世界の為に推しとの恋愛を諦めようとしたらヤンデレ化された件   作:赤坂緑語

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第54話:客人に違和感がある件について

 

「なんだ――⁉」

 

 何か巨大なものが衝突したような衝撃がホテル全体を揺らし、思わず身構える。

 壁が軋み、グラスが微かに跳ねる。

 だが、ソファに腰かけたままのメフィラは、まるでこの揺れを予期していたかのように、脚を組み直しながら悠然と微笑んでいた。

 

「おい、メフィラ! これは一体――」

 

 声を荒げる僕に対し、彼女はワインのグラスを優雅に傾けながら、肩をすくめるように言う。

 

「僕が張っていた結界に、何かがぶつかったんだろうね。まだ突破はされていないけれど……この調子だと、時間の問題かな?」

 

 ニヤニヤと笑うその態度は、いつも通り非常にムカつく。

 だが、事実として、彼女が結界を張っていなければ、今頃ホテルごと吹き飛ばされていた可能性は高い。

 思うところは多々あるが、今は感情を押し殺し、必要な情報だけを引き出すことに集中する。

 

「襲撃者は?」

「わざわざ聞く必要あるかい? 鏡の僕たちに決まってるじゃないか」

「……後を尾けられていたのか?」

「みたいだね。これでも、尾行には警戒していたつもりなんだけどねぇ」

 

 軽い口調で言いながら、メフィラは肩を竦める。

 しかし、その表情はどこか神妙だった。

 彼女自身、この場所を特定されたことは予想外だったらしく、内心では警戒を強めているように見える。

 

 鏡のメフィラが同一人物に近いメフィラの思考回路を読んだのだと推測できなくもないが、性格の悪さ――もとい、謀略面においてはこちらのメフィラの方が一枚上手であることは先程の戦いが証明している。

 いかなる手を使ったのかは分からないが、どうやらメフィラにも把握しきれていない力を向こうが所持している可能性は高そうだ。

 

 しかし、どうにも腑に落ちない。

 

「どうして今なんだ? 僕らには勝てないと分かっているはずなのに……」

 

 居場所を特定されたことは一旦置いておくとして、鏡のメフィラは、こちらのメフィラに性格面で劣るせいで勝てない状況にあり、鏡の僕とこの僕に能力の大差がない以上、戦えばこちらが勝つのは必然であることくらい分かっているはずだ。

 それなのに、なぜ今、襲撃を仕掛けてきたのか――。

 

 疑問を口にすると、メフィラは笑みを深めながら、ゆっくりと窓の外へ視線を向けた。

 

「そりゃあ、勝てる算段がついたからじゃないかい?」

「えっ」

 

 言葉を返す間もなく、先程とは比べ物にならないほどの衝撃が再びホテルを揺らす。

 床が震え、壁が軋み、空気が一瞬で張り詰める。

 思わず窓の外に目を向けると、すっかり夜の帳が下りた闇の中――キラキラと青い光が舞っていた。

 その色、その揺らぎ――見覚えがある。

 僕は即座に理解する。

 

 鏡の僕たちが連れてきた“勝算”の正体に。

 

「ッ! ()()()()か⁉」

 

 声が漏れた瞬間、胸の奥に冷たいものが走る。

 彼が敵に回った時の脅威を、僕は誰よりも知っていた。

 恐らく、この場にいる誰よりも。

 

「――っていうことは、まさか唯ちゃんも……?」

 

 脳裏に浮かんだ最悪の可能性を口にしかけた瞬間、メフィラが首を横に振る。

 

「いや、姉上の気配は感じられないね。どうやらここにはいないみたいだ。まぁ、この世界の姉上は“弱体化”なんて生易しいものじゃないから、出てきたところで戦力にはならないと思うよ」

 

 敵に回したら最後、敗北必至の最強少女――死王女モルヴェリアの姿が一瞬脳裏をよぎるが、メフィラの否定は即答だった。

 その表情は冗談めいてはいたが、瞳の奥には確かな警戒が宿っていて、軽口のようでいて適当なことを言っているようには見えなかった。

 

「唯ちゃんと死王女がいないにしても、蓮はまずいな……この結界、あとどれくらい持つ?」

「ふむ。十六夜蓮はどうにも力を発揮しきれていないようだから、概算であと五分くらいは持つんじゃないかな?」

 

 ワインを傾けながら飄々と答えるメフィラの言葉に、僕はすぐさま次の手を考える。

 

「それじゃあ、アイツらが結界の破壊に手間取っている間に、ここから脱出を――」

「いや、それは無理だね」

「……なんでだよ」

「鏡の僕が、この結界のさらに外側に結界を張っているからさ」

 

 肩を竦めながら軽く言い放つメフィラに、僕は反射的に窓の外へ目を向ける。

 ホテルを覆う結界の外側――そのさらに外に、薄く紫色の膜が展開されているのが微かに見えた。

 

 まるで二重の檻だ。

 内側の結界が破られても、外側の膜が逃走を阻む。

 完全な袋小路。

 

「つまり、僕たちはどちらにせよ結界の中に閉じ込められたというわけさ。袋小路だね」

「……マジかよ」

 

 ポツリと漏れた言葉が、静まり返った空間に虚しく響く。

 その直後、地響きのような音がホテルの底から轟き、ぴしり、と何かが罅割れるような音が耳を打った。

 

 

 

 

♰♰♰♰♰ ♰♰♰✜♰♰♰ ♰♰♰♰♰

 

 

 

 

 例年になく、慌ただしいクリスマスだとは思っていた。

 

 妹は友達が来るからと張り切って準備を進め、「兄さんも飾り付け手伝ってください!」と元気いっぱいに声をかけてくる。

 仕方なく手を貸しながら、真昼間から気合十分なその姿に、どこか違和感を覚えつつも――十六夜蓮は「こんな年もあるもんか」と楽観的に考えていた。

 

 風向きが変わったのは、昼少し前のことだった。

 

 兄妹の友人にして恩人でもある地藤優斗が、突然十六夜家を訪れたのだ。

 隣には霧島レイの姿もあり、驚きはしたが、嬉しくないはずがない。

 妹同様、例年以上に張り切ったギャグが滑ったり、呆れられたりと、やや想定外な展開もあったが――それでも蓮は、楽しいクリスマスを過ごしていた。

 

 しかし、楽しかった時間は、ひとつのチャイムをきっかけに脆く崩れ去る。

 

 突然、地藤優斗が血相を変えて家を飛び出していったのだ。

 さらに続いて、霧島レイも「ごめん、私も用事思い出したわ」と言い残して姿を消す。

 

 事情を何も知らされないまま、蓮と唯だけが取り残された。

 

 顔を突き合わせ、首を傾げる兄妹。

 その最中、さらに状況は変化する。

 先ほど出て行ったはずの地藤優斗が、再び十六夜家に戻ってきたのだ。

 そして――

 

『さっきこの家を訪れた地藤優斗は偽物だ』

 

 なんてことを言い始めた。

 

 例年になく慌ただしいとは思っていたが――これはもう“慌ただしい”というレベルを超えている。

 混乱の極みにある蓮と唯に対し、“本物”を名乗る地藤優斗は、畳み掛けるように説明を始めた。

 

・先ほどの優斗は、()()()()()()()()()()()()()であること。

・鏡の世界は、成り立ちからして不安定な虚構世界であること。

・“観測者(オブ・ザーバー)”と呼ばれる存在の眼差しによって、かろうじて維持されているが、それも時間の問題であること。

・その“観測者(オブ・ザーバー)”の眼を逸らすことができれば、こちらの世界は滅びる代わりに、鏡の世界が存続できる可能性があること――。

 

「つまりこれは、世界の存続を懸けた戦いなんだ」

 

 説明を終えた地藤は、真剣な瞳で蓮と唯を見つめながら語る。

 

「鏡の存在とは言え、彼は僕だ。だから、2人に頼むのは筋違いだと分かっている。けれど――このまま彼らに好き勝手をさせていたら、この世界は滅ぼされることになる。それは、許せない」

 

 だから。

 

「だから、僕に力を貸してくれないか? この通り、お願いだ!」

 

 地藤優斗はソファから立ち上がり、2人に向かって深く頭を下げた。

 蓮は横に座る妹に視線を向ける。

 同じく蓮の方を見ていた唯と、目が合う。

 2人とも、困惑した表情を浮かべていた。

 

(さっきの優斗が偽物……? 嘘だろ……)

 

 確かに、先ほどの地藤優斗には少し不自然な点があった。

 突然、過去の自分の言動について尋ねてきたり、記憶喪失になったと告げてきたり。

 まるで悪い冗談のような話を、冗談ではない顔で語る彼に、蓮も唯も困惑を隠せなかった。

 

 それでも――

 あの暖かな眼差し。

 穏やかな空気。

 どれを取っても、彼は紛れもなく地藤優斗だった。

 

 だからこそ、蓮は“世界の存続”という話よりも、目の前の違和感の方に引っかかっていた。

 

「えっと……力を貸すと言われても、具体的にはどうすればいいんですか……?」

 

 考え込む蓮に代わり、唯が困惑した表情で問いかける。

 彼女の知る地藤優斗は、滅多に人に頼みごとをしない人物だった。

 何でも自分の力で片をつけようとする人。

 いつも他人のために頑張っている、英雄的で、どこか孤独な人。

 そんな彼が、真正面から頼みごとをしてきたことに、唯は戸惑いながらも言葉を紡いだ。

 

 地藤は、端的に答える。

 

「鏡の僕を捕縛するのに手を貸して欲しいんだ」

「先輩と……鏡の先輩と戦うということですか?」

「うん。そういうことになるね」

 

 唯は思わず顔を顰めた。

 もちろん、地藤の頼みに応えたい気持ちはある。

 けれど、それ以上に――あの人と戦うことに、強い抵抗を感じた。

 その理由を明確に言語化できるわけではない。

 ただ、心の奥で何かが警鐘を鳴らしていた。

 

「……すいませんが、私は力になれないと思います」

 

 静かに頭を下げる唯。

 

「私個人として気が乗らないというのもありますが、何より……()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()ので」

 

 唯はその身に、四騎士の一人――死王女モルヴェリアを宿している。

 だが、その異名に反して、モルヴェリアは争いを好まない平和主義者だった。

 彼女とどうして争うことになったのか。

 今思い返しても、唯にはその背景が分からない。

 考えようとすると、思考に靄がかかるのだ。

 まるで、何かが意図的に遮っているかのように。

 

「そっか……それじゃあ、仕方がないね」

 

 モルヴェリアのことは、地藤も理解していたのだろう。

 彼は落胆を大きく表に出すことなく、静かに頷いた。

 その視線が、唯の隣で黙り込んでいる蓮へと向けられる。

 

「蓮はどうだい。この世界を守るために、手を貸してくれないか?」

「……」

 

 腕を組み、蓮は黙って考え込んだ。

 思い返すのは、短い時間ながらも共にクリスマスを過ごした“偽物”とされた地藤優斗のこと。

 確かに、挙動不審で、言動に不自然な点もあった。

 記憶喪失だと告げられた時も、冗談とは思えない真剣な顔に困惑した。

 それでも――蓮の直感は、あれが地藤優斗であると告げていた。

 だが同時に、目の前の“本物”の地藤が語る内容も、真実であると告げていた。

 

 蓮の直感は、時に人間離れした精度を持つ。

 それが、今は両方を肯定していた。

 矛盾するはずの二つの“真実”が、同時に心に並び立つ。

 

 その違和感に、蓮は静かに眉を寄せた。

 

「ま、話を聞いてみないことには分からないか……」

 

 誰にも聞き取れないほどの小声で呟き、蓮は顔を上げる。

 

「分かった。協力するよ」

 

 その言葉に、地藤優斗は心底嬉しそうに微笑んだ。

 

「ありがとう! 君がいれば百人力だ!」

 

 きっと、この世界は救われる。

 だって――主人公を味方につけたのだから。

 

 鏡の地藤優斗は、誰にも悟られないように、静かに――邪悪に微笑んだ。

 

 

 

♰♰♰♰♰ ♰♰♰✜♰♰♰ ♰♰♰♰♰

 

 

 

 ホテルの外に展開された紫色の結界を見つめながら、僕は背後に問いかけた。

 

「結界はまだ大丈夫そう?」

「まーね。さっきの一撃で一瞬だけ罅が入ったけど、即座に修復しておいたよ。とはいえ、向こうにも、劣化版とはいえ“僕”がいる以上、長くはもたないだろうね」

「……そうか」

 

 相変わらず、鏡の自分に対して妙な対抗心を燃やしているメフィラの言葉を、僕は軽く受け流す。

 顎に手を添え、思考を深く沈める。

 

 戦力的には、本来こちらが優位なはずだった。

 鏡の僕と僕は、能力的にほぼ同格。

 鏡のメフィラとメフィラなら、間違いなくこちらのメフィラが勝る。

 だから、理屈の上では、僕たちの方が有利なはずだった。

 

 ――あちらが“十六夜蓮”という切り札を切るまでは。

 

 彼はまだ完全に覚醒しているわけではない。おまけに、精神が反転状態にあるお陰で、ごく普通の高校生に近い状態になっている。

 だから、原作のように「いや、まだ立つのは流石に人間辞めてない……?」みたいな英雄検定一級みたいなムーヴをしてくる可能性は極めて低いだろう。

 

 しかし、それでも、僕は安心なんて全くできない。

 なにせ、相手はあの十六夜蓮なのだ。

 

 僕には確信がある。

 追い詰められた奴は、きっと何かを起こす――という確信が。

 僕には未来が見えている。完全に“詰み”の状態まで追い込み、後は止めを刺すだけという場面で奴は、理屈を超えた“主人公補正”で、劣勢をひっくり返してくるに違いない。

 ソースは僕だ。

 プレイヤーがドン引きするほどの精神の強さを誇る十六夜蓮が、世界が変わって人格が多少変容した程度で早々にリタイアするとは考えられない。

 

 ――ったく、これだから“主人公”って呼ばれる連中は嫌いなんだ! ペッ!

 

 閑話休題。

 

 愚痴をこぼしていても、状況が好転するわけではない。

 とにかく今は、この脅威をどうにかして乗り切るしかない。

 でなければ、鏡の世界に迫る滅びの危機を、誰にも伝えることができなくなってしまう。

 だが、どう足掻いたところで、鏡の十六夜蓮に対抗する手段はない。

 純粋に、戦力が足りないのだ。

 

 少なくとも、()()()()()()

 

「ん? どうしたユウト。私の顔をじっと見て」

 

 無邪気に首を傾げる霧島先輩の声が、思考の渦から僕を引き戻す。

 その声音はいつも通りで、どこまでも朗らかだった。

 彼女は強い。

 間違いなく、強い。

 それこそ、覚醒したばかりでようやく武器を呼び出せるようになった程度の十六夜蓮では、到底相手にならないだろう。

 彼女がこちらの味方になってくれるだけで、戦況は一気に傾く。

 勝機が見える。

 希望が生まれる。

 

 しかし、僕は彼女に『僕たちと一緒に戦ってほしい』と切り出すことが出来なかった。

 だって、彼女は鏡の世界の住人なのだ。

 

 ――僕が“助けない”ことを選択した、これから消えゆく鏡の世界の人なのだ。

 

 言えない。

 頼めるはずがない。

 

「貴女たちの世界を滅ぼすための手伝いをしてください」――そんな言葉、口にできるわけがなかった。

 

「なんだ、また悩み事か? ユウトはいっつも悩んでんなー」

 

 軽やかな声。

 霧島先輩は白い歯を見せて笑いながら、僕の頬を両手でぎゅっと挟んでくる。

 

「何を悩んでんのか知らねーが、ほれ、おねえちゃんに言ってみな」

「……霧島先輩は、どうして僕たちと一緒に来てくれたんですか? 咄嗟に手を引いたのは僕ですが、途中で帰ることもできたのでは……?」

 

 余りにも自然体な彼女を見て――今更の話ではあるが、ふと気になったことを尋ねる。 彼女は僕たちに付いて来る必要なんてなかった。

 だって、彼女は鏡の世界の住人なのだから。

 本来であれば、今、この結界に攻撃を仕掛けてきている鏡の僕たちの側にいるべき人なのだ。

 

 だというのに、何故、昨日出会ったばかりの僕に付いて来てくれるのか――

 

「ん? そりゃあ、ユウトのことを放っておけなかったからに決まってんだろ?」

「それを言うなら鏡の僕だって優斗なのでは……?」

「そりゃそうなんだが……うーん、なんかちょっと()()()があってな」

「違和感……?」

「上手く説明できないんだが、なんつーか、こう……お前の方がユウトって感じがしてな。お前たち二人が並んでるのを見て、強くそう思ったんだ」

 

 僕の方が、ユウト。

 もちろん僕がオリジナルなのだから、彼女の直感が正しく働いたのだと考えることもできる。

 けれど、何故か、それだけではない気がした。

 

「ま、何にせよ私はお前の味方をするって決めたんだ。だから悩み事があるなら言ってみな」

「……本当にそれで、いいんですか?」

 

 だって。

 

「だって、僕たちは鏡の世界の滅びを是としているんですよ……? この世界が滅びるってことは、霧島先輩も――」

「消えることになるだろうな」

 

 彼女はあっけらかんとした口調で、僕の言葉の続きをさらりと口にした。

 その表情には悲壮感の欠片もなく、まるで他人事のようにさえ見える。

 本当に理解しているのか――そんな疑念すら浮かぶほどだった。

 

「なるだろうなって……そんな、他人事みたいなこと言わないでくださいよ!」

「おいおい、なんでお前が憤ってんだよ」

「分かりませんよ! そんなこと……」

 

 僕が怒るなんて、筋違いも甚だしい。

 僕にそんな資格はない。

 それでも、もし言わせてもらえるなら――僕は、呆れたように優しく微笑む霧島先輩の代わりに怒っているのだろう。

 勝手に創られて、勝手に消え去る運命を、あっさりと受け入れてしまう彼女の代わりに。

 

「やっぱりユウトは優しい奴だな。……でも、いいんだ。きっと、そういう運命だったんだろうから」

「運命だなんて、そんな……」

「そういうもんなんだよ、運命って奴は。……私の弟が、それを教えてくれたから、よく知ってる」

「あっ」

 

 そうだ。

 霧島レイの弟――霧島ユウ。

 彼こそ、“運命”に翻弄されながらも、最後には勇気を持って立ち向かった少年だった。

 

 だから彼女は知っている。

 運命の気まぐれと、残酷さを。

 そして、それに抗うことの意味を。

 

 いつも朗らかな笑みを浮かべていた霧島先輩は、ふと目を伏せる。

 その表情は、まるで死期を悟った老人のように静かで、穏やかだった。

 

「それにな、実を言うと――こうなる気はしてたんだよな」

 

 霧島先輩は、ふと遠くを見るような目で言った。

 

「ほら、私って吸血鬼じゃん? だからか分かんねーけど、最初からこの世界にちょっとだけ違和感があったんだ。なんて言ったらいいんだろうな……なんか、違う場所にいるっていうか、“今しかない時間”にいる感じがしてさ」

 

 彼女はずっと考えていたのだろう。

 あの朗らかな笑顔の裏で、直感を研ぎ澄ませて、何かを感じ取り続けていた。

 今にして思えば、公園で偶然引き返してきたと言っていたあの時も、本当は僕のことを見張っていたのかもしれない。

 何か引っかかるものがあったのだ。

 僕という存在に、彼女の直感が反応していたのだ。

 だからこそ、さり気なく、けれど確かに、見守ってくれていたのだろう。

 

「先輩は、それで……いいんですか?」

 

 問いかける僕に、彼女は肩をすくめて笑った。

 

「手放しでいいとは言えねーけどさ。仕方ねーだろ。元々、私が存在してることの方がおかしいんだから。お前らだって、そういう話してたじゃん」

 

 料理に夢中なふりをしながらも、しっかり話を聞いていたらしい。

 その軽やかな態度の奥に、彼女なりの覚悟が滲んでいた。

 

「強いて言えば、お前ともう話せなくなるのは寂しいけどさ……そっちの世界には、ちゃんと“本物”の私がいるんだろ? だったら、大丈夫だ。霧島レイは、まだ生きてる。ユウトのことを守ってやれる。……だから、そんなに悲しそうな顔すんなよ。私は、ずっとお前を見守ってるからさ」

 

 その言葉は、優しさに満ちていた。

 けれど、どこか遠くへ行ってしまう人の声だった。

 己の死期を悟りながら、それでも最期まで姉のことを案じていた――彼女の弟と、同じ響きだった。

 

 強い意思を秘めた赤い瞳が、真っ直ぐに僕を見据える。

 その眼差しに、迷いはなかった。

 彼女はもう、決めていたのだ。

 自分の役割を。

 

「――さぁ、命令を寄越しな、主様。私は、私の心情に従って剣を振るうだけだ」

「……分かりました」

 

 彼女が決断したのなら、僕も応えなければならない。

 その覚悟に、誠実に向き合うべきだ。

 

「霧島先輩」

「おう」

「僕たちと一緒に戦ってください。そして、僕たちの世界を救う手助けをしてください」

「分かった。命令、確かに受け取ったぜ――主様」

 

 ニヤリと不敵に笑いながら、霧島レイは左手を翳す。

 指先に銀色の光が集まり、空気が微かに震えた。

 次の瞬間、彼女の手には一振りの刀が現れる。

 銀色に輝くその刃は、まるで彼女自身の魂を映すように、凛とした光を放っていた。

 

 その姿に、僕は静かに頷く。

 彼女の覚悟は、もう揺るがない。

 

 そして、戦いの始まりを前に、僕はもう一人の仲間へと視線を移した。

 ソファに腰かけたまま、ニヤニヤと事の推移を眺めていたメフィラ。

 その余裕のある態度に、僕は声をかける。

 

「メフィラ。このホテルの人たちを逃がしてやってくれないか?」

 

 意外そうに眉を上げるメフィラ。

 

「どうせ消えてなくなる世界の住人のことなんて、気に掛ける必要ないんじゃないかい?」

「気持ちの問題だよ。……この戦いに巻き込まれて死んだ人がいたら、向こうに帰って同一人物を見つけた時に気まずいじゃないか」

「ふーん? そういうものか」

「そういうものなんだよ。それが、人間さ」

 

 悪魔に言い聞かせるように、静かに呟く。

 合理性だけで動くなら、こんなことに労力を割く意味はない。

 自己満足だと笑う者もいるだろう。

 僕自身、心の隅でそう思っていないわけではない。

 それでも――気持ちは、大事だ。

 

 そして、()()もまた、大事になってくる。

 

 なにせ、これから始まるのは、文字通り「世界の存続を懸けた戦い」なのだから。

 正義は必ず勝つ、なんて戯言を言うつもりはない。

 けれど、道徳的な正義を掲げる者に、運命の女神が微笑む可能性は――高いと信じている。

 

 ゲン担ぎと言われればそれまでだが、それが僕の考え方だった。

 

「やれやれ、相変わらず変わり者の契約者様だね」

「自覚はあるよ。僕の命令への返答は?」

「是非もない」

 

 メフィラは優雅に右手をパチンと鳴らした。

 その瞬間、吸血鬼としての鋭敏な感覚が、ホテルから人の気配が消えたことを察知する。

 どうやら、悪魔は完璧に命令に応えてくれたらしい。

 

「流石だ、メフィラ。仕事が早いね」

「恐悦至極」

 

 ワインを片手に持ったまま、胸に手を当てて大仰な仕草で頭を下げるメフィラ。

 支配者であるはずの彼女が、従者のように振る舞うその姿は、妙に板についていた。

 

 珍しく素直に悪魔を褒めたあと、僕は窓の外へと視線を向ける。

 メフィラが張った紫色の膜には、稲妻のような亀裂が走っていた。

 結界は、もう間もなく突破される。

 僕は二人を振り返り、これから始まる戦いに向けて、静かに口を開いた。

 

「作戦会議をしようか」

 

 

 

 

♰♰♰♰♰ ♰♰♰✜♰♰♰ ♰♰♰♰♰

 

 

 

 

「作戦は?」

「正面突破あるのみだよ」

「なるほど、そいつは分かりやすくていいな」

 

 地藤優斗、メフィラと共に蓮がやって来たのは、都心部にそびえる巨大なホテルだった。

 外観は静かで、まるで何事も起きていないかのように見える。

 だが、目を凝らせば、ホテル全体が薄紫色の膜に覆われているのが分かる。

 結界だ。

 しかも、かなり強力なものだ。

 

 蓮は肩を鳴らし、呼び出した巨大な剣を肩に担ぐようにして構えた。

 その刃は、空気を震わせるほどの霊力を帯びている。

 だが――

 

「――っと、ホテルに泊まってる人たちがいるよな? 先に避難してもらわないと」

 

 蓮は慌てて剣を下ろした。

 己の力に対する自覚は薄い方だが、流石にこんな場所で全力を解放すればどうなるかくらいは想像がつく。

 善良な性根が自然と口をついて出た。

 至極当然のこととして。

 しかし、隣でポケットに手を突っ込んでいた地藤は、あっさりとこう言った。

 

「いや、気にしなくていいよ」

「お、おい。気にしなくていいって……こんなところで力を解放したら、ホテルにいる人たちが巻き添えになるだろ?」

 

 らしくないことを口にする地藤に、蓮は怪訝な視線を向ける。

 巨剣の切っ先を完全に下ろしながら、彼の真意を探るように目を細めた。

 地藤は白い息を吐きながら、隣のメフィラに視線を向ける。

 

「メフィラ」

「――はい。私の愛しの契約者様。ホテルにお泊りの方々には被害は及びません。そうなるよう、私が“悪魔の屁理屈”を発動させましたから」

「あぁ、そういうことか」

 

 蓮は納得したように頷いた。

 地藤に付き従う、深窓の令嬢のような悪魔の力はよく知っている。

 彼女が「問題ない」と言うのなら、問題はないのだろう。

 

「こういうのは先手必勝さ。頼むよ、蓮」

「……ま、ホテルの人たちに被害が及ばないなら、了解だ」

 

 蓮は再び巨剣を肩まで担ぎ上げる。

 目を閉じ、己の剣に膨大な霊力を注ぎ込んでいく。

 その全身から、可視化された青色の霊力が立ち昇り、空気が震える。

 十字の剣を掲げ、目を見開いた蓮は、高らかにその真名を解き放った。

 

巨いなる銀の剣(クラレント・ソレス)――!」

 

 振り下ろされた巨剣から、極光が迸る。

 濃密な霊力を込めた斬撃は一直線に飛び、紫色の結界に守られたホテルへと直撃した。

 結界は大きく軋み、空間が歪む。

 だが、完全に破壊するには至らなかった。

 

「流石の威力だね」

「でも、壊れなかったぞ……?」

「いや、いい調子だよ。このまま何発か撃っていれば、間違いなく結界は壊れるよ。――メフィラ」

「はい。私も結界へのハッキングを試みますので、蓮様は継続して結界への攻撃をお願いいたします」

 

 淡々と状況を見極め、冷静に指示を出す地藤。

 それに従い、即座に動くメフィラ。

 その連携は、まるで長年の戦友のように滑らかだった。

 蓮はふと、自分が場違いな存在に思えてきた。

 だが、下らない感傷に浸っている暇はない。

 

 蓮は指示に従い、再び巨剣を振り上げた。

 霊力が剣に集まり、空気が震える。

 何度目かの斬撃が放たれ、ついに――

 

 紫色の結界は、音を立てて崩壊した。

 

 

 

 

♰♰♰♰♰ ♰♰♰✜♰♰♰ ♰♰♰♰♰

 

 

 

「いいかい、あっちには()()()()()()()()()()()()がいる。ホテルに足を踏み入れた瞬間に、とんでもないトラップが仕掛けられている可能性もあるから、各自十分に警戒するように」

「おう」

「分かりました」

 

 結界が破られたホテルの正面玄関。

 冷たい風が吹き抜ける中、地藤は剣を取り出しながら、蓮とメフィラに向けて静かに警告を発した。

 その声には、冗談めいた軽さは一切なかった。

 

 “性格が悪いメフィラ”――その言葉の意味を、蓮はまだ具体的に理解できていない。

 実際に相対したことがない以上、想像するしかないのだが、この清楚で礼儀正しく、思慮深い、深窓の令嬢のような少女の性格が悪くなるところは、どうしても想像がつかなかった。

 

 だが、地藤の表情が真剣であることだけは、はっきりと分かった。

 だから蓮は、黙って頷いた。

 

「よし、それじゃあ、行こうか」

 

 地藤の号令と共に、三人はホテルの中へと足を踏み入れる。

 

「おぉ……」

 

 ホテルの存在は知っていたものの、市内ということもあって足を踏み入れたことがなかった蓮は、思わず感嘆の声を漏らした。

 クリスマスということもあってか、ホテルの内装は華やかだった。

 天井まで届く巨大なクリスマスツリーがロビーの中央に鎮座し、赤と緑のリボンが螺旋状に絡みついている。

 壁には金色の星型の飾りが並び、天井からは雪の結晶を模したライトが吊るされていた。

 床には赤い絨毯が敷かれ、両脇には白いポインセチアが並んでいる。

 煌びやかで、美しい空間。

 

 だが――そこに、決定的に欠けているものがあった。

 

 人の気配だ。

 受付にも、ロビーにも、ラウンジにも、誰一人として姿が見えない。

 笑い声も、足音も、話し声も、何も聞こえない。

 まるで、時間が止まってしまったかのように。

 蓮はその光景を目にして、逆にホッと肩を撫で下ろした。

 

「メフィラの言う通り、ちゃんとお客さんたちのことは保護してくれていたんだな」

 

 そう言いながら振り返ると、地藤は黙って立ち尽くしていた。

 その顔には、険しい影が差している。

 

「……どうしたんだ、優斗。険しい顔をして」

「……いや、なんでもない」

 

 短く答えた地藤は、すぐにメフィラと視線を交わした。

 言葉は交わされていない。

 けれど、何かが伝わっている気がした。

 目だけで、何かを確認し合っているような――そんな空気が、二人の間に流れていた。 

 

 首を傾げる蓮だが、メフィラとの間の確認は済んだのか、地藤は切り替えるように口を開いた。

 

「さて、早速鏡の僕たちを探すとしようか」

 

 蓮はすぐに反応する。

 

「どうやって?」

 

 純粋な疑問だった。

 この広いホテルのどこに敵が潜んでいるのか、見当もつかない。

 だが、地藤は迷うことなく応じた。

 

「メフィラ、お願い」

「はい」

 

 頷いたメフィラは、すっと受付のカウンターの奥へと滑り込む。

 その動作は優雅で、どこか舞踏のようだった。

 彼女は慣れた手つきで宿泊客の名簿を取り出すと、パラパラとページを捲り始めた。

 蓮はその様子を見ながら、首を傾げる。

 どうやら、宿泊者の中に紛れている鏡のメフィラを名簿から探し出すつもりらしい。

 だが、それはあまりにも原始的というか、地味というか――

 

「偽名で泊まっている可能性もあるんじゃないか?」

 

 思わず口にした蓮の疑問に、メフィラは名簿を捲る手を止めずに答えた。

 

「確かにありますね。ただ、これでも自分のことは分かっているつもりです。どういった種類の名前で泊まっているかくらい、すぐに分かります」

 

 その言葉には、妙な自信が滲んでいた。

 蓮は「そういうものか……?」と曖昧な相槌を打ちながら、内心では半信半疑だった。

 だが、次の瞬間――

 

「――と言っていたら、見つけましたよ」

 

 メフィラは薄っすらと微笑みながら、名簿を置いてとある名前を指さした。

 

()()()()()()。間違いなく、これでしょう」

 

 ……………………

 

 ………………

 

 …………

 

 ……

 

 

 蓮は一瞬、思考が止まった。

 地藤も無言で目を細める。

 空気が静まり返る。

 そして、次の瞬間。

 

 

 

 どこかで、誰かがズッコケる音がした。

 

 

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