世界の為に推しとの恋愛を諦めようとしたらヤンデレ化された件 作:赤坂緑語
霧島レイと血の大公の戦いは、苛烈さを増していた。
銀閃の刀と赤黒い腕が火花を散らし、交錯するたびに空間そのものが軋むような衝撃が走る。
一見すれば、霧島レイが押しているように見える。
剣技に冴えがあり、銀霧の奔流をまとったその姿は美しくすらある。
けれど、大公の底知れぬ気配は揺るがない。
どこか余力を感じさせるその姿に比べ、レイの表情には焦燥の色が滲んでいた。
霧島レイは完璧な“原種”にはまだ至っていない。
幾重にも重ねた修練と覚悟の剣で必死に拮抗を保っているが、ひとつの隙で均衡は崩れるだろう。
僕はその様子を見て静かに立ち上がった。
「璃奈、ごめん。ちょっと移動するよ」
僕の腕に抱かれた璃奈は、わずかに瞬きしたあと、何も言わずコクリと頷いた。
その頷きには、一片の疑いもなかった。
まるで呼吸のように、彼女は自然に地藤に体重を預けた。
――信じている。すべてを、任せている。
僕はその想いを受け止めたまま、すうと黒霧へと姿を変えた。
璃奈の身体を内側で守るように覆いながら、音もなく宙を滑るように移動し、気絶して倒れていた十六夜蓮を軽々と回収する。
そして、迷宮の壁際、ひとまずの安全圏へと到達し、そっと霧化を解いて二人を地面に降ろした。
「よし。これから傷を治すから、じっとして――」
「うぅん。私は大丈夫だから、行って」
“悪魔の屁理屈”と吸血鬼の血を用いた二重技で璃奈と十六夜蓮の傷を治そうとしたが、璃奈は僕の考えを読み取ったように首を横に振った。
「私と十六夜君の傷は、私が治せるから。優斗君は――あそこに加勢に行って」
「だけど――」
言いかけた言葉を、璃奈が遮る。
その紫の瞳が、静かに、けれど鋭く見つめてきた。
「……あの大公、かなり厄介だよ。銀色の人だけだと多分、勝てない。だから……優斗君の力が、必要だと思う」
“銀色の人”――レイの方を一瞥しながら、そう呟いた璃奈の表情に、一瞬だけ陰がさした。
けれどその想いを胸の奥へと押し込め、璃奈は真っすぐに顔を上げた。
彼女の瞳はもう、迷っていなかった。
「だから、行って。――この世界は、優斗君がいなきゃダメなんだから」
「璃奈……」
彼女の言葉は静かだった。
けれどその一言には、すべてが詰まっていた。
僕に対する信頼。
そして、僕にしかできない役目への理解。
――それでも、彼を手放す寂しさも確かにあった。
服の袖を、小さくつまむ指先。
ほんのわずかな躊躇がそこに込められていた。
けれど、璃奈は「行って」と言ったのだ。
強さと優しさを同時に宿したその言葉を、僕は真っ直ぐに受け取った。
彼女の覚悟に応えるために。
僕は、力強く頷いた。
「分かった。ちょっくら、あの大公をぶっ飛ばしてくるよ」
「うん。頑張ってね。傷を治したら私も後から行くから」
「いやいや、璃奈の出番はないよ。――僕が、全部終わらせるから」
不敵に微笑んで見せてから、立ち上がる。
ちょっとはカッコつけられただろうか?
僕は袖から取り出した柄から刃を出現させ、真っ直ぐに彼女を見つめて告げた。
「行ってきます」
「うん。行ってらっしゃい」
柔らかく微笑んだ璃奈の声援が身体に染み渡る。
僕は頷き、後ろにいる大公に立ち向かうために一歩を踏み出そうとして――
「――あっ、その黒霧と赤い眼については全部終わった後にきっちり聞かせてもらうからね」
身の凍るような声で告げられた死刑宣告に足を止めた。
ブリキ人形のようにぎこちなく振り向いて璃奈を見る。
彼女は微笑んでいた。
それはもう、美しい笑みを浮かべていた。
問題があるとすれば、目にハイライトがなく全く笑っていない点と、全身から発せられている絶対零度のオーラだろう。
そういえば、過去まで飛んだあのドタバタのせいですっかり忘れていたが、僕の目は赤く染まっていたのだった。
おまけに、すっかり使い慣れて馴染んでいたが、黒霧まで纏っている。
しまいには、敵対していたはずの霧島レイと仲良くダイナミックエントリーをブチかます始末。
スリーアウト。
バッターチェンジ。
キル確定だった。
「こ、ここここれは、その……」
別に動揺なんてしていないが、ちょっとだけ呂律が回らず、変な日本語が口から飛び出る。
両手をせわしなく動かしながら、何とかいい感じの説明を試みる僕に対し、璃奈は小首を傾げた。
「返事は?」
女王のような威厳を纏い、すっと小首を傾げるその様子は、まさに氷の女王。
忠誠の証を求める王の裁きのようだった。
もちろん逆らえるはずもない。僕は犬なので。
「はい」
僕は顔を青くしながら、悪魔よりも怖い彼女に背を向け、この戦いの後に待ち受ける修羅場に胃を痛めながら、慌てて地面を蹴った。
♰♰♰♰♰ ♰♰♰✜♰♰♰ ♰♰♰♰♰
銀色の少女と、赤の悪魔が交錯する。
剣と拳が轟音を巻き起こし、迷宮の中央に火花が弾けた。
幾度目かもわからぬ激突の末、斬撃と肉の衝突がせめぎ合い、霧島レイと血の大公は鍔迫り合いの体勢に入る。
距離は呼吸ひとつ分。互いの瞳が、むき出しの殺意をぶつけ合っていた。
『フン、裏切り者の気狂い女が――騎士の真似事とはな』
喉の奥から唸るように、血の大公が嘲笑を吐く。
その口元には余裕すらある。あくまで、精神的優位を取り戻そうという意図だった。
レイは刀を離さず、その瞳に怒りでも羞恥でもない、冷えた決意の色を宿らせていた。
「……裏切ったことについては申し開きのしようもない」
静かに、低く。
過去の業を認めるその声音には、言い訳が一切なかった。
「確かに私は、己の望みを叶えるためだけに妄信的になりすぎていた。あなたにも、不誠実だった。謝罪する。だが――」
鍔を押し返し、レイは一気に力を込めて大公の腕を払う。
後退する大公へ、刃の切っ先が突きつけられた。
「――ユウの死に際を見世物にするかのようなあの演出。あれを許すわけにはいかない」
『ハハハ! 何を言い出すのかと思えば、そんなどうでもいいことで怒るのか⁉ 過去を振り切ったのかと思ったが、貴様は何も変わっていないな、霧島レイ。貴様は一生、過去に縛られながら生きていく他ないのだ』
「いや、それは違う」
血の大公の嘲笑を、レイは真っ向から切って捨てた。
迷いのない赤い瞳が、大公を真っすぐに射抜く。
「過去には既に決着をつけた。私はただ、“誇り”を守りたいだけだ。弟と、私。そして、私の主の誇りを」
己の決意を改めて口にし、霧島レイは刀を構えた。
「覚悟してもらおう、大公。貴方の悪趣味な演目もここで終わりだ」
『……フン、フラフラと彷徨っていた小娘が夢から醒めたか』
今の問答で既に霧島レイから付け入る隙が消えていることを悟った血の大公はつまらなそうに舌打ちをした。
折角の面白い玩具だったというのに、つまらない結末を迎えてしまったようだ。
『であれば、仕方がない』
残念そうに呟き――大公は鋭い牙を剥いて嗤った。
『夢の後に待つ、過酷な現実を思い知るがいい――!』
血の大公が膨れ上がった脚で地面を穿ち、その巨体が空気を切り裂いて突進する。石床が砕け、迷宮が揺れた。
レイは即座に霧へと姿を変える。
その身を銀の流れと化し、寸前で悪魔の一撃をすり抜けるようにして背後へ回り込む。
そして、流れるように実体化。
振り抜かれた斬霞刀の一閃が、大公の首筋を正確に斬り裂いた。
血が奔る。噴き出すように。滝のように。
だが――。
「ッ!」
レイは直感に突き動かされるように、その場から飛び退いた。
ほんの一瞬の判断。
『ほう? なかなかいい勘をしている』
大公が低く笑った。
噴き出したはずの血液は、重力に逆らい、空中で這うように形を保っていた。
まるで、意志を持つかのように。
それ自体が、武器と化していた。
もしレイがあのまま斬り込んでいたら――顔面の半分を持っていかれていただろう。
「厄介な……」
刀を構え直し、息を整えながらレイは呟いた。
あれほどの出血すらも、武器として制御する。
それがこの悪魔の真骨頂。
しかし、大公に勝つには、こちらも攻めるしかない。
霧で逃げ続けるだけでは、この戦いは終わらない。
(……肉を切らせて、骨を断つ。他に道はないか)
レイの体内で、銀の力が脈打つ。
斬霞刀に霊力を集中させ、刃に走る霊子が音を立てて軋む。空気が震える。
その一撃は、自らの回復力を信じた上での決死の斬撃。
化物である自分だからこそ放てる、命を削った一撃だった。
(出し惜しみは――しない!)
刀を携えたままレイは霧と化す。
銀色の幻影が空間を揺らしながら接近する。
その気配を捉えたかのように、大公の口元がわずかに吊り上がった。
嫌な笑みだった。爬虫類のそれに近い、残酷な確信の笑み。
「ッ――!」
レイの背筋に、悪寒が走る。
だが、もう止まれない。
目の前で、大公が自らの手首を爪で裂いた。
紅い血飛沫が空中に舞い、意志を持った刃となって形成され――霧が晴れるその“瞬間”を狙い撃った。
避けられない、罠だった。
「後ろ、がら空きだよ?」
その瞬間。
黒い閃光が割り込んだ。
黒霧の疾風。
気配を断ち、空間を突き破って現れた地藤優斗が、その足で悪魔の顔面を捉える。
鈍い音と共に、大公の巨体がわずかに傾ぐ。
血液の刃が軌道を逸れ、レイはわずかな猶予を手に入れた。
「先輩!」
「承知!」
以心伝心。地藤の意図を正確に読み取った霧島レイは溜め込んだ霊力を開放し、祓魔器を振るった。
『おのれ……!』
血の大公は自身を両断しうる刃を前に歯噛みをし――周囲を漂わせていた血液を全て破棄してその場で赤い霧へと変貌した。
実体から霧へと移行するその狭間。
レイの刀がその身体を掠め――しかし、致命傷には至らず大公は赤い霧となってその場を離脱した。
『地藤、優斗……!』
広間の中央から離脱した大公は少し離れた場所で実体化し、切り裂かれて今にも千切れかけの右腕を押さえながら、地藤を睨みつけた。
『恋人のことは放置して犬の手助けか?』
「何とでも言えばいいさ。何はともあれ、霧島先輩を死なせるわけにはいかないな」
「ユウト……!」
頬を赤くしながら見つめるレイの視線を無視しながら、地藤は心の底からの思いを叫んだ。
「だって……その人がいないと、璃奈に言い訳できないから……!」
お願いします。
一緒にお怒りモードの璃奈に説明をしてください。
そんな、切実な思いがあふれていた。
『……相変わらず、ふざけた奴だ。貴様、本当は悪魔なのではないか?』
「貴様! 我が主に向かって何と失礼なことを言うのだ!」
「その調子です先輩! 失礼な大公の五月蠅い口を塞いでください!」
「承知した!」
『えぇい! クソやかましい犬を従えてますます手に負えなくなってきたな!』
ぼやく血の大公に銀と黒の霧が交互に仕掛けてくる。
息の合った抜群の連携は、主従の繋がりの強さを感じさせる。
回復の聖言を使用していた璃奈がギリッと歯を食いしばり、地藤の背筋に悪寒が走るが、それでも吸血鬼の二人は止まらない。
『チィ! ちんけな吸血鬼風情が調子に乗りよって……! あまり舐めるなッ!』
勢いに乗る吸血鬼たちに対し、大公は憤怒を露わにしながら魔力を放出した。璃奈を一瞬で行動不能に陥らせたように、彼は悪魔の中でも確かな実力を持つ“上位悪魔”である。
霧島レイと地藤優斗は強いが……それでも、生命体としての格の違いは存在している。
放出された赤黒い魔力に踏ん張りが効かず、二人は思わず弾き飛ばされた。
『貴様らは餌だッ! 身の程を教えてやろうッ!』
人間どもの醜態を楽しむ前菜は終わった。
血の大公は空かした腹を満たすべく、調子に乗っている家畜たちに向かって宣告する。全身から膨大な量の魔力を放出しながら、剣を構えている地藤へ急接近した。
大きく振りかぶられた腕を見ながら、地藤はすぐに黒霧へと変貌した。
大ぶりの一撃を躱し、すぐにカウンターを撃ち込む腹つもりである。
大公の腕は空を切り――
「がっ⁉」
黒霧となっていたはずの地藤の顔面を捉え、彼の身体を大きく殴り飛ばした。
「ユウト――!」
霧島レイの悲鳴が響く。地藤は何度かバウンドした後、壁に叩きつけられた。
『馬鹿め! 霧化が無敵の能力と勘違いしたのか?』
大公の嘲笑が響く。地藤はすぐに殴られた箇所を回復させ、立ち上がりながら黒霧を纏った。
「そういえば、霧化を解除する魔術があるんだったっけ? 面倒くさいなぁ……」
原作では使っている描写がなかったが、腐っても上位悪魔というべきか。
霧化する敵に対する術をしっかりと用意していたらしい。
「ユウト! 大丈夫か⁉」
「はい。ただ、少し面倒なことになりそうですね」
優れた敏捷性を駆使してすぐに隣に駆けつけた霧島レイに頷きながら、地藤は再び先程の魔術を行使しながら拳を握る大公を睨みつけた。
「確かに厄介だな。だが、霧化が解除されるというのであれば……霧化を使わなければ良いだけのこと」
実体化を解くためではなく、己の能力を強化するためだけに銀色の霧を身に纏いながら、レイは地藤の隣で刀を構えた。
「つまり?」
「攻撃を全て躱してこちらの攻撃を当てる。それで敵は殺せるはずだ」
「……脳筋ですが、それくらいしか方法はないか」
地藤は溜息をつきながら、剣を構えた。
原作でもそうだったが、血の大公を倒す手段はハッキリ言ってきっちりダメージを与えて彼を殺しきるしかない。
霧島レイと同等か、それ以上の回復能力を持つ彼を殺しきるのはただでさえ至難の業だというのに、有効な回避手段である霧化を封じられたのは痛手だが、泣き言を言っていても始まらない。
霧島レイと地藤は同時に霧を纏いながら飛び出した。
言葉がなくとも互いの意図を悟り、左右に分かれて大公に向かって疾走していく。
『来い! 餌共!』
大公は獣のような笑みを浮かべながら、霧化を無効化する魔術を身に纏った両腕を振り回した。
技術など何もない、純粋な暴力だが、桁違いの魔力が込められたその腕力はそれだけで疑似的な竜巻を起こした。
霧を纏うことで速度が上昇している二人の吸血鬼は素早いフットワークで華麗に竜巻を躱し、同時に左右から襲い掛かる。
『甘いわッ!』
右から突き出された地藤の刃と、左から突き出されたレイの刀。
大公は確実に急所を狙ったその刃を、両手で掴み取って見せた。
真剣白刃取り。がちりと得物を宙で固定され、二人の動きが止まる――ことはなく、レイと地藤はあっさりと得物から手を離し、同時に魔力を纏った蹴りを繰り出した。
レイの蹴りは大公の顔面に。地藤の蹴りは大公の右膝に命中する。鈍い音が響き、大公の巨体がぐらついた。
チャンスだ。
地藤は予備の剣を取り出して大公の心臓目掛けて突き出した。
レイもまた、鋭い爪を伸ばし、大公の顔面を切り裂こうと腕を伸ばす。
――だが。
地藤とレイの攻撃が届くその刹那、血の大公は音もなく赤い霧へと変じ、涼しい顔でその一撃を躱した。
「「ッ!」」
姿を消した標的。
行き場を失った剣と爪は、今や互いの急所を狙う軌道へと向かっていた。
しかし、刹那の判断で二人は霧と化す。
黒と銀、二筋の霧が空気を裂くようにすり抜け合い――味方同士の攻撃を、完璧な連携で無効化した。
そのまま黒銀の霧は一つの奔流となり、空を裂きながら飛翔する。
目指すは空中を縦横無尽に飛び回る、赤い蛇のような悪魔――血の大公。
黒銀の霧は、まるで龍のような形へと変貌し、うねる赤霧の尾を追う。
迷宮の中央、円形の空間。
コロッセオのような石造りの劇場を巨大な舞台に見立て、三つの霧が空中で火花のように激突する。
霧化したままでは魔術も緻密な戦術も使いづらい。
だが、それ故に純粋な機動と反応のみがぶつかり合う、原始的で野性味を帯びた空中戦となった。
疾風のように追い、翻り、裂き、掻き回す。
一瞬でも気を抜けば、喰い千切られかねない距離で、三つの霧はぶつかり合い続ける。
「優斗君……」
璃奈は、下からその戦いを見上げていた。
吸血鬼と悪魔、どちらも常識を超えた存在同士の激突。
眼前で繰り広げられる空中戦に、今の自分が関わることはできない。
悔しさが胸を刺し、銀の霧が黒と絡むたびに妙な胸騒ぎが湧く。
それでも、今は十六夜蓮の治療を優先した。
自分にしかできないことがあるなら、それをするしかない。
三つの霧による空の戦いは、次第に最高潮を迎えていく。
互いに魔力を削り合い、霧が閃きのように交錯する中――最後の交差の後、それぞれの霧が別の方向へと弾かれた。
静かに降り立つ三つの影。
黒、銀、赤。
霧は実体を取り戻し、それぞれの足で、大地を踏みしめた。
『下等な吸血鬼風情が上級悪魔の真似事とはな……!』
「上等な悪魔風情が、吸血鬼と同じ技を使うとは……切羽詰まっているんですか?」
地上に降り立った大公は、苛立ちを露わにしながら霧化を使う二人を罵倒する。
地藤は、まるで相手をあしらうかのような涼しい笑みで斬り返した。
『……随分と霧化に惚れ込んでいるようだが、恋人はほったらかしで良いのか?』
大公は頬を引き攣らせながら、しかし地藤の弱点を突こうと口撃を仕掛ける。
ウィークポイントを突かれた地藤は僅かに顔を顰め――
「大公ってめっちゃ僕のこと気に掛けてくれますよね? もしかして――僕のこと、好きなんですか?」
『ふざけたことを抜かすな!』
「すいませんが、僕には璃奈がいるので、他所に行ってください」
『話を聞いていたのか? 貴様?』
大公の返答を無視し、地藤はニヤリと笑って言った。
「メフィラさんとかおすすめですよ。顔
『……』
思わず黙り込む大公。
地藤は、悪魔のように邪悪な笑みを浮かべた。
「どうしたんですか? えっ、もしかして
言葉の刃が大公の心を抉る。
この上なくコメントしづらい煽りに、血の大公の顔が怒気に染まった。
『……貴様、余程無惨に殺されたいらしいな』
「僕を相手にあまり無駄口を叩かない方がいいですよ。――僕はちゃんと狙ってあなたの地雷を踏みに行きますから」
『貴様、最悪だな……!』
その瞬間、大公の堪忍袋が音を立てて切れた。
咆哮と共に振り上げられた腕から、鋭利な爪が赤黒い閃光を纏って空を裂く。
飛び出した巨大な斬撃――その魔力の波動はただの攻撃ではない。
揺らめく魔術式。
霧化を強制解除する呪が編み込まれていると、地藤は直感した。
「来るよ、先輩!」
「心得ている!」
二人は即座に左右へと跳ぶ。
爪撃が地面を抉る。凄まじい衝撃に、石の地面が裂ける。
――その直後。
「っ――!」
地藤の脚が止まった。原因は背後にある。
敢えて霧化をしなかった地藤を、いつの間にか出現していた亡者が全身を使って拘束していたのだ。
すぐさま霧化して逃れようとする地藤だが、奇策で生み出したその致命的な隙を逃す大公ではなかった。
『死ねッ!』
燃え上がる憎悪の咆哮と共に、赤黒い斬撃が地藤に向けて振り下ろされた。
回避は――間に合わない。
咄嗟に黒霧を盾のように展開し、直撃だけは避けるべく必死に備える。
だが、その黒霧ごと断ち割られるだろう。
迫る斬撃。光と熱と圧力が、空間を裂く。
そのときだった。
「させん――!」
鋼の意志を込めた声が、血風の中を貫いた。
霧を駆ける銀の閃光。
霧島レイが、全速力で駆けつけた。
その身体を地藤の盾とするように、刀を前に翳し、襲い来る斬撃を受け止める。
「ぐぅ……っ!」
身長よりも巨大な魔力の塊。それを真正面で受け止めながら、レイは歯を食いしばる。
押し寄せる衝撃で、足元が食い込むほどに後退させられるが――それでも、膝はつかない。
彼女の背には、主がいるから。
意地と忠義のすべてを武器に変えて、霊力を刃に叩き込み、レイは全身の力を込めて振り払った。
斬撃は裂け、空間に残響だけを残して散った。
だが、油断はしない。
再び刀を構え、反撃の構えに入ろうとしたその瞬間――
『まずは一匹』
背筋を走る寒気。
刃と同時に放たれた赤霧の一部が、空間を滑るようにすり抜けていた。
レイの正面まで接近していた大公の手刀が、深紅の稲妻となって彼女の胴を貫いた。
「――がはっ……!」
裂ける肉。
霧島レイの上体の半分が、黒い飛沫と共に吹き飛んだ。
掌には――彼女の心臓。
脈打つそれを手に、大公は愉悦に満ちた声で告げた。
『心臓を潰せば、暫くは生き返らんだろう。俺が食事を終えるまで、大人しく眠っているがいい』
握り潰す力が、加わろうとした、その時。
『ん?』
大公の全身に、銀の霧が絡みついた。
柔らかく、しかし確実に。
その手に触れていた彼女自身から放たれた霧が、牙のように鋭く、大公の動きを拘束していた。
「……ユウト、今だ」
今にも消え入りそうな声が響く。
上体の殆どを吹き飛ばされ、心臓を握られた状態で――しかし霧島レイはまだ意識を保っていた。
否。自身の膝に刀を突き刺し、無理やり保たせていた。
激痛で気が狂いそうな中、レイは必死に声を絞り出し、己の主に向かって叫んだ。
「わたしごと、やってくれ……!」
『チィ! 無駄な足掻きを……!』
何にも代えがたい、貴重な時間が生まれた。
とはいっても、それは僅かな時間に満たない。
霧島レイは己の全力を尽くし、大公を拘束しているが、数秒後には振り払われて心臓を握り潰されるだろう。
地藤は彼女が命懸けで生み出した時間を無駄にしない為、剣を手に飛び出そうとして――脚が止まった。
考えたのだ。このまま自分がこの剣で大公を切りつけたとして、それは決定打になり得るのだろうか、と。
地藤は自分のことを過大評価していない。吸血鬼の力を手に入れたとはいえ、圧倒的な火力を有しているわけではないことを自覚しているのだ。
だからこそ、考える。
霧島レイが生み出したこの価値ある時間を、本当に自分が有効活用できるのか、と。
考える。
考える。
考える。
極限の状況下で、彼の脳みそがフル回転する。
刻々と迫る絶望的な時間の中、地藤だけがのろまな世界に取り残される。
オーバーヒートしそうなくらいに思考を重ねる地藤優斗。
数秒の間に幾つものパターンを脳内で検証した彼はやがて、一つの結論に辿り着いた。
自分では。自分一人では大公を倒すことは出来ない。
ここで霧島レイを(復活する可能性が高いとはいえ)失うのはまずい。
火力が必要なのだ。
自分だけ生き残っても意味がない。
考える。
考える。
どうすればこの時間を無駄にせずに済む?
託されたこの重すぎる時間を、有意義に使うことが出来る。
自分には、何が出来る?
自問自答する。
考え続ける。
そして――
地藤優斗は自分にしか出来ない一つの結論を導き出した。
『無様に地を這いつくばっていろ! 霧島レイ!』
血の大公は全身を締め上げる銀霧の力に抗しながら、右手に力を込めた。火事場の馬鹿力というべきか。瀕死の女にしては大した力だったが、それでも地力に差があり過ぎる。
じわじわと。しかし確実に、大公の右手は、彼女の心臓を握り潰すべく動いて――
“
『……なに?』
完全に握り込んだ右拳。愉悦で歪んだ笑みを浮かべた大公はしかし、すぐに怪訝な表情で目を細めた。
拳を握り締めた感触が、あまりに“軽い”。
大公は奇妙な感覚に眉をひそめ、掌を開いた。
そこには、あるはずのものがなかった。
赤黒い血肉も、弾け飛ぶはずの組織片もない。
掌は、何事もなかったかのように乾いたままだった。
まるで、最初から心臓など握っていなかったかのように。
「――お探しのものは、これですか?」
困惑している大公を嘲笑うかのような、軽快な声が響く。
顔を上げた大公の目の前には、不敵な笑みを浮かべる地藤優斗がいた。
――その右手に、
何が起きたか分からず困惑している中、彼の腕の中で限界を迎えた霧島レイがその意識を失った。
――吸血鬼の再生能力は、回復ではなく“巻き戻し”に近い。
血と肉と魂を、理屈ごと過去に巻き戻す、再生の理。
“
その理屈を利用するように、地藤は世界に詐欺を掛けた。
大公の腕の中でだらりと意識を失っていた霧島レイの姿がブレる。
ザーッ、ザーッ、と彼女の身体に奇妙な横線が走る。
それはまるで壊れたテレビの画面を見ているようであった。
奇妙なラグは僅か数秒のこと。
次の瞬間、霧島レイはその場に立っていた。
「えっ……」
身体に空けられていた大穴も塞がり、何もなかったかのような状態で、その場に立っていた。
「こ、これは……何が……」
先程まで感じていた激痛もない。
正しく、何かがリセットされたかのような感覚。
レイは首を傾げながら自身の身体を見下ろしている。
『その能力……まさか⁉』
「ご名答。だけど、隙ありだよ」
『ッ!』
レイと同じく困惑していた大公だが、その奇妙な現象に心当たりがあり、すぐに答えへと辿り着いた。
そしてその瞬間、大公が見せた隙をついて密かに接近していた地藤が実体化し、その剣を突き出した。
額目掛けて突き出された剣を咄嗟に躱す大公だが、僅かに反応が遅れたことで右目に刺突を受ける。
『ぐぅ……⁉』
激痛に苦しみながら、しかし大公は全力で腕を振るった。
地藤とレイは咄嗟に霊体化してその攻撃を回避する。
大きく後退した大公はすぐに右目から剣を引き抜き、怒りと共に地面ごと剣を踏み砕いた。
『地藤優斗、貴様ァ……!』
貫かれた右目を押さえながら、憎々しい視線を送る大公。
地藤はニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
「ユウト、これは、一体……」
状況が理解できていないレイは、油断なく刀を構えながら、困惑した表情で隣にいる地藤に先程の現象の答えを求める。
地藤は右手に“心臓”を出現させ、その答えを口にした。
「なに、簡単なことですよ。メフィラが僕にやったのと同じことを、“
――メフィラが地藤に施した契約。
それは、自身の“心臓”を相手に預けることで成立する“不死”。
だが、それはあくまで当事者間の合意によって初めて機能する、“契約”であった。
地藤と霧島レイの間には、同じ契約は存在していない。ましてや、彼女の心臓など握っていたはずもない。
――つい、先ほどまでは。
地藤はレイの方をちらと見やり、少しだけ肩を竦めた。
「霧島先輩と僕は吸血鬼として主従の関係にある。――なら、
地藤は霧島レイの戦闘不能を避けるため、咄嗟に思いついた機転を実行に移した。
“
『霧島レイは地藤優斗に忠誠を誓っている』
『二人は吸血鬼として強く結ばれており、互いに所有権を握り合っている一蓮托生の関係なのだから、当然“心臓”だって握っていてもおかしくないはずだ』
この詐欺により、心臓の所有権は大公の手元から地藤の手元へと一瞬で移動した。
さらに――
『霧島レイは死なない。すぐに復活する。何故なら、地藤優斗の手にある彼女の“心臓”は今も動いているからだ。――この理屈はメフィラとの間で成立しているのだから、今回だって当然アリ、だよね?』
メフィラと地藤の間にある契約を真似することによって、霧島レイの早期復活を後押しさせた。
『おのれぇ……忌々しい能力を……!』
「これ、メフィラさんの能力なんですが、そんな悪口言っていいんですか?」
無邪気なようで狡猾な一撃を、地藤はさらりと返す。
『……』
大公の口が、ぱくぱくと開いたまま止まる。
返す言葉がない。いや、下手に返せば、余計に話をややこしくされることが分かっているからだ。
怒りに震えながらも沈黙を選ばざるをえないその姿は、どこか滑稽ですらあった。
その一方で――
(私の心臓が、ユウトの手に……)
霧島レイは、自身の心臓が確かに地藤の手の中で脈打っているのを見つめていた。
他人に――多大な恩と感謝を抱いている主に心臓を預けているという事実。
嘗て叶えられなかった、己の命を捧げてでも何かを守りたいと願う信念。
それが、物理的な現象を伴って体現されたような気がして――彼女は無意識のうちに頬を赤く染めていた。
「……」
そしてもう一人。
天羽璃奈は、ハイライトが消えた目でその光景を見つめていた。
戦いに参加できない状況の中、自身と十六夜蓮に同時に治癒を掛けながら、ただ黙ってその光景を見ていた。
じーっと、見続けていた。
三者三様の想いが、舞台の中心に立つ一人の少年に向けられる。
地藤優斗は、その視線すべてを一身に浴びながら、不敵に微笑んで見せた。
「さて――続きをやりましょうか」
多分、後から物凄く面倒なことになりそうだけれど。戦いが終わった後に、また別の戦いが待っていることが確定したようなものだけれど。
だけど、それでも。
ここを生き残らないと明日もないわけで。
今は取り敢えず、目の前の戦いに集中することが最善だろう。
「――血戦の続きを、ね」
取り敢えず、大公許すまじ。
地藤は剣を構えた。
現実に向き合うために選んだ、全力の“現実逃避”だった。