世界の為に推しとの恋愛を諦めようとしたらヤンデレ化された件 作:赤坂緑語
「鏡の大公」
地藤優斗が犯人を当てた名探偵だとしたら、鏡の大公の気分は――馬鹿な小物がようやく真相に辿り着いた様を見下ろすラスボス、といったところだろうか。
「――やれやれ。バレてしまったのならしょうがないな」
ニヤリと笑みを浮かべ、地藤優斗の姿を借りた虚像は肩を竦めた。
「如何にも。僕こそが鏡の大公、この世界を創造した主さ」
不敵な笑みを浮かべながら、鏡の地藤――改め、鏡の大公は己の正体を認めた。
「それなりに上手くやっていたつもりだったんだが、天羽璃奈にしてやられた、というところかな?」
「そういうことだ。彼女を見くびったな」
実際のところ、彼女が自殺したという衝撃の事実や、彼女が残した遺書がなければ、地藤優斗は違和感を覚えることもなく、あっさりと鏡の大公の術中に嵌っていた可能性が高い。
異なる世界の天羽璃奈は、確かに彼に救いを齎していたのだ。
「だが、どうして僕の正体を見抜けたんだい? 璃奈のメッセージに“鏡の大公”なんて記述はなかっただろう?」
鏡の大公が興味本位で問いかけると、地藤優斗は「簡単なことだよ」と肩を竦めて答えた。
「“鏡の大公”っていう単語はメフィラから聞いたんだけど、その単語を聞いた瞬間にまず“条件”を考えたんだ」
「条件?」
「大公クラスになると顕現するのに色々と制限があるだろ? メフィラとかいうバグは一旦無視するとして……死王女も、血の大公も随分と面倒な手順を踏んで出現していた。そこから察するに、鏡の大公にもそういう条件があるんじゃないかと思ったんだ。君は“鏡の大公”だろう? だから、“鏡”に由来するものだと思っていた。そこに璃奈からのメッセージを重ね合わせれば、自ずと答えは見えてくる」
地藤優斗は鋭い目で鏡の大公を見据える。
「察するに、君は“鏡”そのものだ。鏡に映る人物の虚像を反映することでしか表に出現できない。だから僕の虚像の皮を被っていたんだろう?」
「そこまで見抜いていたのか……流石と言っておこうか」
感心したように呟きながら、鏡の大公は賞賛を送る。
「世辞は要らないよ」
「世辞じゃないさ。僕は本当に感心しているんだ。やっぱりこれが“本物”って奴なんだね」
どこか自嘲するような笑みを浮かべながら、鏡の大公は語る。
「僕は君が推測した通り、誰かの姿を借りなければ表に出られない存在だ。表に出られないだけで本当の姿は一応あるけれど、本体の僕は言葉を持たない。意思も……ないのかもしれないね。僕は世界を創ることだけに特化した悪魔だから」
言葉がなく、意思もない。
逆に言えば、それほどの代償を払わなければ世界を創造するなどという大それた行為は成し得ないのだろう。
悲惨な境遇でありながら、それを悲惨と思うことすらできない鏡の大公は、肩を竦めて淡々と続けた。
「だから、勝手に姿を借りたことは悪いと思っているけれど、お陰で楽しい想いをさせてもらったよ。礼を言っておこう」
「……人の名前と身体を使って好き勝手したことはこの際置いておくとして、一つ聞いておきたいことがある」
「なんだい?」
地藤は目を細め、問い掛けた。
「この世界の僕はどうしたんだ? 僕たちの世界を元にして創られた世界なら、本物の僕がいなきゃおかしいじゃないか。――お前が殺したのか?」
気になるのはその一点だった。
鏡の大公が地藤優斗に成り代わっていたことは、この際どうでもいい。
だが、そもそも本物の鏡の地藤優斗はどこへ消えたのか。
「いいや、僕は殺していないよ」
首を振りながら、鏡の大公は端的に――衝撃の事実を口にした。
「地藤優斗という人間は、鏡の世界に反映させることが出来なかったんだ」
「なに?」
「これがどういう意味か分かるかい?」
鏡の大公の声が愉快そうに響く。
「君という人間は、
「……」
自分がどこにも存在しない遺物であると知らされた地藤優斗は――冷静だった。
驚きの表情を浮かべるでもなく、ただ静かに鏡の大公を見つめる。
その沈黙に、鏡の大公は意外そうな顔をした。
「あれ? 本当に驚かないのかい? 結構衝撃的な事実を伝えたつもりなんだけど」
「別に。どうせそんなことだろうと思っていたし。僕をコピーした君なら分かっているはずだろ? この世界の外側から来た僕について」
「……やれやれ。まさか本当に“外側”から来た人間だったとはね。最初に君を写した時は驚いたよ。もっとも、僕のことはほとんど覚えていなかったみたいだけど」
「まぁ、君なんておまけみたいな存在だからね」
「やめろ、馬鹿」
鏡の大公がギロリと睨みつける。
「君が覚えていなかったせいで、僕も立ち回りが難しくなったんだぞ。外伝だか何だか知らないけど、適当なことをしてくれたな」
「僕を責めるなよ。本編に出られなかった自分の不運を恨め」
「チッ……これだから原作厨は」
「僕の好きな璃奈が出てこない時点で、外伝なんか見る価値ないんだよ。バゥァァァァァーカ!」
舌を突き出し、全力で人を馬鹿にする顔を作る地藤優斗。
その挑発的な表情に、鏡の大公は青筋を立て、頬を引き攣らせた。
しばし睨み合いが続いた後、地藤優斗はふっと真顔に戻り、低い声で問いを投げかける。
「――で、結局のところ、お前は何がしたいんだ?」
「既に目的は伝えたはずだよ。この世界を守ることだ。この僕が創りあげた、美しい世界を守ることだ」
「母性本能ってやつか?」
「いや、どちらかというと創作者が作品に向ける愛情のようなものかな。君の顔で母性本能とか言ったら気持ち悪いだろう?」
「うん」
迷いなく地藤優斗は頷いた。
「だけど、この世界を守るだなんて、一体どうするつもりなんだ?」
「ふむ。その件だけど――」
鏡の大公は何でもないように、サラリと告げた。
「実のところを言うと、既に目的は達成されているんだよ。“観測者”の眼はこちらの世界に固定されたようだからね」
「えっ」
予想もしていなかった言葉に、地藤の思考が一瞬止まる。
“観測者”の眼が固定された? それを阻止するために、これまで必死に足掻いてきたというのに――既に目的は達成された?
胸の奥に冷たいものが広がり、呼吸が浅くなる。
「……下らない嘘をつくな」
「嘘じゃないよ。ほら、天を仰いでごらん」
鏡の大公は勝者の笑みを浮かべながら、メフィラのように右手の指を鳴らした。
乾いた音が響くと同時、空に亀裂が走る。
そこには、巨大な“眼”があった。
月よりも大きな“眼”が、天からこの世界を見下ろしていた。
その視線は冷たく、無機質で、世界そのものを支配するような圧を放っている。
「……お前、何をした?」
切羽詰まった地藤の追及に対し、鏡の大公は端的に答えた。
「何も」
誇るでもなく、謙遜するでもなく、ただありのままの事実を口にしたような態度で、鏡の大公は肩を竦める。
「僕にはあの“眼”をどうこうする力はない。僕より階位が上のメフィラ様にだって、あれはどうにも出来ないだろう。あれは、一個人がどうこう出来るものじゃない」
「だったら、なぜ――」
「
地藤優斗は最初、それが自分を指しているということが分からなかった。
冷たい沈黙の中、震える声で尋ねる。
「ぼく?」
「うん。君」
スッと地藤優斗を指さしながら、鏡の大公は頷いた。
「あの眼をここに固定させたのは君なんだよ」
「はぁ?」
地藤の心臓が大きく跳ねる。理解が追いつかず、言葉が空気に溶けていく。
「君だよ。君なんだ、地藤優斗。君が、
全ての起点。
事態を上手く呑み込めない地藤を置き去りにするように、鏡の大公は告げる。
「君がいる世界が、正しい世界になるんだよ」
「――――」
地藤の顔から表情が抜け落ちる。
唖然と立ち竦み、思考の糸がぷつりと切れたように、ただ空虚な眼差しで鏡の大公を見つめる。
鏡の大公はもう一度指を鳴らした。
亀裂が修復され、巨大な“眼”は空間の狭間に吸い込まれるように消えていった。
「信じられないかい? だけど、事実だよ。あの“眼”はずっと君を追っていた。だから、僕はただ、君をこの世界に留めさせておくだけで、目的を達成することが出来たんだよ」
ニィ、と鏡の大公は悪魔のような笑みを浮かべる。
「礼を言うよ、地藤優斗。君のお陰で、この世界は救われる」
「……」
絶望したような――理解が追い付いていない顔をする地藤優斗を見て、鏡の大公はほくそ笑んだ。
結局のところ、彼が地藤優斗を急襲したのも、そして長々と戦っていたのも、全ては彼に余計なことを考える暇を与えず、こちらの世界に留めるためだったのだ。
ただそれだけの仕事で、鏡の大公は己の目的を達成した。
天を仰げば、感じる。あの“眼”の視線を。
そして、微かに存在が揺らぎつつある元の世界を。
もうじき、この世界は完全なものとなる。偽物が、本物にすり替わるのだ。
これ程愉快なことが、他にあるだろうか。
地藤優斗と河川敷で語ったことが、今まさに実現しようとしている。
対岸の火は、あちら側にあるのだ。
己の勝ちを確信した鏡の大公は、だからこそ気が付いていなかった。
地藤優斗の眼が、慢心に浸る鏡の大公をじっと見つめていることに。
その眼が、微塵も諦めていないことに。
「……分かったよ」
投げやりな声で、地藤優斗は呟いた。
「もうこれは、どうにもならないんだな?」
「あぁ。勝負は既に着いていたんだよ。君の、負けだ」
「……クソッタレ。だから、璃奈をこちらに呼んだのか。僕があちらに帰りたくなくなるように」
「ま、そんなところかな」
「つまり、
「ッ!」
そこでようやく、大公は気が付いた。
真紅の瞳が――あの油断は決してしないと誓った眼が、彼を真っすぐに射抜いていることに。
虚飾を見抜き、真実を暴く瞳。
その眼に、四騎士は引き分け、元四騎士は陥落し、大公は敗れた。
それを分かっていながら――最後の最後に、鏡の大公は油断したのだ。
「お前、頻りにこの世界から向こうの世界には帰れないって言ってたけどさ、それって勝手にお前が言っているだけだよな? ――都合よく璃奈を呼んで、それで帰れないなんてこと、あるか?」
「……」
「出口はあるんだな。なら、そこから帰らせてもらうよ。観光はもう十分だ」
「……それを僕が許すとでも?」
「許させるさ」
地藤優斗はコキッ、と首を鳴らした。
「死体が、どうやって出入りを不許可にするんだ?」
ニヤリと不敵に笑い、地藤優斗は告げた。
「お前をぶっ飛ばして、璃奈と一緒に元の世界に帰る。これで全部解決だ……!」
燃え滾るような視線を受け、鏡の大公は同じ赤を氷結させ、冷酷な光を返した。
その瞬間、空気は張り詰め、二人の間に灼熱と極寒がぶつかり合うような緊張が走る。
「――やっぱり、君は厄介だな」
「当たり前だろ。僕は、君なんだから」
「……君にそれを言われてしまうとはね」
フッと笑い、鏡の大公はわずかに視線を落とす。
その笑みには余裕と諦念が入り混じり、どこか自嘲めいた響きがあった。
「……本当なら、君には味方になって欲しかったんだよ。味方でなくとも、生きていて欲しかった。そうすれば、僕の世界を脅かす“観測者”の正体も研究出来ただろうからね。だけど――」
しかし、覚悟を決めたように視線を持ち上げる。
その瞳には、冷徹な決意が宿っていた。
「――君を生かしておいたらどうせまた面倒なことをされるに決まっている。“眼”は固定されたことだし、悪いけれどここで死んでくれ、地藤優斗」
「……僕を殺したら世界が滅ぶんじゃないのか?」
「それは流石に自意識過剰というものだよ。君はあくまで“起点”であり、観測者の眼を動かせる特権を持っているだけだ。眼が固定された以上、ここから動かされなければ、君が死のうがこの世界は美しいまま残り続けるさ」
鏡の大公は冷たい瞳で地藤を見据えた。
「つまり、君はもう用済みってことだ。君は確かに特別だが、それは“始まり”としての役割に過ぎない。始まりが終わっても、物語は続く。だから安心して死んでくれ。君の名は、僕が受け継ぐ」
「ほざけ……! 死ぬのはお前の方だ! 人の顔と名前を使って好き勝手してくれたツケ、ここで払ってもらうぞッ!」
十字剣の切っ先を突き付け、啖呵を切る地藤優斗。
鏡の大公は不敵に笑った。
「結構。それじゃあ、僕も本気を出させてもらうとしよう」
「今まで本気じゃなかったみたいな言い訳、ダサいぜ?」
「さっき言ったじゃないか。君を足止めするのに必死だったって。だけど、もうその役割は必要なくなった。ここから先は――」
鏡の大公は髪をかきあげた。
その瞬間、地藤優斗の髪が銀色に染まり、吸血鬼の証である赤い瞳が悪魔の証である黄金へと変貌していく。
その変化は、まるで人間の殻を脱ぎ捨て、真の姿を顕す儀式のようだった。
「――鏡の大公としていかせてもらうよ」
悪魔大公に相応しい膨大な魔力が迸り、空気が震える。
圧倒的な力の奔流が周囲を包み込み、地面が軋み、空気が重く沈む。
鏡の大公は両腕を広げ、まるで世界そのものを抱え込むかのように、戦いの幕を開けた。
♰♰♰♰♰ ♰♰♰✜♰♰♰ ♰♰♰♰♰
鏡の大公。
かつて大苦戦を強いられた“血の大公”と同格の悪魔である。
四騎士を相手に勝利できるほどの力は持たないにせよ、世界を丸ごと創造するという破格の能力を備えている以上、油断してはならない存在であることは明白だった。
地藤は全身から黒い魔力を噴出させ、十字剣を構える。
『もう知っていると思うけれど、僕の能力は“鏡”そのものだ。光を屈折させ、反転させた事実の虚像を生み出す』
迸る嵐のような魔力の中心に立ちながら、鏡の大公は悠然と語る。
その声音は余裕に満ち、まるで戦いそのものを愉しんでいるかのようだった。
『ちなみに、反転させられるのは性格だけに留まらない。世界規模では無理だけれど――ごく一部であれば、能力そのものも反転させることが出来るんだ』
膨大な魔力を纏った鏡の大公の身体がふわりと宙に浮く。
彼は右手を持ち上げ、人差し指で眼下の地藤優斗を指し示した。
その瞬間、地藤の背筋に悪寒が走る。
あの構え――見覚えがある。忘れもしない。
『
「ッ!」
地藤は咄嗟に飛び退いた。直後、彼がいた場所に巨大な穴が穿たれる。
ありとあらゆるものを死滅させる最強の権能。死王女の死の線が、ホテルの床を無慈悲に貫いた。
「これは、死王女の……!」
過去の記憶が脳裏を焼く。幾度も殺され、幾度も蘇った忌まわしい体験。
顔を青ざめさせながら、地藤は叫んだ。
「こんな時もパクリかお前!」
『ゲームと一緒だよ。一番強い技をパクるのが、一番効率がいいだろ!』
「それを世間ではチートって言うんだよ!」
『その言葉は死王女に送るべきじゃないか?』
「否定しにくい、な……!」
会話の最中にも死の線が放たれる。地藤は黒霧となって移動し、辛うじて回避する。
その威力は容赦なく、確かに死王女の攻撃そのものだった。だが――。
「威力が増している……?」
死王女の攻撃は掠るだけで死に至る凶悪な力だ。
それでも、ここまでの脅威は感じなかった。
だが今、鏡の大公が放つ死の線はそれを凌駕している。
ソースは、この光線で幾度も殺された地藤自身。
その身に刻まれたトラウマが、彼に警鐘を鳴らし、事実を告げていた。
『勘がいいね』
軽やかな声が響く。
宙に浮遊し、自由気ままに死王女の力を操る鏡の大公は、ニヤリと笑った。
『今は弱弱しい死王女様だけれど、その弱弱しいという事実を反転させて、
十分どころではない。
過剰だ。
地藤は冷や汗を流しながら、空中に浮かぶ悪魔を見据える。
彼の最大の強みは、“悪魔の屁理屈”による疑似的な不死性だ。
メフィラが気まぐれに心臓を潰さない限り、彼は永遠に死ぬことはない。
だが、それはあくまで如月メフィラの権能があってこその話だ。
もし“契約”も、“悪魔の屁理屈”も上回る存在が現れたなら、その優位性は容易く打ち消される。
そして、如月メフィラが唯一、己の敗北を認める相手がいた。
己の姉、死王女モルヴェリアである。
鏡の大公によって疑似的に再現された死王女様の力は、メフィラの詐欺も超越し、地藤優斗を本当の意味で殺し得る力を発揮していた。
おまけに奴はメフィラの能力すらコピーし、地藤と同様に“悪魔の屁理屈”を使用している状態だ。
つまり――不死身。
地藤の喉が乾く。
目の前にいるのは、死王女の力とメフィラの不死性を併せ持つ、最悪の悪魔だった。
「これだから、大公は嫌なんだ……! 卑怯すぎだろ……!」
どいつもこいつも、強すぎる。
特に大公連中は、自分のフィールドで戦わせるとインチキじみた権能を平然と振るってくるので手に負えない。
四騎士といい、悪魔が強すぎる。
悪魔死ね――と、地藤優斗はエクソシストらしい思考で毒づいた。
ちなみに、そんな彼こそが最も悪魔の恩恵を受けている契約者なのだが、都合のいい脳みそはその事実を一時的に忘却していた。
『卑怯だなんだと言われようが、僕は本能に基づいてこの世界を守るだけだ』
己の意思を持たず、ただ世界を創り、それを守護することだけを至上とする歪な生命体は、地藤優斗の皮を被ったまま冷然と告げる。
『こちらの世界につくつもりがないのなら、ここで死んでくれ』
冷酷な宣告と共に、鏡の大公は片手を持ち上げた。
『
低く響いた言葉と同時に、空間が震える。
闇の中から無数の黒い剣が生成されていく。一本、二本――やがて百を超え、千を超え、夜空を埋め尽くすほどの漆黒の刃が形を成した。
「うそ、だろ……」
『本当だよ』
顔を引き攣らせる地藤に同じ顔で微笑みかけ――鏡の大公は容赦なくその片手を振り下ろす。
指揮官の号令を受け、ホテルの屋上に死の雨が降り注いだ。
♰♰♰♰♰ ♰♰♰✜♰♰♰ ♰♰♰♰♰
「うん。まぁ、目覚めたての小鹿にしては悪くなかったんじゃないかな?」
プールサイドに腰をかけ、月光を反射してゆらめく水面に艶やかな白い脚を遊ばせながら、如月メフィラは飄々と告げた。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
プールの中央には、全身ずぶ濡れで大小様々な傷を負った十六夜蓮が、巨剣に身を預けながら必死に立っていた。
「君の潜在能力的にはそんなものではないはずなのだけれど……経験が不足している以上は仕方がないね。君の活躍の場を奪ったのは我が愛しの契約者様なわけだし、ここは契約者として、誠心誠意、謝らせてもらうよ」
ブーツを脱ぎ、白い生足をだらりと水面に投げ出しながら、胸に手を当てて形だけの謝罪をするメフィラ。その仕草はどこまでも軽薄で、挑発的だった。
「……謝罪なら、俺をボコボコにしてることと、下らない与太話を聞かせたことにしろよ」
悪態をつきながらも、半ば折れかけた心に発破を掛けるように蓮は睨み返す。
「与太話とは言ってくれる。さっきも言った通り、これは実話だよ。信じたくないならそれも結構だけれど、事実は消えない。――神様は、今も恨みを抱えたまま、君たちお友達のことを潰された瞳で見つめているよ」
「ッ!」
背筋を凍らせるような言葉に、蓮は息を呑む。
「さて、そろそろお遊びもここまでにしておこうか。この世界は偽物だけれど、その完成度は本物だ。あまり余裕を見ていると、足元をすくわれかねない――」
そこまで言った瞬間だった。
「ッ!」
余裕綽々に語っていたメフィラが、唐突に何かに弾かれたように顔を上げ、ここではないどこかへ視線を向ける。
「――我が愛しの契約者様?」
黄金の眼を見開き、掠れた声で契約者の名を呼ぶ。
それは、十六夜蓮が初めて見る彼女の表情だった。
驚愕に目を見開き、いつもの嫌味な笑みが消え失せた冷たい横顔。
その造形美は、ただそれだけで人を魅了し、堕落させかねないほどの力を持っていた。場違いにも、蓮は如月メフィラがとんでもなく美しい顔をしていることを唐突に思い出す。
「……悪いね、君に構っている時間がなくなったようだ」
いつもの余裕を失い、緊迫した空気を漂わせる悪魔は、スッと水面から足を抜いて立ち上がる。
先程まで甚振っていた蓮に視線を向けることもなく――。
「失礼する」
一方的にそう言い残し、蒼銀の霧となって立ち消えた。
「……助かった、のか?」
怒りに任せて突撃するも、一方的にボコボコされていた十六夜蓮がポツリと呟く。
「やっぱり嘘だよ☆」なんて言って性格の悪い悪魔がドッキリさながらに引き返してこないことを確認してから――
「あぁ~~~~~~~~しんど」
早々に巨剣の柄から手を放し、そのまま倒れ込むようにしてプールへばしゃりと沈む。
水底に沈んだ身体はすぐに浮力に押し上げられ、プカーっと水面に浮かび上がった。
月光が差し込む夜のプールで、蓮はプカプカと漂いながら長い溜息を吐く。
元はと言えば、彼の友人である地藤優斗に頼まれてこのホテルに乗り込んできたのが始まりだった。
彼が言うには、偽物の地藤優斗たちがこの世界を破壊しようとしているのだという。
眉唾物の話だが、優斗が言うならと巨剣を手にこのホテルにやって来たわけだが――
「……なーんか、きな臭いんだよなぁ……」
メフィラとの戦闘を終えて冷静さを取り戻した鏡の十六夜蓮がポツリと呟く。
例えばホテルの結界を破壊すべく、蓮が巨剣を振るった時、彼は真っ先にホテルの住人を避難させるべきだと進言したが、地藤優斗は「既に避難させた」とだけ言っていた。
彼の言葉を信じて剣を振るったわけだが――蓮には、彼の言葉が妙に怪しく感じられた。
さらに、先程まで戦っていた如月メフィラの嘲笑も脳裏に焼き付いている。
嫌味で、意地悪で、性根の腐った最低最悪の悪魔――だが、決定的な場面で嘘をつくようなタイプには見えなかった。
特に、人を嘲笑する時には、相手にとって都合の悪い事実を遠慮なく突きつけるだろうという、嫌な信頼があった。
そんなわけで。
本来ならすぐにでもこのプールから出て仲間たちの援護に向かうべきなのだろうが、そういった背景もあって蓮はなかなか動けずにいた。
「ったく……戦いなんて懲り懲りだぜ。やっぱ、普通が一番だな」
元の世界の彼なら絶対に口にしない言葉を吐き出し、戦いを生き延びた者だけが得られる特権のように、夜のプールを独り占めしていた。
水面は月光を受けて静かに揺れ、天井へ鏡のように反射する。
そこに映っていたのは、ごく普通の、くたびれた男子高校生の姿だった。
ちなみに、「鏡の大公」という単語の初出は第53話です。
もし気になる方はぜひ再度覗いてみてください。
例によってメフィラ嬢が単語だけチラつかせてくれています。(もちろん肝心の説明はほとんどなし)