか……)
それこそ、身体が“霧”になるような異能を持っているなら可能だろうが、璃奈にも蓮にもそんな力はない。
(ここから脱出することは不可能に近い。なら、優斗君が来てくれるまで持ち堪えるしか――)
『考え事をしている余裕があるのか?』
「ッ! 十六夜君、ごめん!」
「えっ? ――うわぁ⁉」
璃奈は謝りながら十六夜蓮を腕の中から投げ飛ばした。
間抜けな声を上げながらも、従来の運動神経を活かして上手く受け身を取った蓮は顔を上げる。
余裕がない声で蓮を投げ飛ばした璃奈は、大公の丸太のように太い腕を銃剣をクロスさせて何とか受け止めていた。
受けた衝撃で地面に罅が入り、璃奈の全身に悲鳴が走る。
何とか歯を食いしばりながら耐える璃奈だが、力の差はあまりにも歴然だった。
『非力だな。やはり、ただの小娘か』
「ぐっ――」
退屈そうな声を上げながら、大公はその脚を振るった。
腕をガードするために両腕を上げている璃奈の無防備な胴体に肥大化した脚部が突き刺さる。
あまりの衝撃で悲鳴を上げることもできないまま、璃奈は弾丸のように弾き飛ばされた。
「璃奈ッ!」
バウンドすることもないまま、彼女の身体は思い切り壁に叩きつけられた。
衝撃で目が見開かれ、口から血が零れる。
壁に叩きつけられた璃奈の肢体がズルズルと壁から下がり落ちて――
『人間は脆いな。だが――』
「がっ!」
一瞬で接近した大公にその首を掴まれ、地面に崩れ落ちることも許されずに宙へ吊るされた。
「あっ……ぐ……」
意地で銃を取り落とさなかった璃奈は呼吸がしづらく霞む視界の中で、必死に腕を持ち上げてその銃口をここまで接近してきた大公の顔面に向ける。
だが、抵抗虚しく、彼女の銃は蝿でも払うようにあっさりと大公の片手に叩かれて地面に落ちた。
『――貴様もあそこの小僧程ではないが、なかなか芳醇な霊力を持っているではないか。前菜としては十分といえよう』
「う、ぐ……」
掌の中にあるか弱い命の鼓動を感じながら、大公はようやく空腹を満たせそうだと満足げに嗤った。
大公の中には完璧なプランがあった。
まずはこの少女を徹底的に痛めつけて絶望を味わわせ、肉と霊力の味を底上げさせる。
それからこの霊力を絞りつくし――最後にあのメインディッシュの少年を平らげる。
これ以上ない完璧なプランだ。
これでこそ、苦労しながらこの二人を誘導してきた甲斐があるというもの。
目の前に並べられた高級食材を前に舌なめずりしていた大公だったが――
「璃奈を離せッ!」
『むっ?』
勝ち目などないだろうに、勇猛果敢に突撃してきて、地面に落ちていた璃奈の銃剣を大公の腹部に突き刺した餌に顔を顰めた。
ゆっくりと見下ろす。決して折れることを知らない蒼穹の瞳が大公を睨みつけていた。
気に食わない。
餌の分際で。
家畜の癖して、上位者を睨みつけるとは。
『身の程を弁えろ、小僧。貴様は後だ』
「がっ――」
大公は食事の邪魔をしてきた虫を見るような目で、蓮のことを片手で打ち払った。
彼からすればそれなりに手加減をした一撃だったが、霊力で己の身を強化することも知らない蓮からすれば致命的な一撃である。
顔面を叩かれた蓮は、何度も地面をバウンドしながら、広間を転がっていく。
動きが止まった時、彼の意識は飛んでいた。
医者に診てもらうまでもなく、重症である。
だが、生きているのなら問題ないと割り切り、大公は未だに無駄な抵抗を試みる璃奈に視線を戻した。
『さて、最後に何か言い残すことはあるか? 小娘。まぁ、その様子では言葉を発することなどできないだろうがな! ハハハ!』
「ぐぅ……」
必死に。見苦しいと言われようとも必死に、璃奈は生き残る為の抵抗を続けていた。その腕で大公の腕を叩き、引っ掻き、何とか“解放”が出来ないかと霊力を体内で循環させようとする。
だが、苦痛と酸素不足で上手く霊力を回すことができず、彼女の意識は徐々に遠のき始めていた。
(ゆうと、くん……)
最後を迎える時に考えるのは、やはり彼のこと。
走馬灯のようにこれまでの記憶が巡る中――不意に、前にもこんなことがあったことを思い出した。
そうだ。あれは確か、病院での出来事だ。
死王女に死の間際まで追い詰められた時。
あの時も、璃奈は死の足音を聞いて彼のことを考えていたのだ。
ここまでくると病気だな、と璃奈は不思議と時間がゆっくり流れる空白のような時の中で苦笑した。
だが、悪い気はしない。
幸せな記憶の中で死ねるなら、そう悪い結末ではない筈だ。
残念ながら、今回ばかりは彼も間に合わないだろう。
あの壁は修復速度が極端に速く、仮に破壊出来たとしても人が通ることは出来ない。
完全に詰んでいる。
――だが。
それでも、心の奥底の璃奈は言っていた。
彼なら。
璃奈の彼氏なら、何とかしてくれるんじゃないかと。
あの人なら、きっと。
だから――
「ゆ……う、と……くん」
呼べば彼が来てくれる気がして、璃奈はその名を呼んだ。
しかし、その声は冷徹な悪魔の嘲笑とともに掻き消される。
血の大公は鼻で笑い、璃奈の細い首を片手で握り潰すように掴んだ。その強靭な指が、容赦なく彼女の腕をも捕え――。
『まずは右腕からだ。良い悲鳴を奏でろよ? 女』
ギチギチ、と嫌な音が響く。
骨が軋み、血管が締め付けられ、皮膚が引き裂かれる寸前――。
その時だった。
轟音。
迷宮の壁が破壊された。
分厚い石壁が爆砕し、瓦礫が四方に弾け飛ぶ。しかし、すぐさまその傷口を塞ごうとする迷宮の修復能力――その隙間を、人ならざる“霧”が滑り込んだ。
大公の劇場に侵入する二つの影。
それは銀と、黒の霧だった。
一つの奔流として重なり合いながら龍のように現れた霧は、勢いもそのままに血の大公へ一直線に襲いかかった。
『なにっ――』
突然の乱入者に思わず手を止めて視線を向ける大公。
巨大な龍のような霧の正体を悟った彼は想定よりも早い到着に目を見開く。
その脅威を知るが故、大公は璃奈から手を離し、その腕を霧に向かって振るい――
「――僕の彼女に、何をする」
凍てつくような声音と共に、黒霧の中から突如実体化した少年が強烈な蹴りを大公の顔面に叩き込んだ。
『ぐっ――』
圧倒的な衝撃に踏ん張りが効かず、大公はたまらず後退する。
しかし、それで終わりではない。
銀霧が実体化し、その手に握る銀色の刀が鋭く閃く。
「奇遇ですね、大公。こんなところでお会いすることになるとは」
刃を振り下ろしながら、不敵に微笑む赤い瞳の少女。
『霧島レイ……!』
血の大公は歯噛みをしながら腕を掲げ、その刃を防御する。
だが、銀霧の少女は怯むことなく追撃を仕掛ける。
血の大公と銀霧のエクソシストの戦いが火花を散らす中――。
黒霧の少年は、地面へ落とされかけた璃奈を、寸でのところで抱きとめた。
腕の中に、優しく――けれど確実な力で。
その胸の鼓動が、戦場の緊迫した空気の中に確かに伝わる。
元の黒い瞳から変貌した紅玉のように赤い瞳で、彼は腕の中の彼女を見つめた。
「……ごめん。待たせちゃったね」
その声を聞き、璃奈は歓喜で打ち震えた。
やっぱり――彼は来てくれる。
何があっても、必ず璃奈のところへ駆けつけてくれる。
ゾクゾクと心の奥底から湧き上がってくる形容しがたい感情に、身体が震える。
その身に纏う黒霧と、赤い瞳についてはまた後でじっくり聞かせてもらうとして――璃奈は、この再会を心の底から喜んだ。
「ううん……今、来たところだから」
蓮に教えてもらったアドバイスを忠実に実行しながら、璃奈は家に帰って来た少女のように微笑んだ。