世界の為に推しとの恋愛を諦めようとしたらヤンデレ化された件   作:赤坂緑語

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第64話:この夜を超えて

 

 天羽璃奈と共にホテルの屋上へゆっくりと降り立った地藤は、右手を真紅に染めた鏡のメフィラへ問いかけた。

 

「……終わった、のか?」

「間違いなく、愛しの契約者様の虚像はこれで破壊されたものと思われます。なにせ、オリジナルの愛しの契約者様がこれをされれば死ぬはずですので。――あぁ、今は原種の吸血鬼になられたので、案外大丈夫かもしれませんが」

「……有意義なコメント、ありがとう」

 

 地藤は複雑な表情で礼を述べる。

 鏡のメフィラは「どういたしまして」とワンピースの裾を摘まみ、優雅に一礼した。

 その仕草から視線を外し、地藤は同じく屋上へ降り立った天羽璃奈へと向き直る。

 

「――お待たせ、璃奈。これでようやく、僕たちの世界に帰れるみたいだ。その……待たせてごめんね?」

 

 変わった外見のまま、しかしいつものように申し訳なさそうに笑う地藤を見て、璃奈はふわりと微笑んだ。

 

「うぅん。大丈夫だよ。優斗君なら、絶対に私のところへ帰って来てくれるって信じてたから」

「璃奈……」

「でも、ちょびっと、待つ時間が長かったかな……? だからほら、私、飛んできちゃったよ」

 

 背中の純白の羽をひらひらと揺らしながら、悪戯っぽく笑う璃奈。

 その包み込むような優しさに胸を打たれ、地藤はそっと彼女の手を取り、腕の中へ抱き寄せた。

 確かな体温が伝わる。

 その温もりを確かめるように、地藤は彼女の耳元へ唇を寄せる。

 

「――待たせて、ごめん。それから、迎えに来てくれてありがとう」

 

 璃奈は一瞬だけ目を見開き、それから花が咲くように微笑んだ。

 

「うん。いいよ」

 

 対になる翼を持つ二人が、聖夜の空の下でそっと抱きしめ合う。

 白雪が舞い落ちる中、その姿はまるで絵画のように幻想的で――

 

「――あぁ、ゴホン。ちょっといいかな、お二人さん」

「「ッ⁉」」

 

 突如、屋上に響いた艶やかな声に、地藤と璃奈は抱き合ったまま反射的に振り向いた。

 そこには、オリジナルのメフィラが腕を組み、いつもの妖艶な笑みを浮かべて佇んでいた。

 

「め、メフィラ……いたのか」

「いたのか、じゃないよ。君の復活祭が行われている間、一体誰が一人で鏡の大公を足止めしていたと思っているんだい? 己の契約者に対して、もう少し敬意を持つべきだと思うよ?」

「あ、あぁ……それは悪かった。ところで、何の用だ?」

 

 地藤は、せっかくの雰囲気を壊されて不機嫌になりかけている璃奈の肩を軽く叩き、宥めながら尋ねた。

 

「僕もいいムードをぶち壊すつもりは毛頭なかったんだけれどね――悪い知らせだ」

 

 肩を竦めながら、メフィラは長い人差し指で屋上に転がっている一つの死体を指さした。

 

「そいつ、まだ死んでないよ?」

「ッ!」

 

 脳内に響いた警告に従い、地藤は璃奈を抱き上げ、その場から跳躍した。

 直後、二人が立っていた空間に――細い亀裂が走る。

 建物が崩れたわけではない。

 空間そのものが、音もなく割れていた。

 

「こ、これは……!」

『――やってくれたな。下劣な侵略者共』

 

 地の底から響くような低い声。

 視線を向けると、そこには崩れ落ちたはずの“鏡の地藤”が、ぎこちなく身体を起こしていた。

 だが、その姿はもはや地藤優斗ではない。

 ひび割れた皮膚の隙間から、白い髪、白い肌、白い瞳が覗いている。

 

 間違いない。

 あれは、地藤がホテルのシャワー室で鏡越しに一度見た“あの存在”。

 

「鏡の大公の本体か……!」

 

 鏡の地藤優斗は確かに死んだ。

 地藤と璃奈の祓魔器に貫かれ、最後は鏡のメフィラに心臓を握り潰され、不死性を失って絶命した。

 だが――死んだのはあくまで“皮”だ。

 その内側に潜んでいた本体は、まだ健在であった。

 

「鏡のメフィラはどこにいった⁉」

 

 大公が生きていることは、彼女も気づいていたはずだ。

 オリジナルよりも性格の柔らかい鏡のメフィラなら、真っ先に知らせてくれると思っていた。

 しかし、どこにも姿がない。

 地藤の疑問に答えたのは、皮を破って現れつつある鏡の大公だった。

 

『――あれは、私が創り出した存在だ。つまり、私に生殺与奪の権利があるということ。あのような裏切り者、()()()()()()()()()()()

「お前……!」

 

 “よくも性格が良い方のメフィラを――!”

 そう叫びかけた地藤は、オリジナルのメフィラが横にいることを思い出し、慌てて口をつぐんだ。

 

 鏡のメフィラはなくすには惜しい人材だったが――今の問題はそこではない。

 鏡の大公の言葉が示すのは――鏡の住人は、大公の意思ひとつで生み出され、そして消される という事実だ。

 地藤の胸に冷たいものが走る。

 

「――あまり深刻に考え過ぎない方がいいよ、我が愛しの契約者様」

 

 隣でオリジナルのメフィラが、軽く肩をすくめて言った。

 

「恐らく鏡の大公に出来るのは、“消去”だけだ。新しく何かを生み出すことは出来やしないよ。所詮は、鏡だからね」

「……今、ここにいる僕たちは全員、違う世界の出身だ。つまり、奴の能力は効かないってことだな?」

「恐らくね」

 

 その推測に、地藤はわずかに息を吐いた。

 鏡のメフィラは多くの助力をしてくれた存在だ。失われたことは痛ましい。

 だが――今は悼んでいる暇などない。

 目の前には、崩壊しかけた“鏡の地藤”の皮を破り、強引に姿を現した 本物の鏡の大公 がいる。

 まずは、この脅威をどうにかしなければならない。

 地藤は短く息を整え、問いかけた。

 

「それで? コピーした僕の身体をズタボロにしてまで表に出てきて、何がしたいんだ? 悪いが、お前の負けは確定しているぞ。僕は元の世界に帰るからな」

『……確かに、私の敗北は確定していると言っていいだろう。貴様が余計なことばかりしたせいで、この世界はもう終わりだ』

 

 黄金の瞳を禍々しく輝かせながら、鏡の大公は静かに敗北を認めた。

 

『だが、このまま終わると言うのは納得がいかん!』

「そう言われてもな……」

『だからッ! 貴様だけは……道連れだ……!』

「……はっ?」

 

 狂気を宿した瞳で、大公は崩れかけた“鏡の地藤”の身体を無理やり動かし、右手をゆっくりと掲げた。

 その掌が、ぎり、と音を立てるように握り込まれていく。

 

 ピシリ、ピシリ、ピシリ――。

 

 心臓を氷で締め上げられたような音が、空気そのものを震わせた。

 それは、何かが割れていく音だった。

 空間が――いや、世界そのものが砕けていく音だった。

 

「これは……!」

「優斗君! こっちへ!」

 

 珍しく動揺を露わにするメフィラ。

 璃奈は悲鳴を上げ、必死に手を伸ばす。

 地藤もその手を掴もうと腕を伸ばした――だが、触れられるはずの距離なのに、指先は何故か彼女に届かない。

 気づけば、二人の間の空間に巨大な亀裂が走っていた。

 触れようとしても、空間そのものが裂けている以上、どうすることもできない。

 

「ッ! 鏡の大公! 何をするつもりだ⁉ こんなことをしても、無暗にお前の世界を崩壊させるだけだぞ!」

 

 地藤の警告通り、世界はすでに崩壊を始めていた。

 無理やり捻じ曲げられた空間の裂け目から、巨大な“眼”が覗き込んでいる。

 このまま歪みが進めば――世界は耐えきれず、音を立てて崩れ落ちるだろう。

 

『言っただろう。道連れだと。この世界諸共――いや、貴様だけは、私の手で葬り去ってやる……!』

 

 空間が壊れようと、世界が砕けようと構わない。

 鏡の大公は、全ての恨みを晴らすために震える掌をさらに強く握り込んだ。

 何かが引き裂かれるような轟音が響き渡り、地藤と鏡の大公の四方に深い罅が走る。

 世界が悲鳴を上げるように、光と影が激しく揺れた。

 そして――次の瞬間。

 二人は世界から切り離されるように、音もなく独立した空間へと閉じ込められた。

 

「これは……鏡?」

 

 地藤は翼を広げ、空間の中を滑るように飛翔しながら出口を探すが、四方八方に映るのは自分自身の姿ばかり。

 鏡面のように滑らかな壁が無限に連なり、どこまで行っても同じ景色が続く。

 まるで、世界そのものが“地藤優斗”という存在を閉じ込めるためだけに作り替えられたかのようだった。

 

『然り。ここは、鏡だ。世界ではなく、お前を映すことにした鏡だ。つまり――分かるな?』

「ッ!」

 

 理解した瞬間、背筋が冷たくなる。

 この空間では、全てが鏡。

 つまり――全ての攻撃が、反射される。

 

『死に晒せッ! 地藤優斗ォォォォォォ――!』

 

 鏡の大公が叫ぶと同時に、死王女の力が解き放たれた。

 光線が一本、また一本と放たれ――

 鏡面に触れた瞬間、無数の軌道へと分裂し、跳ね返り、加速し、増殖していく。

 

 反射、反射、反射、反射、反射、反射、反射、反射、反射、反射、反射、反射、反射、反射、反射、反射、反射、反射、反射、反射、反射、反射、反射、反射、反射

 

 空間全体が死の光で満たされ、地藤の視界を埋め尽くす。

 無論、逃げ場など一切存在しなかった。

 

「ぐ、あ――――!」

 

 地藤の身体が焼き切れ、崩れ落ちる。

 しかし、死ぬ間もなく原種の吸血鬼としての再生が始まる。

 肉が盛り上がり、骨が繋がり、皮膚が張り――

 その瞬間、次の死が襲いかかる。

 その繰り返しが、息をする暇すら与えずに襲いかかる。

 

 地藤は原種の吸血鬼としての力を振るおうとするが――

 その“力を振るう”という行為に必要な一瞬の思考すら、死の線が奪い去っていく。

 この空間では、彼は“死ぬために生かされている”に等しかった。

 

「優斗君――!」

 

 空間の外から、璃奈の悲痛な叫びが響く。

 しかし、その声は遠く、歪み、届きそうで届かない。

 メフィラが空間に干渉しようとするが、死王女の権能が壁となり、指一本触れられない。

 外側から見れば、地藤は鏡の檻の中で、無数の死の光に貫かれ続ける影にしか見えなかった。

 鏡の空間は、まさに地獄だった。

 逃げ場のない死。

 終わりのない再生。

 そして、鏡に映る無数の“死にゆく自分”が、彼の精神を削り取っていく。

 鏡の大公は、狂気に満ちた笑みを浮かべながら叫んだ。

 

『死ね! 死ね! 死ね! 死に続けろ! この空間では、貴様は永遠に死ぬのだァァァァ――!』

 

 鏡の大公自身は、周囲に展開した鏡の破片を盾にして、乱反射する死の線から辛うじて逃れていた。

 だが、その破片が尽きれば彼もまた死ぬ。

 それでも構わない――地藤優斗さえ殺せるのなら。

 

 空間の中で、地藤優斗はひたすらに死に続けていた。

 死ぬ。

 再生する。

 また死ぬ。

 また再生する。

 その繰り返しが、時間の感覚を奪い、思考を削り、痛覚を焼き切っていく。

 何度目の死かも分からない。

 身体が砕けるたび、意識は白く弾け、再生するたびに世界へ引き戻される。

 もはや“生きている”というより、“死ぬために存在している”ようだった。

 そんな地獄の只中で――

 

 攻撃の手が、一瞬だけ緩んだ。

 

 ほんの刹那の後、蒼銀の霧が、ふわりと空間に広がった。

 鏡面を覆い、反射を遮断し、死の線を吸い込むように消し去っていく。

 地藤の身体を焼き尽くしていた光が、嘘のように止んだ。

 痛みが引く。

 世界が戻る。

 意識が、ようやく自分の形を取り戻す。

 地藤は荒い息を吐きながら、ゆっくりと顔を上げた。

 

 そこに――少女がいた。

 

「……メフィラ?」

「ご無事ですか。愛しの契約者様」

 

 蒼銀の霧が揺らめく空間の中心で、鏡のメフィラは白いワンピース姿のまま、いつもと変わらぬ優雅さで佇んでいた。

 まるで、先ほどまで消滅したはずの存在とは思えないほど自然に。

 地藤は、現実感のない光景に目を瞬かせた。

 

「お前、消えたはずじゃ……」

「確かに鏡の大公の力によって一時的に退去させられておりましたが、このまま引き下がるのも気に食いませんでしたので、無理やり舞い戻って参りました」

「……お前、やっぱりメフィラだな」

 

 褒めているのか呆れているのか判然としない言葉。

 だが、地藤にとって如月メフィラとは、どの世界でも“そういう存在”だった。

 鏡のメフィラは、静かに、しかし誇らしげに頭を下げる。

 

「お褒め頂きありがとうございます。――ですが、舞い戻って来たはいいものの、“悪魔の屁理屈(ワンダー・トリック)”で強引に鏡の大公の支配下から抜け出しただけですので、あと数秒後には私は消滅させられてしまうでしょう」

「えっ」

 

 まるで天気予報でも告げるような調子で、「数秒後に消える」――死ぬと言い放つ彼女。

 地藤が驚愕に目を見開く間にも、鏡のメフィラは時間を惜しむように、淡々と説明を続けた。

 

「ですので、私に出来るのは愛しの契約者様をお救いすることではなく――救いとなる“きっかけ”をお話しすることだけです」

「きっかけって……」

「時間がないので、よくお聞きください」

 

 鏡のメフィラは、静かに、確信を持って告げた。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()。貴方なら、こんなもの、どうということはないはずです」

「……またえらく抽象的だね」

「申し訳ございません。これが性分なものでして。ですが――もうお分かりになったのではありませんか?」

 

 彼女の言葉は正しい。

 己の正体を思い出せ――その言葉が落ちた瞬間、地藤の思考に稲妻のような閃きが走っていた。

 

「……あぁ」

 

 確かに、これなら――まだ勝機はある。

 地藤の瞳に宿った力強い輝きを確認すると、鏡のメフィラは満足げに小さく頷いた。

 そして、ふと周囲を見渡し、静かに告げる。

 

「――申し訳ございません。どうやら、ここまでのようです」

 

 淡々とした声。

 だが、その奥には名残惜しさと、ほんの少しの寂しさが滲んでいた。

 蒼銀の霧が、ゆっくりと薄れていく。

 鏡の世界を満たしていた彼女の力が、確実に失われつつある証だった。

 

「……僕の、“原種の吸血鬼”としての力なら――」

「お気持ちは嬉しいですが、難しいでしょう。それは、()()()()()()()()()()()()()。まぁ、力の使い方はいずれ、否が応でもお知りになることでしょう」

 

 未来を見通すような微笑を浮かべながら、メフィラは静かに告げた。

 

「ともあれ、悲しまれることはありません。私の役目はこれまででしょう。役目を終えた役者は、舞台から去るものです」

「……お前は、相変わらずだな」

「悪魔ですので」

 

 悪魔なら、最後まで嗤っているもの。

 それが如月メフィラという存在の核なのだとすれば――

 彼女に憂いがまったく見えないのも、当然のことなのだろう。

 とはいえ、懸命に支えてくれた彼女を、このまま何も言わずに見送るのは、どうにも胸がざわつく。

 

「鏡のメフィラ!」

「はい。なんでございましょうか」

 

 彼女の黄金の瞳と視線が重なる。

 地藤は、自然と笑みを浮かべていた。

 

「――ありがとう。この世界でのこと、絶対に忘れないよ」

 

 その言葉に、鏡のメフィラは一瞬だけ目を見開いた。

 驚き――そして、喜び。

 それらが混ざり合い、彼女の表情に柔らかな色を灯す。

 やがて、花が咲くように微笑んだ。

 

「光栄でございます。愛しの契約者様に覚えていただけるのならば、このメフィラも存在した価値があるというもの。悪魔冥利につきます」

 

 胸に手を当て、噛みしめるように言葉を紡ぐ。

 

「最後に忠告を一つ、よろしいでしょうか」

 

 その声音は先ほどまでの柔らかさとは異なり、どこか張り詰めた緊張を帯びていた。

 地藤が静かに頷くと、鏡のメフィラはゆっくりと視線を上げ、まっすぐに彼を見据える。

 そして、静かに告げた。

 

「――オリジナルの私には、十分お気を付けください」

 

 自分自身に気を付けろという矛盾した忠告。

 だがそれは、虚像である彼女だからこそ言える、切実で真摯な言葉だった。

 地藤は息を呑み、その意味を正しく受け取ってから、深く頷く。

 

「……分かった」

 

 その返答を聞いた鏡のメフィラは、ほっとしたように微笑んだ。

 

 蒼銀の霧が、さらに薄れていく。

 彼女の輪郭が淡く揺らぎ、光の粒が静かに空間へ溶けていく。

 

「これにて、私の役目は終幕でございます。どうか、この先の物語を美しく紡いでくださいませ」

 

 鏡のメフィラは白いワンピースの裾を指先で持ち上げ、舞踏会の終幕で観客に別れを告げる貴婦人のような仕草で礼をした。

 

「では、ご機嫌よう」

 

 その言葉が空気に触れた瞬間、彼女の姿は光の粒となって弾け、

 まるで風に溶ける霧のように、跡形もなく消え去った。

 

「……」

 

 感傷に浸っている暇はない。

 霧が完全に晴れるまでのわずかな数秒――地藤優斗は目を閉じ、己の意識を深く過去へと沈めていった。

 

 “ご自分の正体をよく思い出してください”

 

 鏡のメフィラの声が、まだ耳の奥に残っている。

 その言葉を手がかりに、地藤は記憶を遡った。

 この世界へ足を踏み入れた瞬間まで戻り――

 そこから、彼女に出会った場面までを早送りする。

 閑散とした公園。

 夜風に揺れる銀髪のポニーテール。

 満月を背負い、彼女は迷いなく自分へ駆け寄ってきた。

 

 そして、あの時――彼女は言っていた。

 

『鏡の世界って、どういうことだ?』

『……それ、変じゃないか?』

『いや、だって――』

 

 その言葉の続きを思い出した瞬間、地藤は静かに目を開いた。

 霧が晴れ、再び死の線が鏡面を反射して迫ってくる。

 命中すれば容易く命を奪う光――だが、地藤優斗の瞳には一片の恐れもない。

 

 “悪魔の屁理屈(ワンダー・トリック)”――発動。

 “原種の吸血鬼”――起動。

 

 脳裏に、彼女の声が重なる。

 

『――私たち、吸血鬼じゃないか』

 

 次の瞬間、死の線が地藤の身体を貫く――はずだった。

 だが、光は彼を素通りし、その背後の鏡へ突き刺さる。

 反射した光が再び地藤へ向かうが、それすらも彼を避けるように通り抜けていった。

 

『な、に……?』

 

 鏡の大公が困惑の声を漏らす。

 理解できない。

 当たるはずの攻撃が当たらない。

 いや、それ以前に――

 地藤優斗が、()()()()()()()()

 

『なんだ……一体何が起きている⁉』

「まだ分からないのか? 僕は吸血鬼だぜ?」

 

 高らかな声が空間に響く。

 地藤優斗は空間の中央で翼を広げ、腕を組み、堂々と浮遊していた。

 鏡の大公は憎き仇敵に向けて再び死の線を放つ。

 だが、結果は同じ。

 光は地藤を通り抜け、鏡面を跳ね返り続けるだけ。

 

 悠然と宙に浮かびながら、死の線に絡め取られることのない不死の存在――

 原種の吸血鬼たる地藤優斗は、鏡の大公を見下ろしながら告げた。

 

()()()()()()()()()()――知らなかったのか?」

 

 映らないものには、直撃のしようがない。

 そして今、鏡の大公が焦りと怒りに任せて放った死の線は――

 閉じられた鏡の世界の中を、無限に反射し続けている。

 その死の線の嵐に直撃するのが己だけだと悟った鏡の大公は、狂ったように叫びながら鏡の盾を掲げ、片っ端から死の線を消去しにかかった。

 だが、間に合わない。

 全てを消すには、時間が足りない。

 防御しきれない。

 防御用の――

 

 鏡が、足りない。

 

 防ぎきれなかった死の線が、手持ちの鏡を使い果たした鏡の大公へ殺到する。

 

『が、あああああああああああああああああ――!』

 

反射した死王女の死の線が、鏡の大公の身体を容赦なく切り刻む。

擬態の皮はすでにボロボロで、露出した本体に死の光が次々と突き刺さっていく。

ピシリ、ピシリと音がして、鏡で構成された空間が瓦解を始めた。

偽りの月が照らす中、地藤優斗は翼を広げ、黒銀の光を纏う刀を振り翳し、

 

「そら、いい子に――クリスマスプレゼントだ」

 

 ――両腕で、振り下ろした。

 

 放たれた黒銀の斬撃が、鏡の大公を鮮やかに両断する。

 悪魔として致命傷を負った鏡の大公は、敗北を悟り、その身を散らしながら静かに落下していく。

 

 崩れゆく鏡の世界を見下ろす月。

 その光があまりにも美しくて――

 

 鏡の悪魔は決して届かぬものを掴むように手を伸ばし、静かに目を閉じた。

 

 

 

♰♰♰♰♰ ♰♰♰✜♰♰♰ ♰♰♰♰♰

 

 

 

 

 優雅に着地した地藤を出迎えた如月メフィラは、パチパチと軽やかに両手を打ち鳴らした。

 

「鏡の大公の消滅を確認――うん。流石だね、我が愛しの契約者様」

「優斗君……!」

 

 満足げに微笑むメフィラとは対照的に、璃奈は顔を青ざめさせたまま、真っ先に彼の胸元へ飛び込んだ。

 

「璃奈、ごめんね。謝っておいて、またすぐにこんな有様で……」

「……優斗君、もう、大丈夫なんだよね……?」

「うん。大丈夫だよ。これでもう、終わりだ――」

 

 震える璃奈を抱きしめながら、地藤は真紅の瞳でメフィラを見つめる。

 

「――だよな? これで、僕たちは帰れるんだよな?」

 

 抱き合う二人を眺めていたメフィラは、淡々と頷いた。

 

「うん。これまで世界間の扉を塞いでいた鏡の大公が消滅したからね。これなら僕の力で移動することが出来るよ」

「そうか……」

 

 長く続いた――とはいえ、実際には数日にも満たない出来事だった。

 それでも、あまりに濃密で、あまりに過酷で、永遠にも思える戦いがようやく終わりを告げたのだ。

 地藤は肩の力を抜き、安堵の息を吐いた。

 

「よし。それじゃあ、帰ろう。頼むよ、メフィラ」

「我が愛しの契約者様の仰せのままに――」

 

 大仰な仕草で胸に手を当てながら、メフィラは右手の指を持ち上げる。

 その指が鳴れば、元の世界へ帰れる。

 あれほど待ち望んでいた、正しい世界へ。

 ――なのに。

 浮き立つはずの心は、どこか重かった。

 何かを置き去りにしているような、胸の奥に引っかかる感覚があって、素直に喜べない。

 

 不意に。

 ふと、不意に、鏡の地藤優斗――いや、大公が語った言葉が蘇る。

 

『璃奈だけじゃない! 君がこの世界でお世話になっている霧島先輩も! 蓮も! 唯ちゃんも! メフィラも! みんなが生きた証がなくなるんだぞ⁉ そんなの……許せるわけがないじゃないか!』

『なかったことになんて、させない。僕が、皆が生きた証を守るんだ。この美しい世界を壊させやしない。理不尽に奪わせることなんて、絶対にさせない。そういう風に運命が動いていたとしても――この僕が、許すものか!』

 

 あの時は、鏡の大公の言葉を“敵の戯言”として切り捨てていたが、戦いが終わり、帰還が目前に迫ったこの瞬間――その言葉が、妙に胸に刺さる。

 自分が鏡の大公の立場だったら、果たして何を言っただろう。

 同じように叫び、同じように抗ったのではないか。

 そう思うと、地藤は何とも言えない表情を浮かべた。

 

「なぁ、メフィラ」

「なんだい?」

「これから、この世界は消えていくんだよな」

「そうだよ。君が、元の世界を選ぶのならね。こればっかりは、どうしようもない。たとえ、“原種の吸血鬼”様であったとしてもね」

「……」

「優斗君……?」

 

 どこか思い詰めたような表情を浮かべる地藤に、璃奈がそっと声を掛ける。

 地藤は彼女の手を握ったまま、ホテルの屋上をゆっくりと歩き――鏡の世界の街を見下ろした。

 あちこちで灯る光。

 どこまで再現されているのかは分からないが、その灯りの先には、元の世界から反転して生まれた人々が暮らしているのかもしれない。

 自分が選ぼうとしているのは、そうした“何の罪もない人々”の命を奪う選択なのではないか。

 だが、世界を二つとも救うことはできない。

 だからこそ――地藤優斗は選んだのだ。

 自分たちの世界を。

 

「……」

 

 感傷に浸りながら消えゆく世界を眺めていた地藤は、ふとホテルのエントランス前に見覚えのある二つの影を見つけた。

 吸血鬼として強化された視力が、その正体を鮮明に映し出す。

 

「蓮と……唯ちゃん?」

 

 鏡の世界の十六夜蓮は、どういう事情か――十中八九メフィラの悪戯だろう――びしょ濡れのまま立ち尽くしていた。

 そこへ心配して駆けつけたらしい十六夜唯が、勢いよく文句をまくし立て、蓮は面倒くさそうに返事をしながら、時折くしゃみをしている。

 やがて喧嘩はヒートアップし、蓮のくしゃみが唯に掛かった瞬間、唯は顔を真っ赤にしてプンスカ怒り出し、兄をポカポカと叩き始めた。

 蓮は蓮で「痛いって……!」と文句を言いながらも、どこか楽しげで――

 

 その光景は、どこにでもいる普通の兄妹そのものだった。

 この世界だからこそ見られた、ささやかな日常。

 

 しかし彼らもまた、地藤が元の世界を選ぶことで消えてしまう存在だ。

 けれど――

 

 その表情には、自分たちの正体を憂う陰りなど微塵もない。

 ただ、全力で“今”という瞬間を生きているだけだった。

 

「ふふっ……」

「優斗君、どうしたの? 本当に大丈夫……?」

 

 深刻な顔で悩んでいたかと思えば、急に笑い出した恋人を心配する璃奈。

 地藤は「ごめん、ごめん」と笑いながら謝り、改めてメフィラと向き合った。

 

「――帰ろう。僕たちは、帰らなくちゃいけない」

「いいのかい? 何やら悩んでいたみたいだけれど」

「いいんだ。……いや、良くはないんだろうけれど、それでも仕方がないことはある。全てをどうにかしようなんて――全部を救おうだなんて、傲慢極まりないよな」

 

 “仕方がない”。

 一見すれば投げやりな言葉だが、そこには地藤なりに現実を受け入れようとする姿勢と、何より誠意が宿っていた。

 どの世界でも変わらず騒がしい兄妹の姿を見つめながら、地藤は静かに続ける。

 

「彼らは彼らで、全力で生きている。僕はただ、それを覚えておくことしか出来ないんだ。一緒に遊べて楽しかったと別れを告げて、笑顔で手を振って――自分の家に、帰るんだ」

 

 別れの日は来る。

 どうしたって来てしまう。

 だからせめて、笑顔でさよならを。

 鏡の霧島レイが。

 鏡のメフィラが。

 矜持を胸に、鮮やかに、笑顔で散っていったように。

 メフィラはわずかに目を見開き、やがて静かに頷いた。

 

「我が愛しの契約者様に敬意を示し、命令に従うとしよう」

 

 その声音は、いつになく真剣だった。

 メフィラは右手をゆっくりと持ち上げ、空気を払うように指を構える。

 

「――さぁ、幕を下ろそう。この鏡界に静かなる別れを告げ、我らは真なる“家路”へと門を開かん」

 

 そして如月メフィラは、指を鳴らした。

 世界が反転するように、二人の視界が真っ白に染まっていく――

 鏡の世界への別れを胸に抱き、帰るべき“家”を思い描きながら。

 

 

 




次話は明日、12月25日 22:00に投稿予定です。
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