世界の為に推しとの恋愛を諦めようとしたらヤンデレ化された件 作:赤坂緑語
引っ張られていく。
ここではない、どこかへ――抗えぬ力に手首を掴まれたように、強引に引きずられていく。
視界は乱れ、色と影が奔流のように押し寄せては消えていく。
走馬灯のように過去と未来が交錯し、記憶と幻影が混ざり合う。
上下左右の感覚はとうに失われ、ただ渦に呑まれる洗濯物のように振り回されながら、璃奈は鏡の奥へと誘われていく。
常識外の現象に対して、璃奈は冷静だった。
霊力を纏い、己の身を守護しながら、荒れ狂う境界を突き進む。
やがて、視界がぱっと開けた。
――境界を飛び越え、彼女は世界を渡ったのだ。
「ッ!」
璃奈は鏡から飛び出すと同時に華麗に前へ転がり、二丁拳銃を展開して構えた。
息を殺し、油断なく辺りを見渡す。
そして、驚きに目を見開いた。
「……私の部屋?」
鏡を抜けて辿り着いた先は――先ほどまで自分がいたはずの部屋だった。
二丁拳銃を構えたまま、怪訝な表情で周囲を探る。鏡越しに見た撃ち抜かれた自分の死体も、探し求めている地藤優斗の姿も、どちらもない。
あるのは、寒々しく乾いた空気に満ちた部屋だけだった。
恋人に会いたい一心で幻覚を見たのか、一瞬、自分の感覚を疑う。だがすぐに、部屋の様子に異様さを覚えた。
彼女は整理整頓を欠かさない性格だ。いつも部屋は整えられている。だが、今目の前にある光景は「片付いている」などという次元ではなかった。
物が少なすぎる。床には段ボール箱が幾つも置かれ、まるで引っ越し直前のようだ。
璃奈には引っ越しの予定などない。地藤優斗が言い出さない限り、そんな話はあり得ない。
一体何が起きているのか――不審を抱きながら、彼女は慎重に家の中を探索していく。
不思議なことに、彼女の部屋だけでなく他の部屋もすべて綺麗に片づけられていた。
生活の痕跡が徹底的に消され、まるで人の気配そのものが剥ぎ取られたようだ。
いや――或いは、家主が亡くなった後のように。
璃奈の脳裏に、先ほど鏡越しに見た自分の死体の姿が蘇る。
優れた頭脳が急速に回転し、この事態の正体を解き明かそうとする。あともう少し、決定的なヒントさえあれば真実にたどり着ける。そう考えた瞬間――
ピンポーン
突然、天羽邸にチャイムの音が響き渡った。
「……」
璃奈は無言で銃を構え、足音を殺して屋敷の中を移動する。
真正面から玄関の扉を開けることなどしない。まずは訪問者の正体を見極めるのが先だ。
裏口から回り込み、玄関へと近づくつもりだったが――その必要はなくなった。
リビングを横切ろうとした瞬間、璃奈の足が止まる。
そこには既に人がいた。
来客用のソファに腰掛け、寒々しいリビングの中で呑気に紅茶を嗜んでいる人物。
見慣れぬ白いワンピースに身を包んだ麗人は、ソーサーにカップを置き、ゆるやかに顔を上げた。
「お邪魔しています」
「ッ! お前!」
普段とは異なる服装であっても、その顔、その艶やかな声を見間違えるはずがない。
最低最悪の悪魔――如月メフィラ。
その存在を認知した瞬間、璃奈は即座に二丁拳銃を持ち上げ、銃口を彼女へと突きつけた。
「どうしてここにいるの!」
「チャイムは押しました」
「敷居を跨ぐことを許可した覚えはないけれど?」
「ここは貴女の家ではありませんから、貴女の許可は必要ありません」
「珍しく屁理屈が下手じゃない。ここは正真正銘、私の家よ」
「いいえ。ここは天羽璃奈の家ではありますが、
メフィラの黄金の瞳が、真っすぐに璃奈を射抜く。
その視線は冷たくも優美で、見透かすような光を宿していた。
「聡明な貴女のことです。薄々お分かりなのではありませんか?」
「……」
挑発めいた言葉を受け、璃奈は眉を顰める。
彼女自身も、この鏡を潜り抜けた先の家が“自分の家”ではないことを理解していた。
メフィラの言う通り、ここは確かに天羽璃奈の家でありながら、彼女自身のものではない。
ただ――よりにもよって、この悪魔に指摘されるのは気に食わない。
銃口を下ろす気配のない璃奈を見て、如月メフィラは静かに紅茶をテーブルへ置いた。
「お知りになりたいことが色々とあるのでしょう? 一先ずおかけになってはいかがですか」
メフィラがパチン、と指を鳴らす。すると、彼女の対面に湯気を立てる紅茶がもう一つ現れた。
璃奈は銃口を下ろさぬまま、鋭い声で問いかける。
「あなたが、私にこの世界のことを教えるの?」
「私ではありません。
「……彼ら?」
「一先ずおかけになってください。話はそれからです」
「……」
この悪魔の言葉に従って良いことなど、これまで一度もなかった。
だが、今は感情を抑え、状況を知るために情報を引き出すことが先決だ。
璃奈は銃口を下ろさぬまま、ゆっくりとソファへ腰を下ろした。
その瞬間――唐突に、電話の音が鳴り響いた。
「ッ!」
座ったままでも一切油断していなかった璃奈は、即座に二丁拳銃を構え直す。
至近距離で銃口を向けられたメフィラは、しかし慌てることなく、優美な仕草で懐から取り出した携帯の通話ボタンを押した。
「愛しの契約者様」
「ッ!」
高慢なこの悪魔がその呼び方をする人間はただ一人。
思わずソファから腰を浮かせた璃奈の耳に、ずっと聞きたかった声が届いた。
『やぁ、メフィラ。お姫様は到着したかい?』
優斗君――。
喜びに満ちた声で名を呼ぼうとした璃奈は、しかし寸前で言葉を飲み込んだ。
理由は分からない。
ただ、何かが彼女を思いとどまらせた。
そんな彼女の様子を横目に見ながら、メフィラは淡々と答える。
『はい。今、私の目の前で銃を構えておいでです』
「それは怖いな。おい、本体の僕。彼女に銃を下ろすように伝えて――」
次の瞬間、ブツッと電波にノイズが走り、音声が途絶えた。
「一体何が……」
「恐らく向こうでトラブルがあったのでしょう。とはいえ、携帯が完全に破壊されたわけではないようです。せっかくですから、覗き聞きさせていただきましょう」
そう言って、メフィラは再びパチンッ、と指を鳴らした。
“
【如月メフィラと地藤優斗は契約関係にあります。二人の間には唯一無二の繋がりがあり、多少の電波の悪さなど物ともせず、会話が出来るはずです】
元四騎士の権能が発動する。
壁に十字剣で縫い留められた携帯が、無理やり駆動し始め――再び、向こうの音声を拾い始めた。
『――どうして璃奈を呼んだ……!』
「優斗君……?」
今度こそ、璃奈は愛しい人の名をするりと口にすることが出来た。
焦燥に駆られたその声は、間違いなく彼のもの。
その口から自分の名が呼ばれたことに胸の奥が熱くなる。だが同時に、言葉の内容に微かな違和感が走った。
まるで――彼は、璃奈をここへ呼んでほしくなかったかのようだったから。
ズキリと胸が痛む。
そんな璃奈を置き去りに、再びスピーカーモードにされた携帯から、声が流れ込んでくる。
『どうしてもこうしても、彼女を呼ばないと、君が向こうの世界を守りたがるからに決まっているだろう?』
『……!』
『だから、呼んだ』
――自分を呼ばないと、優斗が世界を守ろうとするから。
その言葉に、璃奈の脳は高速で回転する。
自分が蔑ろにされていなかったことに安堵を覚えながらも、同じ声で話す二人の会話を理解しようと必死に思考を巡らせる。
気が付けば、彼女の手から二丁拳銃は下ろされていた。
『ほら? これで君がこちらの世界を優先する理由は揃ったよ。これでもまだ、元の世界の方を優先するのかい?』
『当たり前だ。僕は璃奈を連れて元の世界に帰る! それで解決だ……!』
『ふむ、強情だね。どうしてそんなに向こうの世界に拘るんだい? 君にとって一番大事な天羽璃奈はこっちの世界に居るというのに』
『そ、れは――』
地藤優斗にとって一番大事な天羽璃奈。
その言葉に、璃奈は唇を震わせながらも、脳は現状を大よそ把握しつつあった。
(優斗君たちが頻りに話している“世界”というのは、文字通りの意味……。目の前のメフィラも様相が違うし、ここは天羽璃奈の家であって私の家ではない。つまり並行世界――性格の異なるドッペルゲンガーがいることにも納得がいく)
当たらずも遠からず。
しかし、次の言葉がその優れた思考を強制的に止める。
『――それとも、君にとっては天羽璃奈よりも前の“世界”の方が大事なのかな?』
「えっ……」
璃奈の手から二丁拳銃が滑り落ちた。
警戒すべき悪魔が目の前にいるというのに、不注意極まりない。だが彼女は、自分が武器を落としたことにすら気付いていなかった。
『ッ! 違う!』
幸いにも、すぐに否定の声が飛ぶ。
だが次に続いた彼の声は、愛する者にとって残酷すぎる言葉だった。
『だが、君の態度はそう言っているよ? 第一、君は世界の為に天羽璃奈を諦めた男じゃないか。つまり――』
つまり。
『――君にとって一番大事なものは、天羽璃奈ではなく“世界”なんだ。例え、どれほど自分に有利な条件がこの世界にあったとしても、君は元の“世界”が大事で大事で、仕方がないんだよ。それに、第一さ――』
そして、刃のような問いが突き立てられる。
「君、本当に天羽璃奈のこと、好きなの?」
その言葉は、璃奈の胸を深く抉った。
♰♰♰♰♰ ♰♰♰✜♰♰♰ ♰♰♰♰♰
考えたことがないわけではなかった。
ただ、深く考えるのが怖かっただけで――確かに璃奈は、その問いに思い至ったことがあったのだ。
――地藤優斗は、本当に天羽璃奈のことを好きなのだろうか、と。
他人の目から見れば、それは火を見るよりも明らかな事実だった。
けれど、極端に自己評価の低い天羽璃奈には、どうしても信じ切ることができなかった。
彼女は、自分が“好かれている”という事実を素直に受け入れることができない。
その人生は、母からの否定と、徹底的な自己批判で形作られてきたものだったから。
だからこそ、地藤優斗がどれほど愛情を示そうと、璃奈がどれほど彼に尽くそうと、絶えず不安の影が璃奈の心にチラついていた。
復縁の過程もまた、彼女の不安を増幅させていた。
地藤優斗は一度、天羽璃奈を振った。
その理由は、メフィラの存在によって曖昧にされたまま、二人は壮絶な戦いを経て、成り行きのように再び結ばれるに至った。
確かに、その過程は美しい物語のようにみえる。二人は困難を乗り越えて最終的には結ばれる運命であったと、都合よく解釈することもできるだろう。
だが、璃奈の心にはどうしても「吊り橋効果」のような仮初の感覚が拭えなかった。
命の危機を乗り越え、アドレナリンが溢れる中で――幾度もの“死”を経験した直後に、振った元恋人がボロボロの姿で座り込んでいたなら。
彼が手を差し伸べる理由としては、十分ではないか。
だからこそ、璃奈は考えてしまう。
彼が自分と復縁してくれたのは、お情けのようなものではないかと。
雨の中、段ボール箱にうずくまる子犬を見捨てられなかったように――ただの同情心ではないか、と。
本当の意味で、彼は自分を好きではないのではないか。
そんな考えが浮かび上がる度、璃奈は慌てて心の奥へ封じ込めてきた。
それは、自分にとって致命傷になり得ると悟っていたからだ。
だが今、携帯越しにその答えが開示されようとしている。
もし――もし、彼が「璃奈は大事ではない」と言ったなら。
彼女は、鏡に映ったもう一人の自分と同じ末路を辿るだろう――そんな予感が胸を締め付ける。
そして――
『はぁ?』
馬鹿馬鹿しい、と副音が聞こえてきそうな地藤優斗の声が響いた。
『何を言ってるんだ、お前。あまりにも馬鹿らしすぎて、一瞬固まっちゃったよ』
『そんなにおかしな問いだったかな?』
『当たり前だろ』
確固たる声で断言する地藤優斗。
その響きに、璃奈は胸を撫で下ろし、張り詰めていた心がわずかに緩む。
――だが。
『……君は、何も分かっていないんだな』
安堵を踏み潰すように、冷たい声が続いた。
地藤優斗であって、地藤優斗ではない声。
『確かに、君は天羽璃奈のことが好きだったんだろう。でも、それは“一人の女の子”としてじゃない』
『なに……?』
「えっ……」
奇しくも、電話の向こうの優斗と同じように、璃奈の顔にも困惑が浮かぶ。
『自覚はなかったのかい? 鏡を覗いてみるといい。そこに映るのは、過剰に天羽璃奈を尊重し、滑稽なほどに彼女を神聖視する男の姿だ』
『……それの何が問題なんだ?』
『君の“好き”は、アイドルや人形を愛でるようなものだ』
『ッ!』
胸の奥を鋭く抉る言葉。璃奈の呼吸が乱れる。
『そもそも、君は天羽璃奈と付き合えるなんて思っていなかったはずだ。君にとって彼女は、手が届くはずのない存在だった。いや、届いてはいけない存在――と言った方が正しいかな。だからこそ、彼女が自分の手元まで降りてきたとき、君は思ったはずだ』
嫌な予感が、氷のように背筋を這い上がる。
そして、その予感を裏切ることなく、残酷な言葉が突き刺さった。
『“あぁ、こんなに簡単に手に入る女だったのか”――と』
「――――」
その言葉は、胸の奥を鋭く抉るように響いた。
神秘的な紫の瞳が大きく見開かれ、乾いた唇が震える。
確かに、彼女の心を侮辱する響きだった。
愛する人の声で、自分の存在を軽んじられる――その衝撃は、悲しみとなって胸を締め付けていく。
『違うッ!』
そう。違うよね、優斗君。
『違わないさ』
違う、よね?
『現に、君は“世界”を優先し、天羽璃奈を蔑ろにした。それは紛れもない事実だ』
違うよ。優斗君はそんなことしない。
『本当に好きなら、そんな残酷な真似は出来ないはずだ』
……。
『もうわかっただろう? 君はそういう人間なんだ。天羽璃奈を大事になんて思っていない。ただ“世界”の方が大事なだけだ。……自分が知っている箱庭に執着するだけの、人でなしさ』
何を言っているのか分からない。彼が、何を言っているのか、分かりたくない。
『けれど、それも仕方のないことだ。
僕たちの眼は他の人間とは違う――その言葉に、胸の奥で小さな棘が引っかかる。
けれど、今の璃奈にはそれを咀嚼する余裕などなかった。
もしこれが知らぬ他人の声なら、冷ややかに聞き流せただろう。
だが、携帯越しに響くのは紛れもなく地藤優斗の声。
血の迷宮で彼が二人いた時のような、どこか不自然な重なりを感じながらも――言葉の衝撃があまりにも大きく、思考は止まり、ただ凍りつくように身を固めるしかなかった。
『だけど、そんな君でも天羽璃奈を大事に思う気持ちに噓はないはずだ。だから、まずは彼女のために動いてみないか? 前の“世界”に固執するんじゃなくて、本当に彼女を愛せる自分になるための一歩を踏み出すんだ。この鏡の世界ならそれが出来る。何故ならここは君の知る箱庭ではないのだから。僕たちの眼も通じない異世界のようなものだ。ここでなら、君は彼女を本物の女性として愛することができるはずだ』
『……君も、そうなのか? “世界”の方が“天羽璃奈”よりも大事なのか?』
君も。
つまり、優斗君もそう思っていたということ……?
『残念ながら、そうだ。それが僕たちの“芯”なんだから』
唖然と目を見開くことしか出来ない璃奈を置き去りに、二人の会話は続いていく。
『僕は気づくのが遅くて璃奈を失ってしまった。けれど、君はまだ間に合う。ここから本当の意味で天羽璃奈を大事にするためにも、今、違う選択を始めようじゃないか』
『……』
胸の奥がざわめく。何を言っているのか理解できない。理解したくない。
『さぁ、僕と一緒に――』
『……分かった』
「えっ……」
璃奈の顔から血の気が引き、真っ青に染まる。
優斗君が、偽物の言葉に頷いた――そう思った瞬間、心臓が握り潰されるような痛みに襲われた。
『流石は僕。誇らしく思うよ。正しい決断をしてくれて――』
『違うよ』
その一言に、璃奈の呼吸が止まる。
『――は?』
『早とちりするなよ。僕が分かったといったのは、お前のクソみたいな提案のことじゃない。お前のことが分かったと言ったんだ』
『僕のこと?』
電話の向こうで、璃奈が愛する本物の地藤優斗は力強い声で断言した。
その響きに、璃奈の胸は熱を取り戻す。
『君は、僕じゃない』
短く、鋭い否定。璃奈の唇が震え、涙が滲む。
『いいや、僕は君だよ』
偽物の声が食い下がる。だが、璃奈はもう信じない。信じられない。
『違う』
その声が、璃奈に安堵を与えてくれる。
彼女の心臓は狂ったように脈打ち、優斗君の言葉だけを必死に追いかけていた。
『君は、僕じゃない。君は――
璃奈の指がソファの端をぎゅっと掴む。まるで優斗の声に縋りつくように。
『……なにをおかしなことを。僕は、地藤優斗だよ。鏡に映る君自身だ』
『違うね。そんなわけがない。だって――』
そして、彼女の救世主は、救いの言葉を紡いだ。
『――お前が言ったことは、全部間違いなんだから』
♰♰♰♰♰ ♰♰♰✜♰♰♰ ♰♰♰♰♰
そこから先の地藤優斗の独白は、璃奈に甘美な喜びを齎した。
細部までは掴みきれないところもあったけれど、彼が自分のことを想っている――その熱が痛いほどに伝わってくる。
「盗られたくない」などと、子供が駄々を捏ねるような言葉を彼の口から聞く日が来るとは思わなかった。
その響きは、璃奈の胸を狂おしいほどに満たす。
聞けて良かった。そう思った瞬間、彼女の唇には美しい笑みが浮かんでいた。
こんなにも女冥利に尽きることはない。
愛されている――その事実が、彼女の心を甘美な毒で満たしていく。
『……分かっただろう? 僕は世界のことなんて本気で想ってはいない。滅んだら困るから考えはするけど、最優先事項じゃないんだ』
地藤優斗にとっての最優先は世界ではない。
彼にとってのすべては――
『世界の為に
――天羽璃奈だった。
その言葉に、璃奈の胸は熱を帯び、心臓が甘く痺れる。
誰にも奪われたくない。そんな独占欲を、彼が自分に向けている。
それは、彼女にとって何よりも甘美な告白だった。
『……だが、君の天羽璃奈への接し方は、過剰なほどに大事そうで――』
『そりゃあ、大事なんだから丁寧に接するに決まってるだろ? 嫌われるのが怖いんだよ』
やれやれと肩を竦めた後、地藤優斗は突然カッと目を見開き、声を張り上げた。
『恋愛初心者の童貞を舐めるなッ!』
「優斗君……」
クスリと微笑みながら、璃奈は恋人の情けなくも素敵な宣言を受け止める。
なんでも煙に巻く器用な彼でありながら、年相応に不器用なところだってある。
その不器用さが、彼女には愛おしくて仕方がなかった。
情けなさよりも先に、狂おしいほどの愛しさが胸を満たしていく。
『……つまり、君が言いたいのは、“天羽璃奈”の方が“世界”よりも大事だから、僕は地藤優斗ではないと?』
『そうだ』
『おいおい、ここは鏡の世界だ。君の特性が反転している可能性だってあるだろう?』
『いいや。これは地藤優斗の“芯”だ。決して揺らぐことはない、ただ一つのものだ。たとえ性格が反転していようとも、それだけは絶対に変わらない。変えられるはずがない』
そこから先の展開については、声しか聞こえない璃奈では断片を拾い上げて推測することしかできない。
けれど、既に状況については凡そ理解できていた。
『鏡の大公』
――敵の正体についても。
♰♰♰♰♰ ♰♰♰✜♰♰♰ ♰♰♰♰♰
地藤優斗が虚像の正体を見抜いたところで、メフィラは通話を終わらせ、携帯を音もなく仕舞った。
「事情は把握いただけたようですね」
「……えぇ」
璃奈は小さく頷き、冷静に己の推測を口にする。
「ここは鏡の世界。貴女も含め、人々の性格が反転し、屈折していて、私の知る世界とは異なる。そして、この世界を創り出し、守ろうとしている黒幕が――鏡の大公。そういうことかしら?」
「流石。ご明察です。誤りは何一つございません」
鏡のメフィラは紅茶をテーブルに置き、両手を叩いてパチパチと乾いた音で拍手を送った。
人形のように美しい少女が無表情のまま淡々と手を打ち鳴らす光景は、どこか寒々しく、軽いホラーの趣を帯びていた。
「世辞は止めてよ」
「世辞ではありません。本当に感銘を受けたのです。その聡明さ――とても、狂った女性とは思えません」
「狂った? 私が狂っているですって……?」
「事実でしょう。天羽璃奈は狂っている。これ以上ないほど、完璧に、歪んで、壊れている。自覚がなかったのですか?」
「……」
璃奈は答えなかった。
それが、答えだった。
「――で? そんな狂っている私にこの世界の状況を説明させて、貴女は何がしたいのかしら」
「私は何も貴女に強制するつもりはございません。決断を下すのは、貴女です」
深窓の令嬢のように慎ましい態度を見せるメフィラ。
その姿を見ながら、璃奈は眉をひそめた。
「……別人同然とは分かっていても、殊勝な態度の貴女を見ると調子狂うわね……」
「貴女の世界のメフィラと同じ振る舞いをいたしましょうか?」
「それは止めて」
ここを戦場にはしたくない――璃奈は短くそう告げた。
「貴女が何をしたいのかは分からないけれど、私がやることは決まっているわ」
「行かれるのですか?」
「もちろん」
璃奈は立ち上がった。
その顔は晴れやかで、まるで勝利を確信した女王のように凛としていた。
だが、瞳には狂気じみた光が爛々と輝き、常軌を逸した執着が燃え盛っていた。
(優斗君、優斗君、優斗君、優斗君、優斗君、優斗君、優斗君、優斗君、優斗君、優斗君、優斗君、優斗君……)
彼女の脳裏を埋め尽くすのは、ただ一人の恋人の名。
世界も、理も、善悪も、すべて霞んで消える。
残るのは、地藤優斗という存在だけ。
“世界”よりも“天羽璃奈”の方が大事――。
そんな言葉を聞いてしまった以上、璃奈が正気でいられるはずがない。
ずっと自分に自信が持てなかった彼女に。
真摯な愛情に飢えていた彼女に。
その重すぎる想いを知られてしまったなら――。
「……フフッ」
――我慢など、出来るはずがない。
天羽璃奈は唇に、悪魔よりも悪魔らしい笑みを浮かべた。
その瞬間、膨大な霊力が彼女の身から溢れ出し、メフィラですら思わず身構えるほどの圧が室内を満たす。
「貴女はどうするの?」
挑発するように問いかける璃奈の声は、甘美でありながら鋭い刃のようだった。
「ご同行いたします」
メフィラは静かに応じる。
「敵対するなら容赦はしないわよ」
「貴女と敵対するつもりはありません」
その返答を聞き、璃奈は小さく鼻で笑った。
狂っている――と悪魔は言った。
その言葉は、否定できない。
天羽璃奈は狂っている。
地藤優斗に狂っている。
そして今日、彼女はその狂気を、執念を、確かに肯定されたのだ。
“世界”よりも“天羽璃奈”の方が大事――。
「私もだよ」
璃奈は甘い声で囁いた。
「“世界”なんかより、“優斗君”の方がずっと大事だから」
やるべきことは、もう決まっている。
冷え切ったリビングを早々に後にし、彼女は迷いなく玄関の扉へと歩み寄った。
扉を開けば、冷たい夜気が頬を撫でる。
璃奈は一瞬だけ、愛ゆえに命を失った家主亡き屋敷を振り返った。
紫の瞳が感情を映さぬまま、静かにその影を見つめる。
けれど、視線はすぐに逸れる。
今の璃奈にとって、異なる自分の末路も、世界もどうでもいいことだ。
優斗のもとへ向かうことだけが、唯一の目的だった。
「……今行くね、優斗君」
月光が降り注ぐ聖夜の街へ――少女は飛び出した。