世界の為に推しとの恋愛を諦めようとしたらヤンデレ化された件   作:赤坂緑語

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第49話:自分に違和感がある件について

 

「OK。それじゃあ、話すとするか。えぇと、最近の優斗は、確か――」

 

 そう言って、十六夜蓮は記憶を辿りながら語り始めた。

 

「――特に変わった様子はなかったと思うな。唯にも話してた通り、俺も『璃奈のことはあまり気にせず、普段通りに接してほしい』って言われたよ」

「蓮が最後に僕と会ったのはいつ?」

「確か……三日前だったかな?」

「その時、何を話した?」

「適当な世間話だったと思うぜ。最近調子はどうだとか、元気にやってんのか、とか。ほら、お前さ、璃奈が亡くなってから学校に来なくなっただろ?」

「えっ」

 

 最後まで聞くつもりだったのに、思わず声が漏れた。

 

「その反応を見る限り、それも覚えてないのか……?」

「うん……学校を休んでからの僕は、どんな感じだった?」

「それが分からないんだよ。家に行っても入れてくれないし、メッセージ送っても返ってこない。だから心配してたんだぜ? でも、ある日ふらっと登校してきてさ。その時にはもう、いつもの優斗って感じだったな」

「……」

 

 話を整理すると、この世界の僕も璃奈の急死に心を痛めて、しばらく引きこもっていたらしい。

 天羽璃奈への想いは、地藤優斗の表層ではなく――むしろ、幹にあたる根幹だ。反転するはずがない。

 しばらく塞ぎ込んでいたこの世界の僕だけれど、何かをきっかけに外へ出て、普段通りに振る舞うようになった――と。

 実際にこの僕が璃奈の死を乗り越えられるかは別として、今のところ、地藤優斗の行動としてはそこまで違和感はない。

 

「僕が引きこもる前に、何かおかしなところはなかった?」

「おかしなところか……元からおかしな奴――」

「兄さんッ!」

「……元から面白い奴だったが、特に引きこもる前後で劇的な変化はなかったと思うぞ」

 

 唯ちゃんの一喝で言葉を訂正した蓮が、首を傾げながらこの世界の地藤優斗について語る。

 なるほど。この世界の僕は“おかしな奴”らしい。

 この僕が善良で普通な分、少し警戒しておいた方がいいかもしれないな。

 

「唯ちゃんはどう? 僕について、何か違和感を覚えたことは?」

「うーん、そうですねぇ……私の記憶でも、先輩はいつも通りだったと思います」

「そうか……」

 

 正直、少し肩透かしだった。

 僕はてっきり、この世界の地藤優斗が何かとんでもない反転を遂げていて、それが璃奈の急死に関係しているのでは――と疑っていたからだ。

 けれど、今のところ、それらしい影は見当たらない。

 となれば――少し前から使っていた“記憶喪失”という設定からはブレるが、仕方がないか。

 

「じゃあさ、普段の僕ってどんな奴だった?」

「あれ? 最近の記憶がないだけじゃないのか?」

 

 当然、十六夜蓮が怪訝な表情で尋ねてくるが、その質問は想定済みだ。

 

「いや、良い機会だしさ、友人たちから見て僕はどんな人間が教えて欲しいと思ったんだ。自分ではこういう性格だと思っていても、人から見たら違うってことは往々にして存在するからね」

「なる、ほど……?」

 

 我ながら結構適当なことを勢い任せに話したが、流石に無理があったのか、あまり得心がいっていないような顔をしている十六夜蓮。

 それでも、すぐに何か思い至ったのか、隣の妹をちらりと見てニヤリと笑い、賛同の意を示してくれた。

 

「まぁ、確かにクリスマスだし、お互いにどう思っているのか話し合うのもいいよな」

「ちょ、ちょっとお兄ちゃん……!」

 

 妹の方は何か納得がいかないらしく、赤い顔で兄の服を引っ張っている。

 蓮は呆れたように肩をすくめた。

 

「良い機会じゃねぇか。今のアイツはフリーなんだし、ガンガンアプローチかけてやれよ」

「いや、でも……天羽先輩に悪いよ」

「クリスマスパーティーに誘っといて、何を今更いっちょ前に罪悪感なんか抱いてんだ」

「それは――」

「責めるつもりはねぇよ。お前だって、アイツがまた一人で考え込んで、家に引き籠もるのが怖くて誘ったんだろ? その気持ちは否定しねぇ」

「……」

「せっかく誘って、これ以上ないタイミングなんだ。アタックしちまえよ。今のアイツは記憶が錯乱してるみたいだし、ゴリ押せば行けるって」

「……天羽先輩は、許してくれるかな?」

「馬鹿。アイツが許すわけないだろ? だから――アイツが嫉妬で地獄から復活しても迎え撃つくらいの気概で挑むんだよ。それが、恋ってもんだろ」

「お兄ちゃん……ありがとう」

 

「――ねぇ、何を二人でコソコソと話しているの?」

 

 吸血鬼の眷属である僕の聴覚はかなり鋭敏だが、全く会話の内容が聞き取れなかった。

 薄っすらと漂う魔力を見るに、唯ちゃんの中にいる死王女が結界を張ったのだろう。

 別に内緒話は幾らでもしてもらって構わないのだが――死王女様はどんな性格に変わったのであろうか?

 

 思わず気になって唯ちゃんのことを凝視する。

 僕の視線に気が付いた唯ちゃんは顔を赤くしてすぐに顔を逸らした。可愛い。

 

「な、なんでもありません……!」

「そ、そう……」

 

 絶対にそんなはずはないが、この顔で言い切られてしまえば踏み込めるはずもない。

 僕は素直に頷いた。

 そして、場の空気が少し落ち着いたところで―

 

「――ところで、僕の性格についてだけど……」

「私からお話しします!」

 

 クソデカい声で宣言され、思わずびくりと反応する。

 発表宣言をした唯ちゃんの顔は、やっぱり赤かった。可愛い。

 

「じゃ、じゃあ……お願いします」

 

 こんな神妙な空気の中で教えてもらいたかったわけではないが――教えてくれるのであれば是非もない。

 僕は静かに耳を傾ける。

 そして、唯ちゃんは語り始めた。

 

 僕が知らない、地藤優斗という人間について。

 

 

♰♰♰♰♰ ♰♰♰✜♰♰♰ ♰♰♰♰♰ 

 

 

「先輩は……とても優しい人です」

 

 唯ちゃんの語る地藤優斗像は、その一言から始まった。

 反射的に照れそうになったが、すぐにそれがこの世界の地藤優斗に向けられた言葉だと気づく。

 

「いつも人のことを考えていて、みんなのことを守ろうとしてくれていて……あんなに先輩を痛めつけた私のこともあっさりと許してくださいました」

 

 後半の言葉は、きっと死王女として彼女が僕を何度も殺した時のことを指しているのだろう。

 この世界では起きていない出来事だが、矛盾は生じない。

 ここは鏡の世界――元の世界を反転・屈折して生まれた虚構なのだから。

 

「先輩は、私にとって、その……ヒーローみたいな人です」

「ヒーロー?」

 

 思わず首を傾げる。

 この世界の優斗についての評価だと理解するよりも先に、唯ちゃんは力強く頷いた。

 

「はい。ヒーローです。……困っていたら、必ず駆けつけてくれるヒーロー……それが、私にとっての先輩です」

 

 キラキラと輝く唯ちゃんには悪いが、僕自身にはそんな自覚は全くなかった。

 ――少なくとも、この僕には。

 

 一方で、「ヒーロー」と評されたこの世界の地藤優斗だが――唯ちゃんの様子から見るに、かなり英雄気質の強い人物のようだ。

 冗談で自己評価を盛りがちな僕ではあるが、流石に自分が『英雄』だと自惚れる程、愚かではない。

 

「そう言ってもらえてうれしいな。……他に、僕の性格について語ってもらえるところってあるかな? 悪いところでもいいんだけど」

「先輩の悪いところなんかありません! いいところなら無限に語れますよ!」

「そ、そう……じゃあ、是非いいところを聞きたいな」

 

 どれだけ褒められても、褒められている地藤優斗は僕自身ではない――そんな、よく分からないシチュエーションの中で絶妙な気持ち悪さを感じるが、こればっかりは我慢するしかないだろう。

 これも元の世界の帰るためだ。耐えろ、地藤優斗。

 

「分かりました! 他にある先輩のいいところはですね……まずは()()()()()()()です! 何があっても一本筋が通っているというか……そういうところが男らしくてカッコいいと思ってます!」

「……」

 

 誰だ、ソイツは

 悪いが、僕ほど移り気が激しい人物は知らないぞ?

 そりゃあ、璃奈には一途だけど、それ以外はかなり優柔不断な自信がある。

 なにせ、優柔不断が原因で危うく世界を滅ぼし掛けた男だからね。

 説得力が段違いだろう?

 

 そこが反転しているのか、この世界の僕は。

 そして、唯ちゃんはそういうところがカッコいいと思っているのか……。

 ……この僕は、別にカッコよくはないのか……。

 

「他にはですね、()()()()()()が本当に素晴らしいと思っています! なんでも正直に話してくれますし、人と尊敬できます!」

「……」

 

 誰だ、ソイツは

 自慢じゃないが、僕ほど嘘つきな奴はそういないぞ? せいぜい、メフィラが一歩先を走ってるくらいだ。

 

 そりゃあ、璃奈に嘘をつくことはないけれど、それ以外の人には結構適当なことを喋っている。

 最近では適当に喋りすぎたせいで、僕は実はクォーターで、叔母がマスカット農園を3つ所有している元ギャングで、ナンシーという虹色髪の従妹がいるということになってしまっている。

 

 そこが反転しているのか、この世界の僕は。

 そして、唯ちゃんはそういうところを人として尊敬しているのか……。

 ……嘘つきなこの僕は、人間的に尊敬されるべき人物ではないのか……。

 

「まだまだありますよ! ()()()()()()()()()()()()()()()()()ところも素敵だと思っています! 先輩、お知り合いの方の誕生日をご存じなんですよね? この間もクラスメートの方に誕生日プレゼントを贈られているのを見て、本当に素敵だと思いました!」

「……」

 

 誰だソイツは

 悪いが、僕ほど皆のことを考えていない人間もいないぜ? 考えているのはいつも璃奈のことだけだ。

 

 そりゃあ、主人公である十六夜や死王女を宿している唯ちゃん、種族的に主人である霧島先輩たちのことは考えているが、それ以外の人間には丸っきり興味なんてない。

 現に、僕のクラスメートなんて、この作品に名前も影も出てきていないだろう? 一応は学園もののはずなのに、クラスでの描写なんて欠片もありゃしない。

 尺の都合もあるけど、それ以上に僕がクラスメートに興味がないのが最大の理由だ。

 

 そこが反転しているのか、この世界の僕は。

 そして、唯ちゃんはそんなところを素敵だと思っているのか……。

 ……ボッチはお呼びではないということなのか……。

 

「あとは、()()()()()()()()なところも素敵だと思っています! どんな状況でも諦めずに前を向いているというか……決して投げやりになったりせずに、真剣に向き合い続けているところがカッコいいと思っています!」

「……」

 

 誰だ、ソイツは

 残念ながら、僕ほど後ろ向きな人間はそういないと自負している。

 

 過去の出来事を見れば分かる通り、僕は絶望的な状況を前にすると怖気づいてしまって、投げやりになって、とんでもない選択肢を選ぶ傾向がある。

 今でこそ少し改善されてきたように思うが、それでも性根がネガティブであることはなかなか変えられない。

 実際に、璃奈や霧島先輩の存在がなければ立ち上がることも出来なかった状態なのだから、前向きな人間とは言い難いだろう。

 

 そこが反転しているのか、この世界の僕は。

 そして、唯ちゃんはそんなところをカッコいいと思っているのか……。

 ……ネガティブ人間は後ろ向きに歩いていろとでもいうのか……それ、ただのムーンウォークじゃないか?

 

()()()()()なところもクールだと思っています! 常に鍛錬を怠らない姿勢は本当に尊敬するしかないっていうか……私も見習って、最近筋トレ始めたんですよ?」

 

 誰だ、ソイツは。あと、筋トレデビューおめでとう。

 キラキラした視線を向けてくる唯ちゃんには悪いが、『ストイック』なんて言葉は僕の辞書には載っていない。何故なら、そのページごと破いて北海道のヤギ牧場に捨ててきたからだ。

 

 代わりに付箋を貼ってあるのは「三日坊主」。

 僕ほど飽き性で、持続性がない人間は他に知らない。

 そりゃあ、璃奈に飽きるなんてことはあり得ないこととして、それ以外のスポーツやら、勉強やら、趣味やらは、とにかくすぐに飽きてしまうのが僕という人間だ。

 何をやっても三日で飽きる。何をやっても大成しない。

 そりゃあ、命が掛かった場面でなら頑張れはするだろうが、そんなのは人間として当たり前の機能であって――普段の僕は『ストイック』なんて言葉とは無縁の存在だ。

 

 そこが反転しているのか、この世界の僕は。

 そして、唯ちゃんはそんなところをクールだと思っているのか……。

 ……筋トレムキムキマッチョマンにしか興味がないというのか……。

 

「あ、あの、先輩……?」

「なに?」

「だ、大丈夫ですか? その……先ほどから滝のような涙が流れていますが……」

「だいじょうぶだよ。うれしなきだから、これ」

「そういう感じじゃないですけど⁉」

 

 大丈夫だよ唯ちゃん。これは本当に嬉し泣きだから。

 僕、嘘、つかない。

 

「……ありがとう唯ちゃん。お陰様で自己理解が進んだよ。僕には、足りないところがまだまだ沢山あるようだ」

「そ、そうですか……」

 

 何故かドン引きしたような顔をする唯ちゃん。

 よほど面白い顔をしているらしい。

 後で鏡で見てみようっと。

 あっ、そのついでに元の世界に帰れたりしないかな? ハハッ

 

「どうだ? 記憶は戻りそうか?」

 

 当初の目的を忘れていなかった十六夜蓮が、真面目な顔で尋ねてくる。

 僕は袖で涙を拭いながら、静かに首を横に振った。

 

「……いや、残念ながら何も思い出せそうにない。ごめんね、唯ちゃん。せっかく教えてくれたのに――」

「いえ! 気にしないでください! 私も先輩の良いところを口にできて楽しかったですし、言ってもらえればいつでもお教えしますから!」

「ありがとう……」

 

 キラキラとした眼差しが眩しい。

 でも残念。

 その眼は、この世界の光り輝く地藤優斗に向けられているんだよね……。

 

 しかし、唯ちゃんの話を聞いて浮かび上がってきた、この世界の地藤優斗像には――正直、驚かされた。

 

 博愛主義で、誠実。

 誰にでも優しく、前向きで、自分にはストイック。

 まさに「自分に厳しく他人に甘い」を地で行く、献身的な性格。

 どこか――英雄的な人物。

 

 対する僕は、特定の個人だけを愛し、不誠実。

 簡単に嘘をついて人を騙し、後ろ向きで、飽き性で、

 「自分に甘く他人に厳しい」を地で行く、最低最悪な性格。

 英雄とは程遠い――ただの凡人だ。

 

 ……認めるのも癪だが、確かに鏡の世界の僕は“反転個体”に他ならないのだろう。

 

 色々と消えない傷を負った気がしなくもないが、おかげで確信は深まった。

 

 やはり、鍵を握っているのはこの世界の地藤優斗で間違いないだろう。

 彼が――いや、“僕”が、この世界の異変の原因を担っているのだ。

 

 さて、そうと決まれば早速この世界の僕を探しに行きたいところだが……生憎、どこにいるのか皆目見当がつかない。

 ――あっ、そうだ。目の前に、この世界の僕に詳しい人間が二人もいるじゃないか。聞いてしまえばいい。

 

「ねぇ、蓮。地藤優斗って今、どこにいると思う?」

「? 目の前にいるが?」

 

 やっべ、間違えた。

 

「あぁ、ごめん。間違えた……なんでもないっす……」

 

 あまりにも人間的に違いすぎて、てっきり別人だと錯覚してしまった。

 けれど、この世界の僕も、この僕も、同じ“地藤優斗”に他ならない。

 鏡の中に映るのは、確かに“僕”なのだから。

 

 しかし、こうなるといよいよ手詰まりだ。

 居場所が分からない以上、問い詰めようもない。

 「同じ人間なんだから行動パターンくらい分かるだろ」と言いたくなる気持ちは分かるが――ここまで性格が違えば、考えていることもまるで違う可能性が高い。

 手当たり次第に動いて空振りを繰り返すのは、避けたいところだ。

 

「……取り敢えず、家に帰ってみるしかないか」

 

 とはいえ、ここであーだこーだ考えていても何も進まない。

 璃奈が亡くなった以上、住処は自分の家に戻っているはずだ。

 クリスマスに活発に動いていないことを祈って、この世界の“僕”の家に向かうのが無難だろう。

 

「ん? もう帰んのか?」

 

 僕の独り言に反応した十六夜蓮に、咄嗟に嘘をついた。

 

「あ、あぁ……ごめんね。実はこの後、予定があってさ」

 

 蓮は少し残念そうな顔をしながらも、素直に頷いた。

 

「そっか……()()()()()()()()()仕方ないな。気を付けて帰れよ」

「うん。唯ちゃんもごめんね? 急に押しかけて、急に帰ることになって」

「いえいえ! 予定があるなら仕方ないです! またいつでも来てくださいね!」

 

 寂しそうな顔を浮かべながらも、笑顔で見送ろうと立ち上がる唯ちゃん。

 咄嗟についた嘘とはいえ、胸が痛む。

 もっとマシな嘘をつけばよかったな。「予定が入った」なんて、あまりにも陳腐すぎる。

 

 ………………

 

 …………

 

 ……

 

 ……ん?

 

 ……ちょっと待てよ。

 

 今、何か――違和感があった。

 

「――ねぇ、蓮。さっき、なんて言った?」

「ん? 気を付けて帰れよって――」

「違う。その前だ」

「な、なんだよ急に怖い顔して……」

 

 動揺しながらも、十六夜蓮は自分の発言を思い返し、もう一度口にした。

 

「『予定が入ったんなら仕方ないな』って言ったよな」

「……ねぇ、蓮」

 

 その言い方は、僕に予定がないことを知っていた人間の言葉だ。

 この地藤優斗に、クリスマスの予定を尋ねた者の言葉だ。

 ということは――

 

「君、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()?」

 

 蓮は、あっさりと頷いた。

 

「あぁ、誘ったぜ。三日前にな。覚えて……ないみたいだな。その様子だと」

 

 覚えていない。というか、知りようがない。

 その日、この“僕”はこの世界には存在していなかったのだから。

 だが――三日前にその問いを受けた“地藤優斗”は、確かに存在していた。

 

「……その時の僕は、なんて答えたんだい?」

「『分かった。その日は空いているから、行けると思うよ』って言ってたな。だから俺はてっきり、その日の言葉通りに今日訪ねてくれたもんだとばかり思っていたんだが――」

 

 

 

 

 

 

 ピンポーン

 

 

 

 

 その時、運命の到来を告げるようにチャイムの音が響き渡った。

 

「あれ? 誰だろう?」

「郵便屋さんじゃないのか?」

「……」

 

 呑気な声で会話をする兄妹を尻目に、僕は目を細め、静かに懐へ手を伸ばす。

 そして、己の武器である十字剣の柄を握り締めた。

 

「私、出るね」

「――いや、僕が出るよ」

「えっ」

 

 立ち上がった唯ちゃんを制し、僕は玄関へと向かう。

 

「……ユウト?」

 

 怪訝な声で呼びかけてくる先輩の声をスルーしながらリビングの扉を開く。

 

「ちょ、ちょっと先輩⁉ ここは十六夜家なんですから、私たちが対応しますよ!」

「お世話になったし、郵便の受け取りくらいはやっておくよ」

「本人じゃないと意味ないですって! やっぱりここは私が――きゃっ⁉」

 

 突然、唯ちゃんの悲鳴が上がる。

 

「いきなり何をするんですか霧島先輩!」

「おっ、唯ちゃん。なかなかいい塩梅に育ってるじゃねーか」

「ちょ、ちょっと! どこ触ってるんですか⁉」

「よいではないか、よいではないか~」

「こ、の……訴えますよ! セクハラ魔!」

「ハハハハハ!」

 

 振り返ると、霧島先輩が唯ちゃんに背後から抱きついて、わざとらしくセクハラ的な動きをしていた。

 ケラケラと笑っているが、その目は――僕を見ている。

 理性的で、鋭い。

 間違いない。僕の張り詰めた様子を察して、場の空気を逸らしてくれたのだ。

 ――全く。いつだってこの人は、僕を助けてくれる。

 

「ありがとうございます、霧島先輩」

「あいよ」

「ちょ、何にお礼を言ってるんですか⁉ お兄ちゃん、座ってないで助けてよッ!」

「……いや、なんというか、女の子が二人で絡み合っているのは……こう、いいものだな」

「スケベがッ!」

 

 安心してください唯ちゃん。

 君のお兄さんは、原作でもむっつりスケベでした。

 

「さて……」

 

 阿鼻叫喚のリビングに背を向け、一人で玄関へと向かう。

 自分の靴を履き、ゆっくりと玄関の扉を開く。

 そこには――

 

「ごめんね、唯ちゃん。急に押しかけるようなこと、して……」

 

 いた。

 

 驚きで目を見開く少年。

 その顔を、僕はよく知っている。

 うんざりするほどよく知っている。

 毎朝、毎晩、その顔を見ているから。

 

 ――()で、毎日見ているから。

 

 衝撃で固まっている彼は、まだ名乗りを上げられていない。

 だが、名乗られなくとも僕はその名前を知っているので、代わりに紹介するとしよう。

 

 彼の名前は()()()()

 

 この世界の、僕だ。

 

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