世界の為に推しとの恋愛を諦めようとしたらヤンデレ化された件 作:赤坂緑語
『自分のことを強いと思ったことがあるか?』
そう問われたら、地藤優斗はきっとこう答えるだろう。
『あるわけないでしょ。何言ってんの?』
彼は、自分を“強い”などと思ったことは一度としてなかった。
なぜなら、彼が持つ力はすべて借り物に過ぎないからだ。
仮初のエクソシストとして戦えるのは、如月メフィラの“悪魔の屁理屈”のおかげ。
霧となって尋常ならざる力を発揮できるのは、霧島レイの吸血鬼化によるもの。
どれも強力な力ではある。
だが、地藤優斗自身の内側から生まれたものは一つとして存在しない。
それは、彼にとって大きな負い目だった。
きっと、この話を聞いた性格の悪い悪魔は、自虐的な契約者に鼻を鳴らしながらこう言うだろう。
『この力を勝ち取ったことこそが、君の力なんじゃないかい?』
――揶揄い半分、尊重半分で。
確かに、その言葉は正しい。
今の力を手に入れたのは、半ば成り行きとはいえ、地藤優斗という少年の気質と、知恵を振り絞った結果なのだから。
それは、彼自身の力と言っても差し支えない。
第一、“
それらを、まるで最初から自分のものであったかのように使いこなす彼の潜在能力には、目を見張るものがある。
それでも――天羽璃奈と同じように自己評価の低い地藤優斗は、他人から借り受けた力を自分のものだと胸を張って言うことができなかった。
そもそもにおいて――
死王女をその身に宿した少女を説き伏せ、世界の危機を救って如月メフィラから賞賛を受けても。
霧島レイの妄執に決着をつけさせ、血の大公の進行を食い止めても。
ずっと憧れていた天羽璃奈と結ばれたとしても。
地藤優斗は、自分に自信を持ったことなど、ただの一度としてなかった。
そして――その臆病さこそが、すべての始まりだったのである。
♰♰♰♰♰ ♰♰♰✜♰♰♰ ♰♰♰♰♰
何百合にも渡る剣戟に、ふと空白が生じた。
一瞬の隙を突き、地藤優斗は鋭い蹴りを放つ。
だが、それを読んでいた鏡の地藤は身を屈めて躱し、地を這うような足払いをカウンターで仕掛ける。
それすら読んでいた地藤優斗は軽やかに跳び上がり、空中で身を捻ると、反対の足で回し蹴りを放った。
「ぐっ……!」
避けきれないと判断した鏡の地藤は、咄嗟に両腕をクロスして防御する。魔力で強化された蹴撃が鋭く突き刺さり、踏ん張りきれずに吹き飛ばされた。ホテルの壁を突き破り、どことも知れぬ部屋へと転がり込む。
追撃を仕掛ける地藤に対し、鏡の地藤は十字剣を複数投擲し、牽制を図る。
白煙が立ち昇る中、小さな火花が散り、甲高い音とともに剣が床に突き刺さった。
「やりづらいな……!」
吐き捨てるように呟きながら、白煙の中から地藤優斗が飛び出す。
振り上げた剣を振り下ろすが、半ば予想していた通り、鏡の地藤にあっさりと食い止められた。
「そっくりそのまま同じ意見を返すよ」
真紅の瞳が互いを睨みつける。
地藤優斗 vs 鏡の地藤の戦いは、膠着状態に陥っていた。
なにせ、スペックは完全に同一。
互いの癖も、思考の傾向も、戦術の選択も、すべてが鏡写し。
こうなることは、最初から目に見えていた。
チェスのように一手一手を読み合い、さらにその読みを読み返す。
高度な攻防戦が、寸分の狂いもなく繰り広げられていた。
「いい加減、世界滅亡なんてベタな野望、諦めたらどうだ……!」
「世界の救済だ! 間違えるな馬鹿が……!」
鍔迫り合いの刹那、鏡の地藤の身体から黒い魔力が噴き出す。
その身は霧と化し、瞬く間に黒霧へと変貌した。
「僕からしたら同じことだ……!」
地藤優斗もまた、鏡の自分に呼応するように黒霧へと変貌する。
魔力の奔流が空間を軋ませ、2つの黒い塊が真正面から激突した。
ホテルの最上階は、もはや戦場というより災害現場だった。
壁は崩れ、天井は軋み、床は魔力の衝突でひび割れていく。
黒霧となった2人は、蜷局を巻きながら赤い瞳を爛々と輝かせ、空間を縦横無尽に駆け回る。
その姿は、まるで2匹の黒龍。
牙を剥き、爪を振るい、吸血鬼特有の豊富な魔力を惜しげもなくぶつけ合う。
狭すぎる最上階は、もはや彼らの器ではなかった。
互いを喰らい合う黒龍たちは、螺旋を描くように上昇し――ついに天井を突き破り、屋上へと飛び出した。
最高級ホテルの屋上には、富豪専用のヘリポートが広がっていた。
開けた空間に解き放たれた2匹の黒龍は、最後に空中で激突し、爆音と共に魔力の波動を撒き散らす。
そして――月光の下、2人の地藤優斗が、ヘリポートに実体化した姿で着地する。
瓦礫が転がり、夜風が吹き抜ける中、2人は静かに向かい合った。
その中で、地藤優斗はふと剣を下ろした。
構えを解き、息を整えながら、鏡の自分を見据える。
「……ねぇ、鏡の僕」
「なんだい、本体の僕」
対照的に、剣を下ろすことなく鏡の地藤が問いかけに応じる。
地藤優斗は、どこか底の見えない赤い瞳で、もう一人の自分を見つめながら静かに尋ねた。
「この世界を救って……それからどうするつもりなんだ?」
「どうもしないさ。世界を救えたことを喜びながら……救えなかった璃奈のことを思うよ」
鏡の地藤は月を見上げ、感傷に浸るように言葉を紡ぐ。
「君は、それで満足なのか?」
「もちろん。……さっきも言っただろう。璃奈を失った以上、僕に出来ることはそれくらいだって」
まるで罪を告白する罪人のような顔で、鏡の地藤は語る。
「罪滅ぼしになるかなんて分からない。それでも、この世界の滅びを黙って見過ごすことなんて、僕には出来ない。だって、この世界が消えたら――この世界の璃奈が生きた証まで、消えてしまうじゃないか」
「ッ……!」
痛いところを突かれたように、地藤優斗は唇を噛む。
「璃奈だけじゃない! 君がこの世界でお世話になっている霧島先輩も! 蓮も! 唯ちゃんも! メフィラも! みんなが生きた証がなくなるんだぞ⁉ そんなの……許せるわけがないじゃないか!」
鏡の地藤は、畳みかけるように熱を込めて言葉を放つ。
「なかったことになんて、させない。僕が、皆が生きた証を守るんだ。この美しい世界を壊させやしない。理不尽に奪わせることなんて、絶対にさせない。そういう風に運命が動いていたとしても――この僕が、許すものか!」
鏡の地藤は、真紅の瞳で地藤優斗を睨みつける。
その瞳には炎が渦巻いていた。
使命感と誇りを胸に抱き、愛する仲間たちのために、世界のために戦い続ける魂の炎が。
「だから、代わりに僕たちの世界を滅ぼすのか?」
「……そっちの世界には、悪いことをしてしまう。だけど、君にだって――メリットはあるはずだ」
「なに?」
怪訝な表情を浮かべる地藤優斗に、鏡の地藤は静かに語る。
「だって君、この世界の霧島先輩のこと、大好きだろう?」
否定はできない。
「この世界の唯ちゃんのことを、可愛いと思ったはずだ」
それも否定はできない。
「この世界の蓮に、安心感を覚えたはずだ」
確かにそうかもしれない。
「この世界の、嫋やかで慎み深いメフィラに感銘を受けたはずだ」
それはマジでそう。
この世界で出会った人々のことが、地藤の脳裏に次々と浮かぶ。
確かに、皆魅力的だった。
特にメフィラに関しては、何度こちらの方が良いと思ったか分からない。
だけど――
「……だけど、この世界には璃奈がいない」
それだけの理由で。
ただ、それだけが理由で地藤優斗は、この世界を許容できない。
認めることが、どうしてもできなかった。
だが、その言葉を待っていたかのように、鏡の地藤の口元に不敵な笑みが浮かぶ。
「璃奈がいるとしたら、どうする?」
「いないんだろう。この世界の璃奈は――」
「
ゾクリと、地藤優斗の背筋に悪寒が走った。
嫌な予感が、確信へと変わる。
その予感に沿うように、鏡の地藤が静かに告げた。
「君の世界の璃奈を、この世界に呼んだんだ」
「……嘘だ」
「嘘じゃないよ。現実世界との間に時間の乖離はあるけれど、君はこの世界に長く居すぎた。璃奈、心配していたよ? この世界に自分から飛び込むくらいには」
「お前……!」
地藤の顔に、怒りが燃え上がる。
鏡の地藤は、その視線だけで人を殺せそうな圧力を、涼しい顔で受け流しながら淡々と続けた。
「さっきメフィラを迎えに寄こした。もうそろそろ到着した頃じゃないかな? 電話してみようか?」
懐から携帯を取り出すと、鏡の地藤は通話ボタンを押す。
数回のコール音の後、スピーカーから聞こえてきたのは、嫋やかなメフィラの声だった。
『愛しの契約者様』
「やぁ、メフィラ。お姫様は到着したかい?」
『はい。今、私の目の前で銃を構えておいでです』
「それは怖いな。おい、本体の僕。彼女に銃を下ろすように伝えて――」
次の瞬間、風を裂く音が響いた。
鏡の地藤の手にあった携帯が十字剣に貫かれ、背後の壁に突き刺さる。
「――その前に、お前の脳天を串刺しにするのが先だ」
「おっかないな。リラックスしていこうぜ、本体の僕」
「どうして璃奈を呼んだ……!」
地藤の声には、怒りと焦燥が滲んでいた。
鏡の地藤は肩を竦め、飄々とした口調で答える。
「どうしてもこうしても、彼女を呼ばないと、君が向こうの世界を守りたがるからに決まっているだろう?」
「……!」
「だから、呼んだ」
その一言に、地藤は拳を握りしめる。
鏡の地藤は、まるで悪戯を打ち明ける子供のように、悪びれもせず言葉を続けた。
「ほら? これで君がこちらの世界を優先する為の理由は揃ったよ。これでもまだ、元の世界の方を優先するのかい?」
「当たり前だ。僕は璃奈を連れて元の世界に帰る! それで解決だ……!」
「ふむ、強情だね。どうしてそんなに向こうの世界に拘るんだい? 君にとって一番大事な天羽璃奈はこっちの世界に居るというのに」
「そ、れは――」
反論する為の言葉なんてすぐに思いつきそうなものなのに、何故か言葉に詰まる。
そんな地藤に畳みかけるように、鏡の地藤が声を重ねる。
「――それとも、君にとっては天羽璃奈よりも前の“世界”の方が大事なのかな?」
「ッ! 違う!」
「だが、君の態度はそう言っているよ? 第一、君は世界の為に天羽璃奈を諦めた男じゃないか。つまり――」
確信を突くように、鏡の地藤は冷ややかに断じた。
「――君にとって一番大事なものは、天羽璃奈ではなく“世界”なんだ。例え、どれほど自分に有利な条件がこの世界にあったとしても、君は元の“世界”が大事で大事で、仕方がないんだよ。それに、第一さ――」
鏡の地藤は囁くような声で尋ねた。
「君、本当に天羽璃奈のこと、好きなの?」
♰♰♰♰♰ ♰♰♰✜♰♰♰ ♰♰♰♰♰
空気が凍りついた。
一拍の沈黙のあと、地藤優斗は心底呆れたように声を上げた。
「はぁ?」
その声音には、怒りというよりも、理解不能なものに対する戸惑いが滲んでいた。
「何を言ってるんだ、お前。あまりにも馬鹿らしすぎて、一瞬固まっちゃったよ」
「そんなにおかしな問いだったかな?」
「当たり前だろ」
「……君は、何も分かっていないんだな」
鏡の地藤は、どこか哀れむような目で地藤優斗を見つめた。
「確かに、君は天羽璃奈のことが好きだったんだろう。でも、それは“一人の女の子”としてじゃない」
「なに……?」
「自覚はなかったのかい? 鏡を覗いてみるといい。そこに映るのは、過剰に天羽璃奈を尊重し、滑稽なほどに彼女を神聖視する男の姿だ」
「……それの何が問題なんだ?」
「君の“好き”は、アイドルや人形を愛でるようなものだ」
「ッ!」
あまりに一方的な言い草に、地藤の言葉が詰まる。鏡の地藤は淡々と続けた。
「そもそも、君は天羽璃奈と付き合えるなんて思っていなかったはずだ。君にとって彼女は、手が届くはずのない存在だった。いや、
鏡の地藤は一拍置き、冷ややかに断じる。
「“あぁ、こんなに簡単に手に入る女だったのか”――と」
「違うッ!」
「違わないさ。現に、君は“世界”を優先し、天羽璃奈を蔑ろにした。それは紛れもない事実だ」
「ッ!」
「本当に好きなら、そんな残酷な真似は出来ないはずだ」
地藤優斗の弱点ともいえる過去の選択を執拗に突き、鏡の地藤は彼の言葉を封じていく。
それは確かに、地藤優斗をよく知る者だからこそできる、容赦のない口撃だった。
「もうわかっただろう? 君はそういう人間なんだ。天羽璃奈を大事になんて思っていない。ただ“世界”の方が大事なだけだ。……自分が知っている箱庭に執着するだけの、人でなしさ」
自分が知っている箱庭――己の“原作知識”通りに動いている世界を愛しているのだと、鏡の地藤は指摘する。
思わず黙り込む地藤に対し、鏡の地藤は声の調子を柔らげ、寄り添うように語りかけた。
「けれど、それも仕方のないことだ。
鏡の地藤の声は淡々としていたが、その響きは鋭く、逃げ場を与えない。
「だけど、そんな君でも天羽璃奈を大事に思う気持ちに噓はないはずだ。だから、まずは彼女のために動いてみないか? 前の“世界”に固執するんじゃなくて、本当に彼女を愛せる自分になるための一歩を踏み出すんだ。この鏡の世界ならそれが出来る。何故ならここは君の知る箱庭ではないのだから。僕たちの眼も通じない異世界のようなものだ。ここでなら、君は彼女を本物の女性として愛することができるはずだ」
地藤優斗は答えない。
ただ黙したまま、鏡の地藤を見据えていた。
「……君も、そうなのか? “世界”の方が“天羽璃奈”よりも大事なのか?」
「残念ながら、そうだ。それが僕たちの“芯”なんだから」
鏡の地藤は悲痛に顔を歪めながらも、なお前を向く。
「僕は気づくのが遅くて璃奈を失ってしまった。けれど、君はまだ間に合う。ここから本当の意味で天羽璃奈を大事にするためにも、今、違う選択を始めようじゃないか」
「……」
「さぁ、僕と一緒に――」
鏡の地藤の手が差し出される。
地藤優斗はその手をじっと見つめ――やがて、小さな溜息をつき、静かに頷いた。
「……分かった」
「流石は僕。誇らしく思うよ。正しい決断をしてくれて――」
「違うよ」
「――は?」
「早とちりするなよ。僕が分かったといったのは、お前のクソみたいな提案のことじゃない。お前のことが分かったと言ったんだ」
「僕のこと?」
首を傾げる鏡の地藤に対し、本体の地藤優斗はハッキリと告げる。
その声音には揺らぎがなく、鋭い刃のように真っ直ぐだった。
「君は、僕じゃない」
「いいや、僕は君だよ」
何度も繰り返されたやり取り。
だが今回は、空気が違った。
「違う」
地藤優斗は確信を持って断言する。
迷いのない瞳が虚像を射抜き、そこに一片の同一性すら認めない。
「君は、僕じゃない。君は――
「……なにをおかしなことを。僕は、地藤優斗だよ。鏡に映る君自身だ」
「違うね。そんなわけがない。だって――」
地藤優斗は一歩踏み出し、言葉を切り裂くように吐き捨てた。
「――お前が言ったことは、全部間違いなんだから」
♰♰♰♰♰ ♰♰♰✜♰♰♰ ♰♰♰♰♰
忘れもしない、あの日。
死王女が降臨した混乱の中、僕は泣きそうになりながら病院の廊下を駆け抜けていた。
頭の中を占めていたのは――どうして自分がこんなことをしてしまったのか、という後悔だけだった。
あの時は結論に至れなかったけれど、今なら分かる。僕の過ちはすべて、“臆病”だったことに起因していたのだ。
怖かった。
世界が滅ぶことが――ではない。
天羽璃奈を、十六夜蓮に奪われることが、何よりも怖かった。
僕はこの世界を知っている。登場人物の性格も、戦闘能力も、敵の正体も、その強さも、物語の展開も。
当然、十六夜蓮という主人公の魅力も知っていた。彼と天羽璃奈の相性が抜群であることも、美しい運命を辿る二人の姿も。そこに僕がいてはならないことも。
僕なんかでは、十六夜蓮に勝てないことも。
もし彼に天羽璃奈を奪われたら――目の前で鮮やかにさらわれたら。
僕はきっと耐えられない。憧れのヒーローに大切な人を奪われ、憎み切ることもできず、中途半端な気持ちのまま呼吸を失い、窒息してしまうだろう。
彼女に運命の人がいるのなら。
僕では絶対に勝てない人がいるのなら。
最後にはすべて奪われると分かっているのなら――
ぜんぶ、ぜんぶ、この世界のせいにしてしまえばいい。
「世界のためだ」と自分に言い訳し、彼女から離れれば傷つかずに済む。
例え痛みがあっても、それは自分で自分を殴るようなもの。無意識に手加減をしているから、致命的にはならない。
僕は傷つきたくなかった。だから――璃奈を代わりに傷つけた。
傷つけられる前に、自分から手放したように見せかけただけだった。
ずっと自分を騙していた。
善良な人間だと、世界のために動ける人間だと、思い込みたかった。
だけど違った。僕は――自己保身の塊だった。
悪魔のような人間だったのだ。
それでも。
そんな僕でも、断言できることがある。
僕は――地藤優斗は、ずっと天羽璃奈のことが好きなのだ。
♰♰♰♰♰ ♰♰♰✜♰♰♰ ♰♰♰♰♰
鏡に映る自分自身へ語りかけるように心情を吐き出した地藤優斗は、ふっと自虐的な笑みを浮かべた。
「……分かっただろう? 僕は世界のことなんて本気で想ってはいない。滅んだら困るから考えはするけど、最優先事項じゃないんだ」
地藤優斗にとっての最優先は世界ではない。
彼にとってのすべては――
「世界の為に
――天羽璃奈だった。
けれど、自信のなかった彼は、天羽璃奈が十六夜蓮に奪われる未来を想像してしまった。
悩んだ末に選んだのは――取られる前に、手放すこと。
自分より相応しい人がいるなら、その人に守ってもらえばいい。そう言い聞かせて。
「世界のため」という言葉は、結局ただの言い訳だった。
情けない自分を曝け出したくなくて、都合よく取り繕っただけだったのだ。
「……だが、君の天羽璃奈への接し方は、過剰なほどに大事そうで――」
「そりゃあ、大事なんだから丁寧に接するに決まってるだろ? 嫌われるのが怖いんだよ」
やれやれと肩を竦めた後、地藤優斗は突然カッと目を見開き、声を張り上げた。
「恋愛初心者の童貞を舐めるなッ!」
「……」
鼻を鳴らし、誇らしげに胸を張る地藤。
情けないことこの上ない告白であった。絶対に胸を張る場面ではない。
「……つまり、君が言いたいのは、“天羽璃奈”の方が“世界”よりも大事だから、僕は地藤優斗ではないと?」
「そうだ」
「おいおい、ここは鏡の世界だ。君の特性が反転している可能性だってあるだろう?」
「いいや。これは地藤優斗の“芯”だ。決して揺らぐことはない、ただ一つのものだ。たとえ性格が反転していようとも、それだけは絶対に変わらない。変えられるはずがない」
確固たる意志を込めて、地藤優斗は言葉を放った。
そして、ゆっくりとコートのポケットに手を差し入れる。
「それに、君が地藤優斗じゃない根拠は他にもある」
指先が掴んだのは、一枚の小さな紙切れ。
十字剣を地面に突き立て、静かな所作で折り畳まれた紙を広げていく。
「それは――」
紙に記された文字を見つめながら、地藤優斗は低く告げる。
「君が“世界よりも大事じゃない”と言った彼女からのメッセージだ」
その瞬間、鏡の地藤の瞳がわずかに揺れる。
優斗は目を閉じ、祈りを捧げるように一呼吸置いた。
そして、真っすぐに虚像を睨み据える。
「……この世界の璃奈は、最初から全部に気づいていたんだ。真実に気が付いた彼女は絶望して、どうしようもないと諦めて……それでも、メッセージを残すことを決意してくれた」
その想いを受けて、地藤優斗はここに立っている。
地藤はそっと、紙を鏡の地藤にも見えるように前に翳した。
そこには、少女の、たった一つの切なる願いが記されていた。
【優斗に会いたい】
会えるはずの人がいない。
会いたいのに、あの人がいない。
終ぞ、本物の地藤優斗に会うことができなかった絶望。
その切なる願いは、彼女の命を賭した告発であり、鏡の地藤に対する決定的な矛盾の証だった。
優斗は紙を掲げたまま、声を強める。
「お前は、僕じゃない」
そして、もう一度断言した。
「お前は、
その言葉は、長く続いた違和感に終止符を打つ宣告だった。
真実を突き止めた地藤優斗は、目の前に立つ、自分の姿を模した虚像へと、静かな笑みを向ける。
「そろそろ本当の自己紹介をしようじゃないか。ねぇ――」
そして、確信を持ってその名を口にした。
「鏡の大公」
沈黙していた鏡の地藤――の姿をした者の口元に笑みが浮かぶ。
それは、正体を見破られた、犯人の笑みだった。