世界の為に推しとの恋愛を諦めようとしたらヤンデレ化された件 作:赤坂緑語
暗闇の中、紅い軌跡が閃光のように走った。
具現化した醜悪な影へ向かい、銀髪の少女が疾風のごとく踏み込む。
すれ違った瞬間、影は細切れに刻まれ、砂のように崩れ落ちて消滅した。
紅い瞳が次の獲物を探すように揺れ、獣のように光を宿す。
少女――霧島レイは地面を蹴り、影の群れへと迷いなく突っ込んだ。
通常なら無謀と断じられる行動だ。
だが、レイの胸中には恐れも迷いもない。
むしろ、心の奥にかかった霧を振り払うように、何も考えず暴れられるこの状況は、彼女にとって僥倖ですらあった。
刃が振るわれるたび、銀の線が空間を裂き、影たちを無惨に切り裂く。
それは正義の名を借りた純粋な暴力であり、圧倒的な力の発露であり――
そして、少女の憂さ晴らしでもあった。
暴力の舞が終わった時、そこには何一つ残っていなかった。
影が再び湧き出す気配がないことを確認すると、レイはゆっくりと刃を下ろす。
どこか物足りなさを滲ませながら。
そんな自分を客観的に見つめ、レイは心の中で自嘲した。
――まるで獣だ、と。
「素晴らしい」
乾いた拍手が闇に響く。
レイが視線を向けると、制服姿の金髪碧眼の美少年が、にこやかな笑みを浮かべながら歩み寄ってきていた。
「流石は“血の大公”を討伐したエクソシスト。あれほどの悪魔の軍勢を、こうも容易く蹴散らすとは……感服しました」
「アーデルハイト殿」
「先程も申し上げましたが、“アーデルハイト”はやめてください。気さくにユリウスと呼んでいただけると嬉しいのですが」
ユリウスは柔らかく微笑む。
レイは淡々と頷いた。
「分かりました。では、ユリウス殿と呼ばせていただきます。私のこともレイと呼んでいただいて構いません」
「むぅ、“殿”がつくと少し堅い気もしますが……まあ良いでしょう。では改めてよろしくお願いします、Ms.レイ。同じ“教会”のエクソシスト同士、仲良くしましょう」
友好的な笑みを浮かべるユリウスに対し、レイは無表情のまま静かに頷く。
ユリウスは周囲を見渡し、ぽつりと呟いた。
「しかし……こちらからお誘いしておいて何ですが、僕は必要ありませんでしたね」
海浜公園一帯は、悪魔の死体で埋め尽くされていた。
通常なら時間とともに粒子となって消えるはずの死体も、数が多すぎて処理が追いついていない。
そこには、霧島レイという少女がたった一人で描いた蹂躙の跡が広がっていた。
「すいません。少しやりすぎました」
“教会”から派遣されてきたアーデルハイトはレイにとって同僚にあたる。
そんな彼から一緒に仕事をしようと誘われてやって来たのがここ海浜公園である。
一緒に仕事をするはずが、一人で暴れ倒していたレイが己を恥じて頭を下げると、アーデルハイトは朗らかに笑った。
「とんでもない。仕事が減るのは良いことですよ。むしろ、貴女一人に押し付ける形になってしまって申し訳ないくらいです」
「お構いなく。悪魔退治には慣れていますので」
「心強いですね」
ユリウスは薄い笑みを浮かべたまま、不意にレイの心の奥底まで覗き込むような眼差しを向けた。
「――ところで、先ほどの戦いぶりは随分と鬼気迫るものがありましたが……何か、ありましたか?」
“何か”はあった。
地藤優斗のことだ。
霧島レイの過去に決着をつけ、身体を張って弟との別れの時間まで与えてくれた彼女の主は、今ここにいない。
心の病に倒れたらしい。
レイには“心の病”というものがよく分からない。
なにせ、自分自身がほぼ鬱状態だったにもかかわらず、妄執と気合だけで前に進んできたような人間だ。
だが、それが深刻な病であることは理解している。
原種の吸血鬼の力をもってしても治せない――それほどのものだということも。
レイは自嘲した。
結局、肝心な時に自分は役に立てない。
自分の力は、守りたいものを救えない。
何をすればいいのか分からない。
何もできないのが悔しい。
だから――レイは、いつものように“暴力”に逃げている。
「Ms.レイ。……大丈夫ですか?」
ユリウスの声が、沈んでいた意識を現実へ引き戻した。
レイは祓魔器を収納し、無表情のまま口を開く。
「すいません。大丈夫です。少し、考え事に浸っていました」
苦しい言い訳だったが、ユリウスは柔らかな笑みを崩さず、まるで全てを受け入れる聖職者のように穏やかに頷いた。
「そうですか。それなら良かった。……ところで、Ms.レイ。少しお聞きしたいことがあるのですが」
「なんでしょうか」
「地藤優斗、という方をご存じですか?」
その名が落ちた瞬間、レイの世界が一瞬だけ止まった。
心臓が跳ねる。
胸の奥で、何かが鋭く弾ける。
血の気が引き、指先が冷たくなる。
だが――表情は動かさない。
動かしてはならない。
「えぇ、知っていますよ。私の学校の後輩です」
声は平坦。
呼吸も乱れていない。
だが、内側では嵐が吹き荒れていた。
――どうしてその名前を。
――どこまで知っている。
――何を探っている。
心臓の鼓動が耳の奥でうるさく鳴り響く。
それでもレイは、表情筋を総動員して“無”を装った。
「仲がよろしいのですか?」
「何とも言えないところですね。悪くはないと思います。……一方的に文化祭の手伝いをお願いしたので、向こうからの印象は悪いかもしれませんが」
静かな声。
だがその裏で、レイの思考は凄まじい速度で回転していた。
――考えろ。
――失敗するな。
――余計なことは言うな。
――しかし、不自然な沈黙は逆に怪しまれる。
ユリウスは軽く視線を落とし、何かを吟味するように沈黙した。
その一瞬の隙を逃さず、レイは平坦な声で問い返す。
「彼がどうかされたのですか?」
この男の目的を探らなければならない。
“教会”のエクソシストが地藤優斗に興味を持つ理由を、必ず突き止めなければならない。
場合によっては――排除する必要がある。
祓魔器は収納してしまった。
だからレイは、ユリウスの視界に入らない位置で、右手の爪を静かに伸ばす。
その動きは、獲物を狩る獣のように滑らかで、冷徹だった。
氷のように凍りついた心で、しかし瞳の奥にはわずかな熱が灯る。
レイは、ユリウスの返答を待った。
ユリウスは形の良い唇を開き、穏やかな声で告げる。
「いえ、実は……彼がMs.天羽の恋人だという話をお聞きしまして」
「確かにその通りですが……それがどうかされましたか?」
“天羽の恋人”。
その言葉が胸に刺さり、レイの心臓が一瞬だけ痛んだ。
だが、表情は微動だにしない。
声も変わらない。
ただ、ごく自然なテンションで問い返す。
「どう、というわけではないのですが、その……」
「?」
「説明が難しいですねぇ……」
ユリウスは頬をわずかに赤らめ、指先をいじりながら視線を泳がせた。
中性的な容姿も相まって、その仕草にはどこか可愛らしい色気すら漂う。
だが、レイにとっては笑って済ませられる話ではない。
この問答次第で、今後の身の振り方が大きく変わる可能性があるのだ。
彼女はわずかに苛立ちを滲ませながら促した。
「すいません。はっきり仰っていただけませんか?」
「あぁ、すいません。では……言わせていただきます」
ユリウスは小さく深呼吸をし、意を決したように口を開いた。
「その……どんな人なのか、気になっているんです」
「……どうしてです?」
「えぇ? それを言わせますか? そこはこう、日本人的な感性で読み取っていただきたいといいますか……」
「私はルーマニア出身です」
「あっ、そうでしたか」
とは言いつつ、レイの出自は本人にも曖昧である。
加えて言えば、本人の生真面目さはむしろ日本人的ですらある。
だが、互いに深掘りするような話でもないため、会話はそのまま流された。
「それじゃあ仕方ないですね……えぇと、じゃあ言いますよ。言っちゃいますよ?」
「早くしてください」
気を遣うのも面倒になったレイが投げやりに促すと、ユリウスは頬を赤く染めたまま、ようやく核心を口にした。
「馬鹿げた話かもしれませんが……僕は、Ms.天羽のことを射止めた彼がどんな人なのか、知りたいのです」
「……えっと、それはつまり――」
「そういうことです」
レイは天を仰いだ。
鈍い彼女でもようやく悟ったのだ。
このユリウスという少年が――天羽璃奈に恋をしてしまっていることを。
だから、その恋人である地藤優斗がどんな人物なのか気になっているのだろう。
心を擦り減らしながら警戒していた自分が馬鹿らしくなり、レイは額に手を当てて首を振った。
「その……人の色恋沙汰に口を出すのは好きではありませんが、人のものを狙うのは如何なものかと……」
「しかし、気になって仕方がないのです。これは神の御導きに違いありません」
「……」
“教会”は本当に大丈夫なのか。
自分も所属している組織だが、レイは思わず心の中で嘆息した。
神の解釈の都合が良すぎる。
「あぁ、とは言っても気になっているだけで、決してどうこうしようというわけではありませんから。これでも聖職者の身の上ですので、その辺りは弁えております」
「だといいのですが……」
警戒心はまだ解いていないが――それとは別に、レイは大いに呆れて溜息をついた。
天羽璃奈。
十六夜蓮に、地藤優斗に、そして今度はユリウス。
つくづくモテる女である。
ここまで来ると、羨ましいを通り越して大変そうだ。
レイは女としての嫉妬ではなく、純粋な同情を覚え、心の中でそっと合掌した。
「ところで、どういう人なのですか? 地藤優斗さんは」
「……」
「そんな露骨に『めんどくせー』みたいな顔をしないでくださいよぉ~。同僚のよしみとして、教えてくださいよ。ねっ? おねがいっ!」
「……」
出会った当初の、近寄りがたいほど神聖でミステリアスな雰囲気はどこへ行ったのか。
今のユリウスは、コロコロと表情を変えながら上目遣いで可愛らしくお願いしてくる、ただの押しの強い美少年である。
レイは深く溜息をつき、渋々口を開いた。
「どういう人と言われても……普通に優しい人、といった感じでしょうか」
「優しい、ですか。他にはどんな特徴があるんです?」
「うーん、口達者とか?」
「なるほど。口達者、と」
「……なんのメモですか、それは」
「お気になさらないでください」
ユリウスは文房具店で売っていそうなノートに、さらさらと何かを書き込んでいる。
表紙には拙い日本語で『対策のーと』と書かれていた。
――恋敵への対策ノート、というやつだろうか。
律儀というか、面倒くさいというか。
「他にはどんな特徴があるんですか? 身長は? 体重は? 指の長さは?」
「ちょ、ちょっと待ってください! 先ほども申し上げた通り、私からすればただの学校の後輩ですよ? そんな細かいことは把握していません」
――というのは真っ赤な嘘で、聞かれたことにはすべて即答できるほど、レイの頭の中には優斗の情報が詰め込まれている。
だが、ここでペラペラと答えれば、レイと優斗の関係を疑われるのは必至。
そうなれば、地藤優斗の“秘密”が露見する可能性がある。
それだけは絶対に避けなければならない。
彼は今、ただでさえ苦しい時期を過ごしているのだから。
「おっと、そうでしたね。分かりました。では、ここから先は自分で調べることにします」
「……ほどほどにしてくださいね。この国の警察のお世話になるようなことがあれば、貴方の地位も失墜しますよ」
「もちろんです。そこら辺は弁えていますから、ご安心ください」
念のため釘を刺したレイだが、ユリウスの能天気そうな笑顔を見る限り、どこまで信用していいのか怪しい。
レイは密かに、ユリウスが暴走しないよう見張る必要があると判断した。
「……ちなみに、身長や体重は知らなくとも、他にも知っていることはありますよね、Ms.レイ」
「まぁ、ないこともないですが……大したことは知りませんよ?」
“全く知らない”と言うのも不自然だと判断し、レイは控えめに答えた。
するとユリウスは、満足げにニコリと笑った。
「それでも構いません。どんな些細な情報でも結構ですから、教えてください。――ここの掃除が済んだ後にね」
「ッ」
気配を察知したレイが振り向くと、消えかけていた悪魔の亡骸を踏み潰しながら、新手の悪魔たちがわらわらと湧き出してきていた。
「やはり、この海浜公園を拠り所に、門の範囲を拡大しようと目論んでいるようですね」
「……さっさと片付けます」
「おっと、お待ちください」
祓魔器を再び召喚し、駆け出そうとしたレイの前に、ユリウスの左腕がすっと差し出される。
怪訝な視線を向けるレイに、ユリウスは華麗なウインクを返した。
「せっかくなら、競争と行こうじゃないですか」
そして、右腕をゆっくりと宙へ掲げた。
「――
次の瞬間、空間が裂けるように光が奔り、一本の槍が姿を現した。
十字架を象った穂先は、まるで神罰そのものを形にしたかのように冷たく輝き、長い柄には古代聖堂を思わせる細密な装飾が刻まれている。
銀の光は静謐でありながら、どこか不穏な気配を孕んでいた。
ユリウスはその槍を片手で軽々と持ち上げると、くるり、と舞踏のように回転させた。
銀の軌跡が空気を裂き、光の輪が幾重にも重なって咲き散る。
やがて、槍の回転がふっと止まり、ユリウスはピタリと構えを決めた。
その唇には、不敵で愉悦を含んだ笑みが浮かんでいる。
「さて、Ms.レイ。どちらが多く狩れるか……勝負といきましょうか。僕が勝ったら、地藤優斗さんに関する情報をください」
「……私が勝ったら?」
「晩御飯奢りますよ」
レイは無言で首を傾けた。骨が鳴る乾いた音が夜気に響く。
「――今夜は焼肉にしましょうか」
レイの赤い瞳が獣のように爛々と輝いた。
次の刹那、彼女の身体は弾丸のように地を蹴り、悪魔の群れへと突進する。
「いやいや、カフェで優雅に雑談ですよ」
ユリウスもまた銀槍をくるりと回して肩に担ぎ、白銀の尾を引きながらレイに負けぬ速度で闇へと飛び込んだ。
こうして――二人の怪物による、熾烈で華麗な狩りの競演が幕を開けた。
♰♰♰♰♰ ♰♰♰✜♰♰♰ ♰♰♰♰♰
夜の街を、一人の少女が歩いていた。
真冬の冷気が肌を刺す中、薄手の灰色のパーカーを羽織っただけのその身体は、頼りなく揺れている。
少女はフラフラと足を運び、街灯の下を漂うように彷徨った。
やがて、ふと足を止める。
ショーウィンドウの向こうに、宝石のように飾られたケーキが並んでいた。
まるで「食べて」と囁くように、柔らかな光を受けて輝いている。
少女はポケットに手を突っ込み、乱暴に紙幣と小銭を取り出した。
手のひらに広げて金額を数え、もう一度ショーウィンドウを覗き込む。
そして――ガクッと肩を落とした。
ぐぅ、とお腹が鳴る。
本来、悪魔である彼女が空腹を覚えることなどない。
魔力を補給すれば済む話で、人間のように食べ物を必要とする理由など、本来はどこにもない。
本来なら、だ。
褐色の少女は困ったように眉を寄せ、黄金の瞳でケーキを睨みつけた。
しかし、睨んだところでケーキが飛び出してくるわけもない。
今の彼女に、そんな芸当ができるはずもない。
諦めたように小さく溜息をつき、少女は立ち上がった。
「――お困りのようだね。手を貸してあげようか?」
背後から、甘く低い声が響く。
それは、悪魔の誘惑そのものだった。
この声に身を委ねれば、望みは簡単に叶うだろう。
ケーキなど、いくらでも、好きなだけ。
だが少女は、不機嫌そうに鼻を鳴らし、返事もせず歩き出した。
「おいおい、人の好意を無下にするものじゃないよ」
「煩い。死ね」
「口の悪いお嬢さんだ」
殺意を込めた言葉を向けられても、悪魔は微塵も動揺しない。
むしろ楽しげに笑い、逃げるように歩く少女の横にぴたりと並んだ。
「ついてくんなよ」
「そういうわけにはいかない。君には
「……」
少女の足が止まる。
横に立つ悪魔――如月メフィラを鋭く睨みつけると、踵を返してショーウィンドウの前へ戻った。
「報告はしてやる。代わりに――」
「はいはい。分かったよ」
メフィラは呆れたように微笑み、ケーキ屋の扉を押し開けた。
「レディファーストだ」
「……お前もレディじゃないのか?」
「おっと、そうだった。それじゃあ、お先に――」
「やっぱり私が先に入る」
少女はメフィラを押しのけ、ずかずかと店内へ踏み込んだ。
メフィラはクスクスと楽しそうに笑いながら、その背中を追った。
♰♰♰♰♰ ♰♰♰✜♰♰♰ ♰♰♰♰♰
「――なるほど。我が愛しの契約者様は、随分とまた愉快な状況に巻き込まれているのか」
少女の雑な報告を聞き終えたメフィラは、紅茶を一口含んでから、楽しげに呟いた。
声音こそ同情めいているが、弾むような調子と口元の笑みが、彼女が本気で心配していないことを雄弁に物語っている。
如月メフィラ――今日も通常運転である。
「フルーツケーキ、美味いな。味に飽きない。いいぞ、これ」
一方、メフィラの目の前でホールケーキを豪快に平らげている少女は、口元にクリームをつけたまま満足げに感想を述べた。
「そうなのかい。じゃあ、僕にも少し分けてくれ」
「あっ、おい! お前! イチゴを取るなよ! クソッ! 一番大事なところを! お前!」
「そう怒るなよ。また買えばいいじゃないか」
「そういう問題じゃないぞ! やっぱりお前、嫌いだッ!」
少女は怒り心頭といった様子で、黄金の瞳に敵意を宿しながらメフィラを睨みつける。
奪ったイチゴをパクリと口に放り込んだメフィラは、指についたクリームを舐め取りながら、艶やかな笑みを浮かべた。
「だが、僕が嫌いだと言いながらも、きっちり仕事はしてくれているようだね。いやー、感心、感心。僕はてっきり、サボってどこかに消えてしまうものだとばかり思っていたよ」
「……」
少女は何も言い返さず、ムスッとした表情で黙り込むと、拗ねたようにそっぽを向いた。
「そう拗ねるなよ。僕は褒めているんだぜ? 我が愛しの契約者様のことを十六夜蓮に伝えたのはグッジョブだったし、今のところ誰にも悟られていない様子だし、君の働きぶりは満点に近い。あとは、ちょこまか動いている“教会”の連中をどうにかして欲しいものだけれど……今の君にそれを頼むのは酷な話か」
メフィラは少女の身体を上から下まで観察するように視線を滑らせる。
少女は不機嫌そうに唇を尖らせた。
「……もう面倒だから、お前が全部やれよ。お前なら、全部何とかできんだろ?」
「いや、そういうわけでもないよ。特に、君の話を聞いた感じだと、我が愛しの契約者様の状況は相当に深刻そうだ。父上の気配を感じた時から嫌な予感はしていたけれど……どうやら本格的に動き出したとみて間違いないね」
メフィラの黄金の瞳が、ここではない“どこか遠く”を見通すように細められる。
その瞬間、少女の背筋にゾクリと悪寒が走った。
いつもニヤニヤ笑っていて鬱陶しいと思っていたが――どうやら、この悪魔は笑っている方がまだマシらしい。
無表情で遠くを見つめる姿は、出来の良い人形のようで、不気味だった。
「――とはいえ、僕はまだ切り札を切っていない。勝負はまだ始まったばかり。どっちの駒が勝つか、じっくり勝負といこうじゃないか」
その言葉が誰に向けられたものなのか、少女には分からない。
だが――少女はその“相手”に心の底から同情した。
こんな性格の悪い悪魔を敵に回すなんて、ついていないにも程がある。
優雅に紅茶を飲み終えたメフィラは、コトリと上品にカップを置いた。
「さて、それじゃあ引き続きよろしく頼むよ」
「……」
「返事は?」
「……ッチ、わかったよ」
「結構。それじゃあ、ここの支払いも任せたよ」
「……はっ?」
「じゃーね」
「お、おい! 待っ――」
少女が手を伸ばした時には、もう遅かった。
メフィラの姿は霧となってふわりと溶け、跡形もなく消えていた。
少女の表情がみるみる青ざめていく。
慌てて周囲を見渡し、自分も霧化して逃げようとするが――
「あ、あれ……?」
身体が霧にならない。
いつもなら意識を少し傾けるだけで輪郭がほどけ、煙のように散っていくはずなのに、今はどれだけ集中しても、肌の表面ひとつ揺らがない。
まるで、見えない手で全身を押さえつけられているようだった。
「……なんでだよ……?」
焦りが喉を締めつける。
少女はもう一度深く息を吸い、霧化を試みる――が、やはり駄目だった。
身体は重く、空気に溶ける気配すらない。
その瞬間、少女はようやく気づいた。
店内の空気が、どこか不自然に“閉じている”。
外界と切り離されたような、薄い膜に包まれた圧迫感。
肌にまとわりつくような魔力のざらつき。
これは――メフィラお手製の、妨害結界。
逃げ道を塞ぐためだけに張られた、悪魔の嫌がらせの結晶である。
「あ、アイツ……!」
プルプルと肩を震わせる少女の視界に、テーブルの上の一枚の紙が映った。
白い紙が、まるで「読め」と言わんばかりに存在感を放っている。
嫌な予感しかしない。
読まなければいい――そう思うのに、手が勝手に伸びてしまう。
少女は恐る恐る紙を裏返した。
そこには、綺麗な字でこう記されていた。
『僕は君に奢るとは一言も口にはしていないよ。
人と話す時には十分に気を付けようね。おねーさんとの約束だ☆
P.S.指示はまた追って出すから、それまでは皿洗いでもしていなさい』
少女は無言で紙をビリビリに破き、地面に叩きつけ、さらに数回、全力で踏みつけた。
そして――天に向かって吠えた。
「あんの、クソ野郎ォォォォォォ――!!」
その叫びはケーキ屋の厨房まで響き渡り、店員たちが一斉にビクッと肩を跳ねさせたという。
こうしてこのケーキ店には、“お金がない”という理由で、褐色肌の少女が急遽アルバイトとして働くことになったのだった。