世界の為に推しとの恋愛を諦めようとしたらヤンデレ化された件 作:赤坂緑語
天羽璃奈は優等生である。
それも、超のつく優等生だ。
文武両道、才色兼備。
すべてを卒なくこなす万能性を有しながら、穏やかな気質で問題を起こすこともない、生徒の鏡。
……最近は、やや不良化しているというよろしくない噂を耳にすることもあるが、大元の性格は真面目で几帳面な努力家であることは疑いようもない。
あらゆる分野でエリートになり得る素質を持ち、絶えず努力を続ける向上心を備え、規律にも従う――それが天羽璃奈だ。
では――そんな彼女が反転した場合、どういった存在になるのか。
その姿は衝撃的だったので、さすがに覚えている。
というか、今回の反転企画においてメインに据えられていた箇所であるし、そもそも彼女は僕の“推し”なので忘れようがない。
天羽璃奈。
優等生の中の優等生。真面目で、努力家で、博愛主義に満ちた彼女は――
【不良】
一般的には、状態が悪いことを指す言葉。
これが学徒に用いられた場合、素行の悪い生徒という認識になる。
まぁ、定義としては間違っていないだろう。
普段の璃奈は素行がいい――良すぎるくらいに良いのだから、反転すればその逆になるのは必然である。
ちなみに、どんな感じの不良かというと、以下の通りである。
・見た目がチャラくなる。(ピアスじゃらじゃら、濃いめのメイク、露出多めの衣装)
・ダルそうな口調になる。
・向上心がなくなり、ダウナーな雰囲気になる。
……それだけ? って思っただろう。
そう。これだけなのである。
確かに、普段の璃奈の状態を知っていれば、ビックリ仰天するような変わりようではあるが――正直言って、そこまでの衝撃はない。
これは、彼女の根があまりにも善良すぎたのか。
あるいは、制作陣が一番人気のメインヒロインの魔改造をやりすぎるのは良くないと判断し、日和ったのか――。
そこら辺の事情は詳しくないので何とも言えないが、ともかく、原作外伝における璃奈はそんな感じに反転していた。
不良と言い切るには中途半端なその姿から、ファンたちは外伝での彼女をこう評する。
ギャル璃奈、と。
普段とは真逆のファッションに、砕けた口調。
あまりにギャップが激しく、どうして本編でもギャルじゃないのか――と血涙を流す人々が続出したという、外伝の表紙にして盛り上がりのピークを一人で掻っ攫った伝説的なキャラクターだ。
ぶっちゃけ、先ほどは制作陣が日和った説を提唱したが、単純に「ギャルな天羽璃奈」を見たくて作ったんじゃないか――なんて説もある。
実際、立ち絵といい、声優さんの演技といい、やけに気合が入っており、制作陣のコストがどれだけ掛けられているかが目に見えて明らかな存在だった。
僕も最初は衝撃を受け、何度もギャル璃奈が登場するシーンだけ繰り返しプレイしたものだ。
結局、元の璃奈の方が断然良いということに気がついて、すぐに本編に戻ったわけだが。(だから外伝の知識が薄いんだろうな……)
「ギャル、か」
この世界の異変についてもっと情報を集めるため――なんて、それらしい大義名分を並べてはみたものの、正直なところ、僕がこうして天羽邸にまで足を運んだ理由は、ただ一つ。
生のギャル璃奈を拝むためである。
いや、だって仕方ないだろう。
ギャル璃奈だぞ?
あの天羽璃奈が、ピアスじゃらじゃらで、濃いめのメイクで、露出多めの服を着て、ダルそうな口調で「マジだる〜」とか言ってるんだぞ?
そんなの、見たいに決まってるじゃないか。
僕は絶対的に元の璃奈の方が好きだ。
それは揺るがない。
真面目で、努力家で、博愛主義で、エクソシストとしても優秀で、何より僕の“推し”として完璧な存在。
それでも――それでもだ。
好きな人の別側面、それもギャル形態を見られると聞いて、興奮しない彼氏がいるだろうか?
いや、いない(反語)。
ギャル璃奈特有のダウナーな雰囲気。
仮にこの世界でも僕への好意が変わっていないとしたら、「優斗遅いじゃん。寂しかったんだけど。とりま、チューする?」みたいなシチュエーションが拝めるかもしれないわけだ。
フッ、最高じゃないか。
素晴らしいじゃないか。
パーフェクトだ。
是非見てみたい。
いや、見せてください。
お願いします。
神様、仏様、制作陣様。
僕はワクワクしながら、開いていく扉を見守る。
今、扉の向こうからダウナー璃奈が姿を現そうとしている。
そうして、扉が開き――
「はーい。どちら様ですか?」
その時に受けた衝撃は、この世界に来た中でも最上級のものだった。
丁寧な口調からして、一瞬――ほんの一瞬だけ、ギャルに反転していない璃奈が現れたのかと思った。
彼女はどこの世界でも変わりのない、唯一無二の存在なのかと思った。
だが、そんなことはなかった。
そもそもにおいて、そこにいたのは天羽璃奈ではなかったからだ。
そこにいたのは――
「……すいません。どちら様ですか?」
マジで知らないおばさんだった。
♰♰♰♰♰ ♰♰♰✜♰♰♰ ♰♰♰♰♰
反転と屈折の世界。
超絶美少女である天羽璃奈が、反転と屈折によってその存在を捻じ曲げられた結果、ただのおばさんになってしまったのか――なんて超推理が一瞬だけ脳裏をよぎったものの、そんなことはなかった。
「私は遠江惟子と言います。えっと、あなたは……」
「……あっ、地藤優斗と言います」
マジで知らないおばさんが、マジで知らない名前を名乗る。
一拍遅れて、僕も自分の名を名乗った。
「地藤優斗君……あぁ、もしかしてあなたが……」
しかも、何やら僕のことを知っていそうな雰囲気だ。
これはあれかな? ギャル璃奈が応対するのも面倒臭がった結果、この見知らぬおばさんが駆り出された感じかな?
確か外伝でもこの人は見ていないが、もしかしたら怠惰を極めたギャル璃奈が新たに雇ったのかもしれない。
「えっと、貴女は……?」
「私は、璃奈の叔母です」
「あぁ、なるほど」
家政婦さんではなく、身内の方でしたか。
まさか、ここに来て親戚登場とは予想もしていなかった。
だけど、親戚が来ているのであれば、家の中でダラダラとだらけているのかもしれないな。
ギャル璃奈はとにかく(オシャレ以外は)面倒くさがり屋だから。
――いや、もしかしたらその逆をついて外出中なのかもしれない。
ギャル璃奈はとにかく直感で動くので、行動パターンが読めないのだ。
急に出掛けたくなって、このおばさんに留守を預けてふらりと夜遊びに出ている可能性もある。
であれば、璃奈がいる前提ではなく、まずは家の中にいるかどうかを聞いた方がいいだろう。
「えっと、璃奈に会いに来たんですが、彼女はいますか?」
僕は不審者に思われないよう、穏やかな笑みを意識して浮かべながら尋ねた。
これで「出掛けた」と言われたのならば、仕方なく退散するつもりだった。
知らないおばさんがいる以上、家の中で待っておくわけにもいかないだろうし、璃奈以外にも情報収集させてもらいたい人はいる。
ギャル璃奈は確かに魅力的だが、クリスマスまでにこの世界からの脱出を目指している僕からすると、最優先事項にはならない。
「……」
見知らぬおばさん――改め、遠江惟子さんは目を見開いたまま黙り込んでいた。
どうしたのだろうか。
せめて、YesかNOだけでも答えてくれないと、先に進めないのだが……。
「あのぉ……僕、変なこと言いましたか?」
「あっ、いや……そうね……」
銅像のように固まっていた遠江さんに声を掛けると、彼女は慌てて動き出した。
しかし、何やらブツブツと呟きながら、チラチラと僕を見ている。
えっ、なに? 滅茶苦茶怖いんですけど……。
「えっと……璃奈に会いたいのよね?」
「はい」
「……」
遠江さんは再び黙り込んでしまった。いったいどうしたというのだろうか。
不安そうな表情を浮かべている遠江さんだが、不安なのはこっちの方だ。
「あの、璃奈は居ないんでしょうか……? だったら、自分で探しに行きますが……」
「えっ⁉ い、いや、居るわ! ここに居るわ!」
「あっ、そ、そうですか」
なら、どうしてさっさと中に入れてくれないんだろう?
何か、のっぴきならない事情でもあるのだろうか。
たとえば、この世界の璃奈と地藤優斗がクリスマスを前に大喧嘩をしてしまったとか?
「……」
遠江さんは必死に考えているようだった。
眉間に皺を寄せながら、何かを懸命に思案している。
その姿があまりにも鬼気迫っていたから、僕も余計な口出しをせず、ただ見守ることしかできなかった。
「……地藤君」
長考の末、結論が出たのか。
遠江さんはゆっくりと顔を上げた。
「璃奈に会いたいのよね?」
「は、はい」
「……分かったわ。じゃあ、上がって頂戴」
明らかに歓迎されていないムードの中、僕はこの世界の天羽邸に足を踏み入れた。
「お、お邪魔します」
「……」
遠江さんは何も言わず、無言のまま二階へと上がっていく。
急いでその背中を追いかけるが、道中、妙な違和感が胸に引っかかった。
どの部屋も、異様に片付いているのだ。
綺麗好きな璃奈はもちろん普段から屋敷を清潔に保っている。
だが、これはそういう類の“綺麗さ”ではなかった。
もっとこう、なんというか――物が少ない。
生活感が、ない。
廊下の隅に積まれた段ボール箱がチラリと見えた。
まるで、引っ越し前のような空気だ。
「綺麗にされているんですね。年末の大掃除でもされていたんですか?」
クリスマスイヴにやることではないと思いつつ、チクチクと刺すような沈黙に耐えられず、口を開いた。
「……」
返答はなかった。
遠江さんは、まるで僕の声が聞こえていないかのように、ただ黙って階段を上がっていく。
参ったな。
何か、嫌われるようなことでもしてしまったのだろうか。
もしかしたら、クリスマスイヴにアポイントもなく押しかけたことを怒っているのかもしれない。
だとしたら申し訳ないが、今回の僕は単に遊びに来たわけではない。
元の世界に帰るためという、確かな目的がある。
嫌な顔をされた程度で引き下がるわけにはいかない。
僕は、重い空気を背負う遠江さんの背中を追いかけ続ける。
今更の話だが、鏡の世界と言えども、文字や景色が左右逆転しているわけではない。
必然的に、この屋敷の構造も元の世界と同じだ。
遠江さんが向かっている方向的に、璃奈の部屋の場所も変わっていないと思われる。
そうして、会話もないままに広い屋敷の中を歩いていると、遂に目的地に到着した。
「ここが、璃奈の部屋よ」
知っている。
確かに、ここは璃奈の部屋だ。
私物が少ないせいか、部屋の中が特に広く感じることもあり、璃奈はよく僕の部屋(といっても借りてる部屋だけど)に遊びに来ていた。
「ありがとうございます。それじゃあ、後は本人と話しますね」
「……」
僕は遠江さんに頭を下げてから、ドアをノックした。
「おーい、璃奈。クリスマスイヴにごめん。ちょっと話がしたいんだけど、いいかな?」
「……」
返答はなかった。
よくよく見れば、部屋の明かりがついていないように思える。
もしかして、寝ているのだろうか?
それとも外出している?
いや、でも遠江さんは璃奈がこの部屋に“居る”と言っていた。
そんなことを考えていると、僕の後ろから手が伸びてきて――部屋のドアノブを回した。
鍵は掛かっていなかったのか、抵抗なくドアに隙間が生じる。
僕は後ろを見る。
「あれ、遠江さん?」
「……さぁ、入って」
ドアノブを回した張本人――遠江さんは、静かな声でそう言った。
その表情は暗く、青褪めていて、どこか焦点が合っていない。
尋常ならざる雰囲気が、肌にじわりと貼りつく。
「あ、あの……」
ノックもせずに入っていいものなのか。
相手は、あのギャル璃奈だというのに。
僕が躊躇していると、遠江さんは何も言わず、そのままドアを押した。
ギィーっと、璃奈の部屋のドアが開いていく。
これはもう、さっさと中に入れということなのだろう。
僕は遠江さんの態度を不審に思いながら、ゆっくりと暗い部屋の中に足を踏み入れた。
さぁ、いよいよギャル璃奈とご対面だ――!
部屋の中は、やはり暗かった。
吸血鬼の眷属のため夜目は利くが、真っ暗な部屋の中で話すのもどうかと思い、扉の近くに設置されている照明のボタンを押す。
パッと部屋が明るくなる。
これまた吸血鬼である弊害か、こういう急に眩しくなるのは苦手だった。
思わず目を閉じる。
「……璃奈、地藤君が来てくれたわよ」
目を閉じている中、不意に遠江さんの声が響いた。
ようやく話してくれたな、と思いながら、ゆっくりと目を開いていく。
「良かったわね」
遠江さんは語りかける。
返答はなかった。
「……」
完全に目を開いた僕は、唖然としていた。
部屋の中は綺麗に片付いていた。
綺麗好きの璃奈の部屋は、いつも整頓されていたが――そういうレベルではない。
物がなかったのだ。
いや、正確な表現ではなかった。物はあった。
段ボール箱がいくつか、乱雑に床に並べられている。
恐らく、あの中に璃奈の私物が詰め込まれているのだろう。
部屋の中に残っているのは、ベッドと机。
そして、その上に置かれている璃奈の写真だけだった。
なんだ、このありさまは。
まるで、引っ越しをする前のような――
「クリスマスイヴにわざわざ来てくれるなんて、いい彼氏さんじゃない」
遠江さんは語りかける。
虚空に――いや、机の上に置かれている写真に向かって話しかける。
おかしい。
おかしい。
おかしい。
こんなの、変だ。
こんなの、間違っている。
これじゃあ、まるで――
「……きっと、あの子も喜んでいるんじゃないかしら」
暗い声でそう呟く遠江さん。
僕は、声を震わせながら尋ねた。
「り、璃奈は……?」
遠江さんは答えた。
「自殺したのよ。つい、この間」
しばらくの間、呆然と立ち尽くしていた。
遠江さんは「気が済むまでゆっくりしていってね。とは言っても、遺品を整理しに来ただけだから、私はもう少ししたら家に帰るけれど――」と気を遣ってくれていて、今は居間で片づけをしている。
「……」
僕はゆっくりと歩みを進める。
璃奈の部屋。
何度か入ったことがある、彼女のプライベート空間。
オシャレなインテリアと、一緒にデートに行った時に買った可愛らしいぬいぐるみは、綺麗さっぱりなくなっていた。
恐らく、あの段ボール箱の中に収納されているのだろう。
僕とお揃いのピアスが入っていた小物ケースも、見当たらなかった。
あれも、きっと段ボール箱の中に収められているのだろう。
何もない。
ここには誰もいない。
璃奈は、いない。
死んでしまったから――
「そんな、馬鹿な……」
動悸がする。
頭が痛い。
分からない。一体何が起きているんだ……?
璃奈が死んだ? なぜ?
この世界は、単純に性格が反転しただけの世界じゃないのか……?
あまりの衝撃に吐き気がこみ上げてくる。
それでも、グッと堪えることができたのは、ここが元の世界ではないと分かっていたからだ。
そうでなければ、本当に危なかった――。
「いや、そうじゃない――!」
仮にこの世界が元の世界と紐づいているのだとしたら。
逆に、元の世界がこの世界の影響を受けるのだとしたら――?
「ッ!」
脳裏をよぎった、身の毛もよだつような想像に歯を食いしばる。
ダメだ。それは今、考えるな。
最悪を想定することは大事だが、そんなことは想像するだけで僕の気力を削いでいく。
この世界から、脱出することができなくなってしまう。
「考えろ。考えるんだ……!」
僕にできることは、それだけだ。
名探偵ではないが、ともかく情報を集めなければならない。
「クリスマスまでに帰れたらいいな」――なんて、悠長なことはもう言っていられない。
何としても、早急に、帰らなければならない。
帰って、璃奈の安否を確認しなければ――気が狂いそうだ。
僕はこの部屋の調査を開始した。
片っ端から封がされていた段ボールをこじ開け、中身を確認していく。
性格は反転しているものの、さすがに過去の持ち物まで反転させるほどの余力はなかったのか、段ボール箱の中にあったのは、元の世界でも見覚えのあるものばかりだった。
段ボール箱の中身だけでは飽き足らず、さらに部屋の隅々まで調べていく。
クローゼットの中、机の下、ベッドの下――
ありとあらゆる場所に目を通し、おかしな異変がないかどうかを探っていく。
だが、結果は徒労に終わった。
「クソっ、どうなってるんだ……」
とにかく身体を動かし、考えに考えていたおかげか、少し冷静さを取り戻せてきた。
今ならもう少し、俯瞰して物事を考えられそうだ。
「こうなったら、遠江さんに自殺の経緯を聞くしかないか……」
あくまでも親戚であり、恐らく璃奈が亡くなったことでこの屋敷を訪れたであろう遠江さんが、どこまで事情を知っているかは分からない。
それでも、何も聞かないよりはマシだろう。
僕は一階に降りて、遠江さんに話しかけた。
先ほどよりも僕が落ち着いている様子を見て、遠江さんは一安心したらしく、先ほどよりかは棘のない表情で教えてくれた。
「私は少し遠いところに住んでいたから、詳しいことはよく分かっていないんだけど……聞いた話では、本当に、急なことだったみたい」
お茶を入れようか? と聞かれたが、丁重にお断りして話を聞くことに集中する。
「人間関係で悩んでいるとかもなかったみたいなんだけど、本当に、突然……」
「遺書はなかったんですか?」
「えぇ。調べた限りでは残されていなかったわ」
では、かなり衝動的な自殺だったということか。
ギャル璃奈は確かに感情の振り幅が激しかったイメージがあるが……それでも、自殺をするほどに極端な幅はなかったように思う。
「失礼ですが、自殺の方法は?」
「……あなたも知っているんじゃないの?」
「すいませんが、見ての通り、僕は最近冷静さを失っているんです。恐らくショックで記憶が飛び飛びになっていて……すいませんが、教えていただけると助かります」
遠江さんは不安そうな表情を浮かべている。
まぁ、普通に考えれば不安にもなろうというものだ。
だから、僕は両手を上げて降参の――ハンズアップのポーズを取った。
「何を聞いたとしても、貴女に危害を加えるようなことはしません。お約束します。なんなら、拘束してもらっても構いません」
「……分かったわ」
理性が戻った僕の目をじっと見つめていた遠江さんは、やがて諦めたように溜息をついてから教えてくれた。
この世界の璃奈が、どうやって命を絶ったのかを。
「
♰♰♰♰♰ ♰♰♰✜♰♰♰ ♰♰♰♰♰
僕は最後にもう一度だけ、璃奈の部屋が見たいと言って、二階の部屋に戻ってきた。
主を失った伽藍堂の部屋は酷く寒く、空虚で――ここにいるだけで涙が出てきそうだ。
「璃奈……」
彼女は、天羽玲子が自殺に用いたのとまったく同じ黒い銃を使って命を絶ったそうだ。
どうしてそんなことをしたのか。
ここにいない彼女に問いかけても、答えは返ってこない。
一体、この世界の璃奈に何があったというのだろうか。
誰にも相談できない悩みがあった?
死を誘発するような悪魔の攻撃を受けた?
分からない。何も分からない。
「……」
僕は散々調べ尽くした部屋の中を見て回りながら、不意に、机の上に目をやった。
もちろん机の上も調べていたが、そこにある写真が気になった。
葬式がいつあったのかは知らないが、恐らく遺影にでも使われたのだろう。
額縁に入った、この世界の璃奈の写真がポツンと置かれている。
小物に反転は作用していないとはいえ、写真は別らしい。
元の世界とは違う――睨むような、ただ無気力なだけのような、何とも言えない表情でこちらを見つめる、派手なメイクの少女。
元の世界の璃奈とは雰囲気があまりにも違うが、顔立ちが整っているおかげか、女優のように鮮やかな美貌を誇示していた。
もうこの世界にはいない彼女の顔をそっとなぞりながら、そういえば服装も全然違うなと思って――
「ん?」
不意に、彼女の首元に目がいった。
着崩した制服の首元に、アクセサリーが――ネックレスが見えている。
元の世界の璃奈はきっちりと制服を着こなし、ピアスこそ身に着けていたものの、ネックレスはしていなかった。
だから、これはこの世界の璃奈特有のものだろう。
何となくそのネックレスが気になって――僕はもう一度段ボール箱の中を開き、小物が収納されているケースを取り出した。
ケースを開くと、大量のピアスやネックレスが詰め込まれていた。
身に着けている数量の多さからして分かっていたが、元の世界の璃奈よりも明らかに数が多い。
僕はその中から、写真の中にいる璃奈が身に着けているものと同じチェーンを探した。
「えっと……これか」
似たようなものがいくつかあったので難儀したが、ようやく見つけたそれはネックレスではなく――
「ペンダント?」
だった。
元の世界の璃奈は持っていなかった代物だ。
銀色のチェーンの先に、四角い額縁に囲まれた翡翠色の宝石のようなものが付属している。
さすがに本物の宝石ではなかろうが、それでも綺麗な輝きを放っていた。
僕は、ペンダントを天井に翳してみた。
どうして彼女の遺留品にここまでこだわるのか。
理由は、璃奈なら何か――遺書になり得るものを残していると思ったからだ。
確かに、精神的に不安定な一面がある璃奈だが、それははっきりと兆候として表れていた。
璃奈は隠したがるだろうが、それでも死に近づくほどの感情であれば、どこかに痕跡があるに違いない。
何かないかと、この世界の璃奈が肌身離さず身に着けていたであろうペンダントを眺めて――
「ん?」
裏面に、小さな溝があることに気がついた。
吸血鬼になった僕の爪は、かなり頑丈だ。
その気になればナイフにもなる爪を少しだけ伸ばし、溝に当ててそっと力を加えてみた。
すると――
「あっ、開いた」
パカッとペンダントの裏側が開いた。
僕は驚きながら中身を見て、翡翠色の宝石が埋まっているんだろうと思っていたが、そんなことはなかった。
そこにあったのは、翡翠色の輝きではなく――白だった。
白い――紙が。
ドクンッ、と心臓が跳ねる。
恐らく、これが目当てのものだ。
僕は、翡翠色の宝石の裏に隠されていた小さな白い紙を取り出し、何重にも折り畳まれていたそれを開いた。
そこには――
♰♰♰♰♰ ♰♰♰✜♰♰♰ ♰♰♰♰♰
気を遣ってくれた遠江さんにお礼を伝え、僕は天羽邸を後にした。
今にして思えば、遠江さんの不自然な反応にも納得がいく。
クリスマスイヴに姪っ子の恋人が突然訪ねてきて、すでに自殺した姪に会わせろと言ってくる。
彼は姪が死んでいるとは微塵も思っておらず、まるで彼女が生きているかのように振る舞い、ドアをノックして話しかける。
さぞ、恐ろしかったことだろう。
それでも警察に通報することなく、璃奈の部屋に通す決断をしてくれたのは、ひとえに彼女が良い人だったからに他ならない。
――いや、あるいは、こんな危険人物を野放しにする方が危険だと判断したのかもしれない。
僕は「ここにいないなら自分で探しに行く」とまで発言したのだ。
放置しておけば、どんな事件を起こすか分かったものではない。
きっと、璃奈の部屋に通して僕が怪しい挙動を見せれば、後ろから部屋の扉を閉じて鍵を掛け、警察に通報するつもりだったのだろう。
賢明な判断だ。
その後、僕が冷静になったことを確認してからは、より親身になってくれたし、つくづく理性的で思いやりのある、大人な人物だったことに感謝するしかない。
「さて……どうするかな」
僕はペンダントの中に入っていた、この世界の璃奈の遺書――らしき小さな紙を見つめながら呟いた。
“らしき”というのは、これが遺書であると断定することができないからだ。
内容的にはそれに類するものなのだろうが、詳細が分からないので何とも言えないのだ。
やはり、まだまだ情報が足りない。
「……」
僕は小さく溜息をついた。
白い息が空中に霧散する。
この世界の自分の家に帰る――という気にもなれず、先ほど霧島先輩と話していた公園のベンチで、一人、項垂れていた。
今はとにかく、一人で考えていたい。
冷たい風に吹かれるが、それが逆に心地よかった。
もう、いっそのことこのまま凍りついてしまいたかった。
元の世界に早く帰らなければならないという焦燥感とは別に、何もする気が起きない虚無感に襲われていて、動けないのだ。
動けないのなら、仕方がない。
僕は静かに目を閉じて――
「――よう! 何してんだ?」
弾んだ、晴れやかな声に呼びかけられ、目を開けた。
「霧島先輩……」
先ほど別れたはずの先輩が、なぜか再び公園にいた。
「お前、家に帰ったんじゃないのか?」
「……それはこちらの台詞ですよ」
「それを言われちゃあ、返す言葉がないな!」
はっはっは! と豪快に笑う先輩。
次いで、彼女は少し恥ずかしそうな表情を浮かべた。
「いやな、私もさっさと帰ろうかと思ったんだが、やっぱり夜行性だから夜はなかなか寝付けなくてな。またのんびりと、ここら辺を一周散歩してたんだ。そしたら、お前がまた悩んでるみたいだったから、つい声を掛けちまったってわけ」
「……そう、ですか」
「おいおい、さっきより深刻そうな様子だな。大丈夫か? っていうか、その白い紙、なんだ?」
「ッ! な、なんでもありません」
慌てて白い紙をポケットに仕舞った。
これだけ見ても訳が分からない内容だとは思うが、仮にも璃奈の遺書である可能性がある以上、むやみに人目に晒すべきではない。
流石に挙動不審すぎたのか、霧島先輩は心配そうな表情を浮かべていた。
「……お前、大丈夫か?」
「大丈夫ですよ」
「嘘つけ。顔色、すげー悪いぞ」
「……大丈夫ですから」
実際のところは、まったくもって大丈夫ではなかった。
それでも、そう言うことしかできなかった。
この訳の分からない苦しみは、僕だけのものだから。
「いや、でもなぁ、そういうことを言う奴ほど、大丈夫じゃないっていうか――」
私が言うのもなんだけど、と頭を掻きながら自嘲する霧島先輩。
僕はわざとらしく、大きな溜息をついた。
「僕は大丈夫です。なので、もう放っておいてください」
冷たい言い方になってしまった。
それくらい、今の僕には余裕がなかった。
冷静さを取り戻したつもりでいたが、頭の中は相変わらずぐちゃぐちゃで――考えがまとまらない。
分からないのだ。
これからどうすればいいか分からない。
帰るべき場所はあるのに、帰り方が分からない――。
「今はとにかく、一人で考えたいんです……」
「いいや、
「えっ」
霧島先輩のことだから、僕の意を汲んで立ち去ってくれるものとばかり思っていた。
予想だにしていない返答に顔を上げると、彼女は真っすぐに僕を見つめていた。
その瞳は、夜の静けさの中で、月光を映していた。
そして、一言。
「お前、私の家に来い」
家へ――お誘いをしてくれた。
「……どうしてですか?」
どうしてかは分からない。
でも、その言葉が嬉しくて。
寒さでどうにかなりそうだった胸の奥がじんわりと温かくなって。
それでも、上手く言葉にできなかった僕は、問いかけるしかなかった。
「そんなの、決まってるだろ――」
霧島先輩は、慈愛に満ちた笑みを浮かべていた。
そして、至極当然のことを伝えるように。
「――迷子の奴を、放っておけるかよ」
月光の光の下、嘗て迷子だった少女はそんなことを言った。