世界の為に推しとの恋愛を諦めようとしたらヤンデレ化された件   作:赤坂緑語

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第56話:天羽璃奈は違和感を信じる

 

 少女には、違和感があった。

 

 少女の直感は鋭くて――特に、不穏な事柄について強く反応し、彼女に警告を送ってくれる。

 

 しかし警告に気が付いた時には既に手遅れ――なんてことが殆どで、だからこそ少女は己の耳を研ぎ澄ませ、何とか違和感の正体を察知しようとしていた。

 

 この違和感がいつから始まったものなのか、はっきりとは思い出せない。

 けれど、確かにあった。

 無視できないほどの、静かで、しかし執拗な違和感が。

 

 何かがおかしい。

 何かが、間違っている。

 何かが――違う。

 

 最初のうちは、気のせいだと自分に言い聞かせていた。

 そんな日もある、と軽く流していた。

 けれど、学校に登校して授業を受けている間も、途中で飽きて屋上でサボり寝をしている時も、お昼休みも、放課後になっても――彼女の脳内では、ずっと警報が鳴り続けていた。

 

 耳を塞いでも、目を閉じても、心の奥で鳴り響くその音は止まらず、彼女に休息を許さない。

 

「はぁ……()()

 

 ガリガリと不機嫌そうに頭を掻きながら、彼女は屋上のフェンスにもたれ、ぼんやりと運動場を見下ろす。

 気合十分にランニングをする野球部。

 ストレッチをしながらお喋りに興じるサッカー部。

 既にボールを打ち始めているテニス部。

 中途半端な音色を奏でる吹奏楽部。

 どれを切り取っても、いつも通りの日常だった。

 何も変わらない。

 

 この校舎も、燃えるような夕日も、彼女のファッションも、壊れてしまった心も――

 すべてが、変わらないまま、綺麗に回り続けている。

 それなのに、彼女の中だけが、止まっていた。

 世界が滑らかに進んでいくほど、彼女の違和感は濃く、重く、形を持ち始めていた。

 まるで、自分だけが異物になってしまったような感覚。

 誰にも気づかれず、誰にも触れられず、ただ“日常”の中に置き去りにされているような感覚。

 彼女は、屋上の風に髪を揺らしながら、目を細める。

 夕焼けが校舎を染めていく。

 その光景は、何度も見たはずなのに、今日だけは妙に遠く感じられた。

 

()()

 

 屋上で黄昏れていた彼女に、優しい声が掛けられる。

 ゆっくりと振り向いた天羽璃奈の背後には、彼がいた。

 彼女がこの世で最も愛する存在――地藤優斗が。

 

 彼は、いつものように彼女に笑いかけていた。

 璃奈は無表情ながら、微かに――彼女をよく知る者にしか分からないほどに、頬を緩める。

 

 彼とは四六時中一緒にいる。

 それでも、授業中は離れざるを得ない。

 一日の中で見れば、授業時間は決して短くはない。

 だからこそ、こうして再び彼の姿を目にした瞬間、璃奈は安堵し、知らずに入っていた肩の力を抜いた。

 

 彼がいれば。

 彼さえいれば。

 彼だけがいれば、璃奈の世界は壊れない。

 

 彼女はまだ、生きていられる。

 

 璃奈は美しいネイルが施された手をそっと彼に伸ばす。

 彼は心得たように自分の手を差し出し、2人の手が絡み合う。

 夕暮れの屋上で、2人は並んで街を眺める。

 璃奈は幸福だった。

 幸福なはずだった。

 ――なのに。

 

「ッ」

 

 不意に、ぶるりと寒気が背筋を走る。

 璃奈は最初、それを冷たい風のせいだと思った。

 もう冬だし、教室に置いてあるコートを取りに行って、家に帰るべきだと考える。

 彼女は恋人の手をギュッと強く握り、軽く引っ張った。

 

「璃奈?」

「寒い。帰ろ」

 

 端的で、つっけんどんな言動。

 けれど、地藤優斗は「しょうがないなぁ」とでも言いたげな苦笑を浮かべて頷く。

 

「分かった。もう帰ろうか」

 

 かくして、2人はいつものように手を繋ぎながら、愛の巣である天羽邸へと帰宅し始めた。

 璃奈は、元の世界とは異なり、話し上手というわけではない。

 どちらかと言えば不愛想で、クールな態度を取る少女だ。

 だが、隣にいる地藤がお喋りなおかげで、気まずい沈黙が生まれることはない。

 仮に沈黙が訪れたとしても、璃奈は彼と一緒であれば気まずさなんて感じない。

 2人は、いつものようにゆっくりと帰り道を歩く。

 けれど――

 

 璃奈の心の奥底では、違和感がまだ、静かに息をしていた。

 

 

♰♰♰♰♰ ♰♰♰✜♰♰♰ ♰♰♰♰♰

 

 

「ねぇ、優斗」

 

 聖西学園の制服をセンス良く着崩し、長いネイルに少し濃いめのメイクを施した少女――天羽璃奈は、隣を歩く温厚で真っ直ぐな気質の少年に声をかけた。

 彼女は、彼を「君」付けでは呼ばない。

 それは彼女のキャラではないし、呼び捨てに違和感を覚えることもない。

 地藤優斗は素直に頷きながら、横を歩く彼女に視線を向ける。

 

「なに?」

「なんかさ、変じゃね?」

「なにが?」

「なにかが」

「そんなに抽象的な問いじゃ、ちょっと分からないな」

 

 優斗は苦笑しながら答える。

 璃奈は「まぁ、そうだよね」と思いつつも、胸の奥に引っかかる違和感の正体を探ろうと、周囲に視線を巡らせる。

 

「なんか変なんだって。マジで。……ネイルかな?」

「いつも通り素敵だよ」

「化粧?」

「いつも通り綺麗だよ」

「私自身?」

「いつも通り最高だよ」

 

 璃奈は無表情のまま「んぅ」と悩ましげな声を漏らす。

 その頬は微かにぷるぷると震えていて、彼女がご機嫌であることは、彼女をよく知る者ならすぐに分かるだろう。

 

「でも、やっぱなんか変だわ。私は最高でも、なんか違う気がする」

「んー、僕は何も感じないけどなぁ……」

 

 悩み続ける璃奈と、困惑しながらも律儀に答える優斗。

 2人はのんびりと並んで歩きながら、あーでもない、こーでもないと他愛ない議論を交わす。

 その空気は穏やかで、どこか心地よい。

 けれど、璃奈の胸の奥には、まだ小さな違和感が残っていた。

 

「あっ、そうだ」

 

 ふと、優斗が声を上げる。

 なかなか悩みが晴れない様子の璃奈を見て、彼は提案した。

 

「ちょっと寄り道しない?」

 

 

♰♰♰♰♰ ♰♰♰✜♰♰♰ ♰♰♰♰♰

 

 

 地藤が彼女を連れてやってきたのは、双子山の展望台だった。

 冬の乾いた空気の中、オレンジ色の夕日が強い光を放ち、夜へと切り替わるその瞬間を壮大に演出していた。

 空は燃えるように赤く染まり、街並みはその光に包まれて、まるで別世界のようだ。

 屋上から見えていたものとはまた違った景色に感嘆の声を漏らす璃奈。

 

「どう? いい景色でしょ」

「うん」

 

 素直に頷きながら、璃奈は夕日に目を奪われる。

 確かに、いい景色だった。

 美しい景色だった。

 紫色の神秘的な瞳でじっと夕日を見つめていた彼女は、ふと視線を下へと移す。

 

「あれ? あそこって――」

「うん。そうだよ。璃奈と蓮が出会った場所だよ」

 

 綺麗なネイルが施された人差し指が示した先には、広々とした公園が広がっていた。

 地藤の言葉に、璃奈はジト目で彼を見やる。

 

「優斗、アンタもしかして」

「……うん、ごめん。ここから見てた」

 

 17歳の誕生日を迎えた十六夜蓮は、その夜、悪魔に襲われて秘められていた力を覚醒させる。爆発的な霊力の発生を察知した璃奈はすぐに現場へ急行し、十六夜蓮と出会い――物語が幕を開けた。

 その瞬間をコッソリ覗き見していたのだと素直に告白する地藤優斗。

 璃奈はわざとらしく大きな溜息をついた。

 

「あの時は大変だったわ。どこかの誰かがこの私をこっぴどく振ってくれたお陰でね」

「面目次第もございません……」

 

 地藤は真摯な面持ちで頭を下げる。

 この物語の始まりは十六夜蓮との出会いだったが――璃奈にとっての本当の始まりは、地藤優斗との出会い――そして、振られたことから始まったのかもしれない。

 

「反省してるならいいけど、次裏切ったらマジでぶっ殺だかんね?」

「肝に銘じておきます」

 

 璃奈は髪をかきあげながら、全く笑っていない目で告げる。

 それが冗談ではないことを、地藤はよく理解していた。

 彼は強く頷く。

 

「分かってるならよし」

 

 無表情のままコクリと頷き、会話を終わらせた璃奈は再び夕日に目を向ける。

 

「……あれから、色々あったわね」

 

 夕日の光に背を押されるように、璃奈はぽつりと呟く。

 本当に、色々なことがあった。

 

 十六夜蓮との出会い。

 死王女の復活と戦い。

 ふざけた悪魔との邂逅。

 地藤との和解。

 霧島レイの襲撃。

 血の大公との対峙。

 母の亡霊との対峙。

 地藤の吸血鬼化。

 霧島レイとの休戦協定。

 

 こうして並べるだけでも、目まぐるしい出来事ばかりだ。

 それが、ほんの数か月――時には一日のうちに起こったことだというのだから、驚きでしかない。

 

「うん。本当に、色々あったね」

 

 しみじみと璃奈の言葉に同意しながら、地藤は一歩、夕日に向かって踏み出した。

 

「でも、僕たちはその全部を乗り越えて、今ここにいる。……おかげで、こうして綺麗な夕日を見られてるわけだし、悪いことばかりでもなかったよね?」

 

 はにかむような笑みを浮かべながら、優しく問いかける。

 璃奈は首を縦に振って、素直に頷いた。

 

「そうね。優斗と仲直りできたこと以外は、至極どうでもいいけれど。概ね同意」

「相変わらずだなぁ」

 

 あっけらかんとした返答に、地藤は苦笑する。

 2人で並んで、夕日を見つめる。

 その光は、静かに世界を染めていく。

 そんな時、不意に――

 

「……守らなきゃいけないよね」

 

 地藤が、消え入りそうな声でぽつりと呟いた。

 

「だって、()()()()()()()()()()()()()()()()()――」

「優斗……?」

 

 沈みゆく夕日を見守る彼の姿は、徐々に暗くなっていく景色に溶け込むように、影の中へと沈んでいく。

 その様子を見つめていた璃奈は、突然、胸の奥にぽっかりと空洞が開いたような焦燥感に襲われた。

 思わず、彼を引き留めるように声をかける。

 振り向いた地藤の顔は、逆光に包まれて黒く染まり、その表情は判然としない。

 

「どうしたの? 璃奈」

「……」

「璃奈?」

 

 璃奈はそっと額に手を当てた。

 頭がガンガンと痛い。

 絶えず警報が頭の中で鳴り響いていて――彼女に警告を送ってくる。

 違和感だ。

 違和感がある。

 何かが、違う。

 

「だ、大丈夫――?」

「ねぇ、優斗」

 

 心配そうに覗き込んでくる地藤に向かって、璃奈は咄嗟に思い浮かんだ提案を口にした。

 

「チューしよ」

「……は、はぁ⁉」

 

 衝撃の提案内容に固まる地藤。

 彼女とは幾度となくチューをする仲ではあるが――流石にこんなところでした経験はない。

 

「こ、ここで……?」

 

 思わず不安になりながら尋ねる。

 璃奈は堂々と答えた。

 

「大丈夫だって。誰も見てないから」

「いや、でも……」

 

 キョロキョロと辺りを見渡す地藤。

 少し山を登ったところにあるこの展望台には、今のところ人影はない。

 しかし、いつ誰が現れるとも限らない。

 

「じれったい」

 

 璃奈は狼狽える彼をじっと見つめながら、一歩ずいっと踏み出す。

 獲物を追い詰める狼のように、彼を手摺まで後退させると、彼の背後にある手摺を両手で掴んだ。

 壁ドンならぬ、手摺りギュッ、である。

 

「ここには誰も来ないわよ。人払いの結界、張っといたから」

「な、なんちゅー能力の無駄遣いを……」

 

 地藤が呆れたように返す。

 元の世界の璃奈であれば、こんなことは絶対にしない――いや、彼女も彼女で根は結構やんちゃなので、案外やるかもしれない。

 それはともかく。

 この世界の璃奈は、優れた才覚を惜しみなく発揮しながら、彼の逃げ道を着々と塞いでいく。

 

「な、なんで急にキスなのさ?」

「したくなったから。それじゃダメ?」

 

 小首を傾げる璃奈は、無表情のまま。

 けれど、その仕草には言葉にできないほどの色香が宿っていた。

 抗いがたいほど魅力的なその誘いを、断れる男などいるはずがない。

 

「だ、ダメってわけじゃないけど――」

「じゃあ、いいじゃん。とりま、チューしよ」

「ど、どうしたの急に?」

 

 グイグイと攻めてくる璃奈に、地藤は困惑する。

 その様子を見つめながら、璃奈はふと、芝居がかった口調で言った。

 まるで、何かを演じているかのように。

 

「お姫様は、王子様のキスで目覚めるものでしょう?」

 

 その言葉に、地藤は一瞬、言葉を失う。

 

「……璃奈、眠ってるの?」

「かもね」

 

 フッと自虐的な笑みを浮かべる璃奈。

 その笑みは、どこかニヒルで、そして妙に似合っていた。

 まるで、何かを諦めた者のような――あるいは、何かを隠している者のような。

 地藤は、何とはなしに落ち着かなくなって、チラリと背後を振り返る。

 

 ここは展望台。背後には何もない。

 眼下に広がる山々と――背後から、沈みかけた夕日がじっと見つめてくるだけだ。

 璃奈は小首を傾げながら、そっと彼の耳元で囁く。

 

「夕日が気になる?」

 

 答えることもできず、固まる地藤に薄く微笑みかけながら、璃奈はゆっくりと顔を近づけていく。

 

「気にしなくていいよ」

 

 その声は、優しくて、どこか冷たい。

 いい香りが脳髄をくすぐり、暴力的なまでに美しい顔が、真っ直ぐに彼を見つめる。

 

「もう、沈むから――」

 

 2人の唇が交わる。

 夕日が沈み、黄昏の時間が終わり――

 

 夜が訪れた。

 

 

 

 

♰♰♰♰♰ ♰♰♰✜♰♰♰ ♰♰♰♰♰

 

 

 

 

 

「あっ、そういえば今日、友達が遊びに来んだよね。悪いけど帰ってくんない?」

「えぇ⁉」

 

 家に帰った璃奈は、さらりと衝撃的な一言を放った。

 地藤は目を見開き、言葉を失う。

 ついさっきまで展望台でキスを交わし、互いの存在を確かめ合ったばかりだった。

 それなのに、まるで何事もなかったかのように、彼女は冷たく扉を閉める。

 

「じゃーね」

 

 その言葉とともに、玄関の扉が静かに閉じられる。

 地藤は疑問符を浮かべながら、渋々と背を向け、久々に自宅へと帰っていく。

 璃奈は、窓辺からその背中を見送っていた。

 そして、その姿が角を曲がって見えなくなった瞬間――彼女は、崩れ落ちた。

 

「ッ――!」

 

 唇を噛み、震える肩を自分の腕で抱きしめながら、床に膝をつく。

 顔を伏せ、声にならない嗚咽が喉の奥で震える。

 

「なん、で……」

 

 悲痛な声が漏れる。

 それは誰に向けた問いだったのか。

 璃奈は、睨むような、嘆くような、そんな曖昧な視線で宙を見つめていた。

 

「なんでよ……」

 

 苛立ちまぎれに、艶やかな黒髪を乱暴に搔きむしる。

 だが、その行為にもすぐに飽きてしまい、全身の力を抜いて床に崩れ落ちる。

 ぼんやりと天井を見上げながら、璃奈は静かに絶望していた。

 立ち上がる気力を削がれていた。

 戦う為の意思を無くしていた。

 この世界にいる意義を、見失っていた。

 

 であれば――自分がここに居る意味はないだろう。

 

 その結論に至るまでに、迷いはなかった。

 璃奈は最後の力を振り絞り、よろめくように立ち上がる。

 そして、足を引きずるようにして階段を上がっていく。

 向かう先は、二階の自室だ。

 

 手摺に掴まりながら、ギリギリの状態で何とか部屋に辿り着いた璃奈は、頼りない足取りでタンスへ向かう。

 その奥にある金庫に手を伸ばし、暗記している番号を無言で入力した。

 カチリと音がして、扉が開く。

 中には、父と母、そして幼い頃の璃奈が一緒に写った写真が一枚入っていた。

 まだ、幸せだったころの記憶。

 笑顔の中に、何の疑いもなかった時代。

 

 そして、その隣に――無機質な、黒い拳銃が一丁、静かに仕舞われていた。

 

「……」

 

 璃奈は、無言でそれを手に取る。

 重みが、掌にのしかかる。

 冷たさが、皮膚を刺す。

 それは、母が己の頭を吹き飛ばした拳銃だった。

 

「結局、ママと同じ末路か……」

 

 自虐するように唇を釣り上げ――上手く笑えなかった璃奈は、床を這うようにして机へと向かう。

 既に彼女の心は瀕死の状態だ。

 しかし、それでも――事実の断片を掴んだ者として、果たすべき義務があると考えていた。

 

 これから訪れるであろう人物たちに対して果たすべき義務が。

 

 適当にノートの一部を千切り、そこに書くべき内容を考える。

 心は瀕死だったが、頭はまだ冴えていた。

 事細かに綴れば、きっと感づかれる。

 

 だからこそ、言葉は端的に。

 璃奈は少し考えた後、震える手で文字を書き始めた。

 その筆跡は乱れていたが、意味ははっきりと刻まれていた。

 書き終えた紙を見て、彼女は鼻を鳴らす。

 自嘲するような音だった。

 そして、切なげに目を伏せる。

 

「……後は、アンタに任せるわ」

 

 紙を小さく折り畳み、一縷の望みを託してペンダントの中に仕舞い込む。

 仮に見つかってしまえば、燃やされるかもしれない。

 けれど、それはもう――この璃奈には関係のない話だった。

 

 用件を済ませた璃奈は、椅子から立ち上がり、流れるような動作で己の側頭部に銃口を押し当てた。

 

 そして、何の躊躇もなくその引き金を引いた。

 

 乾いた銃声が一発、部屋に響く。

 少女の身体が、音もなく床に横たわる。

 

 部屋の鏡には、目を閉じた少女の顔が映っていた。

 そこには、苦悩も、怒りも、涙もなかった。

 ただ、静かに――絶望から解放された、安らかな表情だけが残されていた。

 

 

 

♰♰♰♰♰ ♰♰♰✜♰♰♰ ♰♰♰♰♰

 

 

「ッ」

 

 不意に、寒気が走り、()()()()は顔を上げた。

 

 優れた直感を持つ彼女は、すぐに周囲を見渡す。

 目に映るのは、大きなクリスマスツリー。

 赤と緑のリボンやオーナメントで丁寧に飾られた室内。

 高級感のある木製のテーブルには、豪勢な料理が並び、煌びやかな照明がそれらを柔らかく照らしている。

 

 ――何も変わっていない。

 先ほどまでと同じ光景だ。

 

 屋敷の中は依然、()()()()()()()()()()()()、冷たい静寂に包まれている。

 

「……」

 

 璃奈は暗い表情のまま、再び視線を手元の携帯へと落とした。

 どんよりとした空気を身に纏う彼女は、指先で何度も画面をタップしては、更新されない内容を確認し続けている。

 メッセージアプリの宛先は、最愛の恋人――地藤優斗。

 そこに送られたメッセージの数は、既に百を超えていた。

 

 数時間前のことだ。

 

『クリスマスプレゼント買って来るね! サプライズで渡すから、楽しみにしていて!』

 

 そう言って、弾むような笑顔で彼は天羽邸を飛び出して行った。

 彼が自分の為にクリスマスプレゼントを用意してくれるというのだ。嬉しくないわけがない。

 

 けれど、同時に璃奈の胸には、拭いきれない不安があった。

 

 彼女の最愛の人は、(彼女の眼から見て)何があっても勇気と頭脳で何とかしてくれる頼れるヒーローのような人だが――同時に、何かにつけてトラブルに巻き込まれがちな困った人でもある。

 

 少しでも目を離せば、また妙な騒動に巻き込まれてしまうのではないか――

 そんな懸念が拭えず、璃奈はここ最近、彼を屋敷に閉じ込めるような真似までしてしまっていた。

 

 しかし、そうは言っても、世界を巻き込むレベルのトラブルなど早々起きるものではない。

 クリスマスの浮かれた空気に絆され、また彼の悲しむ顔が見たくなくて、璃奈は自然と外出を許可してしまっていた。

 

 そして――その結果が、これだ。

 

 16時頃に出掛けた彼は、かれこれ六時間以上経った今も帰ってこない。

 携帯の充電が切れている可能性も、一応は考えた。

 けれど――彼なら。

 あの人なら、どんな状況でも機転を利かせて、必ず璃奈に一報を入れてくれるはずだ。

 そう、くれるはずなのだ。

 それすらもないということは、つまり――そういうことなのだろう。

 

「ッ!」

 

 突如、璃奈は拳を振り上げ、目の前のテーブルに叩きつけた。

 轟音が響き、立派な木材でできた天板は、少女の拳によって無惨に粉砕される。

 耳に掛けられていた艶やかな黒髪が一房垂れ、端正な横顔を覆い隠す。

 ギリギリと歯を食いしばりながら、璃奈は底冷えするような瞳で、ここではない“どこか”を睨みつけていた。

 

 ――まただ。

 いつも、こうだ。

 どこかの誰かが、彼を厄介ごとに巻き込んでいく。

 

 璃奈から、彼を引き離していく。

 

 璃奈は持ち前の美貌を、憎悪に歪めながら思う。

 やっぱり――やっぱり、彼を外に出すべきではなかったのだ。

 扉を閉じて、鍵をかけて、囲っておくべきだった。

 醜悪な外の連中と関わらせるべきではなかった。

 次こそは、絶対に外へ出さない。

 誰にも触れさせない。

 誰にも、奪わせない。

 

 物騒な決意を胸に、璃奈は静かに席を立ち上がる。

 

 帰ってこないのなら――迎えに行くだけのこと。

 立ち塞がるものはすべて粉砕し、彼をこの場所へ連れ帰ってみせる。

 璃奈はもう、大人しく待っているだけのいい子ちゃんではないのだ。

 

 彼は璃奈のものだ。

 誰にも渡さない。

 誰にも、邪魔させない。

 

 すっかり冷めてしまった料理に背を向け、璃奈は外出の準備のために二階の自室へと向かった。

 捜索には万全を期す必要がある。

 彼の居場所を特定するための道具も、念のため持参しておこう――そう決意しながら、部屋の扉を開ける。

 

 暖房を入れていなかった室内は、ひんやりと冷たく、無言のまま家主を迎え入れる。

 長居するつもりはなかった。

 璃奈は電気だけをつけ、手際よく準備を進めていく。

 必要なものを鞄に詰め終えた後、ふと鏡の前に立つ。

 彼と再会したとき、少しでも魅力的に見えるように――そんな思いで、髪を整えようと鏡を覗き込んだその瞬間。

 

「ッ‼」

 

 咄嗟に二丁拳銃を召喚してその銃口を突きつけた。

 彼女の顔が映るはずだった鏡には、彼女以外のものが映っていた。

 

 ――いや、適切な表現ではなかったかもしれない。

 

 そこに映っていたのは、彼女自身ではないが、確かに()()()()()

 

「私……?」

 

 鏡には、一人の少女が映っていた。

 死期色の肌をした少女。

 少し派手めな化粧をしたその少女の顔立ちはしかし、彼女が良く知る顔――天羽璃奈の顔に他ならない。

 

 彼女は眠っていた。

 側頭部から赤い血を流しながら、まるで時間そのものから切り離されたように、深い眠りに落ちていた。

 その手には、黒い拳銃が握られている。

 

「……」

 

 鏡に、自殺した自分の姿が映っていた。

 普通の人間なら、慌てふためき、顔を真っ青にして動転するだろう。

 けれど――天羽璃奈は、極めて冷静だった。

 かつて、毎晩のように自分がこの方法で命を絶つ夢を見ていた彼女にとって、この光景はある種“シミュレーション通り”のものだった。

 驚くには値しない。

 むしろ、見慣れた幻のような、平凡な光景。

 

 とはいえ、まったく動揺していないわけではない。

 なぜ突然、こんな映像が鏡に映し出されたのか――その理由を探る必要がある。

 

 璃奈は鏡から意識を逸らさないよう細心の注意を払いながら、ゆっくりと部屋の中を見渡した。

 プロジェクターのような装置も、魔力の残滓のような痕跡も見当たらない。

 目に見える範囲に、仕掛けられたトリックは存在しなかった。

 何の仕掛けもなく、こんな光景が現れるはずがない。

 それでも、鏡の中には確かに“死んだ自分”が映っている。

 璃奈は二丁拳銃を構えたまま、慎重に鏡へと歩を進める。

 

 と、その時――鏡の奥で、何かが揺らいだ。

 

 ほんの一瞬。

 波紋のように鏡面が揺れ、そしてそこに――彼の姿が映った。

 

「……優斗君?」

 

 璃奈は息を呑む。

 鏡の中に現れたのは、確かに地藤優斗だった。

 制服姿の彼は、穏やかな笑みを浮かべて、こちらを見ていた。

 けれど、その姿はすぐに消えた。

 まるで、風に吹かれた幻のように。

 

 鏡の中には、再び血まみれの少女だけが映っている。

 璃奈は、鏡の前で立ち尽くす。

 今のは幻だったのか。

 それとも――彼が、あの中にいるということなのか。

 

「……」

 

 彼女の鋭い直感が告げていた。

 これは罠だ、と。

 しかし一方で、彼女の直感は別のことも告げていた。

 

 この誘いに乗るべきだ――と。

 

 自殺してしまったらしき自分の姿から見て、既に常軌を逸した何かが始まっていることは間違いない。

 間違いなく、彼が天羽邸へ帰って来られないのも、この事態が関係しているのだろう。

 

 地藤優斗が戦っているというのに、罠だからと言って二の足を踏む選択肢など、天羽璃奈には存在しない。

 

「待っててね、優斗君――」

 

 鏡の表面に手を伸ばす。

 冷たいはずの鏡は、液体のように揺らぎ、彼女の指先を飲み込む。

 

「――今、行くから」

 

 そして、天羽璃奈は誘われる。

 

 混沌を極める鏡の世界へと――。

 

 

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