世界の為に推しとの恋愛を諦めようとしたらヤンデレ化された件 作:赤坂緑語
「やれやれ、妙なことになったね。まさか、自分と戦うことになるとは」
「えぇ、本当に妙なことです。私も、自身のオリジナルともいえる存在と戦うことになるとは思いませんでした」
向かい合った両者――如月メフィラたちは言葉を交わす。
お互いに薄っすらと笑みを浮かべているものの、その雰囲気は友好的とは言い難い。
「だが、そう悪い気分ではないね」
「そうですか」
「そうだとも」
如月メフィラは笑みを崩さぬまま、右手を前に翳す。
同時に、鏡のメフィラもまた、静かに右手を掲げた。
制服の裾が風に揺れ、黄金の瞳が鋭く光る。
天使と悪魔。
鏡と本体。
鏡合わせのように向かい合う両者。
空気が張り詰める。
風が止み、音が消える。
まるで世界そのものが、二人の対峙を見守るために息を潜めたかのようだった。
「……楽しそうですね、本体の私」
「あぁ、楽しいとも。なにせ――」
メフィラは、全身から空間が軋むほどの魔力を発露させながら、静かに言葉を継ぐ。
「――久々に、本気で殺してやりたい奴が目の前にいるからね」
その瞬間、空気が弾ける。
魔力が奔流となって空間を満たし、地面が震える。
そして、悪魔の貴種は、静かに、確かに――己の能力を発動させた。
「「
その言葉が放たれた瞬間、世界の理が一つ、確かに崩れた。
四騎士にも匹敵する、悪魔の力。
世界を欺き、法則を捻じ曲げる魔人の理が、二重に現出する。
鏡のメフィラもまた、同時に能力を発動したのだ。
そして――
概念の衝突。
存在の定義そのものを巡る、理と理の戦争。
空間が歪む。軋む。悲鳴を上げる。
2人のメフィラを中心に、魔力が渦を巻く。
それは星の核のように密度を増し、周囲の空間を引きずり込む。
言霊が生まれては消え、互いの存在を否定し、肯定し、再定義しようとする。
「ッ!」
何が起こっているのか、僕にはさっぱり分からない。
それは、鏡の僕にしても同じだろう。
今、この空間で起きていることは、人間程度では推し量ることが出来ない、異様な現象だ。
『如月メフィラが2人存在するはずがないじゃないか。偽りの存在は即座に消え去るべきだ』『“存在しないはず”という前提が既に破綻しているよ。現に今、2人はここにいる』
『契約者は唯一であるべきじゃないか? 2人の契約者が存在する世界は不正だよ』『契約は魂に刻まれる。魂が分岐したなら、契約もまた分岐するに決まっているじゃないか』
『鏡像は本体の模倣に過ぎない。模倣は真実を持たないよ』『模倣が真実を持たないなら、真実もまた模倣に過ぎないじゃないかい?』
『この世界は一つの理に従っている。二重存在は理の破壊だと思うけどね』『理は常に例外を孕む。例外があるからこそ、理は理たり得るじゃないかい?』
『鏡のメフィラは“本物”の記憶を持たない。だから、偽物だ』『記憶は存在の証ではない。存在は今ここにあるという事実に宿るはずだよ』
『2人の魔力が同一であるなら、片方は不要じゃないかな?』『同一であることが不要の証明にはならないよ。対称性は存在の証左だ』
『悪魔は唯一無二であるべきだよ。分岐は堕落さ』『唯一性は傲慢だね。分岐こそが進化の証だ』
言霊が衝突するたびに、空間が軋み、地面に亀裂が走る。
打ち消された膨大な魔力の残滓がスパークを起こし、2人の間に巨大な磁場が形成されていく。
紫色の結界が膨張し、まるで空間そのものが呼吸しているかのように脈動する。
「こ、これは……!」
黄金の瞳を爛々と輝かせ、全身から膨大な魔力を発露するメフィラたち。
攻防の内容はもはや異次元の域に達しており、2人の言葉すら聞き取れない。
言霊は高速で交差し、呪文のように空間を刻み、魔力の奔流がこの世界の座標そのものを塗り替えていく。
鏡の僕もまた、異様な魔力の渦を前に、吹き飛ばされないように踏ん張ることしかできていない。
仮にも悪魔と契約し、吸血鬼でもあるはずの僕らですら、一切の介入を許されない。
これは、次元が違う。
理と理の衝突。
存在の定義を巡る、悪魔たちの戦争だ。
「――余所見をしている暇があるのか?」
「ッ!」
常識外の光景に目を奪われていた一瞬の隙を突くように、鏡の僕が嵐のような魔力の奔流を避けて外側から大きく回り込み、鋭い踏み込みと共に斬りかかってきた。
その動きは、まるで風の軌道を読んで滑り込むような滑らかさで、殺意を込めた一閃が僕の首を狙って振り下ろされる。
咄嗟に十字剣を抜き、刃を交差させて受け止める。
衝撃が腕に走り、骨が軋む。
「お前……!」
「もう謝ることはしないよ。――ここから先は敵として、君らを滅ぼさせてもらう」
「勝手なことを!」
怒りに任せて剣に力を込め、鏡の僕の斬撃を弾き返す。
刃が軋み、火花が散る。
だが、相手は一歩も退かない。
「僕らの世界を滅ぼすって、具体的にはどうするつもりだ! だいたい、そんな大それたことが出来るはず――」
「地藤優斗相手に余計なことを喋るはずがないだろう? 君は大人しく、僕たちに拘束されて大人しくしておけばいいんだ」
「それを受け入れる僕だと思うか?」
「確かに、僕は受けれないよ――なッ!」
鏡の僕が放ってきた回し蹴りを躱し、カウンターでこちらも蹴りをお見舞いする。だが、これも読まれていたのか、あっさりと躱されてしまった。
戦う前から半ば分かっていたことではあるが――やはり、自分自身と戦っていても決着など早々に着くはずがない。
「こんなことをしていても堂々巡りだぞ! 不毛な争いなんか止めて、話し合いを――」
「君はいつもそれだな。死王女の時は話し合いで解決できたが、そういうわけにはいかない問題もあるんだよ!」
「ッ!」
言葉の重みがそのまま剣に乗ったような、重い一撃が振り下ろされる。
僕は十字剣で受け止めるが、腕が痺れるほどの衝撃に膝が沈みそうになる。
鍔と鍔がぶつかり合い、火花が散る。
互いの顔が至近距離で睨み合い、呼吸が交錯する。
「なんで君は僕の癖に、そう短絡的な考えになるんだ! こちらの世界を生かしておきたいだけなら、他に方法があるだろう⁉」
「じゃあ教えてみろよ! その方法って奴を!」
「それは……これから考えるんだよ!」
「ほーらこれだ。何でもかんでも後回しにして、取り敢えずその場を凌げればいいとか考えているから、君はいつも選択を誤るんだ!」
言葉の刃が突き刺さると同時に、鏡の僕は鍔迫り合いの体勢から無理やり剣を寝かせ、肩から体重を乗せたショルダータックルを仕掛けてきた。
思いも寄らない攻撃に一瞬よろけるが、身体能力に大きな差はない。
押された衝撃を受け流しながら、僕は低く身を沈めて足払いを狙う――が、当然のように読まれていて、鏡の僕は軽やかに跳ねてかわし、反撃の上段斬りを振り下ろしてくる。
地面を転がってそれを躱し、僕は反射的に十字剣を投げる。
鏡の僕も同時に十字剣を投擲し、空中で二本の刃が交錯する。
激しい火花が散り、剣はくるくると宙を舞ったのち、ほぼ同時に地面へ突き刺さった。
「……この世界を存続させるための方法くらい、考えたに決まっているだろう。考えて、考えて、考えて……それでもどうしようもないと判断したから、こういう結論に至ったんだ」
新しい十字剣を取り出しながら、鏡の僕は苦々しい表情でそう言った。
その顔には、諦めと怒りと、何よりも覚悟が刻まれていた。
「……僕たちの世界を滅ぼせば、そちらの世界が生き残るっていう理屈がよく分からないんだけど、教えてくれないか?」
こちらも新たな剣を手にしながら、そもそもの疑問をぶつける。
鏡の僕は剣を構えたまま肩を竦め、冷たく言い放った。
「どうして教える必要があるんだ。――もう君には、関係のないことだろう?」
「関係あるに――決まってんだろうがッ!」
怒鳴りながら駆け出す。
何を考えているのかは分からない。
ただ、この馬鹿を止めなければならないという衝動だけが、僕の身体を突き動かしていた。
剣を振りかざし、鏡の僕と再び刃を交える。
金属がぶつかり、火花が散る。
何十合、何百合と剣を合わせても、決着はつかない。
剣筋も、技術も、身体の癖も、戦略も――すべてが同じだからこそ、互いの攻撃は寸前で止まり、互いの防御は寸分の狂いもなく噛み合う。
だが――その均衡が、ほんの一瞬だけ崩れた。
鏡の僕の剣筋が、わずかに鈍った。
刃の角度が甘く、踏み込みも浅い。
彼からすれば不運でしかないが、僕からすれば好機に他ならない。
僕は即座に剣を寝かし――鋭い突きを放った。
自分と全く同じ存在に剣を刺すことに抵抗がなかったかと言われると嘘になるが……それでもやらないわけにはいかない。
突きは鏡の僕の腹部を貫き、鈍い音と共に血が噴き出す。
彼は呻きながら吐血し、膝を折りかける――
「何を考えているのかは知らないが、馬鹿なことをするな! そうやって思い詰めて、僕が間違った選択をしたこと……忘れたわけじゃないだろう⁉」
「……忘れるわけがないだろう。僕たちはいつも、間違えている。だけどね、今回は、違うぞ」
「ッ!」
――が、次の瞬間、刺さったままの剣を握る僕の腕を、万力のような力で締め上げてきた。
「今回は間違えようがない」
「お前、まさかわざと――」
ギリギリと、万力のような力で僕の腕を締め上げていく鏡の僕。
偶然できた隙だと思っていたが、あれはわざと晒したものだったのか――。
鏡の僕は腹に剣が刺さった状態のまま、強烈な意志の光を宿した瞳で僕を睨みつけ、不敵に笑った。
「――お前とは、覚悟が違うんだ」
そして彼は、逃げられない僕に向かって自由な右腕で十字剣を振るった。
首が斬り飛ばされるその寸前、僕は咄嗟に黒霧となり、その場から離脱する。
霧のように空間を滑り、一気に後退。
実体化した瞬間、改めて剣を構えるが、鏡の僕の傷はすでに綺麗に塞がっていた。
血も、裂けた肉も、何もかもが消えている。
まるで最初から傷などなかったかのように、彼は静かに立っていた。
互いに不死身。
そして、超速再生まで持っている。
肉体の限界も、痛みの蓄積も、戦いの終わりすら意味をなさない。
やはり、どうあがいても決着を付けられる気はしなかった。
だが、もはやこの殺し合いを止められる者は存在しない。
僕たちは互いに剣を構え、地を蹴る。
同時に駆け出す。
空気が裂け、火花が散る――その瞬間。
「――なにをやってんだ、お前らッ!」
空間を切り裂くような声が、上空から降ってきた。
銀色の霧が渦を巻き、そこから一人の少女が舞い降りる。
銀髪が光を弾き、強い意思が秘められた赤い瞳が輝く。
地面に触れるよりも早く、彼女は抜刀した刀で鏡の僕の斬撃を受け止め、鞘で僕の剣を受け止めていた。
僕たちの攻撃を同時に受け止めるなど、常人ならば到底不可能な芸当――だが、彼女はそれを当然のようにやってのけた。
これでも“優秀なエクソシスト”に擬態しているつもりだったが、そんな僕たちの全力を片手で止める彼女の地力は、やはり途轍もない。
「「霧島先輩……」」
僕たちの声を受け、剣戟の真ん中に君臨する彼女は赤い瞳で僕たちを睨みつけた。
「馬鹿なことやってないで、さっさと仕舞えそんなもん! 同じ顔した自分同士で争ってどうすんだ!」
至極真っ当なご指摘を受け、思わず剣を握る手が弱まる。
この世界に来てからというもの、彼女には頭が上がらないのだ。
しかし――
「先輩には悪いが、そういうわけには、いかないな――ッ!」
「ッ!」
鏡の僕は違ったらしい。
その言葉と同時に、力任せの斬撃を霧島先輩へと振り下ろす。
仲裁役として立ち塞がる彼女に、容赦のない一撃。
「馬鹿野郎が!」
僕が咄嗟に剣を緩めたことで左腕がフリーになった霧島先輩は、即座に体勢を切り替え、刀と鞘の二刀流で鏡の僕と対峙する。
その動きは、まるで舞のように滑らかで、しかし一切の甘さがない。
彼女の剣術は、恐らく本気を出せば鏡の僕を圧倒できるほどの腕前だ。
だが、彼女には契約がある。
鏡の僕と交わしているであろう――
『地藤優斗に従い、なおかつ、彼と彼の仲間である天羽璃奈、十六夜蓮、十六夜唯に一切危害を加えない』
――という契約が。
だからこそ、彼女は守りに徹するほかない。
攻撃を受け止め、流し、逸らす。
それだけに終始している。
本来ならば、彼女の剣術は鏡の僕を圧倒できるはずなのに、その刃は決して相手を傷つけることなく、ただ防御のためだけに振るわれていた。
「おい、待て優斗! 私は、お前と戦うつもりは――」
「貴女はこちらの世界の先輩なはずだ! どうしてそっちの僕の肩を持つんです⁉」
「どっちもそっちも分かんねーよ! いいから、取り敢えず剣を下ろせと言っているんだ!」
嵐のような連撃を、疑似的な二刀流で捌きながら、一時停戦を呼び掛ける霧島先輩。
だが、鏡の僕は聞く耳を持たず、彼女が反撃してこないことをいいことに、容赦なく攻め立てていく。
剣戟の音が空間を裂き、銀霧が舞い、戦場は混沌の渦へと変わっていく。
「このっ、いい加減に、しろ――‼」
業を煮やした霧島先輩は、銀霧を一気に拡散させた。
その霧は空間を覆い、視界を攪乱し、まるで月夜に立ち込める濃霧のように、すべての輪郭を曖昧にしていく。
そして、彼女は静かに鞘に刀を納め、居合の構えを取った。
その姿は、まるで霧の中に浮かぶ幻影。
空気が張り詰め、時間が止まったかのような静寂が訪れる。
「斬霞刀・一の型『霧散残月』」
その言葉と共に、空間が震えた。
銀霧の中から放たれた一閃は、まるで霧を裂いて月光を呼び込むかのような鋭さで、鏡の僕へと奔る。
刃が空気を断ち、霧が軌道を描き、残月のような弧を描いて空間を切り裂いた。
契約上、攻撃は効かないと分かっていても――その迫力は尋常ではない。
鏡の僕は反射的に十字剣を盾として構えたが、斬撃の衝撃に耐えきれず、銀霧の奔流に吹き飛ばされ、大きく後退していった。
「――ったく、何がどうなってるんだか……」
「霧島先輩!」
「ん? おぉ! お前、昨日まであたしの家に泊まってた方の優斗だな!」
「はい! そうです!」
しょっぱなに出てくる言葉がそれか、とは思ったが、頼りになる先輩の登場に胸の高鳴りを隠せず、僕は思わず笑顔で彼女に歩み寄っていた。
銀霧が周囲を覆っているおかげで、向こうの僕――鏡の僕からは視認されにくくなっている。
暫くは時間を稼げるだろう。やはり霧島の姉御は大変頼りになる。
とはいえ――
「先輩はどうしてここに?」
その疑問はあった。
彼女からすれば、僕は彼女を十六夜家に置き去りにした薄情な後輩のはずだ。だというのに、どうしてここで手助けをしてくれているのか。
「いやな、お前の様子がおかしかったから、あの後、十六夜家を飛び出して探していたんだよ。そしたら、急にとんでもない魔力の気配を感じたからさ」
そう言って、霧島先輩はメフィラたちが生み出している巨大な魔力の渦を見上げる。
「空を飛んで来たら、お互いに喧嘩しているのが見えて、慌てて仲裁に来たってわけだ」
「なるほど――ッ! 先輩!」
「うぇ?」
その瞬間、僕の視界の端に、雷の軌道が走った。
僕は咄嗟に霧島先輩に抱きつき、そのまま地面へと押し倒した。
銀霧の中で、彼女の身体が柔らかく沈む。
直後、雷が僕たちの頭上をかすめて通過していった。
空気が焼け、地面が焦げる。
あと一歩遅れていたら、直撃していた。
「あ、危なかった――」
「ゆ、優斗。ちょいと降りてくれるか……?」
顔を逸らしながらそう言う霧島先輩の頬が、ほんのり赤く染まっているように見えた。
「あ、あぁ……すいません。失礼しました」
慌てて身体を起こし、手を差し出す。
彼女は少し照れたようにそれを掴み、軽やかに立ち上がった。
いったん妙な空気のことは忘れ、2人で奇襲の犯人を見上げる。
「こ、これは――」
鏡の僕との戦いに集中しすぎて忘れていたが、隣ではメフィラたちが激突しており、互いに見たこともない規模の『
その応酬は、論理の破壊と再構築を繰り返すような異常な魔力の衝突であり――本人たちの圧倒的な魔力量も相まって、空間そのものが耐えきれずに軋み始めていた。
肥大化した紫色の魔力のドーム――いや、もはや一つの異界とも呼べるほどの力場となったメフィラたちの戦場は、雷鳴を発しながら周囲を破壊していた。
如月メフィラと鏡のメフィラを中心に広がるその領域は、やがてこの虚構世界の表層を剥がし、空間の色調すら変えていく。
空は黒く、地は軋み、まるで宇宙空間のような無音の深淵が露出し始めていた。
「ッ! まずい……メフィラ!
霧島先輩に弾き飛ばされていた鏡の僕が必死に声を張り上げるが、そんな叫びが今の2人に届くはずもない。
魔力の渦がすべてを呑み込み、言葉は空気に溶けて消えていく。
「おい、これはマジでヤバい奴なんじゃ――」
空間に異音が走り、罅が入る。
まるで世界そのものが悲鳴を上げているかのような、軋む音。
そして、何もできないまま固唾を飲んで見守る中――不意に、片方の結界が弾け飛んだ。
「ッ! メフィラ!」
砕け散ったのは、鏡のメフィラの結界だった。
紫の膜が裂け、魔力の奔流に飲まれた彼女は、制御を失ったまま後方へと吹き飛ばされる。
一方、僕のメフィラは、悠然とした態度で結界を解き、静かに右手を下ろした。
彼女の周囲に妙な力場が発生し、浮遊していた宙から、まるで重力すら彼女に従っているかのように、優雅に着地する。
その足取りは一切の乱れがなく、衣の裾すら揺れない。
「フフフ、ほら言っただろう?」
こちらのメフィラはくるりと振り返り、自信満々のドヤ顔を披露した。
「僕の方が強いってね。これで分かっただろう、我が愛しの契約者様。僕こそが優れた如月メフィラであることが」
「あぁ……よくやった」
呆気に取られていた僕だが――考えてみれば当然のことだった。
『
この力は、相手を打ち負かす屁理屈によって世界の法則や認識を塗り替える力。
つまり、より弁舌が立ち、
拮抗状態に陥ろうとも、最終的に僕のメフィラが勝つのは、目に見えていた。
「流石だよ、メフィラ。やっぱりお前は、最悪だ」
「君もね、我が愛しの契約者様」
華麗なウインクをする如月メフィラ。
その仕草は、いつも通りの不敵さと、ほんの少しの誇らしさを含んでいた。
いけ好かないところは多いが、今回ばかりはその健闘を讃えざるを得ない。
僕は一息つきながら、鏡の僕とメフィラに目を向けて――
「えっ?」
その瞬間、思考が凍り付いた。
あの2人が妙なことをしていたわけではない。
むしろ、敗北したメフィラに肩を貸しながら、鏡の僕はゆっくりと立ち上がろうとしていた。
相変わらず、鏡のメフィラには違和感しかないが、状況としては何もおかしなところはない。
だから、僕が凍り付いたのは彼らを見たからではない。
彼らよりも手前。
メフィラとメフィラが本気で衝突したことによって発生した、空間の裂け目――
その裂け目の奥から、巨大な“眼”がこちらを覗いていた。
視線が合ったわけではない。
それなのに、見られている。
皮膚の内側を冷たい指で撫でられているような、ぞわりとした感覚が背骨を這い上がる。
ゾッとするほどの寒気が、身体の芯から走る。
体温が一気に低下し、まるで氷水を頭からぶっかけられたような心地になる。
呼吸が浅くなり、喉がひりつく。
心臓が、ひとつ脈を打ち損ねた。
「め、メフィラ……」
「……」
「メフィラ……!」
「……あぁ、分かっているよ」
声が震える。
隣にいる悪魔の名を呼ぶ。
いつもは喜悦と邪悪さで弾んでいるメフィラの声は、冷たく、静かだった。
勇気を振り絞って、巨大な眼から目を逸らす。
隣のメフィラを見る。
彼女は笑っていなかった。
その唇は閉ざされ、瞳は冷徹に、裂け目の奥を睨みつけていた。
「――ここは引くよ、我が愛しの契約者様。異論はないね」
その声は、いつもの調子を保っているようでいて、どこか硬い。
感情を抑え込んだような、冷静な響きだった。
「あ、あぁ……」
僕は頷くしかなかった。
異論など、あるはずがない。
あの眼が何なのかは分からない。
だが、確実に言えるのは――あれは、ここにいてはいけないものだ。
「ゆ、優斗……」
あの強気な霧島先輩もまた、表情を青褪めさせている。
僕は咄嗟に彼女の手を握った。
「行きましょう、先輩。――いいよな、メフィラ」
「別に構わないよ。好きにすればいい」
一度自分を打ち負かしてスッキリしたのか、メフィラは先程までの妙な雰囲気を消し去り、いつもの飄々とした感じで答えた。
「ほら、行きますよ、先輩。手を」
「お、おう……」
言われるがままに差し出された霧島先輩の手を握る。
僕はチラリと鏡の僕たちに視線を向けた。
彼らもまた、同じようにこの場を離脱しようとしていた。
敗北した鏡のメフィラを支えながら、静かに霧へと姿を変えていく。
「……」
一体何が起こっているのか。
何も分からない。
最後にもう一度だけ、巨大な眼に視線を向ける。
メフィラたちの衝突によって生じた亀裂は、ゆっくりと修復されつつあった。
それに伴い、眼もまた、空間の向こう側へと静かに消えていく。
「――――」
その直前。
その眼に、確かに見つめられた気がした。
冷たくもなく、温かくもなく。
ただ、知っている――そんな感触。
何故だろう。
――その眼に、
夢の中か、記憶の底か。
あるいは、もっと別の場所で。
「我が愛しの契約者様?」
「……ううん。なんでもない」
後ろ髪を引かれるような心地のまま、僕は霧島先輩を促し、霧となって先を行くメフィラに続いてその場を離脱した。
空中を浮遊する霧の中。
あの眼の感触だけが、妙に僕の背中に貼りついていた。